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妄説に断! 渡嘉敷島集団自決に軍命令はなかった

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月刊「正論」2006年11月号

『妄説に断!渡嘉敷島集団自決に軍命令はなかった』

{ 元琉球政府職員の証言が明らかにした真実と、
            それを封じ込めてきた戦後沖縄の現実}        
 水島総(日本文化チャンネル桜社長)&同局取材班(井上和彦・仙頭直子)
http://www.ch-sakura.jp/mailmagazine/224.html
http://www.ch-sakura.jp/mailmagazine/225.html

戦後日本の「踏絵」とは何か


自分は今、自分の生涯の中で最も美しいと思ってきたもの、最も聖らかと信じたもの、最も人間の理想と夢にみたされたものを踏む。この足の痛み。その時、踏むがいいと銅版のあの人は司祭にむかって言った。踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前達の痛さを分かつため十字架を背負ったのだ。

遠藤周作「沈黙」より

 私が渡嘉敷島集団自決の取材を決めた時、思い浮かべたのは遠藤周作 の代表作「沈黙」だった。激烈なキリシタン弾圧の下、拷問や殺戮に殉教していく日本人信徒たちのうめきに何も反応せぬ神の「沈黙」、苦悩した 司祭が背教の「踏絵」に向かうという小説である。読後、思ったのは私達日本人の戦後だった。戦後日本の「踏み絵」とは何だったのか、「沈黙」し続けているものとは何なのか、もし、私達日本人が「踏絵」を踏んだとしたら、一体、何を得て、何を喪ったのか。渡嘉敷島集団自決の取材は、そんな思いから開始された。

 今年五月、私が政策提言委員をしている日本戦略研究フォーラムのパーティーのことだった。参加している人々をかき分けるようにして、その人は私に近づいて来て、私を抱くようにして叫んだ。「社長!証言する人、いましたよ。証言するって言ってます、沖縄の、渡嘉敷の、軍命令じゃなかったって、集団自決の証人ですよ!」

 彼は沖縄在住の元海上自衛隊員で奥茂治氏である。衛星放送「日本文化チャンネル桜」の熱心な視聴者であり、現在も予備自衛官として毎年の訓練を欠かしたことがない。奥氏によると、大東亜戦争中、沖縄・渡嘉敷島で起きた住民の集団自決について、テレビカメラの前で真実を証言するという人が出たとのことだった。

 その人は、那覇市に住む照屋昇雄さん(八十二歳)で、戦後、琉球政府で軍人・軍属や遺族の調査や援護業務に携わった経歴を持つ。渡嘉敷の島民が貧窮に苦しんでいる状況を調査し、「戦傷病者戦没者遺族等援護法」の適用によって援護金が下りるように、当時の渡嘉敷村長玉井喜八氏と共に、集団自決を軍命令ということにして、厚生省への申請書類を作成したというのである。また、当時の調査では、集団自決を軍命令だとする住民は一人もいなかったという。戦後六十一年を経て、その人物が、新たな証言をするというのである。

 以前、この問題を取り上げた曽野綾子氏の著書「ある神話の背景」を読み、私はノンフィクション本としては、完璧ともいえる取材と分析、そして深い人間観に裏打ちされた文章に感銘を受けていた。特に、大学時代ドイツ文学を専攻した私にとって、卒論の対象とした作家トーマス・マンの「非政治的人間の考察」の文章が、引用されていたのは嬉しかった。そして、この本こそ、私自身、「戦後思想」を疑い、脱却するきっかけとなった一冊でもあった。

 私は「ある神話の背景」で、既に全てが語られていると思っていた。ドキュメントとしても、これ以上のものは無いと思っていた。間違いなく、集団自決に軍命令はなかったと証明されているのではないかと考えていた。

