哲学の黄昏


ポストモダンの状況で哲学が存在しないといわれるのはなぜか


このことを説明することがこの章の目的である。

哲学をすることとは何か


人は日常的に様々な問題に出会う。しかし、そのような問題は実は問題のたて方や解決方法までが時代や文化によって与えられてしまっている。哲学はそうした問題がどこから生じてきたかという思考方法を取り、問題の根本的な解消を図る。

哲学は愛知である。

哲学は学問ではなく「知」に対する愛という情念である。それまで知らなかった事を発見し、それまでとは違った自分になるということである(ソクラテス)。哲学という分野と関係なく、それまでの学説を否定して新たな思考をし、その専門領域を革新するような理論を提示するときには、そこには愛知がある。学問の出発点に立ち戻り、学問になるかどうかなどを気にせずに、自らがはじめて学問するということを試してみることである。

哲学史に何の意味があるのか


哲学者の名前は思考のインデックスに過ぎない。重要なのは諸概念。これを組み合わせたり、相互関係を考えていくことにより現実の無数の具体的な問題への切り口が見つかる。

諸概念を学ぶだけで哲学をしているといえるのか


いえない。これらの概念を哲学者は独自の思考体系の中で用い、読者をそこに引っ張り込んでしまう。よってそれに抵抗し自らの思考体系を作りあげるという哲学史の勉強とは逆向きの営みも必要となる。日常の具体的な問題を出発点とし、それが哲学概念のようなものになるまでその言葉を精錬していくという過程が要る。

世界のどこにも哲学というものはあったのか


ない。哲学とは古代ギリシャと中世末期以降の西洋にしか出現しなかった特別な思想のことである。「人間はみな考えている、考えているから人間ではないのか」という疑問が浮かぶ。しかし、「人間はいつも考えている」という理性的主体を考えている事自体、西欧近代的な世界像や人間の生き方を前提としている。結局、哲学という西欧における知的伝統が現代世界の成り立ちに絶大な影響を及ぼしてしまっていて、それが世界中にあまねくひろがっているということを示しているに過ぎない。

哲学の流れとは何か

それぞれの哲学者の思考は水と油のように異なるが、似たような主題を扱うことを通じて対話可能性を持っている。

現在の哲学の姿

19世紀にヘーゲルやヴィクトール・クーザンが哲学の流れを自覚しそれを「哲学史」として総括した。それ以降、哲学が諸概念を使って自由に思考するのではなく大学で哲学者の諸概念を学び、その系譜を捉えることとなってしまった。

現在の哲学の問題点

哲学が歴史のなかで捉えられることになってしまったことで、愛知としての哲学の実践が不可能になってしまう恐れが出てきた。

ポストモダンとは

近代が終わり、情報化により近代的諸価値が消滅しつつあるという状況を指す。そこはもはや「大きな物語」がなくなっている。(ジャン・フランソワ・リオタールの『ポストモダンの条件』)

情報化による価値の相対化


情報は価値を問わない。価値は相対化し、時間とともに変化するようになった。よって流行が絶えず生まれては消えていくようになった。学問的価値としての真理についても同様な状況であり、真理を知ろうとする知恵への愛は失われた。
最終更新:2011年09月19日 02:57