息を切らしながら少女二人が駆ける。
愛らしい少女らしからぬ必死の形相だが、それも当然だろう。
これは追いつかれれば死ぬアイドルと殺人鬼の命を懸けた追いかけっこなのだから。

「それで、どこに逃げてるんですか!?」
「どこって、それは…………」

由香里の問いに涼子はすぐには答えられなかった。
とりあえず場当たり的にその場を離れているだけにすぎない。
具体的な目的地がある訳ではなかった。

煙幕によって時間は稼げているが、殺人鬼がいつ追いつくとも限らない。
傷口を抑え出来る限り出血は抑えているが完全ではないだろう。
血の跡を追ってくる可能性は十分にある。

ここは小さな島である。
別の島に逃れるには橋を渡るしかないのだが、橋は遮蔽物のない数百メートルの直線である。
橋に向かう可能性は向こうも分かり切っているだろう。
よほど運がよくない限り、渡っているうちに発見される。

「なら、煙幕を使えば……」
「バカね。橋に煙幕がかかってる時点でどこに居るかはバレバレでしょう」
「あ、そっか」

唯一の出口がそうであるなら、島の外に逃げるのはリスクが高い。
かといってこの島には森や街といった物陰や障害物がほとんどなく、隠れてやり過ごすと言うのもの難しい。
逃げ出した廃村こそが一番隠れやすい場所ではあったのだが、まさか戻る訳にもいかない。

「なら、戦いましょう!」

逃げも隠れてもできないのなら、立ち向かう。それしかない。
殺人鬼との対決。由香里からすれば一度通った道だ。
恐れる必要はないと震える拳を握りしめて自身を奮い立たせる。

「……ダメよ」
「大丈夫ですって、あたしあいつと一回戦って勝ってるんですから!
 嘘じゃないです! マジです!」

信じてほしいと鼻息荒く訴えかける。
だが涼子は苦し気な表情で首を横に振る。

「……それは信じる。けどダメよ」

涼子は由香里を護るために来たのだ、危険には晒せない。
由香里を矢面に立たせるなど彼女の中ではあってはならない事だ。
こうなっては意固地な涼子は譲らない事を由香里はよく知っている。
だが、隠れる事も逃げる事も戦う事も出来ないとなると、いよいよもって手段がない。

「あっ。涼子さん、その指輪!」
「……だから、その件に関しての説明は後でするって」
「そうじゃなくって……!」

わたわたと手を振って由香里が何もない明後日の方向を指さす。
いや何もない訳じゃない。
確かにそこに広がるものがあった。

「海ですよ、海! その指輪があれば行けるんですって!」

島の間を流れる潮の流れは外側の海よりも激しい。
魚や水泳選手でもなければ何の用意もなく飛び込めば確実に溺れてしまうだろう。
だが、涼子は親友より託された指輪に触れる。

海王の指輪。
これがあれば海流の影響は受けない。
この海を超え、殺人鬼から由香里を護れる。

「……そうね。わかった。海から逃げましょう。
 けど、指輪をはめているのは私だけなんだから、私の手を絶対に離さないでね」
「はい。分かってますって」

互いに頷きあい、手をつないで駆け出す。
そのまま僅かに小高い崖の上から飛沫を上げて海へと飛び込んでいった。


「由香里は浮かぶことだけに集中して!」
「ばぁい」

一心不乱に水を掻く。
塩水が傷口に染みるが、気にしてなどいられない。
違う島に渡れればそれで彼女たちの勝ちだ。
周囲は激しい流れなのに自分だけが影響を受けないというのは不思議な感覚だった。

泳ぎは苦手という訳ではないが特別得意という訳でもない。
海流の影響を受けないのは涼子だけだ。
流されそうになる由香里を引き留めながら泳ぐと言うのはなかなか難しい。

