山折村は人里離れた山奥に位置する集落である。
周囲を山々に囲まれ、外界への唯一の出入り口は南のトンネル一本のみであり、そこから出ても最寄りの町まで数十キロは離れている。
正しく辺鄙な場所という表現がぴったりとハマるド田舎である。
近年は目覚ましいまでの開発により村内は未曽有の発展を遂げているものの、その不便な立地までは変わっていない。
周囲の森林も村の開拓のため林業会社によって大量に伐採されたが、広大な山々にとってはそれはごく一部にすぎず、未だ高い山々と深い森林が村を取り囲むように広がっていた。
そんな山折村から僅かに離れた山林地帯に広がる鬱蒼とした樹海。
未だ開拓の手は伸びておらず、足を踏み入れるとしたら遭難者くらいしかいないようなおよそ人の寄り付かぬ自然の要害である。
その奥深く、高木のない開けた草地に周囲の目をごまかすような草色のアーミーテントが敷かれていた。
それは傍から見れば災害派遣された自衛隊の臨時拠点にしか見えないだろう。
もっとも震災直後のこの状況で人里離れた辺鄙な場所に近づく人間がいるとも思えないが。
それは山折村特別作戦における臨時作戦指令室だった。
テントからは血管のように何本ものケーブルが所狭しと伸びており、有線による通信環境の確保がなされている。
その周囲を迷彩色の防護服を着た何人もの人間が慌ただしく走り回りっていた。
村からの逃亡者がいないか山に仕掛けたカメラの映像を監視。
また村内の監視を途切れさせぬよう飛来するドローンを回収し充電、発進のローテーションを行う。
そして回収した映像を別のモニターに繋ぎ、解析と編集作業を並行して行っていた。
ここまた後方支援部隊にとっての戦場である。
仮設テントには簡素なテーブルが置かれており、その前に置かれたパイプ椅子に二人の男が鎮座していた。
全身を防護服で身を固めた二人こそ、陸自秘密特殊部隊の隊長である奥津と副官である真田である。
地震発生から初の朝日を迎え、時刻は朝6時。
事前に取り決められた研究所との定例会議の時刻である。
真田はテーブル上に置かれたノートパソコンを操作し、傍受が防止された軍用の回線を用いて通信ソフトを立ち上げる。
モニター上に一人の凛とした白衣の女性が表示された。
『おはようございます』
冷たく透き通る氷のような声。
声のみならず女は氷でできた彫像のように表情を変えぬまま、そっけない挨拶を述べる。
「おはようございます。防護マスク越しで失礼。奥津です」
「おはようございます。真田です」
防護マスクで顔の隠れた両名が改めて名乗る。
作戦行動区域外ではあるが、バイオハザード被害区域内である。
防護マスクを外す訳にもいかない。
「長谷川さんだけでしょうか? 染木博士はどうされました?」
『博士はお休みになっておりますので、今回は私だけで対応させていただきます』
長時間の任務も慣れたものである自衛官二人は当然徹夜であるのだが。
地震発生から深夜のミーティングは老人にはつらいモノがあったのだろう。
今回のミーティングには欠席の様である。
徹夜は画面上の女史も同じなのだろうが、そうとは思えぬほど凛とした仕草で粛々と仕事をこなしていた。
研究員も徹夜慣れしている職業なのかもしれない。
「了解しました。早速ですが会議を始めましょう。よろしくお願いいたします」
『よろしくお願いします』
画面越しに頭を下げ合い、山折村で発生したバイオハザードを巡る第一回定例会議が始まった。
奥津は背後に控え、まずは議事進行役である真田が話を進める。
「まずは感染者についてですが、村内に確認できた正常感染者は41名。
こちらを頂戴しました住民情報と照らし合わせて名簿を作成いたしました。別途資料としてお送りしていますがご確認いただけましたでしょうか?」
『ええ。確認しております』
サーモグラフィ付きのドローンによる上空からの航空偵察であるため、室内に引き籠りでもいた場合は正確ではない可能性はあるが、正常感染者の把握はおおよそ完了している。
そこから研究所より提供された村民データとの照合を行い、念のため別ルートから入手した住民データとも裏取りを行った上で正常感染者名簿を作成した。
