実存主義

実存主義を有名にした講演とは何か

サルトルの「実存主義はヒューマニズムか?」(1945)という講演。ハイデガーや自分を無神論的実存主義者とした。

その講演であげられた実存主義に共通する定義とは何か

「実存は本質より先立つ」

「本質」とは何か

「そもそも何々である」と解答できるもの。

「実存」とは何か

「いまここにある」もの

サルトルにとって人間とは何か

その本質は「無」である。人間はむしろ実存が先立っており、まず世界のなかに姿を現して出会い、主体的にみずからを作り出していくものであるから(「アンガージュマン」)。この意味で実存主義は「ヒューマニズム」の一種である。

これに対するハイデガーの批判とはなんであったか

『ヒューマニズムについて』(1949)。人間は「脱自的」という本質を持つ。

脱自的とは何か

自ら思考して存在という真理の明るさのなかへ到達するということ。

存在はどのように語られていたか

例えばギリシャ時代のパルメニデスの「存在するものは存在し、非存在(無)は存在しない」。

「無が存在する」といってはいけない理由は何か

特にない。ギリシャ時代においてもそう。ただ、中世スコラ哲学において神とは存在のことであったので無が存在する事を恐れていたのかもしれない。

ハイデガーは存在についてどのように考えたか

ライプニッツの「なぜ無ではなく何ものかの存在があるのか」という問いを受けて神を持ち出さずに議論をした。「わたし」は物体(存在者)ではない、しかし物体でないからといって無でもない。「わたし」は物体とは違った仕方で存在する。それは存在を思考することによって他のすべての物体の存在について知る事のできる存在者である。

前期ハイデガーの『存在と時間』(1927)はどのような内容か

通常は「それは何か」については問うが、「存在するとはどういうことか」については問わない。デカルトですら「わたしは存在する、わたしは思考する」とは述べたが「存在する」とはどういうことであるのかについては問わなかった。まず、存在することと存在者(物体)は異なる。これを「存在論的差異」と言う。大多数の人間は存在の意味を問う事なくただ存在するものを道具として使うように生きている。この事態を「頽落」という。しかし、人間は世界そのものの無について、漠然とした不安を覚える。これが「わたしはある」とはどういう意味かについての問うもととなり、それを問う事によって人間の本来性が解明されると考える。人間だけが他の動物と違ってこのように存在の意味について問う事を行える。動物の一種としての人間と区別し、このことを「現存在」と呼ぶ。

『存在と時間』における存在とはどういう意味か

それは本質のようなものではなく、はじまり(誕生)があって終わり(死)のある時間性全体の事である。退落している人間は死についてまともに考える事はできないが、現存在ならみずから孤立した存在者として「死すべきもの」と覚悟し、このことから、そのひと本来の存在の全体的意味、各瞬間各地点で存在することの意味を与えてくれる。

サルトルとハイデガーの共通点は何か

生という概念に依拠することなく、人間だけが自らの死を知るという点で精神が生に対抗しうると考えた点

ハイデガーの存在論の難点は何か

「私が存在する意味とは何か」という問題自体が適切な哲学的問題であるか疑わしい点。例えば、このような問いを仮に日本語で考えるならば、「私」とは「私物」のような公に対するプライベートなものに過ぎず必ずしも主語であるイッヒを意味するものではない。一方、ロックにおける「私」とは意識であり、それは過去、現在、未来において同一性を保つものであると考えられた。ハイデガーの意図はロックに代表される西欧近代的な「私」という人間観との対決であったのかもしれない。

ハイデガーのケーレ(転回)とは何か

ハイデガーは「現存在は存在を問う」と主張した。しかし、問うことを問題にするならば、どうしても「言葉」とは何かについて考えざるをえずケーレが起こる。その内容は人は存在の上に言葉で家を建てて「存在の牧人」になるといったものではっきりとはしないが、少なくとも言語によって存在者の存在の意味を表現するということではないということだろう。

メルロ=ポンティにおける実存がハイデガー、サルトルと違う点は何か

精神だけではなく生についても考え、実存を人間以外の生物にも適用した点が異なる(生物的実存)。

生物的な実存とはどのようなものか

それぞれの個体は、それぞれがいる環境に独特の適応をしようとする意味で種の本質を超えていく事ができる(進化)のでこれも一つの実存と考えた。人間も生物の一種なので生物的実存であるが、言語を持つ事で「精神」と呼ばれるものが出現した。

結局、実存主義と呼ばれたものは何だったのか

科学によって孤立させられた精神の側の抵抗であった。近代において「わたしとは何か」「人生の意義とは何か」を宗教を用いて答える事は禁じられた。その時、この精神の哲学は「私が存在するとはどういうことか」という偽問題を提示するが科学によって定義される人間概念を拒否する以上、人間を『存在する」とも言えず、「人間は存在しない、実存する」という言葉に言い換えたに過ぎない。

そもそも何故「私の存在」を問うのか

孤独だから。

最終更新:2011年09月19日 03:03