「決めた。診療所に向かいましょう」

掘っ立て小屋を出た所でエージェント、田中花子はそう切り出した。
それにつき合わされている研究者、与田四郎は半ば諦めの気持ちのまま意見を述べる。

「はぁ、いいんですか? 僕のIDパスだと大したところまで行けませんけど」

彼女たちの目的は研究所の調査。その為には研究者IDが必要となる。
与田の持つIDレベルは最底辺の1。深い調査を行うにはより上位のIDが必要となるのだが。

「与田センセ、あなた普段は診療所で医師の仕事をしているのよね?」
「ええ。そうですね。と言うか花子さんにも診察しましたよね?」
「それって他の研究者もやっている事なのかしら?」
「まぁ全員ではありませんが、何人かは」

村内にある研究所を拠点として活動する以上、完全に研究所に閉じこもって生活するのでなければ表向きの職業が無ければ近隣住民に不審がられる。
そう言った対策のため研究員の何人かは医師やナースと言った医療従事者としてあの診療所で働いていた。

その解答に答えを得たりと花子はにぃと笑う。
その悪戯を考え付いたような笑顔に与田は嫌な予感がした。

「だったら、病院内にもパスを持った人間がいると思わない?」
「それは…………まぁ」

いない、とは言い切れない。
深夜帯とはいえ深夜勤務のナースや医師は何人かいたはずだ。
その中に研究員が含まれている可能性は少なくはないだろう。

「センセのパスでは入れるエリアだって一応機密エリアなんだから上位パスを持った人間がいたとしても不思議じゃない。
 そこで一つ、また一つと進みながら徐々にパスレベルを上げて行けると思わない?」
「そ、そんなわらしべ長者的な……無茶ですよ」

仮に上位の研究者が探索範囲にいたとしても、それはつまり一人一人ゾンビを調べると言う事だ。
どう考えても無茶過ぎるプランである。

「大丈夫よ。手あたり次第と言っても医師や関係者に限られるんだったら調査対象は大した数じゃない。
 私の『眼』があればある程度の選別はできる。患者のゾンビが邪魔にはなるでしょうけど、動きも鈍いし統率も取れていない。
 この程度なら問題ないわ。入院患者のゾンビならなおの事でしょう?」

そう雑談しながら、ついでのように適当にゾンビを蹴散らしていく。
与田としても下手に逃げ出すより彼女の周囲にいた方が安全であると思わせるくらいの説得力はある。
だからと言って、無茶なところに突っ込んでいくのにつき合わされるのは御免被りたいところなのだが。

「あ。センセちょっとストップ。診療所の方から誰かこっちに来るわね」

花子の鷹の眼が遠方から走っている何者かを捉えた。
進行方向からして、診療所からやって来たようだ。

「はぁ……まあゾンビだらけでしょうからね。C適合者がいるなら逃げてくるんじゃないですか?」

与田が投げやりな相槌を打つ。
かく言う与田もゾンビだらけになる前に診療所から逃げてきた口だ。
危機察知能力だけは高い男である。

「接触しましょう、診療所の現状を聞けるかもしれないわ」
「えぇ……放っておきましょうよ。危ない人だったらどうするんですかぁ?」
「あらセンセ? 私が暴漢に負けるって心配してくれてるの?」
「いや、それは全然思ってないですけど」

掘っ立て小屋で花子に押さえつけられ尋問された時点で与田の中の可憐な花子さん像は儚くも崩れ去っていた。
与田の心配は自分が巻き込まれるかどうかである。
その態度に呆れたようにため息を零す。

「大事な情報源よ。ある程度のリスクは呑み込まなきゃ」

既に緊急事態の真っ只中だ。
何のリスクも侵さないなんて段階はとうに過ぎ去っている。
不満げな与田をその場に置いて、花子は来訪者に向かって行った。


「こんばんはお嬢さん。少しお話よろしいかしら?」

月の照らす田舎道。
少女の行く先に立ち塞がるようにその道の中央にレディスーツの麗人は立っていた。
息を切らせながら走っていた少女は行く手を塞がれ、仕方なしにその足を止める。

「…………悪いけど、追われてるの。邪魔するつもりがないならそこを退いて」

目の前の相手を邪魔だと言わんばかりの冷ややかな眼で睨み付けながらも相手に応じる。
だが、相手は端から退くつもりなど無いのか、その場を一歩も動かず堂々とした態度で問い返す。

「追われてる? 穏やかじゃないわね。いったい誰に追われているのか聞かせて貰ってもいいかしら?」

その呑気な態度に苛立ちを隠せず少女は歯噛みするも、答えねば退かぬ相手と理解し半ば八つ当たりのように答える。

「特殊部隊に」
「へぇ」

返って来た最悪の答えに女の鷹のような眼が細まる。

「巻き込まれる前に離れて。あなたも逃げた方がいい」
「っと、待った」

そう言って脇を抜けて駆けだそうとする少女の腕を掴んで引き止める。
強引な引き留めに煩わしさを隠しもしない視線を向けるが、女は場違いなまでに不敵な笑顔を返して。

「そう聞いちゃますます放っておけないわね。とりあえず場所を移しましょう。
 安心なさい。かくれんぼは得意なの。それなりに時間を稼げると思うわよ?」


3人は花子の案内に従い、脇道にある大きな溝に場所を移していた。
街道を外れた場所にある自然の要害。確かにここであればそう簡単には発見はされないだろう。

「なるほどね。診療所はそんなことになっていたのね」

そこで診療所であった出来事のあらましを聞いて花子はそう呟いた。
特殊部隊の襲撃を受け一人の少女を犠牲にして逃げて来たと言う話だった。

「特殊部隊を2人相手に、頑張ったわね」
「頑張ってなんて…………いません。私は」

頑張ったと言うのなら洋子の方だ。
海衣は洋子を見捨てて逃げるしかなかった。
そんな自分に労われる資格はない。

「自分を責めるべきではないわ。いい? どう考えても襲ってきた方が悪いのだから、被害者であるあなたが気に病むことではないの」

花子の言い分は正論だとは思う。
だが、正論で納得できていない事もある。
自罰的な性格の海衣には受け入れがたい。

「だからと言って、忘れろと言うの?」

幼い少女の犠牲を。
その犠牲のもとに成り立つ自分の命を。
すべて忘れて生きていくことなど出来るはずもない。

「そうね。その疵はいつまでもあなたに付きまとうわ、だからと言って自分を責めることに対した意味はないの。
 それは間違えた自己満足よ。報い方を間違えない事ね。その疵に報いたいのならもっと図太く生きなさい」
「お説教……ですか?」
「大人のお節介と言うやつよ。別に聞き流して貰って構わないわ」

