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五 四万か三〇万か

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南京大虐殺の真相

五 四万か三〇万か

被虐殺者数もふくめて南京大虐殺事件の規模を論議する場合には、その期間と地理的範囲が共通認識として規定されている必要があるが、従来はかならずしも明確ではなかった。そこでやはりデッサンの意味で試論的に期問と範囲を規定してみたい。

(1)広義の南京大虐殺事件

期間――日本軍の南京攻略戦開始(一九三七(昭和一二)年一一月五日の日本陸軍第一〇軍枕州湾上陸)~中支那方面軍・上海派遣軍を廃しての中支那派遣軍の編成(一九三八年二月一四日)およぴ南京難民区国際委員会の解散と南京国際救済委員会への改称(同二月二一日)。喀記すれば一九三七年一一月上旬から一九三八年二月中・下旬まで。なおその後もまだ残虐行為がつづくので、一応治安のおちつく中華民国維新政府の成立(同三月二八日)までとすることも考えられる。

範囲――中支那方面軍(上海派遣軍・第一〇軍)が南京攻略めざして作戦を展開した全域(上海近郊をのぞく上海・杭州―南京・蕪湖間の長江南下流域一帯と長江北岸をふくむ南京市周辺)。

南京事件を、南京攻略戦と南京占領時における日本軍の中国軍民に対する残虐行為の総体でとらえるには、このように広義の規定が必要になる。なぜなら、日本軍は上海・杭州湾から南京へいたる途上で虐殺、強姦、喀奪、放火、拉致、などの蛮行をかさねながら進撃してゆき、南京でそれらの「総仕上げ」、「集大成」にあたることを行なったからである。教科書検定で国側がいうように、占領時の
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「混乱」や「激昂」のためにひきおこされたのではない。このことは本多勝一氏が『南京への道』(朝日文庫)で被害者からの証言をもとに明らかにし、吉田裕『天皇の軍隊と南京事件』(青木書店)はそれを日本軍側の資料で裏づけている。最近、中国側でもそれを証明する資料の発掘が進んでいる(井上久士「南京事件の澗辺」、『季刊中国』第一七号)。

(2)狭義の南京大虐殺事件

期間――日本軍の南京防衛軍外囲防御線(龍潭-句容-湖熟-江寧)到達による中国側にとっての南京防衛戦開始、日本軍にとっての狭義の南京攻賂戦の開始(一九三七年一二月五-八日)~大本営による南京攻略戦の終結宣言にあたる中支那方面軍・上海派遣軍・第一〇軍の戦闘序列解除と松井石根司令官の離任(一九三八年二月一四日)。

南京大虐殺の範囲を南京城壁の周辺および城内に限定して、南京城総攻撃のはじまり(一二月一〇日)を開始期とする説があるが、それは狭義のさらに狭義にあたる。

範囲――南京防衛軍外囲防御線以内。あるいは行政区としての南京市の範囲ということも考えられるが、南京事件が南京攻賂戦の最中におこっていることからして、前者のほうが現実的であろう。従来は、上記の狭義のさらに狭義に南京事件を規定するむきがあったが、それはまだ資料の発掘・公刊が不充分で研究そのものが遅れていたため、南京近郊農村をふくめた事件の総体が明らかにされていなかったからである。

「三十万か四万か―数字的検討」、これは秦郁彦氏の前掲書の章タイトルである。同氏は中国のいう三〇万虐殺説は、「白髪三千丈」流の誇張であり、日本の大本営発表のようなものと考えてよかろ
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うと述べ、四万人虐殺説を主張している。秦氏の数字はさきの狭義のさらに狭義にもとづくものであるが、その規定の範囲でも拙稿「南京防衛軍の崩壊から虐殺まで」(洞富雄・藤原彰・本多勝一編『南京大虐殺の現場へ』朝日新聞社)では、八万人余の中国軍兵士が敗残兵、投降兵、捕虜として虐殺されたと考えられることを紹介した〔拙稿「南京防衛戦と中国軍」(洞富雄・藤原彰・本多勝一編『南京大虐殺の研究』晩聲社)ではさらに中国軍の資料を整理・分析してその結論を再確認している〕。

それを知ってか、秦氏は最近、「著者が算出した四万は、かなり余裕を持たせたとりあえずの概算であり、新たな証拠が出現すれば、多い方へ向かって修正されるのは当然である」(秦郁彦「論争史から兄た南京虐殺事件」、『正論』一九八九年二月号)と、四万人説修正のシグナルを出すようになった。

一方、今まで私の研究した範囲での判断であるが、狭義の南京事件においては、民間人が兵士のような大規模な集団虐殺をうけた事例は考えられないので、民間人の被虐殺者数が兵士のそれをうわまわることはないように思う。とすれば、狭義の南京事件においてならば、三〇万虐殺説も再検討する必要があろう。しかし、被虐殺者数の実態の解明に迫るためには、逆に「数の問題」の結論に性急にこだわらずに、本稿で描いたデッサンをもとに前記の広義、狭義の規定にもとづいた南京大虐殺事件の総体を明らかにする研究作業がまず第一に求められるように思う。
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