現代哲学者たち

ポストモダン状況がはじまったのはいつか

すべてを機械論的に説明しようとしてきた自然科学が生物や人間精神をも説明しようとしはじめたとき。それと対決するために現代哲学は一斉に開花したがすべて消えた。

進化論が与えた衝撃とは何か

進化論は生物の分類を歴史という時間軸を用いて明らかにしたものであり、このことによって哲学的な問題であった人間精神も機械論的な進化のプロセスの産物にすぎないことが明らかになったこと。

精神も生命も機械であるとすればすべてが機械であるとする哲学というものはあるのか

ある。ラ・メトリの『人間機械論』(1747年)。その後もその復刻版に過ぎない思想が次々と現れ、現代の「脳科学」もその一つである。

機械論的自然観の問題点は何か

機械という言葉で何かを説明しているようにみえて結局何も説明できていないこと。

進化論的生命観に対抗しようとした哲学は何か

フッサール、ベルクソン、ホワイトヘッド、及び実存主義者達。ここではこれらの人たちの哲学を現代哲学と呼ぶ。それ以外、それ以降のものは「現代思想」と呼んで区別する。

ポストモダン状況を解明できる哲学はあるか。

「機械一元論」を候補にあげたい。物質にも精神や生物の要素があるとする考え方。

機械一元論的哲学の系譜はあるか

ある。ホッブスの『リヴァイアサン』(1651)、人間は機械であるのだから、社会もそれを組み合わせた機械として作れると考えた。また、ライプニッツのモナド論。すべては魂を持つ分子(モナド)であり、鉱物であれ植物であれ、みなそれぞれに意識を持つと考えた。18世紀のモーペルチュイ、『自然の体系』1756)物体に引力なる属性があるのなら、すべての分子に知覚も欲望もあって良い。サミュエル・バトラー『エレホン』(1872)。メンドリが卵を産んでいるのを、メンドリは卵の空という無機物を生産する機械と考えてはいけないのかという考えを述べ、その後のノーバート・ウィーナーの『サイバネティクス』(1948)では機械と人間のコミュニケーションの方法について論じられた。また、それとは全く違う文脈からジル・ドゥルーズとガタリによって『欲望する機械』(1972)という概念が登場し、哲学的機械一元論を明確化した。

最終更新:2011年09月19日 03:02