一部、情報不足のため仮称で対応した不明な人間もいるが、大方のラベリングはできている。
「現時点で活動停止を認められた正常感染者は
映像撮影できない場所も含むため一部推察を含みますが、以上11名となります」
ドローンによって撮影された村内の映像は事前の取り決め通り研究所に随時送信されている。
もっとも、村内での特殊部隊の活動は研究所には明かしていない極秘作戦であるため、特殊部隊員に関わる場面を編集したデータではあるのだが。
現在もこのテントの外では工作員たちの必死の編集作業が行われている。
そのため、村内で脱落したもう一人、特殊部隊の隊員である「
広川 成太」の名はここでは出せない。
彼の死は誰にも知られることなく秘密裏に処理されるだろう。
それが秘密部隊に属するモノの宿命である。
ドローンによる映像は元より完全な物ではない。
向こうも不信は感じているだろうが多少の欠落や齟齬があろうともある程度は誤魔化しが利く。
『こちらでも、お送り頂いた映像データを精査させて頂きました。
確認の結果、C感染者の活動に変化はありませんでした。今後も経過を観察して行きますが現時点で活動を停止した感染者の中にA感染者はいなかったと思われます。
こちらからの報告は以上となります』
11名の死者に女王感染者は含まれていない。
事務的に述べられた報告は、山折村の地獄は続くという宣言であった。
「では、こちらから何点かお尋ねしたいことがあるのですが、よろしいでしょうか?」
『なんでしょう?』
「感染者についてなのですが、人間以外にもウイルスに感染したと思しき動物が確認されました。
[HE-028]ウイルスは人間以外にも感染するものなのでしょうか?」
生体や遺伝子構造の違いから特定のウイルスに感染しない場合もありうるが、ウイルスに感染するのは人間だけとは限らない。
人間を一番殺した生物は感染症を運ぶ蚊である、なんて言うのは有名な話だ。
それは[HE-028]にも当てはまる話なのか。
村を取り囲む包囲網はあくまで感染した人間を外に出さないための処置である。
蟻の子一匹逃さぬ警備と言っても実際に蟻の子一匹逃さぬことなど不可能だ。
人間以外にも感染する場合、感染拡大を防止するための封鎖も話が変わってくる。
『低確率ではありますが感染はします。ですが村外への感染拡大を懸念しておられるのなら問題ありません。
C感染者内の[HE-028]はA感染者の影響下でしか活性化しませんので、A感染者の影響外では空気感染するほどの感染力はありません』
「つまり、女王の周囲でなければ感染拡大の危険性はない、という事ですか?」
『ええ。48時間経過して定着する前であればの話ですが』
48時間のタイムリミットまでは女王がいなければ感染拡大は起こらない。
それが事実ならば虫や小動物が村外に抜け出したところで問題はない。
「ですが、動物が女王ウイルスを外部に持ち出す危険性はあるのでは?」
『その点も問題ありません。[HE-028-A]が繁殖を行うには一定以上の脳サイズを必要とします。
そのため最低でも感染者には新生児並、約400g以上の重量が必要となります』
つまり少なくとも人間大の生物である必要があると言う事だ
それを逃しさえしなければ感染拡大は防げる。
「新生児並ですか。しかしマウス実験が行われたと聞きましたが」
最初の染木博士の説明でそんな話があったはずだ。
動物実験においてマウスは人間に遺伝子構造が近しい哺乳類として多くの場面で扱われる。
だが、一定以上の脳サイズを要するのであればマウスでは実験にならない。
『はい。小動物にも[HE-028-A]は感染はします。しかし繁殖ができないため、周囲への影響は小規模にとどまり10分と持たず消滅します』
「つまり、これほど広い範囲に高時間ウイルスの影響が出ている以上、女王は人間、あるいはそれに匹敵する脳サイズの生き物の中にいると?」
こくりと映像越しの長谷川が頷く。
感染拡大のカギはやはり女王にある。