これ以上続ける気はないのか、それだけ言って話を切り替える。
海衣も自ら続けたい話題ではないためぐっと意見を呑み込んだ。

「特殊部隊に関してだけど一人は診療所を離れ、交代でやって来たもう一人が海衣ちゃんを追ってきていると言う事でいいのね?」
「……はい。恐らくは」

目下、緊急の要件はこれだ。
戦場においてまずは診療所を抑えるというのは当然と言えば当然だが。
ゾンビの巣窟になっているのは想定通りだが、まさか特殊部隊員が2人も配されていようとは花子をしても予想外である。
そしてそのうちの一人が今も海衣を追ってきているという非常事態である。

「それにしても院長か……」

特殊部隊員の襲撃もそうだが、それ以上に話の中で花子が気にかかったのは院長を名乗る男に託されたと言うカードキーについてだ。
その辺に関して関係者である与田に尋ねる。

「田宮院長ですか? 研究とは直接関わりがあった訳ではないですけど。
 まあ場所の提供をしてくれてる関係もあってか所長や副所長とは懇意にしていたみたいですよ。上の話なので具体的にどんな関係だったかまでは知りませんけど」

いつも通りの曖昧で有益な情報を提供してくれた。
だとするなら、ある程度特別な権限が用意されていてもおかしくはない。

「ねぇ、海衣ちゃん。そのカードキー私に譲ってもらう訳にはいかないかしら?」
「それは……」

当然ながら、口を濁らせ否定的な反応を示す。
院長に果たすような義理はなくとも命懸けで託された物である。託された以上は責任がある。
おいそれと他人に渡すのは躊躇われる。
口にせずともその迷いを察したのか、花子はポンと手を叩く。

「それじゃあ取引をしましょう。私がそのカードキーを貰う代わりに、あなたの事を守ってあげる」

そう取引を提案してきた。
その上から目線ともとれるその提案に、海衣が表情を険しくする。

「守るって、どうやってです?」
「決まってるでしょ? 撃退するのよ」
「そんなにあなたは強いんですか?」

その言葉には強い苛立ちが含まれていた。
当然だろう。なすすべなく一人の少女を犠牲にしてまで逃げてきたのだ。海衣は護れなかった。
自分が出来なかったことを容易く口にする軽慮さは許しがたいものがある。

「そうねぇ。特殊部隊には私も1人知り合いがいるけど、普通に戦ったら多分負けちゃうでしょうね」
「ダメじゃないですか」

思わず横から与田がツッコンだ。
花子は気にした風でもなく平然と続ける。

「大丈夫よ。普通に戦う気なんてないんだから」
「それは、何か罠を仕掛けると言う事でしょうか?」
「そうね。それも含めて作戦を立てましょう。さしあたっては追ってきている敵の事を教えて欲しいんだけど」

敵の事を知るのは海衣だけだ、必然的にその情報は海衣の口から語ることになる。
先ほどの襲撃は忌まわしい記憶だが、思い出さねばならない。
海衣は堪えるように胸を押さえながら敵を語り始めた。
大丈夫だ。苦痛を堪えるのには慣れている。

「追ってきているのは迷彩色の防護服に身を包んだ男で、詳しくはないので種類までは分かりませんが銃を持っています。それから、」
「ああ、そうじゃなくって」

だが、その説明は横から制止された。

「確かに敵の武装も大事だけど、そっちはだいたい予想がつくから大丈夫。
 それよりも私が知りたいのはそうじゃなくて。人間性や人となりの方」
「……人間性?」

そんな事を知ってどうすると言うのか。
それ以前に海衣は一方的に敵の襲撃を受けただけである。
私的な知り合いでもないのだから人間性など分かるはずがない。

「そんなの、分かる訳ないじゃないですか」
「いいえ。接触した以上分かることは必ずある。どんな細かな事でもいいわ。銃を撃ったと言っているけど撃つ前に警告はしてきた? それとも問答無用だった?
 行動は慎重だったかしら? それとも杜撰で激昂しやすい? 言葉遣いはどうだった? 声色は? 強張っていた、それとも余裕を含んでいた? そもそも言葉を発したのかしら?
 何か癖のような物はあった? 気になる点は? あなたの感じた印象でもいいわ。私が知りたいのはそういう所」

つらつらと並べ立てられる。
その目にどこか気圧され思わず海衣は息をのんだ。
ひょっとして目の前の相手は、思った以上に得体の知れない相手なのかもしれない。


「ありがとう。海衣ちゃん、細かく覚えていてくれて助かったわ」

一通りの聴取を終え、ひとまず花子は海衣に礼を述べた。
実際、海衣の記憶力が優れていたおかげで、思った以上の細かな言動を知れたのは花子としても収穫だったようである。

「かなり慎重かつ用心深い性格みたいね。細やかなところにも気づく辺り、普段は気遣いも出来そうないい男なのかも……っと失礼。
 病院の備品で罠を張るあたりそれなりに機転も効く。教科書通りの特殊部隊員って所かしら、SSOGにしては逆に珍しいわね」

独り言のように呟きながら、獲得した情報からプロファイリングを行ってゆく。
頭の中で分析を巡らせているのか、視線を空に這わせながらうーんと唸りを上げた。

「付け入る隙があるとするなら。汚れ仕事を割り切ってやってるタイプと言う事ね」

その発言に与田が首をかしげた。

「割り切ってるんでしょう? 付け入る隙になるんですか?」
「ええ。楽しんだり何も感じていない訳じゃない、割り切る作業が必要である人間と言う事よ。
 わざわざ「動くな」なんて無駄な警告を入れたのもそのためよ」
「普通は撃つときって警告する物じゃないんですか?」
「撃たないという選択肢がある場合はね。けど今回は違う。相手を殺すことを前提とした戦場でそんな警告をする必要はない。
 それは自分の罪悪感を消すための行為でしかない。つまり戦場での経験が乏しい」