「っ……ぱ」
「黙ってて」

海中で何かしゃべろうとする由香里を叱りつける。
だが、涼子の言う事を聞かず、由香里は水が口に入ることも厭わず叫ぶ。

「ッ……後ろですって…………!」

その叫びに涼子は振り返る。
そこには、海面を物凄い勢いで切り裂く刃のような何かがあった。

それは背びれだ。
映画なんかの影響か、それを見て連想するものは一つ、サメ。

まさかこんなところで、人喰い鮫に襲われるなど誰が思おう。
参加者以外の生物などいないと思いこんでいた。

水面に顔を出したサメが大口を開いた。
ノコギリみたいな牙が見える。

「由香里……ッ!」

喰いつかれようとも構わない。
こんどこそ絶対に大切な仲間を守護る。
涼子は自らを盾とするように、絶対に離さないという強い決意の元繋いだ手を引き寄せる。

だが、その手が離れる。
引き寄せようとした涼子を由香里の方から突き放したのだ。

「由香…………ッ!?」

二人の身が離れ、その間を大口を開けたサメが通り過ぎる。
由香里がそうしなければ、どちらかの腕を食いちぎられていただろう。

だが、海王の指輪を持たない由香里が手を放してしまえばどうなるのか。
あっという間に由香里は海流に飲み込まれ遠くに消えて行った。

「…………あっ」

海王の指輪を装備した者は海流の影響を受けない。
逆に言えば、流れに乗って加速することもできない。
追いかけようとするが激流に飲み込まれて遠くに消えていく由香里に追いつけない。

完全に見失った。
もう手を伸ばしても届かない。

指輪があるから流れに乗れないのならいっそ指輪を外すか。
一瞬そんな破滅的な考えが浮かぶがすぐさま否定する。
それでは二次災害になるだけだ。

それに周囲には人喰いサメもいる。
海中に潜ったのか、今は見えなくなってしまったが、いつ襲われるとも分からない。
海流を無視できる指輪があったとしても海は危険だ。
いったん地上に出て海岸沿いを探索したほうがいい。

我が身がどうなろうと構わないが、由香里を助けるには涼子が無事である必要がある。
涼子は断腸の思いで海路を諦め、近場の陸地に向かった。

水を吸って重くなった服を引きずり海岸を這い上がる。
全力疾走からの水泳、トライアスロンめいた強行軍でかなりの疲労が溜まっている。
それでも切れた息を整える間もなく、すぐにでも立ち上がる。
駆けだそうとして顔を上げた涼子に影がかかる。

「――――ぃよう。待ってたぜぇ」

楽しそうな声がかかる。
愕然とした表情で顔を上げる。
そこには、殺人鬼が立っていた。


「…………ぁ」

絶望に喉が絞まっておかしな声が出た。
まるで待ち伏せでもしていたかのような登場だった。
単なる偶然、不幸? そんなことがあるのか?
偶然にしてはいくら何でも出来すぎである。
そもそも、涼子たちを追っているのならこんな所にいるはずがない。

「なんで、って顔してるなぁ」

凶悪さを秘めた顔で男は笑う。
それは自分の優位性を疑わぬ笑顔だった。
混乱した隙を突かれ逃げる間もなく胸倉を捕まれる。

「もちろん偶然じゃぁねぇぜ。なにせ、そういうスキルを取ったんだからなぁ!!」

敗北を経て桐本四郎は学んだ。
この世界において重要なのはスキルである。
稀代の殺人鬼があんな小娘に後れを取ったのはスキルがあったからこそだ。

だから、桐本は無暗に追いかけるのではなくその場に留まりスキルを取得した。
取得したスキルの名は『狩人の嗅覚』。
獲物の逃亡位置を予測できるスキルである。
Bランクでは何となくここに来るだろうという程度のものだが、それで十分だった。

「ま、来たのがテメェの方だってのは計算外だが」

振り回すように乱暴に涼子の体を地面に叩きつける。
地面に倒れた涼子の鳩尾に容赦なく桐本の踵が振り下ろされた。

「が…………はっ……ッ!?」

稲妻のような激痛が体内を駆け巡る。
可憐を殺した男のような洗練された武力ではない。
女の腹を何の躊躇もなく全力で踏みつけられる凶暴性。
思わず身が竦むような純然たる、暴力。

「…………ぁ…………ぁ」

体も心もどうすれば人は折れるのか。
この男は人間の壊し方を理解してる。
全身が麻痺して呼吸ができず、指一本動かせない。
ただ苦悶の表情を浮かべ痙攣したように体を震わせることしかできなかった。
桐本は上機嫌な様子で動けなくなった涼子に背を向けアイテム欄から取り出したマイクを握りしめた。

