意識そのものを分析し、合理性の由来を明らかにした。そしてそれを持ってデカルト以来の近代哲学をやりなおし、諸科学を基礎付けを行おうとした(現象学)。
エポケー(判断停止)
意識は生の世界(生活世界)をなにがしか知っており、これを解明することで「存在論」が成立し、それを用いて実在するものが判断できるとした。
未来と過去は現在のうちに存在すると考える。ただし、それらはぼんやりしている。過去と未来の違いは、未来は現在になりうるが、過去はなりえず記憶されている。
別の現在を現在において出現させることと説明される。別の現在も未来と過去を持っている。つまり、過去や未来は重層的である。
時間(持続)は、進行方向を背にして過ぎ去る風景をみているようなもの。未来は何が起きるか分からず、過去は回想される。
記憶には回想的な記憶と習慣的な記憶(反復して身体に身につけるような記憶)の二種類あるとされる。
すべてはイマージュ(イメージ)であると考える。知覚されるものも、幻覚もすべて。諸事物は誰にとっても感覚器官によって知覚されるイマージュである。それらは人間がそれをどう取り扱うかという観点でしか捉えられない。
その人が行動した結果、感覚器官において描き出され、区切りとられたイマージュである。
時間に対する過去の記憶がみせる無数の空間的イマージュの連続変化。
「ホモ・ファーベル(ものを作るヒト)」。
意識はそれ自身で完結せず、意識以外の部分に生があり、また、すべての生物に意識があると考えた。
ベルクソンは目的論的進化論も、機械論的進化論も否定し、本能と知性の差異化の歴史として進化論を説明した。本能とは有機物から器官を作る働きであり、知性とは物質をイマージュとして捉えて無機物から器官=機械を作る働きである。
ホワイトヘッドにおいて過去は消え去るものであり、現在はあらゆるものがあらゆるものと連動して新たなものとして創造される「プロセス」であるとした点。
デカルトのような主観と客観があって、主観が客観を観念として捉えるという考えを排して、まずそれ以前に「フィーリング」があり、フィーリングの受け手と発し手が分離するようにして主体と客体が生じると考えた。
デカルト的二元論の克服。デカルトの主観-客観の図式によって意識と生命は対立するようになったため。
まずメルロ=ポンティによって批判的に継承された(ベルクソニスムの現象学解釈)。後に「差異の哲学」の創始者としてドゥルーズによって取り上げられた。