西欧の古代や中世、もしくは様々な文化において、歴史は循環史観か衰退史観のもとにあったが、モダンは進歩史観をとる点が異なる。この直線的な時間の捉え方はユダヤ・キリスト教の時間観を引き継いでいる。
モダン(=近代)は14世紀ルネッサンスに始まる700年間をさしている。そこでは「人間と世界の発見」が行われた。すなわち、世界という全体が認識され、そこに人間という共通の存在がいるという認識がされた、しかし、このような発想自体は19世紀に生まれた。
19世紀に資本主義の発展や大衆化、科学の制度化を通じて我々の生活様式が成立し、我々がそこから続いていると感じる事のできる「現代(モダン)」がある。
すなわち、「モダン」には二種あり、19世紀に考えられたルネサンス以来の700年をさすのか、19世紀からの200年をさすのかという問題がある。近代としてのモダンと現代としてモダンである。
このような問題は「歴史」という観念が19世紀に成立したことに由来する。
ルネッサンスから19世紀にかけて歴史の概念そのものが変化していった。そのような後からできた歴史観によって古代や中世、ルネッサンスが区分された。
歴史はもともと民族起源を教える神話であったり、権力者の正当性を説明する文書であったりしたものが、17世紀から18世紀にかけて理性によってそれがフィクションか「事実」であるかを選別し、合理的世界像に基づくものだけを「事実」として人間の客観的記録として残すという意味になった。
今日では、歴史という語で人類以前の宇宙創世からの一連の直線的な時間軸にありとあらゆるものが登記される「普遍的登記簿」を表すようになっている。しかし、このことで本来客観的な事実のみが記されていた歴史にCGで「再現」された恐竜の姿のような虚実が入り交じって登記されるようになった。
最終的には登記簿と登記されていることが事実してみなされる。よって誰も知らなかった過去や時代がいくらでも未来に生じてくるようになる。