『あーあー。テステス。よぅクソガキ、聞こえてるかぁ? まあ聞こえてなくてもしゃべるんだがよ』

大音量マイクにより音声がエリアに全体に響く。

『お前と逃げてた女を捕えてる、ほら喋れよ』

マイクを涼子に向けるが、激痛に息も絶え絶えな涼子はそれどころではない。
桐本は仕方なさげにため息をつくと、倒れこんでいる涼子の元へと歩み寄るとその腹を蹴り上げた。

『…うッ……ごふ……ッ!』
『聞こえたかぁ? 念のためもう一回いっとくか?』

言って、もう一度涼子の体を蹴り上げる。
苦し気な喘ぎがマイクに乗って島中に響き渡った。
桐本は涼子に向けていたマイクを戻す。

『今から1分ごとに1本。この女の指を切り落とす。
 全部の指が潰れるまで10分。あぁ、足も合わせりゃ20分か。それまでに廃村北の海岸に来い。
 それまでに来なければこの女を殺す。いいな』

言いたい事を言い終わり、演説を打ち切る様に桐本がマイクを放り投げる。
マイクはゴッと衝突音を島中に響かせ、良子の目の前へと転がった。

桐本は鼻歌交じりに動けない涼子の手を取って、まな板に乗せるように地面に固定する。
殺人鬼の手にはマイクの代わりに鉈が握られていた。

『さぁて、スタートの合図だ。派手に頼むぜ…………ッ!』

鉈を振り下ろす。
廃村を構える小島全体に絹を裂くような女の悲鳴が響き渡った。


「ケホッ……ケホッ……!」

咳込みながら水を吐く。
トラブルに巻き込まれても生き残るトラブルメーカーの面目躍如か。
完全に海流に飲み込まれた由香里だったが、幸運にも島の海岸に流れついていた。

「うぅ……喉がイガイガする」

それなりに海水を飲み込んでしまった。
ここにきてこんなのばかりだ、全く水難に縁がある。

口元を拭って立ち上がる。
気分が悪いが、ゆっくり休んでる場合でもない。

逸れてしまった涼子との合流を目指さなくては。
とりあえず流されてきた方向を戻ればそのうち会えるとは思うが、追ってきている殺人鬼もいるのだから気を付けなければならない。

『あーあー。テステス。よぅ聞こえてるかぁ?』

だが、どこからともなく、絶望を告げる声が聞こえてきた。
一瞬自らを追う殺人鬼に追いつかれたのかと思ったが、首振って周囲を見渡すが姿はない。
聞こえているのは声だけだ。
恐らく由香里から奪った大音量マイクによるものだろう。

そうしてどこからかの声が地獄のようなゲームの説明を始め、始まりが告げられる。

『さぁて、スタートの合図だ。派手に頼むぜ…………ッ!』
『いやああああああああああああああああああッッッッッ!!!』

慣れ親しんだ人の聞いたこともない壮絶な悲鳴。
そのあまりの恐ろしいさに思わず足が竦んだ。

『ぅ……く…………由……香里、来ないでぇえ……ッ!! 来ちゃダメェ…………!!』

絶叫の合間に涼子の叫びが聞こえる。
それはどこまでも由香里の事を案じる声だった。
聞いたことのない涼子の声だったが、いつも通りの、涼子の言葉だ。

「行かなくちゃ…………」

それで由香里の心が決まった。
来るなと言われた。
それでも。だからこそ行かなくては。

HSFの問題児。
みんなの言う事を聞かず何回叱られた事か。
今更怒られる回数が一回増えたところで、知ったことではない。

思いのままにやりたいように。
それこそ三条由香里の生き方だ。

大丈夫だ。
一度勝った相手である。
武器は奪われてしまったが、それでも勝てるに決まっている。

足を止めようとするいくつもの不安を振り払ってHSFの秘密兵器は走りだした。


「……はぁ……はぁ」

廃村の北、指定された場所に息を切らして由香里は辿り着いた。
1分ごとに響き渡る絶叫を振り払って地獄のような道中を無我夢中で走ってきた。

「よぅ。ビビッて逃げちまうかと思ったぜ」

ゆっくりと、殺人鬼が振り返り、頬ついた返り血を拭う。
その足元には、涙と涎を流しながら見たこともない表情で白目をむいた涼子がビクビクと痙攣していた。

「よかったなぁ、まだ片手が潰れただけだ」

言って力なくだらりと垂れ下がった涼子の右手を掴み、由香里へと見せつけるように掲げた。
血だらけの右手からは全ての指が切り落とされていた。
当然のように手当などしていないのだろう、プラプラと振るわれる傷口からは大量の血が垂れ流され続けている。

