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III 日本への動員

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「慰安婦」問題 調査報告・1999

「半鳥女子勤労挺身隊」について(未作成)



Ⅲ 日本への動員



1 東麻沼津


 「半島女子勤労挺身隊」が最初に朝鮮(当時は「半島」と呼ばれた)から日本(当時は「内地」と呼ばれた)に出動したのは、1944年4月のことである。出動したのは慶尚南道隊(道単位の隊は「中隊」と呼ばれることもあった)の約100名で、出動先は静岡県にあった東麻沼津工場である(戦後責任を問う「釜関裁判」を支援する会b、16~18)。

 釜山の有楽国民学校6年生、李英善・姜容珠・鄭水蓮らは、担任教師が「給料もよいし勉強させてもらえる」などというので、親の反対をおしきって挺身隊に応募した(同上)。同校の学籍簿には、1944年に13名が、1945年に3名が挺身隊として出動したことが記録されている(『忠清日報』1992年1月16日付け)。

 昌原郡の上南国民学校を卒業したばかりの趙甲順(「いのうえ」によれば 甲順)は、「書記二人と日本刀を携帯した巡査が来て(中略)脅迫したため」挺身隊に入隊した(沼津女子勤労挺身隊訴訟弁護団、2)。

 鎮海の慶和国民学校を卒業し、青年隊に参加していた禹貞順は、1944年3月ごろ、邑事務所の職員に「勉強もさせてやる」と「勧誘」された(同上、3)。

 釜山・昌原・鎮海・密陽・金海から釜山にある慶尚南道の道庁に集合した隊員たちは、道知事の訓示を聞いて釜山を出発したという(同上、3)。

 余舜珠は『朝鮮日報』1992年1月16日付けなどの記事によって、学籍簿調査の結果、1945年3月に、慶尚南道釜山の影島国民学校から1名、ナンミン国民学校(旧・有楽国民学校)から17名、慶尚北道大邱から9名、忠清北道から6名、京畿道仁川から2名、計35名が沼津に動員されたことが判明したと書いている(61)。しかし、これは誤報にもとづく誤解で、この中で実際に「沼津工場」に行ったことが確認されたのは、影島国民学校からの1名「花村英子」だけである(『釜山日報』1992年1月15日付けなど、その当時の各紙を見れば、それらの数字は、学籍簿調査によって判明したその時点での挺身隊隊員の総数である)。

 1945年7月に東麻沼津工場が空襲で焼失すると、「半島女子勤労挺身隊」ら334人は、駿東郡小山町の富士紡小山工場へと移動させられた。こうした記録から推測して、竹内康人は、東麻沼津工場に出動した「半島女子勤労挺身隊」の総数は300人をこえると推測している(172~73)。


2 不二越


 富山県にある不二越への第1陣として、大邱と浦項から集められた約70~100名の慶尚北道隊が工場に着いたのは、1944年5月9日のことであった(余、57、90。余は出典として「毎10・28」を挙げているが、それを確認しようとしたところ、そうした記事は掲載されていなかった)。大邱の達城国民学校を卒業したばかりの朴小得は、母校で開かれた説明会で、「5時まで働いて、夜間中学に通うことができる」と説明されたので不二越へ行った。着いてみると、「いつもひもじい思いをし」「一円ももらっていないし、家からの仕送りも貯金させられたまま」で、「手の指がとぶ事故」にもあったという(戦後責任を問う「関釜裁判」を支援する会b、8~10)。

 また、大邱の海星国民学校とヒド国民学校に、「不二越鋼材株式会社と不二越鋳物工場に行ったと記録されている」学籍簿が残っている(『慶北日報』1992年1月17日付け)が、いつのことかはわからない。

 なお、第2陣として行った人達によると、彼女たちが不二越に着いたときには、「すでに朝鮮人の娘たちが約二〇〇人いた」という(戦後責任を問う・関釜裁判を支援する会、77)。1943年に動員された仁川の報国隊や先月到着していた慶尚北道隊の人々のことを指すのかもしれない。

