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宮平秀幸陳述書(1)

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宮平秀幸陳述書(1)


陳述書
2008年8月7日
大阪高等裁判所第4 民事部御中
沖縄県座間味村字座間味 xxx
宮平 秀幸

7月25日付けで提出された宮城晴美の陳述書について、以下のとおり陳述いたします。なお、私が今年の1月から3月にかけて行った証言については、すでに裁判所に提出されている各種の記事の通りなので、繰り返しません。

晴美は私の姪ですが、小さい頃からそそっかしい子どもでした。そのことは、晴美の陳述書の6 に中村尚弘氏が、「秀幸は伝令ではなかった」と「明言している」と書いているところにもあらわれています。

8月6日、中村氏に面会して事情を確かめたところ、ある人の告別式で挨拶をかわした際、晴美から「秀幸叔父さんも尚弘さんと一緒に軍の伝令をしていましたか」と尋ねられたので、「いいえ、一緒ではなかったよ」と答えたとのことです。たったこれだけの会話をもとに、晴美は私が軍の伝令でなかったという、すぐに嘘であることがバレる話をつくり上げて、裁判所に文書で提出することをやってしまったのです。

当時中学生だった中村尚弘氏は、宮平敏勝、中村清信、知念繁夫の各氏とともに、4人でチ―ムをつくり、村役場に詰めていて、軍と役場間の伝令をしていました。中村さんが晴美に、「一緒ではなかったよ」と答えたのは、そのチ―ムに私(秀幸)は入っていなかったと言ったに過ぎないのです。それを晴美は私が軍の伝令ではなかったという話にスリ替えて、私の証言の信用性をなくそうとしているのです。これについては、中村氏の陳述書を読んでいただきたいと思います。

私は、昭和20年の1月中旬から、雑役と伝令の任務を軍から与えられました。伝令は多い時は1日2回ほど、本部と整備中隊などの間の指令文書を届ける役目をしました。文書は茶封筒に入れられて封をされていますので、中味は分かりませんが、「第二中隊長殿」などと宛名が表書きされていました。私は軍から半月単位で手当も受け取っていました。但し受領印は祖父が押していましたので、金額はわかりませんが、少額であったと思います。

陳述書の2 で晴美は、私の母・宮平貞子の証言と私の証言は食い違っているといっていますが、母の村史の証言は、ほかならぬ晴美と村史の編集委員であった宮里芳和氏が母に言わせたもので、母はテ―プに証言を吹き込む取材を受けた時、「そこは、ストップ」、「はい、戻って」などとくり返され、終わって帰ってきてから「ああ、疲れ果てた」とこぼしていました。

母の証言で、私の家族が忠魂碑前に行かなかったことにしたのは、村長の解散命令の事実をかくすために晴美と宮里芳和氏が仕組んだものです。母のテ―プに芳和氏の声が入ったものを私は所持しています。

晴美はさも忠実な記録をしたようによそおっていますが、村史編纂の当時から、晴美は村当局による真相の隠ぺい工作に加担していたのです。母の記憶力のよさを持ち上げても、何の裏付けにもなりません。母の証言が間違っていることは、すでに上記文書にまとめられているので、ここではくり返しません。

晴美は、鴨野守氏の文章について、「進退極まった住民の心理描写をこんなにも軽々しく表現できるものではありません」などと批判していますが、その時の住民の心理については、戦後生まれの晴美よりも現場にいた私の方がよく知っていることで、偉そうな口をきくものではありません。

6 で、「村の幹部以外の住民の固有名詞が出てこない」ことを疑問だと言っていますが、何のことか分かりません。私はたくさんの住民の固有名詞を新聞記者やジャーナリストの方々に話しましたが、それらの方々が文章にする時に固有名詞を書かなかっただけのことです。

「自決」という言葉は、会津の白虎隊にも使われ、当時も使われていた普通の日本語です。「玉砕」という言葉の方が新しく、アッツ島での日本軍の全滅の時から使われ始めたものです。

晴美は私が「マスコミ好き」だったとか、いろいろ中傷していますが、事実に反し、何の意味もない人の悪口にすぎません。こういうそそっかしい文書を出して真実を覆い隠すことに加担している晴美こそ「身内の恥」です。

最後に、私が出演したビデオ「戦争を教えて下さい・沖縄編」(1992年、記録社)が証拠として被告側から提出されていますので、このビデオが製作された事情を説明します。

このビデオ撮影の話は村役場を通して私のところに来たもので、「捕虜第1号が語る」を売り物にしていますが、私は「捕虜第1号」ではありません。

この撮影の前に、村民に集団自決の真相を語るなと厳重な口止めをしていた田中登村長の奥さん・美恵さんがわざわざ私の家の台所のところに来て、母・貞子に、「秀幸さんに集団自決のことを喋らせてはいけない」とクギをさしました。それで、母は「壁に耳ありだから、おおごとになる」と言って、家中の電気を消し、私が台所のゴザの上に座ってカメラのスポットライトをあびて撮影しました。そばには、母・貞子と妻・照子が立会い、私の発言をチェックしました。私の家を人が訪ねてくるたびに中断しましたので、撮影に3日もかかってしまいました。私も田中村長に呼び出された時、「集団自決の本当のことを話したら村に居られないようにしてやる」と脅かされていましたので、うっかりしたことを口にしてしまわないかと大変緊張し、苦しい思いをしました。

ビデオを見ると、私は「3月23日の晩から壕に入って、24日、25日も過ごして」と、サラッと流していますが(乙108 号証の2、6 ぺ―ジ)、本部壕で梅澤隊長が「死んではいけない」と自決を止め、それを受けて村長が忠魂碑前に集まった村民を解散させた現場を私は見ていたのに、それをビデオの取材では話すことができなかったため、誤魔化したのです。

このように、真実を話せない、まるで監視下のような状況での撮影であったため、いたるところで、事実と違う内容になっています。

一例をあげれば、上記「反訳」の7 ペ―ジに、私の家族が3月25日の深夜、忠魂碑の前から整備中隊へ行き、二中隊の壕を経て自分の壕にたどりついた時には夜が白々と明けていたと話していますが、足の悪い祖父と祖母を連れて、一家7人が何のために何キロもある部落の中を徘徊したかさっぱり分からなくなってしまいます。それは、整備中隊でも第二中隊でも兵隊さんから「死んではいけない。出来る限り生き延びなさい」といって、食料を与えられ、励まされたことをビデオでは話すことが出来なかったため、こういう訳のわからない話になったのです。

この一事を見ても、ビデオの証言が村当局による箝口令の圧力のもとでつくられた嘘の内容にならざるを得なかったことが分かると思います。私が村の外部の方に本当のことを話そうと決意したのは、昨年の9月29日、宜野湾で開かれた教科書問題の県民大会のあとです。ああいう騒ぎを起こして、事実と違う曲がったことが教科書に書かれるようになってはならないと思います。村では今、私に対して様々な圧力が加えられておりますが、私はもう高齢で体調も悪く、老い先も短いので、死ぬ前に真実を語っておきたいと思った次第です。


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