指先は神経が集中しており、麻酔もなしにそれを切り落とされる苦痛は正しく拷問である。
繰り返される激痛によって意識を失い激痛で意識を覚ます。
それを繰り返す地獄の責め苦を受けた涼子の精神は崩壊寸前にまで追い詰められていた。

「あたしは来たぞ! 今すぐ涼子さんから離れろ、このクソ野郎! こんなことして何が楽しいってのよ!?」

感情のまま動く直情型の由香里が尊敬する涼子にここまでされて黙っていられるはずもない。
その罵倒を受けて桐本は掴んでいた右腕を放り捨てる様に離して、愉しげな笑みを浮かべる。

「楽しいね。誰かを傷つけるのは最高に楽しい」

その言葉に一瞬で頭は沸騰した。
由香里は誰かを笑わせるために日々努力を重ねるアイドルである。
誰かを傷つけて笑っていられる、こんな人間がいることが信じられない。

「あんたなんてぇえ!!」
「ハハッ! こいよクソガキ!」

激情まま由香里が殴りかかる。
殺人鬼は報復の時間だと、嬉々として受けて立つ。
アイドルと殺人鬼が二度目の衝突を開始する。


桐本は右手に大鉈を、左手に金属バットを握りしめた二刀流。
長柄ではあるがいつも扱うナイフの二刀流に近しいスタイルだった。

それに対して、由香里が両手に構えたのはトンファーである。
構えたトンファーで振り下ろされる大鉈を弾き、金属バットを受け止める。

「くぅ…………ッ」

だが勢いに圧され、体が弾かれる。
明らかな力負けだ。
それはつまり筋力で劣っているという事である。

成人した男と年端も行かぬ少女なのだから当然の結果のように見えるが、この世界においては勝手が違う。
むしろ前回は強引なスペックによる力推しで由香里が勝利を収めたくらいだ。
その結果と今は真逆の展開を辿っていた。

そう、由香里は桐本に一度勝利している。
下剋上スキルは格上に対して発動するスキルだ。
その発動条件は由香里の主観的な認識に依存する。

一度勝った相手だという意識が、その発動条件の邪魔となっていた。
全く効果が発揮していない訳ではないが、前回のような劇的な効果はないだろう。
加えて、あの時は利江のスキルによる応援効果があったが、涼子が気絶している今の状態ではその応援効果も期待できない。

「なんだよ、なんだよなんだよなんだよ! 期待外れだなぁオイッ!!」

由香里とは逆に敗北し辛酸を舐めさせられた桐本に油断はなかった。
前のように小娘如きと侮りはしない。
雪辱を晴らすべく本気の猛攻を繰り広げる。

女子供でも全く容赦しない殺人鬼の本気である。
今は辛うじて防いでいるが、それだけだ。
反撃に転じれなければ、一方的な嬲り殺しとなるだけである。

だが反撃に転ずるには武器が悪い。
単純に振り回せばいい長柄の武器と違い、トンファーはあまりにも素人には扱いづらい。
防御には使いやすいかもしれないが、攻撃に打って出るには難しすぎる。

こうしてみると前回の勝利がどれほど綱渡りの薄氷の勝利だったのかがわかる。
同じ対戦カードでありながら、あらゆる状況が前回とは違う。
この状態でアイドルが殺人鬼に勝てるはずがなかった。

「オラぁッッッ!!」

鉄バットによる殴打。
トンファーを盾に両腕で受けるも、ついに由香里の体勢が崩れた
そこに容赦なく振り下ろされる大鉈が頭部を直撃した。

「ッ…………ぁあッ!!」

頭部が裂け血が噴き出る。
あわや脳天を唐竹の如く割る一撃だったが、幸運にも大鉈は涼子の指を切り落とした際にべったりと付いた血と脂によって切れ味が落ちていた。
それが寸前で絶命を避けた。

