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中国侵略軍を慰問する―徳川義親

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タイトル: 最後の殿様 徳川義親自伝
責任表示: 徳川義親 著
出版地: 東京
出版者: 講談社
出版年: 1973
資料形態: 231p 肖像 680円
注記: 書誌注記:付:徳川義親関係略年表

最後の殿様 徳川義親自伝

p168-178

中国侵略軍を慰問する

机上で戦争する幕僚

蘆溝橋事件が起こる前の六月四日に、近衛文麿くんが内閣総理大臣になった。近衛くんは頭のいい人だが、実行派ではない。頭がよすぎて目先が見える。見えすぎるために大胆になれない。ぼくのように無謀なことはできない。長所が短所となる。近衛くんを首相にしたのはよかったのか、悪かったのか、歴史家は掘りさげて研究する必要があろう。

蘆溝橋事件が起こると、近衛くんは軍のいいぶんを聞いて中国への軍隊派遺にふみきった。日本人は不思議な民族で、こういう事態になると上下が一致し、なだれをうって近衛体制を支持してしまう。共産党は転向し、転向者は軍に協力し、宣撫班となって中国に進出した。共産党が事実上、革命を放棄し、壊減したと同様に、国家改造運動に熱中した人たちも、いわゆる右翼革命派も近衛体捌に参加した。ほんらいなら、近衛くんやぼくは特権階級として打倒される側なのである。それが、近衛くんが首相になると右も左も、上も下も一致したのである。外国人には理解できないことで、この民族的本質は将来も変わらないだろう。

中国侵略戦争が無謀なことは、ぼくにはわかっていたし、大川周明君もわかっていた。ぼくは大川くんに、

「日本のような小国が、あの広大な中国を制しきれるものではない。地図を見ればわかることだが、どうして軍は戦争を拡大するのだろうか」

「そのとおりです。中国相手に戦って、とても勝ちきれるものではありません」

だが、大川くんはぼくに賛成しながら、近衛体制を支持してしまうのである。

当時、軍部は統制がきかず、内部はばらばらになっていたようである。部下がてんでに勝手なことをしても、きっぱりと押さえる人物が軍首脳部にいなかったと思う。その根源は陸軍大学校制度にあったことは、衆目の一致するところだろう。

陸軍大学校を卒業すると、幹部将校になって、将軍に出世する道が保証されていた。そこで、出世を目指す秀才たちは士官学校を出ると、同期生が隊付きで兵隊と共に苦労しているのをしり目にガリ勉の受験準備をする。受験に熱中して、自分が担当した隊の兵隊の名前も覚えない。それが合格して卒業すると、陸軍省、参謀本部に勤務して兵隊とは完全に離れてしまう。同期生さえ見くだす。このひとたちを幕僚という。

幕僚は机上で戦争を計画する。戦地の現状を一度も見たことのないものが、現地作戦を指導する。つねに出世と功績が念頭にあるので、作戦が失敗すると、現地の部隊長の責任に帰して自分はまぬがれてしまう。こういう幕僚によって、今次大戦では、めちゃめちゃにされた部隊もあるということだ。

慰問団長として上海へ

蘆溝橋事件から二週問目に、陸軍は華北に侵入した。八月十三日にはふたたび上海開戦となって、松井石根大将の軍団が杭州湾に上陸、南京にむけ進撃した。松井さんはぼくと心やすく、中国との戦争には反対であった。反対だが命令で、いやいや出陣した。この部隊に名古屋第三師団が加わった。

十一月に、貴族院では慰問団を北支と上海方面に派遣することになった。ぼくは尾張の人が多く出征しているので、志願して慰問団にいれてもらった。すると年少のぼくに団長になれという。考えてみると侯爵はぼくだけで、団員は伯爵樺山愛輔、子爵井上勝純、子爵三島通陽、男爵岡義寿。ほかには油井徳蔵、風門八左衛門であった。団長を引きうけて十一月十七目に神戸から上海丸で出発し、十九目に上海についたが、街は無惨にも破壊しつくされていた。陸海軍の武官室をそれぞれ慰問して戦闘状況をきいた。

上海で日本軍と戦った中国軍は精鋭で、八十個師団もいて、師団を三つの縦列にわけ、息つくまもなく、くり返しくり返し攻撃してきた。日本軍は防戦で疲労しきったが、中国軍はいまひと息という五十メートルほどより近よらず、突撃もしないので助かったという。