それを覚悟や使命感で補っている時点で戦場においては初心者(ルーキー)だ。
人間的な好感は持てるが、戦場においては邪魔な荷物でしかない。
それは十分に付け入る隙になる。
悪役染みた発想だが、戦場においては必要なのだろう。

「敵も知れたことだし、お次は自分たちの武器についても確認しておかないとね」

言って、ずいと花子が迫るような視線を向けたのは与田の方だった。

「な、なんです?」
「ねぇ与田センセ、そろそろあなたの異能について教えて貰ってもいいかしら?」
「な、何のことでしょう?」

尋問染みた言いぐさに与田は僅かに怯みながら視線を逸らす。
だが、逃すまいとさらに花子が距離を詰める。
蛇に睨まれた蛙のようだな、と傍から見ていた海衣は思った。

「アナタ、私の異能を『隠されたものを観る目に関する異能である』と推察ではなく断定したわよね」
「うっ」

咄嗟に否定しようとするが、全てを見通すような花子の瞳がそれを許さない。
このエージェントに限って記憶違いなんて事はありえない。誤魔化しは無意味だ。
確信を持った彼女は口調で続ける。

「アナタが何を企んでてどこまで思惑があるのかに関して今は触れないでおいてあげる。
 けど、このままだとアナタも死ぬことになるわよ。カードの切り時を間違えない事ね」

与田はバツの悪そうに視線を逸らしていたが。
観念したのか、ため息とともにメガネを上げ直した。

「お察しの通り、僕の異能は他人の異能を見抜く異能……だと思います」
「はっきりしないのね」
「そりゃあ僕だって目覚めたばかりで確証がある訳ではなかったですから」

僅か乱れた白衣を整え、与田の目が海衣へと向けられる。
まるで全てを診られているかのようなその瞳に海衣は一瞬、寒気のような感覚を覚えた。

「氷月さんの異能は視認した範囲に存在する自然物の温度を下げる能力ですね。
 氷月さんの手に近く、対象とする範囲が小さいほど効果が増すようですよ」

研究者が端的に海衣の異能を要約する。
その説明を受けた瞬間、海衣の中で世界と繋がる感覚があった。

「それが、私の…………異能」

脳が外に向かって開くような感覚。
全てを凍らせる、氷みたいな自分に似合いの力。
何となくの感覚的な物でしかなかった曖昧な力が、言語化され明確な形を得た。

仕切り直すように花子がパチンと手を叩く。
その音に二人の視線が向けられた。

「OK。これで出せる手札は揃ったわ。それじゃあ本格的な作戦会議と行きましょう」


迷彩色の男が夜の道を行く。
診療所より逃亡した少女の追跡を行っていた特殊部隊員、乃木平天はその道中で足を止めた。
足を止める様な目立った何かがある訳でもない、ただ土と草の景色が広がるだけの田舎道。
その場に片膝をついて何かを調べるように地面へと触れる。

足跡が唐突に途切れた。
いや、途切れたと言うより隠蔽工作が含まれるようになっている。

逃げている途中で突然あの少女が尾行対策に目覚めた、なんてことはないだろう。
恐らく、何者かと接触もしくは合流を果たした。
これらの工作は合流した何者かによるものと推察できる。

だとしても合流したのは何者か。
一介のミリタリーオタクにしては少々手際が良すぎる。
アドリブでこれだけのことができる人間が村内にそうそういるとは思えないが。

足跡の消された草原に触れる。
如何に手練れであろうとも、この短時間で完全に痕跡を消すなど、流石に不可能である。
注意深く僅かな痕跡を観察していけば、時間はかかるだろうが追跡は可能だ。

こう言った細やかな作業は天の得意とする所である。
追跡速度は落ちるだろうが、人数も増えているうえに足跡を隠蔽しながらでは相手側の機動力も鈍っているはずだ。
敵の隠蔽と天の探索。どちらが早いかの勝負である。

周囲への警戒を怠らず、足取りを追う。
整えられた道筋を逸れ、獣道へと分け入ってゆく。
そうしてしばらく進んだところで、行く手に人影を捉えた。

銃を構え、慎重な足取りで近づいてゆく。
そこには白衣を着た男が両手を上げて立っていた。

「う、う、ううぅ撃たないでくだしゃーーいいいいいいい」


「まずはそうねぇ……数の利を生かすべきよね。そう思うわよね? 与田センセ」
「え、嫌ですよ。囮役になれとか言わないですよね?」

満面の笑みを向けられ、自分の役割をいち早く察した与田はいやいやと首を振る。
だがそんな否定が許されるはずもなく、司令官はそのまま話を進める。

「まず与田センセには敵の前に出て行ってもらう。そこでみっともなく命乞いをして時間を稼いで頂戴。得意でしょそういうの?
 そしたら、その隙に私が後ろから出て行って相手を撃つから」
「絶ッッ対に嫌です! 殺しに来てる特殊部隊の人間なんですよ!? そんな相手の前に姿を晒すだなんて!!」
「大丈夫よ。いきなり撃たれることはないわ。一言二言は言葉を交わしてくるはずよ」

花子のプロファイリングによれば相手は好んで人殺しをしている訳ではない。
汚れ仕事を汚れ仕事として覚悟をした上で行っている人物だ。
向かってくる相手ならまだしも、命乞いをする相手を問答無用で撃つことはないだろう。
罪悪感を軽減する作業が発生するはずである。

「多分ね」


「う、う、ううぅ撃たないでくだしゃーーいいいいいいい」

姿を晒した与田は命乞いを始めた。
作戦通りの行動だが、無論、これは演技ではない。
本気も本気の命乞いである。

「ぼ、ぼ、ぼぼぼぼぼぼかぁ、何の武器も持たない研究者でしてえええええええええ、抵抗なんてしませんのでえええええ!!!!」

先ほどの大地震以上にガクガク震え、両手を晒して祈るようなポーズで土下座する。
人間ここまで恥も外聞も捨てられるのかと感心するような芸術品のような命乞いだった。
余程無慈悲な人間でもない限りは撃つのを躊躇わせるだけの迫力があった。