 6月8日に第2陣である慶尚南道隊が工場に着いている(『新東亜』編集室、200)。馬山・晋州からそれぞれ約50名、合わせて約100名であった。朴順福によると、慶尚北道大邱で集められた50名もいっしょであったという(戦後責任を問う「関釜裁判」を支援する会b、14~15)。また、柳賛伊によると、京畿道隊・仁川隊もいっしょだったという(戦後責任を問う・関釜裁判を支援する会、76)が、京畿道隊と仁川隊の出動は、後述するように、翌月のことである。

 馬山で雑貨屋の手伝いと家事をしていた柳賛伊は、「面事務所(村役場のこと──原注)の役人」の「愛国するために」という「話に乗せられ」、馬山出身の50余名とともに不二越に行った(同上、11~13)。同じ馬山出身のユ・ジニは今もそのころに歌った、「富山くるときゃ うれしかった一夜すごせば 悲しさよ・・」などの歌を忘れないでいる(金文淑、194~95)。

 晋州の吉野国民学校の5年生であった朴順福は、1944年春、担任の先生から「待遇も良いし学校に行くこともできる」といいながら「指名」され、3人の同窓生を含む晋州出身の約50名とともに不二越へ行った。そして、「ひもじさ」に耐えながら「旋盤で一日六千個の鋼材を削る激しい労働」に従事した。その後、「ほとんど毎日起こる空襲の恐怖が重なって、精神的に異常を来たし」た(同上、13~14)。

 第3陣として7月6日に京畿道隊が到着している。

 京城府での募集は、まず『毎日新報』6月4日付けをとおして行われた。応募資格は国民学校の卒業生で年齢が17~20歳、行く先は「富山県の軍需工場」、契約は2年間である。そして、6日付け日本語欄の「出ヨウ 女子挺身隊 内地ノ重要工場ヘ 手伝ヒニイク」という広告的記事は、「コレハケッシテ チョウヨウ(徴用)デハナククニヲ アイスル マゴコロカラ ススンデ シグワンシテ デルノヲ」望んだ。また、14日付けは「女子挺身隊に志願応募者殺到」との記事を掲載している。70余名が応募してきたというのである。ある校長が談話で「父母の理解」を求めているのは、父母の反対が強かったためであろう。「諸施設は完備」「食事は○合○勺でおなかいっぱい食べられる」という不二越の「木村氏談」も掲載されている。

 ついで京城府では、6月16日までに、府内の女子中学校や国民学校の校長を集めて、女子挺身隊についての話し合いの会を開き、希望者を募った(毎6・17)。京城の奨忠国民学校高等科2年生であった李鐘淑は、「募集要項には『挺身隊として日本に行って働いたら、女学校の卒業証書がもらえる』と書いて」あったので挺身隊に応募した。受付場所は麻浦国民学校であった(伊藤b、42)。梁春姫が通っていた京城の徳寿国民学校高等科では、2年生であった梁春姫のクラスだけで15名、ほかのクラスからも6~7名ずつ選抜された(『慶北日報』1992年1月16日付け)。

 芳山国民学校の教師であった池田正枝は、生徒に挺身隊募集の話をしたときのことを次のように回想している。「クラス全員『いく、いく』と手を挙げる。しかし帰宅して話すと、親は動転(中略)どの家庭でも親子喧嘩がはじまった」(26)。芳山国民学校からはけっきょく5名が出動した。学籍簿には、「挺身隊ノ発表ガアルト父母ヲトキフセテ敢然之ニ参加、遙々海越エ、彼地ニ、二ケ年挺身スルコトニナッテヰル」と書かれている(朝鮮問題研究所、5)。なお、校洞国民学校にも3名が挺身隊として動員されたことをしめす学籍簿が残っている(『忠清日報』1992年1月15日付け)。