上海には軍艦出雲が停泊していた。中国側がどのように狙っても、一発の砲弾も出雲に当たらない。そこでアメリカ人のロバートソンが、出雲の撃沈を五十万ドルで請負った。ロバートソンは豆潜水艦をつくり、アメリカ製魚雷を二発とりつけた。請負金の半額二十五万ドルを受け取ると、上海放送局に勤めていたロバートソンの細君がこれを持ってアメリカに帰った。やがて潜水艦が完成し、魚雷をとりつけたが、そのとたんに魚雷が爆発して、ロハートソンは残る二十五万ドルの夢とともに消えたという話があった。

麻薬で軍資金を調達

野戦病院にも行き、絵葉書やタバコを贈ったが、負傷兵には尾張の出身者が多く、徳川ときいて涙を流してよろこんでくれた。その夜、メトロポール・ホテルにいくと、藤田勇くんが待っていった。藤田くんはぼくが東京を発つとき、

「今年はもう柿もたべられないね」

と、いったのを聞き覚えて、柿を一箱、持ってきてくれていた。藤田くんはそういう心のこもったひとである。

藤田くんが上海に現われたのは、麻薬二十万ポンドを上海に密輸したあと始末にきたのである。麻薬は陸軍省に頼まれて、三井物産を通じ、イランから密輸した。二十万ポンドの麻薬はばくだいな量だが、陸軍はこれで戦争資金を調達するため、藤田くんに陸軍大臣の印鑑をおした注文書を発行した。

麻薬の密輸には多くの経費がいる。その費用を二百万円、今の金で二十億円を藤田くんに報酬として支払う契約であったが、その報酬が藤田くんに渡れば、藤田くんは何をしでかすかわからん、という不安が陸軍におこった。革命でもやられてはたまらない。そこで軍は違約して報酬を藤田くんに払わないことにした。

藤田くんは怒って、陸軍大臣の注文書を盾にして裁判所に訴訟を起こした。最初、弁護士は陸軍を恐れて、一人として引きうけてくれるものがいなかった。東京中の弁護士にあたって、百何十人目かに引きうけてくれる弁護士が二人できた。訴訟になると問題が公然化し、陸軍側に不利となるので、陸軍省は閉口して、藤田くんに謝罪した。しかし報酬は値切って、二十万円しか支払わなかった。藤田くんはそれで承諾した。この時の訴訟関係の書類は今でも残っているという。

この麻薬は、中国の秘密結社青幇の手に渡って売却され、中因貨幣となって日本軍の手にはいった。今目の金で、何十億円になるか何百億円になるか、額はわからない。藤田くんは不思議な人で、自分では麻薬を見たこともないのに、青幇からは特別の大物として遇され、頭領の黄金栄と親しかった。

"あれを撃て"

ぼくが慰問を終えて帰国の途についた数日後のことだが、日本軍が南京で大殺戮を行なった。殺戮の内容は、十人斬りをしたとか、百人斬りをしたとかいうようなものではない。今日では、南京虐殺は、まぼろしの事件ではなかろうか、といわれるが、当時ぼくが聞いたのは数万人の中国民衆を殺傷したということである。しかもその張本人が松井石根軍団長の幕僚であった長勇中佐であるということを、藤田くんが語っていた。長くんとはぼくも親しい。

藤田くんは、ぼくが中国を去ったあとも、まだ上海にとどまっていた。麻薬のあと始末や軍と青幇との交渉などをしていたときに、南京から長勇中佐が上海特務機関にきて、藤田くんに会った。長中佐は大尉のとき橘本欣五郎中佐の子分になって、十月事件では、橘本くんを親分とよび、事件に資金を出した藤田君を大親分とよんで昵懇にしていた。そのうえ二人は同郷の福岡の関係でいっそう親しい。その親しさに口がほぐれたのか、長中佐は藤田君にこう語ったという。

日本軍に包囲された南京城の一方から、揚子江沿いに女、子どもをまじえた市民の大群が怒濤のように逃げていく。そのなかに多数の中国兵がまぎれこんでいる。中国兵をそのまま逃がしたのでは、あとで戦力に影響する。そこで、前線で機関銃をすえている兵士に長中佐は、あれを撃て、と命令した。中国兵がまぎれているとはいえ、逃げているのは市民であるから、さすがに兵士はちゅうちょして撃たなかった。それで長中佐は激怒して、

「人を殺すのはこうするんじゃ」

と、軍刀でその兵士を袈裟がけに切り殺した。おどろいたほかの兵隊が、いっせいに機関銃を発射し、大殺戮となったという。長中佐が白慢気にこの話を藤田くんにしたので、藤田くんは驚いて、