「……悪いですが、こちらも任務なので」

だが、そうはいかない。
天に任されているのは任務である。
どれだけ心苦しかろうが、それ以上の大義がある。

「え!? 待ってッ! ホントに1回待って! お願いお願いお願いしますぅぅぅぅう!! ひぃいぃいいいいいぃいいいぃっっ!!!」

震える標的の頭部に標準を合わせる。
どれだけ同情や罪悪感が芽生えようとも、その引き金が鈍ることはない。

「うわあああぁぁぁぁああああああああああああああぁぁぁぁぁぁあぁぁぁぁあぁああっっ!!!」

絶叫。
そして、銃声。

「は、はひぃ…………?」

だが、与田の額に穴が開く事はなかった。
何故なら銃声は天が構えた銃より発せられたものではなく、その背後から。
突然物陰から飛び出した女が天に向かって狙撃したのである。

完全なる死角から放たれた弾丸。
だが、その銃撃をまるで予測したかのように天は反応した。
仰け反るようにして銃撃を避ける。

「やはり囮か―――――」
「チッ」

天は咄嗟に男に向けていた銃口を女の方に向け引き金を引く。
襲撃に失敗した女が舌を打ちながら、転がるようにしてこれを躱した。

女は留まることなく即座に踵を返して逃亡を図った。
振り返れば囮だった男も一瞬の隙をついて涙と鼻水と悲鳴を上げながら別方向へ走り出していた。

銃撃をしてきた危険な相手と、即座に仕留められる相手。
どちらを追うか。天は迷うことなく女の背を追った。
より危険度の高い標的を優先するのは当然の判断だろう。

女の背を追いながら、その背に向けて銃撃を行う。
女も負けじと振り返りながら銃を撃って応戦する。
だが、走りながらの銃撃がそう簡単に当たるはずもない。
互いに牽制と足止め狙いの銃撃を交えながら追いかけっこを続ける。

その立ち回りからして明らかに素人のそれではない。
少女に合流した工作員はこいつだ。天はそう確信する。
だが、同時に一つの疑念が頭をよぎる。

ならば、先ほどの白衣の男は何だ?
立ち回りからして協力者には違いなかろう。
あれを囮にしていたとするならば。
敵の狙いは…………。

冷静に頭を働かせた天が周囲を見渡す。
そして気付く。この先に何があるのか。

(この先は…………)

――湖だ。
忘れるはずもない。
天にとってはワニと死闘を演じた場所である。

それで敵の狙いが読めた。
恐らくそこに診療所から逃した少女がいる。
冷気を操る異能を活用して攻勢に出るために、水場に誘導するつもりなのだろう。

それに気づいた天は女を追う足を緩めた。
そんな事をすれば普通であれば逃してしまうだろうが、そうはならないと言う確信がある。
すると、天の予測通り、逃げているはずの獲物までが足を緩め始めた。
バテたと言う訳ではないだろう。釣り糸の動きを獲物に合わせたに過ぎない。
そして徐々に互いの足は緩まってゆき、遂に互いに足を止めた。

「乗りませんよ」
「あら、臆病なのね」

安直な挑発には乗らない。
何も遮るもののない草原で互いに向き合う。
そして初めて相手の顔をはっきりと見る機会を得て、その顔に見覚えがあることに気づいた。

「…………ハヤブサⅢ」
「あら、私ったら有名人」

作戦開始前のブリーフィングで共有された最優先警戒人物。
黒木真珠が対応に動いているはずだが、先に出会ったのは天になったようだ。

「そういうアナタは自衛隊の秘密部隊の人間ね。
 マジュはお元気? 今度一緒に合コンでも行こうって誘っておいてもらえる?」
「ふっ。愉快な人だ」

言葉の内容には反応せず感想だけを述べ、天は逆手にしたナイフを左手に、同時に右手で拳銃を構える。
天とて精鋭中の精鋭である特殊部隊の一員だ。
誰が相手であろうとも正面からの直接戦闘で後れを取ることはない。

水場までは距離がある。
誘導は失敗に終わった。
この地を戦場とする他ないだろう。

ふぅとハヤブサⅢと呼ばれたエージェントが息を吐く。
気合を入れ直すように銃を構える。

「さて、ここからが踏ん張りどころね」


「…………そんな作戦で仕留められるの?」

海衣の言葉には落胆が含まれていた。
ただ囮を出して背後から撃つ。こんな単純な作戦で仕留められるような相手ではない事を敵の強さを知る海衣は理解している。
信頼を得られるかの分水嶺。疑念を含んだこの疑問に対して花子はあっさりと答えた。

「無理でしょうね。慎重そうな性格からして囮を使ったところで見抜かれるのがオチよ」
「えぇ!? だったら何のために僕は命を懸けるんですか!?」

いい年をした成人男性の嘆きを無視して、女スパイは説明を続ける。

「もちろん失敗するのは織り込み済みよ。私の襲撃が失敗した時点で囮役のセンセも逃げていただいて結構よ」
「逃げたところで僕の足じゃすぐに追いつかれますって!!」
「相手が適切な判断力を持っているのなら、情けなく喚くだけの与田センセよりも戦力持ちの私の方を優先するはずよ」

感情に流されず冷静で的確。
花子の知る特殊部隊員、激昂しやすい真珠と違い、常にプロの判断ができる。
だからこそ動きが読みやすい。

「つまり、そのままどこかに誘導する、と言う事でしょうか?」
「そうか! 分かりましたよ花子さん。湖の方に誘導する訳ですね?」

海衣に宿った自然物を凍らせる異能。
周囲に大量の水があればその真価を発揮できるだろう。
そこに海衣を待ち伏せさせておけば、有利なフィールドで戦える。

「海衣ちゃん。あなたの異能は相手にバレてるのよね?」
「はい。殆ど無意識でしたが相手の手を凍らせたので恐らくは」
「なら無理ね。水辺に誘導しようとすれば、まず間違いなく警戒されるわ」