女王は人間大の生物でありこれを取り逃すほど特殊部隊の監視網はザルではない。
『質問は以上でよろしいでしょうか?』
「長谷川女史。最後にもう一つ、お聞きになってもよろしいでしょうか?」
画面背後でやり取りを副官に任せていた奥津が声を上げた。
引き留められた長谷川は通信を切ろうと伸ばした手を止める。
『なんでしょう?』
「現在、山折村では住民同士での殺し合いが発生しています」
『そのようですね。把握しております』
住民同士の殺し合いという不穏な報告に動じるでもなく応じた。
映像を確認したのなら当然それは把握しているだろう。
11名の犠牲者は震災後の混乱ではなく、明確な殺意によって殺されている。
もっとも半数近くが送り込まれた特殊部隊の手によるものであはあるのだが。
「どうやらその原因となる告発があったようだ」
『そうですか』
平然とした相槌に揺らぎは感じられない。
それを気にせず奥津は続ける。
「途中からですが現地に待機していた隊員が録音したデータがあります。お聞き願えますか?」
相手からの返事を待たず、通信ソフトに音声データを共有すると再生を始めた。
『……我々は……秘密裏にこの村の地下で……とある研究を行っていた……』
■
『それだけが……私の望み……だ――――ガガガッ――ジジッ―――ガッ』
音声データが終了する。
情報を突きつけた興津は、防護マスクで隠れた鋭い目つきで画面上の女史の表情を伺いながら問う。
「村内に流れていた音声は以上です。
内容からしてこの放送を行ったのは研究員のどなたかだと思われますが、どなたの声か分かりますか?」
問いを投げられ。
長谷川は動じることなく、鉄仮面のまま一言。
『私には分かりかねます』
「心当たりもありませんか?」
『ええ』
端的な返答。
画面越しの涼やかなまでの氷の表情に変化はなかった。
こうも堂々と言い切られては追及のしようもない。
『要件は以上でよろしいでしょうか?』
「ええ。ご協力感謝いたします。それではまた6時間後に」
『はい、お疲れ様でした』
別れの挨拶と共に通信ソフトが終了する。
通信終了画面に移り変わったのを確認し真田は防護マスクの下で息を付いた。
「目立った反応はありませんでしたね」
「どうかな。知らなかった事実を突き付けられたにしては無反応すぎる気もするが」
最初からこの揺さぶりに対する心構えができたようにも思える。
出会ってからあの女史の鉄仮面が剥がれた姿を未だに見たことがないので、元からそう言う反応を示さない人間である可能性もあるため何とも言えないところだが。
「やはり、揺さぶりをかけるとしたら梁木博士の方でしょうか?」
「それもどうかな。あのご老公は口は軽いが喰えなさではあの女史よりも厄介そうだ」
今回の会議ではいなかったが、次の会議ではあの老人も出てくるだろう。
その時にどう出るのか、読めなさという意味では長谷川とは比べ物にならない。
「しかし。まったくよく録音してくれたものだ。こういう咄嗟の目ざとさは探の強みだな」
部隊長は隊員の一人を褒め称える。
村内に放送が流れ始めたあの瞬間、山中で妨害電波の設定作業を行っていた隊員の一人がその放送を録音した。
途中からとは言え、記録に残すことができたのは大きな収穫である。
先ほどの揺さぶりは元より、そのお蔭で奥津達もその内容を確認できた。
「ゾンビ、女王。これらの用語は放送にも使われていたな」
「そうですね」
だが、それは少しおかしい。
これらは染木が門外漢である自衛官たちに説明するにあたり用いた俗称だ。
面白がって使っていた博士が例外で、研究者たちの間で使われる用語としては恐らく女史の方が正しいのだろう。
放送者が研究者であるのならば、その俗称を使うのは少々違和感がある。
「研究者ではなく村民に向けての放送だったから俗称を用いたということでは?」
「確かに、可能性としてはあるだろう。だが、あの状況でそこまで気を使える余裕があった、とは素直には考えづらいな」
声を聞く限り、放送者はかなり切羽詰まった様子だった。
その状況で一般人に分かりやすく、などと気を使える余裕があるのだろうか?