 しかし、現実は、全く異なっていた。トーマス・マンや曽野綾子さんとは、文学的にも、政治的にも極北に位置するだろうノーベル賞作家の主張が、現実の壁となり、慶良間諸島の集団自決は軍命令だったと一般に流布されたままになっていたのである。

 この集団自決については、「沖縄集団自決冤罪訴訟」として、現在、裁判となっている。平成十七年、慶良間諸島の海上挺身隊戦隊長だった元将校やその遺族が、大江健三郎氏の著書「沖縄ノート」(岩波新書)について、岩波書店と著者を相手取り、損害賠償と出版・販売 の差し止めと謝罪広告を求めて訴えを起こしている。

 「沖縄ノート」は、集団自決を軍命令と断定し、渡嘉敷島の「守備隊長」 (赤松嘉次大尉の実名は書かれていない)を「戦争犯罪者」、「屠殺者」と中傷表現で指弾し、「慶良間の集団自決の責任者も、そのような自己欺瞞と他者への瞞着の試みを、たえずくりかえしてきたことであろう。人間としてそれをつぐなうには、あまりに巨きい罪の巨塊のまえで、かれはなんとか正気で生き伸びたいとねがう」とまで痛罵し、「かれはじつ のところ、イスラエル法廷におけるアイヒマンのように、沖縄法廷で裁かれてしかるべきであった」とナチスのユダヤ人虐殺責任者とも同列視している。

 大江氏は、現地を丹念に取材した曽野綾子さんとは異なり、渡嘉敷や座間味島に全く現地取材せぬまま、伝聞と「鉄の暴風雨」等の書物に拠って書いている。そんな本が既に五十刷を重ね、約三十万部も売れているらしい。その影響なのか、中学高校の歴史教科書には、未だ軍命令による集団自決があったものとして記述されたものも多い。「犠牲者のなかには、慶良間諸島の渡嘉敷島のように、日本軍によって『集団自決』を強要された住民や虐殺された住民も含まれており」(三省堂高校日本史A)、「軍は民間人の降伏も許さず、手榴弾をくばるなどして集団的な自殺を強制した」(日本書籍新社 中学公教科書)等である。

 この新証人と証言によって、次の教科書検定で歴史教科書の記述を全て書き換えることが出来るかもしれない、私は内心そう思った。琉球政府の当事者が実名を出して証言するのは初めてであり、これまでの「軍命令説」を完全に葬るための決定的な証言になりそうだと思われた。

 沖縄の現状は、一言で言えば、未だ大江健三郎の世界であり、戦後日本のあり方を極端化した形で現しているーそんな実感を私は抱いていた。反戦平和を常に叫び、戦争と基地の被害者として自己主張し、直裁に言えば、それによって毎年一兆円と言われる国家予算を引き出す、人口百数十万の沖縄県の「利権構造」こそ、戦後日本の極端化した姿そのものではないのか。集団自決の評価も、これと通底するものがあるのではないか。

 沖縄戦で戦死された大田實海軍中将の「沖縄県民かく戦えり。県民に対し後世特別の御高配を賜らんことを」の有名な言葉は、沖縄県民が戦争の被害者だから、特別の御高配をと述べたわけではない。誇り高く、戦い、倒れた、日本人の鑑として、軍民とも英雄、英霊の島として、発せられた言葉ではなかったのか。慶良間諸島の集団自決も、その延長線上にあったのではないのか。六十一年間の「沈黙」を探るべく、私は社内に特別チームを作り、沖縄に現地取材をすることに決めた。

金城武徳氏の証言


 五月十七日、私達取材チームは、那覇に向かい、現地で奥茂治氏と沖 縄技術スタッフと合流し、七月、九月と三回にわたる沖縄(渡嘉敷・座間味)取材を開始した。チャンネル桜のキャスターでジャーナリストの井上和彦氏も同行してくれた。証言をしてくれる照屋氏は、当時の公文書を那覇の陸上自衛隊広報室に預けていたが、そこも訪問し、広報室長の国場三等陸佐にお会いして、撮影協力の快諾を得た。