とはいえ、鉄の鈍器で頭部を殴られたダメージは大きく一瞬意識が混濁する。
ふらついた由香里を桐本が蹴飛ばした。
なすすべなく少女は倒れた。
それを見て桐本は心底失望したと、ため息をこぼす。

「つまんねぇなぁ。つまんねぇよお前。
 せっかくテメェを為に意気込んで来たってのによぉ!!
 これじゃあ猛りがおさまんねぇよなぁ、どうしてくれんだあぁんッ!?」

理不尽な怒りとと共に、倒れた由香里の顔のすぐ横にバッドの先端を振り下ろした。
叩きつけられた海岸の小石が撥ねて頬を打った。

「ひっ」

暴力を突き付けられ思わず身がすくむ。
それは最初の出会いの焼き直しのようだった。

「テメェにゃ責任を取って貰わねぇとなぁ。
 バトって満足させられねぇなら、別の体の使い方で楽しませてもらおうか」

そう言って、男は下卑た笑みを浮かべる。
由香里とて、それの示す意味が分からぬほど幼くはない。
むしろ多感な時期だからこそ生理的嫌悪が強かった。

「……い、嫌っ」
「そうかよ。まあ俺もガキは好みじゃねぇ。そうだな、あそこで転がってる女を犯っちまうか?」

言って、バッドの先を突き付ける。
その先には倒れ込んでいる涼子がいた。

「さぁ選ばせてやるよ。俺に犯られるのはどっちだぁ? 俺はどっちでもいいんだがけどなぁッ!!」

この場で主導権を握っているのは桐本だ。
何をどうするにも誰に意見を伺う必要もない。
その状況で、あえて選択を突き付ける。

「あたしを……やるんなら、あたしをやりなさいよ!」

半ば自棄のように由香里が叫んだ。
その返答に、桐本は不愉快そうに表情を歪める。

「『やりなさい』? 立場が分かってねぇようだなぁ?」

桐本は由香里に背を向けると、その魔の手を涼子へと向けようとした。
由香里が焦りと絶望で表情を歪めた。

「ま、待って。…………お、お願いします。あたしに……して下さい」
「あぁ? 分かんねぇよ、何をどうしてほしいって?」

悔し気に唇をかみしめる。
全身を震わせ、消え入りそうな声を絞り出す。

「あ、あたしを犯してください。お願いします……」

王子様とのキスを夢見るような穢れを知らぬ少女が、己を汚す懇願の言葉を吐かされる。
その余りの恥辱に、悔しくて涙が零れた。

「ククッ。ハァッハハハハハッ!」

満足そうに桐本が嗤う。
自分に屈辱を味合わせた小娘が無様にへつらう姿が愉快だった。

「そこまで言われちゃ仕方ねぇな!」

魔手が伸び、由香里の衣服が乱暴に破り捨てられた。
夢と希望を届けるアイドル衣装が黒い欲望に散っていく。
胸元の衣服が下着ごと剥ぎ取られ乳房が露わになった。

「はっ。ガキにしてはいいもんもってんじゃねぇか」

握りつぶすように乳房を掴まれる。
快楽などない、あるのは苦痛と嫌悪だけだ。

「痛ぃ……!」
「うるせぇな、黙ってろ」

男が嗤いながら片腕で顔面丸ごとつかむようにして口を塞ぐ。
呼吸ができない。相手の事など情動をぶつける道具としか考えていない。

「…………ぅ…………ぁっ」

思わず由香里は口内に入った指を噛んだ。

「何してんだよゴラッ!」

口内から手を引き抜き、そのまま固めた拳が振り下ろされた。
顔面に叩き込まれ前歯が折れる。
一度や二度ではない、何度も何度も顔面を殴られた。

可愛らしい容姿が自慢だった。
可愛らしさが誇りだった。
周囲からも蝶と花よとおだてられ、キラキラとしたアイドルになれるとそう思っていた。

今やその顔は醜く腫れ上がり、見る影もない。
前歯は全て失われ、顎骨や頬骨が折れているのか顔の形も歪んでいた。

「……くうっ。ぅわぁぁぁ……ッl」

ついに由香里は声を上げて泣き出した。