 募集は教会でも行われた。京城府東大門の監理教会からは当時17歳であった2名の「貧しい農家の娘」が送られた。そのときの送別記念写真が『韓国日報』1992年1月16日付けに掲載されている(朝鮮問題研究所、15)。

 6月27日、京城府は選考会を開催し(毎7・1)、150名を選出した(毎1945・1・24)。

 仁川府でも50名からなる女子勤労挺身隊が結成された。某国民学校の卒業生13名は、同校の応募者27名中から選ばれた記念に、と餞別金5円を献納して「挺身隊の美談」を提供した(毎7・4)。また、永化国民学校では挺身隊として出動する制服姿の8名を囲んで記念写真を撮った。当時の卒業生によると、「身体が健康で家庭が貧かった8名」は「金もたくさんもうかるし、勉強もできる」という言葉にだまされて行ったのである(『ハンギョレ新聞』1992年1月17日付け。朝鮮問題研究所、31)。また、ソンリム国民学校では全校生が歓送会を開いて1名を挺身隊に送りだした(『京仁日報』1982年1月17日付け)。

 7月2日午後1時から京城府民館で京城隊の壮行会が開かれた。京畿道知事が激励の挨拶を述べた。続いて3時から京畿道庁で仁川隊と合同の京畿道隊壮行会が行われた。会終了後、隊員たちは隊旗と鼓笛隊を先頭に街頭を行進し朝鮮神宮に参拝した(毎7・4)。そして、同日夜、野田伝三・京畿道労務課長に引率され、土居・芳山国民学校長ほか4名の女子訓導に付き添われて出発し、釜山から新潟をへて、6日に富山の不二越へ到着し、入場式を行ったのである(毎7・8。『京城日報』7・3)。

 8月22日、女子勤労挺身令が公布・実施されると、京畿道労務課にはさっそく幾人かの志願者が現れた。しかし、京畿道での募集は行われなかった。不二越への第4陣として第2回京畿道隊の隊員が募集されたのは、翌1945年1月であった。

 1月24日付けの『毎日新報』に掲載された京城府の広告には、「来れ、職場は女性を呼ぶ──女子挺身隊ヲ募ル」という文字がおどっている。就業地として不二越工場が明示され、資格は「国民学校終了程度。年齢十三歳以上二十一歳迄ノ女子」、書類「履歴書一通及親権者ノ同意書」などと書かれている。校洞国民学校には高等科の1名がこのとき挺身隊として動員されたことをしめす学籍簿が残っている(『忠清日報』1992年1月15日付け)。選考会は2月15日に生田・京城府勤労課長や不二越工場の職員らが出席して行われた(毎2・17)。

 仁川府でも、同様に1月24日、「出身学校か府勤労課へ志願」するよう『毎日新報』をとおして広告した。李鐘淑によれば、「二次募集で」仁川からは30名くらいが不二越に向かっている(伊藤b、46)。仁川の昌栄国民学校には「第2回女子挺身隊志望」と記載された2名の学籍簿が残っている(『京仁日報』1992年1月16日付け)。仁川の国民学校(学校名不明)の教師であった望月京子が「卒業生には女子挺身隊募集の割り当てがきた。卒業したばかりの女生徒二人〔が〕、富山県の不二越へ」行ったと回想している(201)のは、おそらくこのときのことであろう。

 開城府では、1月22日に女子勤労挺身隊隊員たちの「奉告祭と壮行会」が行われている(毎2・25)。開城隊の隊長は、戦死した「松井少尉」の妹である(毎6・5)。彼女が「美談」の主人公としてたびたび『毎日新報』に紹介されたことは、後述するとおりである。