 翌朝、私達はフェリー「けらま」で那覇泊港から渡嘉敷島へ向かった。照屋氏に会う前に、何とか、島民の証言を撮れないかと考えたからだ。アポイントも何も無かったが、とにかく現地へ行く、ドキュメンタリーの監督をしてきたこれまでの私のやり方である。集団自決の場所や島全体の様子など、撮影だけでなく見て、空気を味わい、感じておきたかった。天候は曇りで時々思い出したように晴れ間が見えた。

 一時間近く過ぎて、船上から渡嘉敷島が見えてきた。思ったよりずっと小さな島だった。米軍の上陸部隊も、こうしてこの島を眺めたのかと考えながら、どんよりとした空と海に浮かぶ渡嘉敷島を撮影した。

 渡嘉敷港に着くと、私達はバン形式の観光タクシーを雇った。戦跡を撮影したいとの目的を告げると、中年の運転手は、慣れているのか簡単に肯き、直ぐに車をスタートさせた。島の北側の山上にある「集団自決跡地碑」、戦死者や集団自決者の遺骨を納め、祀った「白玉之塔」、「戦跡碑」、そして、赤松大尉らが海上特攻を目指して準備した「特攻艇秘匿壕」、島にいた朝鮮人工夫や慰安婦を記念し韓国人が作ったという「アリランの碑」なども回った。「アリランの碑」は、随分、大掛かりに作られたモニュメントだったが、訪れる人もないらしく、入り口の看板が朽ちて地面に落ちていた。

 「集団自決跡地碑」付近には、誰もいなかった。風が強く、石碑の周りを囲む低い木々が、音を立ててざわめいていた。ここで三百人以上の人々が自決したのである。案内してくれた運転手が、手馴れた様子で入り口のゲートを開けてくれた。私達は碑のまわりにあったゴミを片付け、献花し二礼、二拍手、一礼の参拝をした。私はその後、般若心経を奉唱した。私達の思いが伝わったのか運転手は急に親切になり、親しさを見せるようになった。撮影機材の持ち運びなども手伝ってくれた。

 撮影が一巡した後、遅い昼食をとりながら、私は運転手に、集団自決について証言してくれる人がいないか相談した。少しためらった後、彼は承知してくれ、島にいるお年寄りを訪ねることになった。しかし、何軒もの民家を訪ね回ったが、留守だったり、居留守のようだったり、断られたりと、中々、見つからなかった。「これが渡嘉敷か…」と運転手が本当は証言者を紹介したくないのではないかという疑念がよぎったものの、彼は「金城さんなら話してくれると思う」と言い、その家に私達を連れて行った。

 金城武徳氏は、『ある神話の背景』にも出てくる人である。最初、金城氏は私達のことが良く分からぬまま、「家を撮影するな」「カメラを回すな」と厳しい調子で、我々に対応した。しかし、運転手の話や私の説明を聞く内、態度を和らげ、集団自決跡地碑の前なら話してもいいと、撮影に応じてくれることになった。私達は再び「集団自決跡地碑」に向かった。碑の前に立った金城氏は、碑の後方にある低い木々の密生する場所を指差し、ここを訪れる霊感の強い人は、今でも叫び声を聞いたり、きれいな女の人が立っている姿を見るのだと話した。以下が、金城武徳氏の証言の核心部分である。

混乱のなかで自決を呼びかけた村の幹部と村民の意志が招いた


 「終戦直後から、沖縄のマスコミは日本軍を悪く書こうとするクセがあった。渡嘉敷の集団自決も赤松が命令してるんだ、こう言いよったんですが、赤松大尉は集団自決命令はしていないんです。保証人は、渡嘉敷の住人全部です。(昭和二十年)三月二十三日から空襲がはじまって、四日間空襲されたんですよ。島の周囲は二十キロの小さな島、その時の人口は一千五百名ほどでした。空襲を避けるためには、自分たちの家から近いところに、防空壕を掘って、そしてそこで空襲を避けておったわけですよ。空襲警報が鳴ったら、そこに駆け込んで。そしてまた、長期戦にそなえて、そして自分たちの勝手のいいところで、畑とかあるところに小屋を作ってあるんです。そこに食料品、玄米とか黒砂糖、鰹節なんかを貯蔵してあったんです。