水と氷。
有効ではあるのだろうが、発想としては余りにも安直だ。
誰にでも簡単に予測できてしまう。

「だったらどうするんですかぁ~」

疑問ばかりの愚鈍な生徒に教師の様に答える。

「なので、その警戒を利用します」


対峙するエージェントと特殊部隊員。
決して表に出る事のない闇に生きる仕事人が、辺鄙な村の草原で向き合っていた。

天は敵を見据えながら冷静に戦場を確認する。
遮蔽物のない草原。
これだけ視野が開けていれば伏兵はない。
近場にある森が気がかりだが、狙撃銃でも用意していない限りは警戒していれば対処できる。

対する敵の装備はベレッタM1919のみ。
携帯性に優れ居ているが火力に乏しい25口径の小型銃だ、脅威ではない。
最悪強引に制圧することも不可能ではないだろう。

ジリっとすり足で様子見のように距離を詰める天。
だが、敵は大胆にも先手を取って駆け出した。

勝負を焦ったのか。それは判断ミスだ。
完全に待ち構える特殊部隊の人間に無防備に迫るなど、殺してくれと言っているようなものである。
この勝機を見逃す程、未熟者ではない。
天は銃口を構え、駆けまわる花子に向かって足を踏み込んだ所で。

その足を滑らせた。

「ッ!?」

すぐさま体制を整えるが、既に花子が距離を詰めている。
咄嗟に敵を近づかせぬよう銃を連射するが、敵は銃撃の隙間を縫うように蛇行して躱す。
そして間合いを詰めた花子の跳び蹴りが炸裂した。

「くっ!」

何とかガードし直撃は防いだ。
腕に足裏を乗せたままの敵を力任せに弾く。
花子はその勢いのままバク宙で後方に着地する。
対する天は勢いに押された足がまたつるりと滑った。

「まさか…………」

ここの周辺、一帯の地面が凍っている?
まだ6月だ。自然凍結はあり得ない。
どう考えても敵の仕込みだ。
つまり、想定した戦場は湖ではなく。

(ここか…………ッ!?)

だが、敵は平然と地面を走っている。
相手の靴は氷上用のスパイクと言う訳でもない。
理屈が合わない。どういう仕掛けだ。

(氷上でも滑らない異能? そんなピンポイントな!)

混乱を抱えたまま、後退るように一歩引いたところで、天は理解する。
その地面は凍っていなかった。

つまり、このフィールドには凍った地面と凍った地面が入り混じっていた。


「海衣ちゃん。与田センセが時間を稼いでいる間にアナタには地面を凍らせて欲しいの」

手書きの地図でポイントを指定しながら花子がそう作戦を説明する。

「地面を、ですか?」
「そ。相手には私が水辺に誘導していると考えるはずよ。本命はその途中の草原。そこで罠を張る。
 こちらの意図を読んだつもり相手はただの草原に誘導されているとは思わないでしょう?」

相手の警戒と慎重さすらも利用する。
自分が相手の思惑を読んでいると思っている人間ほど操りやすいものはない。
だが、説明を受けた海衣の反応は芳しくはなかった。

「ですけど……地面を辺り一帯凍らせるとなると、時間がかかりますよ?」

与田の説明によれば海衣の異能は対象の範囲と効果が反比例する。
地面一帯となればどれだけ時間が掛かるのかわかったものではない。

「いいえ。一帯全てを凍らせる必要はないわ。むしろ凍っている地面と凍ってない地面が疎らな方が理想的ね。
 安心して。時間は与田センセがたっぷり稼いでくれてるはずだから」
「えぇ…………ぼくぅ?」

凍った地面と凍ってない地面が入り混じったフィールドで敵を迎え撃つ。
作戦は理解したが、そこで戦う花子も条件は同じだ。

「でもそれじゃあ田中さんも巻き込まれるんじゃないですか?」
「大丈夫よ」

静かに指先を立てて自らの眼を指すように鼻先に当てる。

「私には『観える』から」


縦横無尽にフィールドを駆けまわりエージェントが迫りくる。
その足取りに迷いも躊躇いもない。

その勢いに気圧され、半ば反射的に間合いを取とうと僅かに天は後方に引いた。
幸運にもその地面は凍結していなかったのか、滑ることなく地面を踏みしめる。
だが。

「遅い!」
「くっ」

回避が間に合わず蹴りの直撃を喰らう。
慎重に歩を選んでいる時点で遅い。

一歩一歩に判断を要求される。
一歩を躊躇わせる精神的な揺さぶりそれこそが敵の狙いだ。
一面を凍らされていた方が割り切れる分まだ戦いやすい。

花子は単純に特殊部隊に引けを取らない実力者だ。
そんな相手が一方的に有利なフィールドを用意してきた。
こうなってはいかにSSOGとはいえ苦戦は必至である。

蹴りを貰いながら反撃としてナイフを振りぬく。
だが敵は氷上で身を仰け反らスケーターの様な体勢で華麗に避ける。

続いて、殴りかかってきた花子の拳を払う。
天は出来る限りその場から地に根を張ったように足を動かさず待ちの構え。
足を止めたまま拳と蹴りナイフを打ち、払い、避け、応酬し合う。
そして、銃口を互いの顔に向け合い、同時に引き金を引いた。

銃声が互いの耳元を突き抜ける。
ギリギリで銃口を逸らし首を傾け弾丸を互いに避けていた。
腰を据えた近接戦の攻防は互角。

だが、凍っている場所、凍っていない場所。花子の眼には全てが観えている。
変幻自在に使い分けるそのアドバンテージは大きい。
足を動かせない天を嘲笑うように、花子は文字通り滑るように背後に回り込む。