 京城府・仁川府・開城府、以上の3小隊からなる京畿道中隊(おそらくは150名前後)が出発したのは、1945年2月24日であった(毎2・27)。

 全羅北道隊は全州の50名と群山の50名から構成されていた。全州の相生国民学校からは5~6年生の10名が動員された(『全北日報』1992年1月15日付け。『全南日報』同前)。また、群山の昭和国民学校の6年生・崔孝順は、校長先生が「女学校にも通える」というので参加した。長田先生に引率され、挺身隊の歌を歌う同級生に見送られて出発した、不二越へは3月2日に到着した、開城以南の650名がいっしょだったという(李泳禧a)。全羅北道裡里国民学校の6年生の担任であった川岡蔦子は、1942年あるいは43年の春に、校長から「できるだけ体格がよく、家の貧しい者を八人選んでほしい。富山の飛行機部品工場に女子挺身隊として送るから」と命じられたという(金・飛田、160)が、これもそのときのことかもしれない。

 650名のなかには全羅南道隊100余人が含まれていた。光州の寿昌国民学校の6年生であった金美子(仮名)は、「帰国したら必ず旭高女(現・全南女高)に編入させてやる」という「甘言利説と強要に勝てず」、姜ヨンスン(仮名)ら2名とともに、2月28日に釜山から富山行きの連絡船に乗った(『全南日報』1992年1月16日~18日付け)。そして、光州の瑞石国民学校の生徒であった梁日順の証言によると、「連日、挺身隊志願を催促する校長と鈴木先生に苦しめられ2名の学友が『供出』された」。同校の学籍簿には4名が動員されたと記録されている。松汀東国民学校にも7名が動員されたという学籍簿が残されている(『全南日報』1992年1月17日付け)。また、羅州国民学校には1945年に13名が挺身隊として動員されたという学籍簿が残っている(『忠清日報』1992年1月16日付け)。

 なお、第1回全羅南道隊の引率者であった孫相玉(当時、教員)は「全羅南道からの二回目の引率は、岡富枝先生でした。この時は富山に百余人を引率されました」と語っている(伊藤b、39)。また、金美子によれば、「3名が飢えと栄養失調で死んだ」。また、名古屋から移動してきた寿昌国民学校の先輩4名と「不二越の寄宿舎」で会ったという(『全南日報』1992年1月16日付け)。

 1945年2月に不二越に向けて出発したこの650人の中には慶尚北道隊も含まれていたと思われる。「二次募集で仁川(インチョン)の三〇人くらい、三次で大邱(テグ)と慶尚道〔北道であろう〕から五〇人ほどが来ました」という証言がある(伊藤b、46)。実際、大邱の寿昌国民学校が1945年3月に作成したと思われる朴某の学籍簿には、「不二越鋼材株式会社女子挺身隊員トシテ働ク」という記録が残っている(『慶北日報』1992年1月16日付け)。

 慶尚南道釜山の有楽国民学校には1945年に3名が挺身隊として動員されたという学籍簿が残っている(『忠清日報』1992年1月16日付け)。そして、「富山県の飛行機製作工場」に行った、という馬山のソンホ国民学校の5年生・金福善ら5名(日本人1名を含む)の学籍簿も残っている。彼女らのそれには、「退学事由」の欄に「挺身隊」と書き込まれている(『慶南新聞』1992年1月17~18日付け)。また、晋州の国民学校6年生・金福達に1944年12月、「召集通知」が舞い込み、その後不二越へ行った(金英達a、56)のも、姜徳景が「晋州からさらに50名が来ました。その中に私より一歳年下の親戚・姜ヨンスクがいました」という(韓国挺身隊問題対策協議会・挺身隊研究会、原書、277。訳書、291)のも、このときのことであろう。釜山・馬山・晋州からおそらくは150名前後が動員されたものと思われる。

 さらに、忠清北道忠州地区の3名の学籍簿に不二越に入所したという記録がある(『忠清日報』1992年1月17日付け)。このときに忠清北道隊も動員されたことを示すものであろう。1945年2月に不二越に動員された総数650名から、これまで見てきた忠清北道以外の道から動員されたと推定される者の総数550名を差し引くと、忠清北道からは100名前後が動員されたことになる。