 しかし、空襲がすんだから、次は上陸だとその小屋に来てたら、伝令の島の青年が各避難小屋をめぐって、部隊の裏の、盆地に避難しないといけないらしいですよ、と言ったんです。その時は大雨でした。大雨の中、赤ちゃんなんかも、年寄りなんかも雨にぬれて着いた。この谷間とあの谷間に分かれて避難してるんですが、三月二十八日の午後三時ごろから、迫撃砲飛んで来たんです。したらもう村の幹部が騒いでしまって、来たるべきものが来たんだと思ったんでしょう、両方の谷間に避難してるのを集めて、当時の村長(古波蔵惟好氏)が訓示して、天皇陛下万歳三唱して、どこからもってきたのか十~二十名に一、二個ずつ配られている手榴弾を突いた訳です。それが爆発した人は死んでるんですが、我々は爆発しなかったもんだから生きていたわけです。

 飛んできた迫撃砲も当たってくれないし、結局、我々は生き残って、六百名ほど、軍の部隊本部に行って機関銃で殺してもらおうと移動したんです。却って怒られた。「軍人が戦(いくさ)をするんだ、なんでこんな早まったことをしたのか。生きられる限り生きるのが住民じゃない か。」ということで怒られた。そこに残っていた人は、主に阿波連(アハレン)の人なんです。その人たちが殺し合いして、おじいさんもおばあさんも手にかけたと言ってるんですよ。そこで死んだ人で、意気地のいい女の人なんか、自分で首つっている。

 僕らのところには、昔、軍人の短剣、ごぼう剣いうのがありまして、何処から持ってきたのか、死にきれない女の人たちは、それで左の胸の下が心臓だからといって、これで刺したらしい。僕はその時数えで十五歳でした。お前も生きてるし、(家族を)殺した人も生きているんだから、このことはお母さんも話さないほうが(いい)といって、マスコミなんかに聞こえたら大変なことになるよと、しかし、渡嘉敷村史にぴしゃっと書いてあります。

 「では集団自決は、軍の命令じゃないんですか?」
 はい、違います。これは軍の命令ではないです。これはですね、自分たちで、やっぱり普段からそういう教育しかされてないもんだから、鬼畜米英に捕らわれたら、女はどんな辱めをうける(かわからない)。男はドラム缶に入れて丸焼きにされる。だから早く死んどかんといけないと いう教育だけしか、小さいときからされてないから、皆が同意でやった。しかし、マスコミとかが言いたい放題で、軍の命令で集団自決しているんだ、ということを言うんです。軍の命令ではないです。僕はこちらから(自決場)は早く逃げているから、後のことはわからないが、こちらで三百十五名の人が亡くなっています。今日明日のことは、夕方忘れても、六十年前の戦争のことは、一つも忘れません。全部覚えています。とにかくどうせ死ぬんだから、一人一人殺し合いした。お父さんお母さん殺すということは、愛ということでしかならない。」

 金城氏の証言から、浮かび上がってくるのは、島民同士、家族同士が互いに殺し合う状況が、軍による強制的な自決命令ではなく、村長をはじめとする村の幹部の自決への呼びかけと村民自身の意志によって、ごく自然に行われたことである。後述するが、彼らはサイパン玉砕や隣の座間味島の集団自決を既に聞いており、それに続いたのである。