天もすぐさま向き直るが、それよりも一瞬早く足元を払われた。
普段ならどうという事もない足払い。
だが、足元の不確かな状況では最上級の嫌がらせである。

「くっ」

倒れないよう踏ん張るものの、僅かに体勢を崩した。
そこに、向けられる銃口。
花子は躊躇うことなく全弾を土手っ腹に向けて撃ち込んだ。

「チッ…………!」

舌打ちは女の方から。
弾丸は防護服に阻まれ体に届くことはなかった。
天が体勢を立て直そうとしているのを見て花子も離れる。

やはり防弾。
少なくとも隠密性に特化した小型拳銃では撃ち抜けそうにない。
こうなっては決め手に欠ける。

戦況を一方的に有利に進めているようだが、その実そうではない。
この戦いには時間制限がある。
地面の凍結が溶けてしまえば、花子の有利は失われるのだ。
それが分かっているから天も無理には攻めようとせず長期戦の構えである。

「……こうなると、切り札を切るっきゃないわねぇ」

言って、花子が腕を上げた。
その手にはスマートフォンが握られていた。
そして、どこかに合図を送るようにスマホライトがちかちかと点滅する。

瞬間、空を裂くような巨大な刃が振り下ろされた。


「敵が私の想定した通りの展開ならここまでやってやっと五分ってとこかしら」

一通りの作戦を説明し終え、花子はそう言い切った。
ここまでやってようやく五分。
真珠と同程度の実力者がそれなりの装備を整えてきていると考えれば、まだ足りない。

「あと一押し欲しいわね」

倒すにしても撤退させるにしても、決め手となる一手が欲しい。
相手を殺し得るだけの火力がない。
何かないかと思案する花子。
そこに海衣が声を発した。

「…………なら。こう言うのはどうでしょう?」


地面の凍結を終えた海衣は、草原の傍らにある森の入り口で身を隠しながら佇んでいた。

本来であれば彼女の役割は終わり、あとは花子の奮闘に期待するだけなのだが。
彼女は今、草原の脇にある木々に紛れ、自ら提案した追加タスクを実行していた。

「ふぅ」

息を吐いて集中を解く。
ひとまず準備は終わった。
深く集中していたからだろうか、頬に一筋の汗が伝っていた。

巻き込まれたのは自分だ、他人に任せず何かしたいという思いもあったが。
それ以上に自身の能力を自覚した瞬間、出来ると思った。

海衣の目の前には薄く透明な氷の柱が立っていた。
高さにして20mほどはあるだろうか、もはや塔と呼んでも差し支えない高さである。
向こう側が見えるほど薄く透明な氷の柱は夜に紛れ、遠目からでは発見することは困難だろう。

光の点滅が見える。
まるで紙が直立しているかのような奇跡的なバランスで保たれたその柱。
花子からの合図を受けて、そこにそっと指先で触れる。
すると、柱が保っていた均衡が壊れ、ゆっくりと倒れ始めた。

戦場に届く長さの氷柱が、鋭い刃となって断頭台の様に戦場に落ちる。

「なっ…………!?」

氷刃が天の目の前を掠め、地面に叩きつけられた。
まるで爆裂するように氷柱が砕け散る。
氷の破片が周囲に散らばり、美しいダイヤモンドダストとなって夜に広がった。

狙撃ではなく、異能による遠距離斬撃。
それでようやく天も森に佇む海衣の存在に気づいたようだ。

決定的な一撃を持つ氷の少女を先に制圧に向かうべきか?
そんな考えが脳裏を過るが、その考えを遮るように飛び散る氷の間を縫った花子の掌打が呻る。
目の前の強敵を無視して少女の制圧に向かうことなど不可能だった。

下から突き上げられるような掌打が顎先を捉えた。
天がたたらを踏み、最後の一歩で僅かに滑る。
そこに、花子の合図に合わせて次弾が放たれた。

「くっ…………!」

振り下ろされる透明なギロチン。
天はそれを僅かに反射する月光を頼りに見極め、体勢を崩しながらも全身で跳び退き何とか回避する。
避けられた。避けられたが。
この足場の悪い状態で、いつまで避け続けられるのか?

「……………どうやら。この場では、あなた達の方が強いようだ」

このまま続ければ負けるのは天だ。
天にはそれを認められるだけの謙虚さと冷静さがあった。
花子と海衣を視界に収めながらゆっくりと後退する。

その動きを花子も深追いはしない。
どの道、今の装備では殺しきるのは厳しいだろう。
相手から引いてくれると言うのなら止める理由もない。

そうして、しっかりと距離を取った所で自身の足が凍結地帯から抜け出したのを確認し、特殊部隊は撤退を始めた。


(あれがハヤブサⅢ。最優先排除対象)

天は撤退しながら、先ほどの対戦相手を思い返す。
相当な手練れ。工作員と聞いていたが戦闘力も一級品だ。
天が未熟という事もあるが、恐らくSSOGでもやっていけるレベルである。

(アレの排除は黒木さんに任せた方がよさそうだ)

本部が最優先排除対象に指定したのも納得できる。
確かにあれは天には手に余る。
負けっぱなしは業腹だが、ひとまず彼女たちの処理は黒木に任せる事にしよう。

【F-4/草原/1日目・黎明】
乃木平 天
[状態]:疲労(中)、ダメージ(小)、精神疲労(小)、手が凍結(軽微)
[道具]:拳銃(H&K SFP9)、サバイバルナイフ、医療テープ
[方針]
基本.仕事自体は真面目に。ただ必要ないゾンビの始末はできる範囲で避ける。
1.ひとまずこの場から撤退、ハヤブサⅢは黒木さんに任せましょう。
2.ワニ以外に珍獣とかいませんよね? この村。
3.後ろ髪を引かれる。あのワニ生きてる?
4.某洋子さん、忘れないでおきます。
5.美羽さん、色々な意味で大丈夫でしょうか。
6.能力をちゃんと理解しなければ。

ワニ吉の死に懐疑的です。
※氷月海衣の能力を『視界のものを凍らせる』と確信しました。
※ゾンビが強い音に反応することを察してます。
※もしかしたら医療テープ以外にも何か持ち出してるかもしれません。


「逃がしちゃったけど。こんな感じでよろしいかしら?」
「……ええ。正直、怖いくらいです」

海衣が用意できた氷の柱は2本。
つまりは敵が撤退を決めた時点で残弾はなかった。
それが『観えて』いたにも関わらず花子はそれを億尾にも出さず、即座に切り札を2枚切り敵の撤退を引き出した。