それを見て桐本は愉悦に浸る。

暴力は相手を屈服させる手段である。
痛みと恐怖で人は折れる。
桐本はその瞬間を見るのが好きだ。
絶望に歪める顔を見るのは、性行為なんかよりも最高だ。

「……………………もんか」
「あぁ?」

啜り泣きの合間。
大量の涙と血の混じった鼻水を流しながら折れた歯を食いしばって呟く。

「……負けるもん、か、あたしは……」

桐本が唖然と言葉を失う。
今更何を言うのか。

「んだそりゃ!? とっくに負けてんだろうがテメェはよォ!!」

見るも絶えない顔で涙を流して、これが敗北でなくて何なのか。
桐本の恫喝など聞こえていないのか、由香里は続ける。

「あたしは……あたしたちは、あんたなんかに負けない…………ッ!」

泣いたって終わりじゃない。
傷ついたって立ち上がれる。
汚されようとも、折れない。
だって。

「あたしは、アイドルなんだから…………!」

その誇りさえ折れなければ、何度だって。
すぐに挫けてすぐに立ち上がる。
それが三条由香里というアイドルだ。

「…………ふ」

折れたはずだ、絶望したはずだ。
思い通りに行かない。

「ふっざけんなッ!!!」

癇癪を起したように桐本が衝動的に鉈を手に取り振り下ろした。

「ぅぐ!?」

振り下ろした鉈の石突が乳房の間に深々と突き刺さった。
肋骨をパキリと裂いて、その下の臓器へと至る。

口から塊ような血を吐いて、由香里の瞳孔が大きく開く。
ビクンビクンと二度痙攣して、粒子となってその体が消えていった。

「チッ」

桐本が舌を打つ。
思ず衝動的に殺してしまった。
通常の殺しとは違う事を、失念していた。
死体が残っているのならその死体を犯して辱めることもできたのだが。

気分が晴れない。
鬱憤はたまったままだった。

[三条 由香里 GAME OVER]


「――――あたしは、アイドルなんだから…………!」

声が聞こえた。
その声に呆けていた涼子の意識が僅かに揺らいだ。

意識が僅かに覚醒する。
それに伴い右手の激痛が再燃した。
五指が喪失した事実は夢ではないことを告げていた。

「由…………香、里」

倒れ込んだまま視線を這わせる。
その先で、由香里の上に男が覆いかぶさっていた。
最悪の予感に全身が総毛立つ。
止めなければと、痛む体を動かそうとしたところで、男が由香里に向かって鉈を振り下ろした。

「…………あっ」

幾度も見た光の粒子が散る。
その光に涼子の虚ろだった眼が見開かれる。

「ぅうぁあああああああああああああああああああああああああああああああっッッッ!!」

喉から血が出るような獣の咆哮。
その瞬間、完全に理性など吹き飛んだ。

左手にナイフを握って駆け出す。
痛みなど知らない。
自分がどうなるかすら頭にない。

殺意が感情を支配する。
目の前の男を殺す。
涼子に頭はもう、それしか考えられなかった。

「あん?」

だが、少女の決死の想いなど、殺人鬼は容易く打ち払う。
あっさりと刺突を避けると、すれ違いざまにバッドで背を打った。

「うぁあ…………ぁあああッ!!」

涼子は血の混じった反吐を吐きながら倒れ、それでも止まらず。
急き込みながら這いずるようにして血まみれの手で落としたナイフを掴む。

「ふぅ……ふぅ……ッ!」
「うざってぇ」

鼻息荒く自らをにらみつけるその視線を、面倒くさそうに吐き捨てる。
発狂しただけの怪我人など桐本からすれば物の数ではない。

獰猛な獣のような殺意を向けられれば、あるいは怯む者もいるのだろうが。
桐本にとって狂気など、気持ちよく吹くそよ風と変わらない。
涼子の殺意など、ただの小娘のヒステリーだ。
まるで脅威を感じない。