「長、その話だけはだれにもするなよ」

と厳重に口どめしたという。ぼくら慰問団は海軍のランチで漢口に行き、十一月二十七日にまねかれて松井石根大将の軍司令部がある音楽学校に行った。松井さんがそのとき、書いてくれた詩が現存する。

拝受紹勅
   即吟孤峯
湖東戦局日漸収
遙望妖気西又北
何時皇道治亜州
徳川侯檠正

孤峯は松井さんの号である。なにか孤独感がある。松井さんは終戦後、戦犯として処刑された。好まぬ戦争であったが、命じられれば軍人として戦わぬわけにいかぬだろう。だが処刑が正当か否かは別である。ぼくは真の戦争責任者は巧妙にのがれて、処刑された六割は無実ではないか、との疑問を持つ。

最前線ヘ

貴族院の慰問団は二十八日に解散した。そのあとぼくは、ひとりで朝日新聞のモーターボートに乗せてもらい、蘇州河をさかのぼった。

蘇州は日本軍が占領していた。ぼくは「法大菜館」と書いた中国人経営のホテルにはいったが、中国軍は退却にさいし、同胞のホテルを掠奪したので、屋内は足のふみ場もない。兵隊がぼくの荷物を運んだり、ベッド造りをしてくれる。兵隊の仕事は早くて荒っぽい。荷物をはこぶのに家の欄干がじゃまになると、ノコギリで切り落としてしまう。扉がつかえると、蹴とぼして壊してしまう。お礼に絵葉書や雑誌を出すと、子どものように喜ぶ。

翌朝ぼくは、掠奪でちらかった部屋の掃除をした。朝日の特派員である足立和雄くんが不思議がって、

「殿様が掃除をするんですか、したことあるんですか」
「ぼくは冷飯だから、水くみも掃除もします」

足立くんは、殿様はなにもせずに、遊んでいるものと信じているのか、どうにも不思議で納得しかねていた。

ぼくは無錫に行くと、十月事件のさい、橋本欣五郎くんと行動を共にし、満州に追い出された和知鷹二くんが大佐になって和知部隊をひきいてそこにいるのを知った。訪ねると和知くんはびっくりして喜び、地図をくれた。

和知くんは羅店鎮で長津部隊とともに数十倍の中国軍と戦った。要所要所に少数の守備兵を配し、大部隊を握って、見通しのきく高所に待機し、中国軍が攻めてくるとその方向に増援して戦う。長津くんは逆に、要所要所に多数の守備兵を配置し、自分は小部隊を握って、中国軍が攻めてきた箇所に応援する。戦法はちがうが、どちらも協力して羅店鎮を死守したという。

十二月四日に、ぼくは中嶋今朝吾隊長の世話で馬に乗り、最前線の白兎鎮にたどりついた。そこは第十六師団で、旅団長は草場辰巳少将、旅団の連隊長は大野宣明大佐、片桐護郎大佐、野砲連隊長が三国直福大佐であった。

この部隊は四日四晩、中国軍を追撃しつづけ、その夜は宿営し、兵を休ます予定であった。そこへ追撃命令がきて、南京攻撃のため休養もなく出発するという。ぼくもこの部隊についていった。

草場部隊長のところで、兵隊がつくった菜と鶏の汁と、南京米の飯をたべたが、なかなかにおいしい。夕飯がすむと、追撃戦である。兵隊はもくもくと行動していく。

江南の広野ははてしがない。カキ色の丘陵がつづき、まっ赤な太陽が沈む。その夕陽をあびて砲車がいく、連隊砲がいく、歩兵の部隊がいく。闇がせまって、馬と兵士の黒い影がどこまでもつづく。砲車の音や軍靴の音はするが、人声はまったくしない。はるかむこうで、火炎がたちのぼっている。ぼくははじめて見たが、大陸の戦場でみる夕景は凄愴たるものであった。

部隊本部の中隊も行動を起こし、ぼくも草場部隊長とならんで歩いた。前方から兵隊が三人きた。部隊本部にくると、くるりと向きをかえ、引き返した。将校が不審がって、

「おい、兵隊、どうした」
「はい、タバコであります」
「そうか」

すると別の兵隊が吸いかけのタバコを出した。その三人の兵隊は、順ぐりに、うまそうに吸い、タバコを返すと、ぺこんと頭をさげて行ってしまった。兵隊は実に不思議であった。

十二月五日の夜があけて、午前七時に大平圧鎮にきたとき、尖兵と中国軍の潜伏斥侯が衝突して、日本兵が一名戦死、一名負傷の知らせがきた。だが戦闘らしいものはなく、部隊はどんどん進んでいく。中国軍の退却がはやく、追いつけないのである。