 余舜珠は、京城府「第3回部隊」とともに不二越の見学にいった父兄代表4名と生田・京城府勤労課長が4月3日に「帰還報告」を行った(毎4・5)という新聞記事と、全羅南道光州の「学籍簿に1945年3月25日、挺身隊に動員」されたという記述がある(出典不明。余本人が確認したかどうかも不明)ことを理由に、1945年3月末にも挺身隊が「動員されたものと見える」としている(58)。

 しかし、それは疑問である。なぜなら第2回部隊を送ってから「第3回部隊」の報告会までわずか約1か月しかたっていないからである。「第3回部隊」というのは「第2回部隊」の誤りであろう。ちなみに第1回部隊の報告会も派遣後約1か月後に行われている。また、「学籍簿に1945年3月25日、挺身隊に動員」されたという記述があるというのは、一部の新聞の誤報によったもので、3月25日に卒業予定の者が2月25日に出発した、というのが正確であろう。そして、全羅南道からの挺身隊については、その第1陣の引率者であった孫相玉が「二回で終わったらしい」と語ってもいる(伊藤b、39)。ちなみに、第1陣から第4陣までの動員数を合計しただけでもすでに1070~1100名に達しており、『不二越五十年史』に見える挺身隊動員数1090名(68)とほぼ一致する。


3 三菱名航


 1944年6月15日、三菱名航の道徳工場に全羅南道隊約150名、大江工場に忠清南道隊約150名の「半島女子勤労挺身隊」が動員された(余、92)。彼女たちは約1か月の訓練期間をへて、7月17日、戦闘機作りの現場に立った(伊藤b、22)。

 全羅南道隊の元隊員であった姜貞子によると、約150名の内訳は、光州45~46名、木浦45~46名、羅州26名、麗水24名、順天14名であったという(金英達a、44。朝日新聞社、121)、計154~156名になる。同じく元隊員であった金福礼によると、光州50名、木浦40名、羅州20名、麗水20~30名、順天15名で(伊藤b、14)、計145~155名である。彼女らは光州に集まってから麗水に行き、船に乗って下関に出て、汽車で名古屋に向かった(高橋、81)。

 光州の金福礼は、女学校に進学を準備していたところ、「『隣組』の組長」に「勤めながら勉強したらどうか」と言われて入隊したという(同上、13)。また、『毎日新報』7月28日付け日本語欄には、「戦ウ女子挺身隊 母校ヘ カンゲキノ タヨリ」として、光州府立旭高等女学校と北町国民学校の出身者の手紙が紹介されている。

 木浦の朴良徳は、専門学校に通っていたとき、新聞を見て、「学校で勉強ができるなら」と入隊したという(伊藤b、28)。

 羅州の梁錦徳は羅州国民学校6年になったとき、憲兵2名と日本人の正木校長が「金もたくさん稼げるし女学校にも入れてやり、帰ってくるときには家一軒買える金を持って帰れるようになる」というので参加したという(戦後責任を問う「関釜裁判」を支援する会b、4)。「クラス全員が〔行きたいと〕手をあげた。頭が良くて、体が丈夫な九人が選ばれた」。親の許可を得られなかったので、印鑑を持ち出して書類を整えた。それでも親は反対したが、「行かなかったら、親を捕まえると言われて」日本へ行った。「羅州から二十四名行った」と証言している(三菱名古屋・朝鮮女子勤労挺身隊問題を考える会、10~11)。

 順天の朴海玉は、母校の校長先生から「女学校にも進学できるし、金も稼げるから」と勧められていったん、日本行きを決めた。しかし、親が駄目だというので、中止しようとしたが、校長先生から「もし行かなかったら、お前のオモニは契約を破った罪で、刑務所に行くしかない」と言われた(同上、3~4)。

 忠清南道隊には天安・論山・江景から来ていた、と朴良徳が証言している(伊藤b、30)。

 約300人を乗せた船は1944年6月、麗水を出発した(同上、34)。数か月後、引率者の孫相玉は、病気の子どもたち「十何人か」を朝鮮に連れ帰った(同上、39)。そして12月7日、東南海地震がおこり、全羅南道隊の6名が死亡した。