 金城武徳氏は、七月二十三日、再度、私達取材班が渡嘉敷島取材を行った渡嘉敷村歴史民俗資料館(村営)でも、インタビューに応じてくれ、赤松大尉率いる赤松隊歌を歌ってくれた。当時そういう歌まであったのである。 

 一、不壊神州に敵迫り 陸海空のつわものは清き歴史を守らんと 
   鍛えに鍛えし血の結晶今ぞ東亜の風雲期 勇躍立てりて若人は 
   新鋭集う赤松隊

 二、ああ 南海は夜の星 珊瑚輝く行き帰り 烈風すさぶ黒潮も 
   大和桜と散りて咲け今ぞ東亜の風雲期 撃ちてしやまん心持て 
   孤高たるかな赤松隊

 村営渡嘉敷村歴史民俗資料館には、赤松大尉の軍刀や恩賜の銀時計、軍隊手帳などが、きちんと展示されていた。大江氏が「沖縄ノート」で書いたような「戦争犯罪者」、「屠殺者」だったら、村役場も村人も展示などするはずがない。隠されてきた村人の「沈黙」、その本意が垣間見られるような展示だった。 

照屋昇雄氏の証言


渡嘉敷島から戻った翌日、那覇市のホテルで、私達は、照屋昇雄氏のインタビューを行った。三欣会という沖縄保守系の人々の勉強会に参加する形で、照屋氏は仲間と共に私達を待っていた。だいぶ緊張した様子で、ご自身もそう話されていた。以下のインタビューは、五月と七月、九月に照屋氏からお聞きした話の核心部分である。

「ずっと沖縄本島にいらっしゃったのですか?那覇市に?」

那覇市にいるんですよ。小さい時はクニガミのモトグというところ。

「沖縄戦は体験されてるのですか?」

体験しておりますよ。僕は重砲七連隊。僕はその時少年兵だから。捕虜になりましたかね、一年八ヶ月だったかな。ハワイ(の収容所)で二十一歳の誕生日、戦後戻って、あれやこれやして新聞社に入ったりしてね、食うためにいろんな思いして。

「その中で援護局の職員として採用されたということですね」

そうですね。琉球政府社会局援護課調査係、調査係の旧軍人軍属資格審査委員です。政府関係者から『援護法ができて、軍人関係の調査を行うからこないか』と言われ審査委員になりました。私は、島民にアンケートを出したり、直接聞き取り調査を行うことで、援護法の適用を受ける資格があるかどうかを調べたりしました。各市町村をかけずりまわって調査をするのは、南西諸島に対する旧軍人軍属に対する日本政府からの恩給、沖縄戦で亡くなった人にはお金をあげましょうということで、沖縄戦について、戦闘状況を調べてくれと。いつどこで戦死したかなど調査して、記録簿を作って、厚生省に援護金をもらうために、私が審査員になったんです。

「なぜ今六十一年経って、当時のことを話すことを決心されたのですか」

私はね、本当、今までね、口をね、何十年間 全部封鎖しておりましたよ。で、渡嘉敷村のこと、座間味村のことが嘘で報道されて、嘘、言ってるんですよね。赤松隊長や座間味にいた梅澤隊長、少佐ですね、あの人は。この方なんかにすまない、すまないと思いながら、今まで、もう歯くいしばって、あっちの村の人も、全部心ひとつにしてね、誰が来ても、誰にもそのこと、言わないといってね。何故、今ごろ私がね、その話をするかといいますと、大きな理由があるんですよ。

赤松隊長が、自決命令を出して、住民をね、谷底のところ、全部で三百十五名、自決させたんだと、大きく報道しているのは、(沖縄)タイムスですよ、真実性が欠けてるんです。それはもう惨たらしい自決のやり方だったんです。もう本当にね、一緒に調査した南方連絡事務所から来られたマブチさんていう方がおりましたが、なんとか助けられんかというわけで、援護法上、自分で死んだものは、自決は援護法に該当しないんです。この戦争で、満州や南方全部、たくさんの人が自決してるんですね。