とするならば、咄嗟でも使われるほど普段から使用されていた俗称なのか。
それとも、そもそも切羽など詰まっていなかったのか。
それにあの放送で気になるのはもう一点。
「真田。仮に48時間が経過して住民を処理するとして、お前ならどんな方法を取る?」
「そうですね…………地形からしてやはりガスでしょうか」
山折村は山に囲まれた盆地にある。空気より重く沈殿する毒ガスを流し込むのにおあつらえ向きな地形である。
隊員はウイルス対策の防護服を装備しているため、作戦準備もスムーズにいくだろうし自然災害に偽装しやすいのもメリットだ。
実際、48時間経過後はそう言う方針になるだろう。
「そうだな、俺もそう考える。
だが、放送内ではこう言っている『村の全てが焼き払われる』とな」
「焼き払われる、ですか。確か博士も……」
真田は僅かに考え込むように口を噤む。
そして最初の打ち合わせの際に言っていた染木の言葉を反芻する。
「『やるのなら空爆をお勧めする。炎で焼いてしまえウイルスも確実に焼却できる』でしたか」
いくら特殊権限を与えられた秘密特殊部隊とはいえ、現代日本でおいそれと空爆などできるはずもない。
証拠隠滅のために目立つようなマネをしては元も子もないだろう。
それは効率よく住民抹殺と証拠隠滅を謀りたい工作員と、効率よくウイルスを滅菌したい研究者との考え方の違いか。
工作員ならばそんな手段は選択肢にも浮かばない。
「研究所との取り決めは証拠隠滅と感染拡大の防止だけだ。処理方法に関しては指定はない。
にも拘らず、放送の男も染木博士も炎による処理を示唆している」
「炎が有効と言うのが研究員の共通認識だったという事なのでしょうか?」
「あるいは、同じ人物から発せられた発想なのか、だな。俗称といい妙なところで共通項が多すぎる」
そうなると、疑われるのは放送者に対する副所長の何らかの関与だが。
問題は通信の制限された山折村にどうやって関与したかだ。
通信妨害の工作はされているが抜け道がない訳ではない。
回線の切断は電話会社や通信業者の公開情報に基づき行われている、それこそ地下研究所に秘密の専用回線でも引いていれば回避できる。
想像の域は出ないが研究所の詳細が分からぬ以上、絶対に無理だと断言するには早い。
研究所を調べられれば早いのだが、そうもいかないだろう。
「そう言えば、研究所の調査はどうなっている?」
「申し訳ありません、まだ洗えているのは簡単な情報のみですね。資金の流れや背後関係など細かい所は追っている所です」
「そうか。ひとまず現時点で分かっている情報を報告してくれ」
「了解しました」
副官はノートパソコンとは別に手元のタブレットを操作して、ファイルした資料を表示する。
そうして改めて報告を始めた。
「――――――未来人類発展研究所。
名前の通り『人類の未来を発展させる事』を目的として立ち上げられた研究組織で設立は2014年です。
本部が設置されているのは東京の八王子。山折村支部が出来たのは今から4年前の2018年の事のようです」
「支部、という事は他にもあるのか?」
「はい。現在は4つの支部があり、山折村は2つ目の支部に当たるようですね。
1つ目は静岡、3つ目は青森、4つ目は富山。いずれもかなり人里から離れた場所に支部を設けているようです。
まあ危険物を扱う施設としてそれほど珍しいことではないですが」
非常事態を想定して、危険物を扱う施設は人里から離れた場所に置かれるのが常である。
実際、隔離された環境であったからこそ現在起きているバイオハザードの被害も山折村内で留まっているのだ。
「副所長である梁木百乃介博士についてですが、役職は副所長となっていますが開発の実質的なトップは博士のようですね。
所長は資金繰りや政治的な根回しが主なようで現場にはあまり顔を出しておらず、染木博士が現場を取り仕切っているそうです」
「なるほど」
あの老人にはそれなりの風格、と言うより雰囲気があった。
開発のトップというのも頷ける。
「染木博士は界隈では名の知れた細菌・ウイルス学の相当な権威ですね。
これまでは国内外の大手製薬会社を転々としてワクチン開発などを行っていたようです。
裏は取れていませんが戦時中は細菌兵器の開発を行っていた、なんて噂話もあったようですね」
「戦時中って……幾つなんだ、あのご老公は?」
「戦争で戸籍が消失したとかで正確な年齢は不明なようです、まあ噂程度の話ですので」