素人の思い付きの機転や駆け引きとは次元が違う。
目の前の相手はいったい何者だろうか? そんな疑念すらよぎる完全勝利である。
作戦が嵌りすぎて目の前の相手の方が不気味に見えてきた。

「あら悲しい。こんな美人を捕まえて怖いだなんて、ね? 与田センセ」
「あっはい。そうですね」

ちゃっかり合流していた与田が生返事を返す。

「まあ結構ギリギリだったわよ。今回は相手がこちらの戦力を把握してないからできた不意打ちみたいものだし」

完勝のように見えるが、それはなるべく無傷で敵を追い返すというプランだったからだ。
何が何でも敵を殺害すると言うプランなら、与田と海衣は死に花子もそれなりに手傷を負っていただろう。
どちらにせよ手の内がバレた以上、次はない。

「それで、その。これを」

そう言って海衣がおずおずと差し出したのは報酬であるカードキーだ。
一方的な契約だったが仕事を果たした以上、渡さない訳にもいかない。
田宮には申し訳ない気持ちもあるが、正直自分が持っているよりもよっぽど活用できそうだ。
自身の手で真相を知りたいという決意を無視すれば、ベストな選択と言えるだろう。

「ありがと。ふぅん。与田センセのIDパスとは規格が違うわね」

手渡された報酬をまじまじと見つめる。
レベルが最底辺でも作り自体は同じはずだ。
それが違うと言う事は別の何かと言う事である。

「ま。確かめてみればわかるか。それじゃあ二人ともさっそくだけど診療所に向かいましょうか」

当然のように花子はそう呼びかける。
それを海衣は意外そうな顔で受け止めた。

「え。私もですか?」
「当然でしょう? 流石にここで放り出したりしないわよ」

本当に当然のことのように言う。

「それに、言ったでしょ。あなたを守るって。私、契約はちゃんと守る性質なの」

それは迫りくる特殊部隊員からと言うだけではなく、
この地獄のようなバイオハザードから守り抜くと言う契約だった。


そして、診療所に辿り着いた。
多少のゾンビとの小競り合いはあったが、さすがに特殊部隊に出くわすようなアクシデントはなく無事に入り口の前まで到達する。
静かに佇む診療所を前に、海衣はごくりと唾をのんだ。

「ここで待っていてと言いたい所だけど、多分私の傍にいる方が安全だと思うわ。辛いとは思うけれどついてきてもらうわよ」

あれだけの活躍を見せられた後ではその言葉を奢りだと否定することはできない。
だが、海衣にとっては苦い経験をした場所である。
なにより、自分が見捨ててしまった洋子の末路を思えば足が竦む。
踏み込んでしまえば確実にその疵と向き合う事となる。

「…………大丈夫です。行きます」

自身で罅割れ開きっぱなしになった自動ドアを潜る。
院内は静かだ。自分たちだけの足音だけが響く。
ゾンビの気配もない。

海衣が足を止める。
その先の角を曲がった先。
そこに洋子の亡骸がある。

「…………行くわよ」

海衣の様子に気づいた花子が声をかける。
無言のまま頷きを返した。
決意を籠め、一歩前へと踏み出そうとしたところで、

「おっと」

与田が地面に落ちていた懐中電灯を蹴った。
偶然スイッチが入り、廊下の先を照らす。
瞬間、海衣のみならず全員が言葉を失った。

そこには怪物がいた。

軟体とも液体ともつかないむき出しの筋肉のような赤い筋の塊。
見ているだけで全身の背が総毛立つような異形。
およそこの世に存在してはならぬナニカだった。

「ッ! 二人とも出口に走って!! 早く……ッ!!」

花子が叫ぶ。
一瞬呆けていた二人もその叫びに弾かれるように走り出した。

それを合図にしたように怪物が蠢く。
殿を務める花子に向かって触手のような筋が伸びた。
転がりながら避ける、だが、狭い廊下では完全に回避しきれず、触手の一本が足首に絡まった。

「ッ…………この!」

咄嗟に触手に向かって弾丸を2発打ち込む。
触手の先端を断ち切り拘束から脱する。

弾丸は有効。
だが、

「倒せる気は……しないわねぇ」

触手の先端を断ち切ったのみである。
本体は無傷のまま、廊下に巣食うように蠢いている。

蠢く触手。固定の体を持たないのかその数は際限なく増えている。
倒すどころか、逃げ切れる気すらしない。

(マズったかなぁ…………こりゃ)

準備もなく突入を決断した花子の判断ミスだ。
と言うより、特殊部隊の待ち伏せくらいは想定していたが、こんな正体不明の怪物がいるなんていくら何でも想定外だ。

いよいよ持って覚悟を決める花子だったが、その視界の端に動く何かを見つけた。
それは銃声に釣られたのか、脇の病室から姿を現した一体のゾンビだった。

花子はとっさにそのゾンビの腕を掴むと、そのまま引き寄せてその背を蹴る。
自らに向かって行くゾンビに反応した怪物は、その触手の矛先を花子からゾンビに変えた。
ゾンビが触手に侵され呑み込まれるように怪物に消えていった。

ゾンビもウイルスに侵されただけの人間であることを考えれば非情な判断だが。
花子はそのゾンビを囮にして、その隙に診療所を離脱した。


「だあーーーーーーー!! もうなんなのこの村!!!」

遂に花子の不満が爆発した。

「与田センセ! なんなのあの筋肉と粘菌で出来たみたいな化物は!? 
 研究所は生物兵器を作ってる訳じゃないって言ってませんでしたっけ!?」
「わ、わからないですよ」