「いいぜ、殺してやるよ。たっぷり楽しんでからなぁ」

舌なめずりをして嗤う。
あの小娘では下げきれなかった留飲をここで下げさせてもらうとしよう。

とはいえ、相手を侮り由香里との初戦では煮え湯を飲まされた。
その反省を込め油断はしない。

桐本四郎という殺人鬼は、この場でアイテムを学び、スキルを学び、死体が消えることも学んだ。
この世界における楽しみ方を学んだ。
その経験と知識を使って全力をもって、目の前の女で愉しんでやろう。

「犯して、解体して、殺してやるよ」

だが、憎悪に染まっていたはずの涼子の動きが止まっていた。
理性を失った女が今すぐにも襲ってくるかと思っていた桐本は不思議に思うが、その原因が分からなかった。

何が起きているのか。
殺意の塊が止まる、それほどの異常が起きていた。
それを無視してはならないと殺人鬼の本能が告げる。

正体が自らの背後にあることに気づき桐本がとっさにその視線を辿って振り返る。

「なっ…………」

桐本ですら声を失う。
そこには、開かれた大口にずらりと並ぶノコギリ状の鋭い牙があった。

耳まで裂けたような大きな口が殺人鬼を一息で飲み込んだ。



それはVRゲーム『New World』に侵入したウイルスデータである。
参加者たちとは、入り口から違うこの世界におけるただ一人、いや一匹の例外。
不法侵入者でありながら、ある意味で唯一の正しい存在である。
全参加者の中で唯一、魂を持たない完全なるデータなのだから。

魂を起点としない改竄(チート)により進化や成長を自己で促しながら、電子の海を行く。


ミサイルみたいな流線型の体。
刃のような背びれと、翼のような横びれ。
顔面の横にあるむき出しの鰓孔。
不気味な丸い瞳が輝き、白い口元から鋭いノコギリのような牙が覗く。
どれをとっても紛れもないサメである。

だが、その胴体の端々には異形のような、小さな人間の手足が付いていた。
見るだけで理性が削れるような、どうしようもなく不気味な深き怪物。
それはサメではなくサメのような何かだった。

海中より現れたその怪物は海岸に立っていた殺人鬼の上半身を丸ごと飲み込んだ。
バキ、ボキと何が砕ける音がサメの口内から響く。
破片のような何かがサメの口端から零れ落ちていった。
こうなっては助かるまい。

「……っぶねぇなゴラァ!!」

だが、怒声と共に桐本が口内からぬるりと脱出する。
強靭な顎で噛み砕かれたのは宝箱だった。
桐本は咄嗟に宝箱を出現させ、口内に僅かな猶予を作ってその隙に抜け出したのだ。

だが、それでも無傷と言う訳ではなかった。
脱出するときに引っかけたのだろう、ノコギリ刃に鑢掛けられたように、全身が血で塗れていた。

「っんのッ!! 喰われるだけ魚類が! 何ぃ人間様に噛みついてんだぁあん!?」

鼻っ柱を金属バットで打ち抜く。
サメの鼻から血がシャワーのように噴き出した。

上がった顎を踏み抜くように前蹴りで蹴りだす。
そしてバットのグリップを両手で握り、大きく振りかぶって全力でスイング。
バッドは胴の真芯を捉え、サメの打球みたいに吹き飛んで海に還っていった。

「ハッ! 人間様に勝てるわけねぇだぅろが、魚類如きがよぉお!」

自らの流す血とも返り血とも分からぬ赤で全身を染め上げた凄惨な笑顔の殺人鬼が吠える。
高笑いを浮かべる、その背後に衝撃があった。

「あ?」

見ればその腰元には、ナイフが突き刺さっていた。
そして暗い瞳と憎悪の表情でナイフを握る女の姿があった。
サメの登場に完全に気を取られていた桐本と、ただ桐本を殺す事だけを考えていた涼子の違い。

「このアマぁ……ッ!」

すぐさま振り返り、女の顔面を裏拳で殴りつける。
華奢な女は鼻血を流して倒れ込む。

「チッ」

舌を打ち、傷を確認する。
刺さったと言っても傷は浅い。
内蔵には届いてはいない。
この程度なら大した支障はないだろう。

「ッ!?」

だが一瞬、意識がふらついた。
何が起きたのかはすぐに理解した。
状態異常を確認するまでもなく、自身が持つスキル効果だから分かる。
これは毒だ。

幾度も指を落としながら一度も毒状態にならなかったことからわかっていたことだが。
毒判定に使われるパラメータが涼子は桐本を上回っている。
スキルと装備による違いはあれど毒使いとしてなら涼子の方が上だった。