戦中20歳前後だとしても現在100歳近くという事になる。
あり得ないとまでは言いきれないが、むしろあり得そうに思えてしまうのはあの老人の放つ怪しげな雰囲気故だろうか。
「研究員である長谷川真琴さんは両親ともに医学者ですね。
本人もあの年にして脳科学に関する幾つもの革新的な論文を発表しています。革新的過ぎてあまり学会には受け入れられていないようですが」
「脳科学……それにウイルスか」
報告を聞き、奥津は独りごちる。
確か博士は研究内容を『ウイルスによる脳の拡張』と言っていた。
当然と言えば当然の事なのだが、二人の専門分野はこの研究目的と合致している。
「ひとまず現時点ではこのくらいです。ほとんど公開情報をまとめた程度のモノですが」
「いや、十分だ。引き続き頼む」
「了解しました。次の定例会議までにはある程度まとまった報告が出来るかと」
震災直後の6時間で任務の合間を縫って調べたにしては十分だろう。
次にまとめられる情報に期待だ。
次の定例会議は6時間後。
その時には博士も出席し、役者も揃っているはずだ。
駆け引きも勝負も、その時になるだろう。
■
「おはよう」
挨拶と主にとある病院内にある会議室の自動扉が開く。
デジタル会議を終えコーヒーブレイクをしていた女性研究員の元に現れたのは腰を曲げた白衣の老人だった。
「お早いですね博士」
「この年になると朝は早いのサ、徹夜のような無茶は聞かなくなるけどネ」
年は取りたくないものだと、そう言いながら腰を叩く。
女研究員はコーヒーを置いて立ち上がると、机の脇にまとめてあった資料を手に取った。
「データ。まとめておきました」
老人はアナログ派なのか、研究員はプリントアウトした資料を博士に手渡たす。
資料を受け取った老人は唾で指を濡らして素早くページを捲って次々と目を通してゆく。
「イイネ。イイネェ。適合の傾向が分かれば適合条件も割り出せる
若者が多いナァ。人口比率で言えば村外の人間が多いのも気になるネ」
あの村で起きている何もかも、研究員にとってはそのデータは宝の山だ。
正常適合者の名簿だけでも値千金の価値がある。
「イヤハヤ。天変地異サマサマだネ」
染木は資料を見ながら歓喜の声を上げる。
コーヒーメーカーから老人の分のコーヒーを注ぎながら長谷川が訪ねた。
「それで? 地震が起きるのは”仕方がない”として。今回の件、どこまでが博士の仕込み何ですか?」
「仕込みだなんて失礼だネェ。大したことはしてないサ。少なくともバイオハザードの発生には関与してないヨ」
その発言に無表情だった長谷川が初めて僅かに表情を動かした。
「てっきり、博士が手引きしたものだと思っていましたが」
「イャイャ。ソコまで非人間じゃないヨ。ワタシも」
「はぁ……」
どの口が言うのかと言う冷たい視線を向けるが口にはしない。
その視線も気にせず博士は人差し指と親指を近づけ小さな隙間を作る。
「ワタシはほーんの少しだけ事態が動くヨウ介入しただけだヨ。何事も準備はしておくものだネェ。
それに”時間がない”と言っても、ワタシがヤルならもっと巧くやるサ。
少なくとも研究成果や研究員は引き上げさせるヨ、条件の整った貴重な支部一つ潰すのも勿体ないしネ」
倫理や人道ではなく、もったいないと言う効率による判断である。
だからこそ、この老人は犯人足りえない。
「では誰が? まさか『本当に事故だった』なんてオチはありませんよね?」
「それはないだろうネ。そもそも研究所のウイルス管理室なんて厳重な作りになってるものだヨ。
耐震管理なんてその最たるものサ。それこそM8級が直撃しても壊れないはずだヨ」
「では、人為的な介入があったと?」
「だろうネ。悪意の外部犯か善意の内部犯かは分からないけどネ」
軽い調子で言いながらコーヒーを受け取る。
湯気が老人のメガネを曇らせた。
「起きてしまった事態は最大限利用させてもらうとするサ。キミもソウだろゥ?」
その問いに女から否定の言葉はなかった。
ただ涼やかに肩をすくめるだけだ。
その反応に老人は口端を吊り上げにぃと笑う。
この状況を謳歌するのは研究者の性だ。
生きたデータを取るうえでこれ以上の状況はない。
「マァ。1000人くらいの犠牲は容認しようじゃあないか」
研究者は悪魔のように黒く、地獄のように熱い液体を啜る。
「ナニせ、世界を救う研究なンだからネ」
最終更新:2024年03月29日 22:35