彼女らしからぬ取り乱し方で研究員に詰め寄る。

「それでセンセ。一応アレを診たんでしょう?
 あなたの異能ではあの化物はどう診えたの?」

何者かの異能である可能性。
異能によって変形した異形。
異能によって召喚された何か。
あらゆる可能性を考慮するが。

「えっとそれが、ウイルスらしい反応はなかったんですよねぇ。いやあるような気もするですがなんか違うというか……」

返ってきたのはいつも以上にはっきりとしない曖昧な答え。
異能を見破る異能を持つ与田が、そう言っているのであればそれはつまり。

「つまり、今回のウイルス騒ぎと関係ない化物って事? そんなことある?」

流石のスーパーエージェントも頭を抱える。
僅かに乱れた髪をかき上げ、気持ちを切り返るようにポニーテールを括りなおす。

「今の装備じゃ厳しい。あれと戦うんならロケットランチャーくらいは欲しいわね」

ぶつぶつと戦力計算を行い始めた花子。
そこに、海衣が話しかけた。

「あの…………田中さん」
「あら海衣ちゃん。どうしたの? 花子ちゃんって呼んでくれていいのよ?」
「田中さん、さっきの怪物ついてなんですが。私が診療所に居た時はあんなのはいませんでした」
「でしょうね。そうじゃなければあなたの話に出ないのはおかしいもの」

海衣が逃げ出してから出現したのか、それとも気づかなかっただけなのか。
ともかく、海衣が出会っているのなら海衣は既にここにはいないだろう。

「それに、あの怪物、どこか……」
「……どこか?」
「いえ、何でもないです」
「そう? 気になることがあるのならどんな事でも言ってもらえた方が助かるんだけど」

そう促され、海衣は何かを誤魔化すように言葉を続ける。

「いえ。あの、この村にはああ言ったモノがいると、友人から聞いたことがあります」
「ああ言ったモノ? 魑魅魍魎の類ってことかしら? 意外ね。そういうの信じる系?」
「いえ、そう言う訳では……」

魑魅魍魎かもと言う意見を受け、花子は考え込む。

「まあ……今更オカルトを否定するでもないか」

ゾンビや超能力の跋扈するこのカオスな状況で思い込みや偏見は捨てた方がいい。
あらゆる手段を模索すべきだ。
ため息のように大きく息を吐き、頭を切り替える。

「ともかく、診療所に侵入できないとなると研究所の調査は振り出しね」
「あっ。ありますよ。診療所から以外の別口」
「…………なんですって?」

予想外の与田の発言に花子が驚いたように眉を上げた。

「入り口というか緊急時の脱出口ですけど、診療所の外にあるはずです」
「本当に!? それはどこにあるの?」
「いや、知りませんけど」

思わずずっこける。

「与・田・セ・ン・セ~!」
「いや、噂を聞いたことがあるだけで、そもそも偉い人のための緊急脱出口を僕が知る訳ないじゃないですか」

だったら言うなと言いたいところだが、今はその噂話程度の情報にも縋りたい場面である。
有益な情報であることには変わりはない。

「OK。状況を整理しましょう。
 研究所の調査を行うには、あの診療所に巣食うナニカを倒すか、秘密の入り口を見つけるかのどちらかになると言う事ね」

魑魅魍魎と思しき謎の化物退治か、どこにあるかもわからない存在すらも疑わしい秘密の入り口を見つける。

「どちらも現実的ではないわね…………」

ギリギリ途切れていないだけで、どのルートも線が細すぎる。

「どの道、そろそろ情報収集のターンかしら……」

最短距離での解決は無理だと分かった。
それだけでも収穫だろう。
そう思わないとやってられない。

「ねぇ与田センセ、このウイルスってだいたい何%くらいが適応できるものなの?」
「えっと、マウス実験の結果なので人間に適用できるか不明ですが、3~5%程度ですね」
「って事は単純に考えればこの村で正気を保ってて話が聞けそうなのは30~50人だけか」

その中に欲しい情報を持っている人間がいる確率がどれだけあるのか。
その数値も時間とともに減っていく。

「地道に行きたいところだけど、時間制限もあるのよねぇ」

48時間ルール
このルールも疑わしい所が色々とあるのだが。
このルールがあるのに特殊部隊が動いていると言うのも気がかりだ。
まあ今のところ、その検証をしている余裕はないのだが。

「悪いけど海衣ちゃんにも付き合ってもらうわよ」
「それは構わないのですが……私も友人たちの安否を確かめたいんですけど」
「勿論よくってよ。次は人の集まる所に行って情報収集をするつもりだから、そこで一緒に探しましょう」

そう言って、花子は行動を始めた。
海衣も与田と共にその後を追う。

だが、海衣の心中には一つの靄があった。
あまりにも荒唐無稽で口にはしなかったが。
海衣にはあの怪物に対して、思う所があった。

どうして、あの怪物に洋子を感じたのか。

あの場所で死んだ洋子を思う自らの罪悪感の見せた錯覚か。
それとも……。

その答えは今の海衣には分からなかった。

【E-1/診療所前/1日目・黎明】
田中 花子
[状態]:疲労(小)
[道具]:ベレッタM1919(7/9)、弾倉×2、通信機(不通)、化粧箱(工作セット)、スマートフォン、謎のカードキー
[方針]
基本.48時間以内に解決策を探す(最悪の場合強硬策も辞さない)
1.人の集まる場所で情報収集
2.診療所に巣食うナニカを倒す方法を考えるor秘密の入り口を調査、若しくは入り口の場所を知る人間を見つける。
3.研究所の調査、わらしべ長者でIDパスを入手していく
4.謎のカードキーの使用用途を調べる

与田 四郎
[状態]:健康
[道具]:研究所IDパス(L1)
[方針]
基本.生き延びたい
1.花子に付き合う
2.花子から逃げたい

氷月 海衣
[状態]:罪悪感、精神疲労(小)、決意
[道具]:スマートフォン×4、防犯ブザー、スクールバッグ、診療所のマスターキー、院内の地図
[方針]
基本.VHから生還し、真実に辿り着く
1.何故VHが起こったのか、真相を知りたい。
2.田中さんに協力する。
3.女王感染者への対応は保留。
4.朝顔さんと嶽草君が心配。

038.郷愁は呪縛に転ず 投下順で読む 040.太陽を背中に僕らは進む
時系列順で読む
Spy×Doctor 田中 花子 かつて人だった獣たちへ
与田 四郎
Losers 氷月 海衣
乃木平 天 predator's pleasures

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
最終更新:2023年02月08日 01:03