毒による一瞬のふらつき。
それはすぐにでも立て直せる程度のものだ。
だが、決死の覚悟を持つ相手を目前にしている状況ではそれは致命的な隙である。

「うわああああああああああああああああああああああああああッッッ!!!」

なりふり構わぬ捨て身の突撃。
流石に足元の覚束ない状態では避けられない。

もつれ込むように倒れたその上を涼子が取った。
跨った体勢で振り上げたその手には、鈍い光を返す刃が。

「こ、のッ」

反射的に桐本は制止する様に手を振り上げる。
だが、涼子は構わず刃を振り下ろした。

「……死ね、死ね、死ねッ、死ねぇッ、死ねぇえッ!! 死んでしまえぇええええッ!」

刺す。
刺す。
刺す刺す刺す。

指のない右手を左手に添えて力いっぱい振り下ろす。
振り下ろすたび激痛が奔るが、そんな事は知ったことではなかった。
この男を殺すためなら痛みすら厭わない。

手に、腕に、腹に、胸に、頬に、額に、喉に、耳に、目に、肩に、鼻に、口に、頭に。
一心不乱に刃を振り下ろし続けた。

それは事故のような最初の殺人とは違う。
明確な殺意をもって相手を殺す、初めての殺人行為だ。
それしか死ぬ機械のように、その行為を繰り返す。

そうして、何十回目かの繰り返しの後、振り下ろしたナイフが地面を刺した。
この世界の法則に従い桐本の体が光の粒子となって消えていったのだ。
そうでなければ、彼女はいつまでも繰り返していただろう。

振り上げた憎悪が行き場を失う。
湧き上がる感情はない。
復讐を遂げたところで達成感もなかった。

残ったのは何もない。
燃えるような憎悪すらも消えた。
この世界では死体すらも残らない。
ただあるのは喪失だけだった。

感情が壊れてしまったのだろうか。
もはや涙も流れなかった。

このまま手にしたナイフを自分の喉に突き刺して、死んでしまいたかった。
けれど、それはできない。

ここには、まだソーニャがいる。
彼女を置いて死ぬこともできない。

本当に何もなければ、苦しむこともなかったのに。
ただ一つ残った希望。
希望が彼女を地獄へと引き留めていた。

[桐本 四郎 GAME OVER]

[G-6/廃村北の海岸/1日目・午前]
[鈴原 涼子]
[パラメータ]:STR:E VIT:E AGI:B DEX:B LUK:A
[ステータス]:精神衰弱、背中にダメージ、腹部にダメージ、鼻骨骨折、右手五指欠損、右腕に切り傷、出血(小)
[アイテム]:ポイズンエッジ、海王の指輪(E)、煙幕玉×3、不明支給品×5
[GP]:18pt→48pt(勇者殺害により+30pt)
[プロセス]
基本行動方針:???
第一回定期メールをまだ確認していません。
※可憐から魔王カルザ・カルマと会ったことを聞きました。
※桐本のアイテムが周囲に散らばっています

[G-6/海/1日目・午前]
[VRシャーク(ヴィラス・ハーク)]
[パラメータ]:STR:C→B VIT:D→C AGI:C→B DEX:D→C LUK:E
[ステータス]:サメ、頭部にダメージ、腹部にダメージ
[アイテム]:不明支給品×3
[GP]:250pt
[プロセス]
基本行動方針:???
1.食べたい
※水の塔の支配権を得たことにより水属性を得て本来の力を僅かに取り戻しました
※魚としての自覚を得て本来の力を僅かに取り戻しました

066.神に至る病 投下順で読む 068.炎の塔 ~ 人在らざる者 ~
時系列順で読む
三度目の正直 鈴原 涼子 新しい目標 - Tribute to The Doomed -
三条 由香里 GAME OVER
桐本 四郎 GAME OVER
虎尾春氷――破章 VRシャーク 泳ぐサメの話

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最終更新:2021年04月28日 00:18