 『毎日新報』1945年2月26日付けは、全羅南道隊第2回として、「光州、木浦、順天、羅州、麗水5つの国民学校上級生」が「名古屋○○航空機製作工場」へと動員されたことを伝えている。しかし、これが名航に動員されたかどうかは確認できない。そして、この記事が伝える行き先には、次の3つの可能性がある。

 第1は、「名古屋○○航空機製作工場」に行く予定が変更され、富山県の不二越工場に動員された可能性である。同時期に全羅南道から不二越に動員されていること、李 石の学籍簿調査によると1945年に名古屋に行った者が見つかっていないことも、その可能性が高いことを示している。

 第2は、いったん「名古屋○○航空機製作工場」に動員されたのち、富山県の井波工場に転属した可能性である。大門・福野・井波の3工場で約650名の挺身隊らが敗戦まで働いていたという(金英達a、52)から、井波工場の約380名がそれかもしれない。

 第3は、文字通り「名古屋○○航空機製作工場」である。しかし、そのころすでに、名航道徳工場の全羅南道隊135名は三菱第11製作所の分散工場である富山県の大門工場に、名航大江工場の忠清南道隊137名は富山県の福野工場に転属されていた(高橋、85。洪、128)のだから、この可能性は低いと言わざるをえない。


4 その他


 現在までのところ、「半島女子勤労挺身隊」が動員されたことがはっきりとしている「内地」の工場は以上の3つである。そのほかに、以下のような情報があるが、いまのところ詳細はわからない。

 『富山県警察史』下巻に「〔昭和〕二十年三月までに〔県内の〕朝鮮の女子挺身隊は二千八百名」という記述がある(230~231)。これが正しいとすれば、不二越の1090名と三菱名航の道徳工場と大江工場から富山の三菱第11製作所の分散工場に転属した272名とを差し引いた1538名が富山県のその他の工場で働いていたことになる。

 和歌山県に動員されたという証言がある。林某が、忠清北道忠州のキョヒョン国民学校・南山国民学校から選ばれた20余名とともに、和歌山県(証人は「わたやま県」と言っている)の軍需工場に行ったというのである(『忠清日報』1992年1月16日付け)。

 八幡にもいたことは、『毎日新報』1945年6月7日付けが、朝鮮総督府の局長会議で、八幡で「激讃されている半島女子挺身隊」の活躍ぶりについて報告されたことを伝えていることからも明らかである。木村秀明編『進駐軍が移したフクオカ戦後写真集』に出てくる写真の中の「全羅北道女子勤労挺身隊」約150名は八幡にいた可能性がある(戦後責任を問う「関釜裁判」を支援する会b、28)。ちなみに、この写真には、「群山から行った人は1人もいない」という(李泳禧b)。

 また、長崎造船などにもいたらしい。「十余名の同胞被害者の話では、被爆1年前の1944年当時爆心地からわずか1キロと離れていない三菱長崎造船所、長崎兵器廠に強制労働のために連れてこられていた黄海道出身の朝鮮人労働者数千名、朝鮮女学生300余名が一瞬にして爆死したという」(『朝鮮新報』1965年8月19日付け)。長崎川並造船所で組長をしていた朝鮮人男性は、「女子挺身隊200名、韓国のピョンヤン(現北韓──原注)から来ていた。女の子達が苦しくて死にたいなどと言っていた」という証言もある(在日本大韓民国青年会、202)。

 さらに、相模海軍工廠にもいた、との証言もある(樋口、13)

 どこへ動員されたかはわからないが、江原道の「春川国民学校の運動場には挺身隊として送られる女性たちが召集されて」いた、という証言がある(『江原日報』1992年1月16日付け)。

 以上、いずれもくわしいことはわからない。しかし、それぞれの道を単位とする中隊は基本的に約150名で編成されていたと思われる。


参考文献



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