それを沖縄だけね、格別にできないということでね、絶対にそれはできないということだったんですよ。村長さんの玉井喜八さんと二人でね、五十五年だったかなあ、自決は軍の命令だったと嘘言って、文章書いて、書類作って、援護金もらったなんて言えなかったし、それは責任問われたら大変だし、今まで全部口を封じておりました。渡嘉敷島の人も、援護局の書類を書いた人の小峰さん、誰も言わない、言ってはいけない、ということで隠し通していた。

玉井村長さんが死んで、あの人の慰霊をするために真実を明かすときが来たんじゃないかという事で、奥茂治さんたちからもお話があって、正しいものを、後世に伝えなければいけないと思って、もう新聞に叩かれようが何しようが、もう真実を述べてね、いいんじゃないかと思ったんですよ。今まで、隠し通して、僕らももう年だし、いつ死ぬかわからんから、真実をね、もうハッキリしようじゃないかと、僕自身で決めたんですよ。

「渡嘉敷島ではどれぐらい聞き取り調査をしましたか」

 渡嘉敷村の場合は、あっちに約一週間くらいいましたね。いちいち、何か調査するには、そんなくらいに長くかかるんですよ。要するに援護金の該当するのは全部なんです。だからだいたいの嘘はわかりますってね。

「その時は、関係者の方、何人くらいから話しを聞いたのですか?」

そうだなあ、女の方から大方聞いてるからね、百から二百名…一日書いて、夜はまた整理せんといかんですね、たくさんの人の証言をまとめることは難しいんですね 

「その百名以上の方の中に、集団自決が軍の命令だと証言した住民はいましたか」

一人もいないですよ。一人もいない。これは断言します。女も男も全部集めて調査しましたよ。だって無いのに。軍の命令があったっていうのは、僕は、沖縄タイムスの記者が自決のあったサイパンかどこかの記事を引用してね、書いたんじゃないかと思いますよ。自決命令したとかなんとか言うのは、サイパン帰りがおりましてね、サイパンでは隊長命令で自決したってね、それを沖縄に適用して真似てね、隊長命令と書いたんじゃないかと。

「蘇鉄(そてつ)地獄」を何とかしたい それに応えてくれた赤松隊長


「なぜ集団自決をしたのでしょうか」

沖縄での自決の実態を僕ら掌握してみたらね、沖縄のね、文化、風習っていうかな、沖縄の墓は、外国で死のうと、どこで死のうと、全部こちらに、大きな墓に祀るという昔からの文化があります。家族が全部集まる。その文化があるので、あちこち死ぬよりも、家族一緒に死のう。そしたら誰か墓に祀るだろう。

それと、当時の教育思想関係からして、国に減私奉公しようという気持ちで死んだんです。撃ちてしやまん、アメリカにあれするより、一人でも殺して死のうといって。

それと集団自決は、座間味が先なんですよ、二十六日。二十八日が渡嘉敷。あっちの村長さん、農業組合長、校長先生ね、非常に熱血で誇り高い人でね、最初、校長先生が切腹してね、自決し始めたらしいよ。もうぼんぼんアメリカ軍が上陸してるもんだから、じゃあ死んでいこう。その村長さんと校長先生が死にはりまして、そしたら座間味の人は、こっちからこちらへ伝えられましてね、僕らも死のうかといってね、三十二名ぐらいかな、自決して死んだ、もう米軍に上陸されて混乱しているですよ。僕は死なないと言ってこっちの島に逃げてた者が、もう大変だ、もう住民全部死んだ、全部自決したって。それを聞いて、こっちからこっちに大きな噂が流れてね。