兵隊はまったく不思議であった。部隊が休止すると、どこからともなく食糧を集めてきて、ぼくに食べ物をつくってくれる。トリ、ブタ、マメ、油、砂糖、マッチ、なんでも持ってくる。料理もうまい。その夜も菜とアヒルと豆そうめんを醤油で煮て、大きなどんぶりに盛ってくれたが、うまかった。

五日の午後、高い塔のある句容を占領した。そこから南京への街道がまっすぐで、道路をはさみ、十門ほどの野砲が左右に砲列をしき、砲撃していた。前方に中国軍の防御陣地が見えた。九百メートルの近い距離で、双眼鏡でのぞくと、鉄兜の中国兵が見えた。そこが最前線であった。

十二月八日は南京包囲戦となるが、ぼくは二日前に句容を発って帰国の途についた。娘の百合子の結婚式があり、まにあうように帰国したければならなかったからである。ぼくが去った翌日、新聞特派員が死傷し、師団長が負傷したときいた。

忘れられぬ老兵

帰途に白兎鎮に行き、中嶋部隊をたずね、馬を返して世話にたった礼をいった。中嶋部隊も前線に行った。白兎鎮の城門外に野戦病院があるが、その前の家で火をたいて一人の兵隊がたき火にあたっていた。三十歳をすぎた老兵で、髭がのび憔悴している。ぼくも黙って火にあたった。

やがて老兵は、胸のポケットから汚れた紙つつみを出した。ひらいて短かくなった一本の巻タバコを出し、半分にちぎり、半分はまた紙につつんでポケットにしまいこみ、半分をパイプにさして、ゆっくりと、一口ずつ吸う。目ははるか彼方を見ていて、ひと言も発しない。

見ていて涙が出そうであった。ぼくはタパコを吸わないのでタバコがない。慰問に持ってきた分もつきた。ぼくは黙ってこの老兵のしぐさを見ていたが、ついにひと言のなぐさめの言葉も出せなかった。出せばぼくのほうが先に涙がこぼれそうであった。ぼくは今も前かがみになったこの老兵の姿が忘れられない。

秦王の夢淋し
ぼくは東京に帰りついた。
橋本欣五郎くんから軍用葉書がきていた。

出征本日(十六目)山海関を通過仕侯
皇師迎ふ長城の秋 秦王の夢淋し
北支橋本欣五郎部隊長

橋本くんは二・二六事件のあと、処分されて退役になった。それが、日中戦開始とともに再召集され、野戦重砲連隊をひきいていたのである。山海関は満州から北京へ通じる要衡で、万里の長城の起点であった。

橋本くんは満州事変の謀略に参画したが、山海関から先へ、長城をこえて中国本土には絶対に侵入しない、すれば日本の敗北である、と確信し、公言もし、ぼくにも語っていた。だが召集されて一部隊長となると、命じられるままに白分の意思に反しなければならなかった。軍用葉書に書かれた短かい一文のなかで、とくに、

皇師迎ふ長城の秋 秦王の夢淋し

には、橋本くんのやるせない思いと、日本の将来がひめられているように思える。橋本くんはすでにこのとき、日本の敗北を予想していたのだろう。橋本くんはかねてから近い将来に、マッチ箱ほどの大きさの爆弾で、何万人、何十万人と殺裁できる時代がくる。だから決して、戦争はしてはならない、といっていた。

(この章終わり)


徳川 義親(とくがわ よしちか)

明治十九年(一八八六)十月五日、越前・福井藩主であった松平慶永(春嶽)の末子として生まれる。 幼名、錦之丞。明治四十一年、学習院高等科に在学中、尾張徳川家の養子となリ、徳川義親と改名。同年五月養父義礼の死後、かつて御三家の筆頭であった侯爵徳川家の十九代目当主として家督を相続。東京帝国大学国史科、生物学科に学ぶ。学生時代から始めた「木曽林政史」の研究業績は、わが国経済史研究の草分けとして評価が高い。大正十年のマレーでのトラ狩りは有名。豊かな学殖と幅広い行動力をもった異色・型破りの「殿様」として、現代史に多彩な足跡を残している。

※ここに書かれている「殿様」の「盟友」たちはどうやら、
1931年、尾張徳川家の古文書や家宝を管理する目的で、財団法人徳川黎明会を組織。同年、陸軍と右翼のクーデター未遂事件三月事件に資金面で関与する。>wikipedia徳川義親
の関係らしい。

こちらのサイトが徳川義親紹介としては面白い
谷底ライオン徳川義親(とくがわ よしちか)

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