どうしようかこうしようか言う時にね、古波蔵っていう村長さんが、あの人、村からね、信用無いんですよ。だって住民集めて、演説もしてるんです。全部死ぬと言ってね、アメリカの捕虜になって女はアメリカのおもちゃになってとか、何とかかんとか言ってからね、もう自決やりましょうって手榴弾持ってね、あの、赤松隊長が渡したってあれも嘘ですよ。防衛隊って言ってね、一般の人がすぐ召集されて、何でもない兵隊も軍だかわからないものを、鉄砲もつけたし、全部、手榴弾渡してあったのよ。一人くらい撃ち殺せって、戦車をね、ぶっ壊せって。防衛隊の人たちがね、逃げてきてね、村の人たちの中に入って、これを爆発させてるんですよ。もう全員死ぬという噂が、流れ流れて渡嘉敷村の愛着を持っている人は、集まって自決した。これが理由です。聞いた範囲は、これであります。

「集団自決を軍命令とした経緯はどうなんですか」

援護金の調査しているとき、1ヶ月間、アメリカから食糧の配給がストップされ、その時に蘇鉄を食って死んだ人がいる。「蘇鉄地獄」と言ってね、その時にね、援護法ができてるからなんとかしてみようと、あまりに惨たらしい死に方だから、かわいそうだというふうで、東京の(南方同胞)援護会なんかも掛け合って、援護法の適用って出来ないかってことになって、南方連絡所のマブチさんという人が、もう泣くぐらいに懇願した。なんとか助ける方法がないかって言ってね。審査委員会というのがありましてね、東京で。その時にはね、何回言っても、ノー!駄目って。日本国中ではそういう人たくさんいるからね、駄目だって言って、ああやこうやしてるうちにね、その規定の中に、隊長の命令、もしくは、隊長の命令による銃殺、もしくはスパイ行為とかで、援護法の適用法律がある。

その中に「隊長の命令によって死んだ場合は、お金をあげましょう」という条文があるんだが、実際に隊長の命令で自決したという人はいなかった。そしたらね、誰なのかわからんが、誰かがその当時の隊長さんたちにね、お願いして、とにかく、自決命令を出したと言ってくれ、そうすれば(政府から)お金が出るからと言ってね、しかし、誰もならない、馬鹿じゃない限り、あんた、自分で自分を、縄で首しめる隊長はいないですよ、そして十二月頃かな、最後の東京の会議がありましてね、私は参加しておりませんが、渡嘉敷の玉井喜八村長さんが、参加したらしい。

その時に、厚生省の課長さんかな、なんか、赤松さんがね、村を助けるために十字架を背負いますと、言いよったよということなんです。村長さんは早速、赤松隊長に、自宅に会いに行ったの。兵庫県かどこか関西の方…そこへ行ってですね、隊長命令だったという命令書を書くということになっているそうですが、ということを話したらね、お前ら書いてこい、お前らが書ければサインして判子を押しましょうということになったんです。

村長さん大喜びしてね、二十五日頃帰ってきましたよ。書類と資料提出が、翌月の十五日か十六日までに間に合わして、その隊長さんの命令って書くんだから、二人で、大晦日だったなあ、二人夜通しで作って、大晦日という、書き終わってね、二人で一杯飲みながら、もう夜明けで…。

「それは命令書なんですか?」

あれはね、命令じゃなかったな。渡嘉敷住民へ告ぐと書いてある。玉井村長と二人でね、赤松隊長の身になって書いたからね、何年何月何日、渡嘉志久から米軍が上陸して、もはや村の役所の前にきてる、国のために降伏せず、一人でもアメリカ人をやっつけて、というよう内容だったはず、住民もね、死して国のためにご奉公せよとか沢山書いて、自決せよとかそんな命令じゃないんですよ、教育じみてるのが命令書となってるんです。

「それは、赤松隊長には見せたんですか?」

サインして(判子を)押して、(翌年)一月十五日だったかな、閣議に出さなければ間に合わないということで、十五日までに、間に合わすよう、村長さん持っていったの。サインと判子を宜しく貰って、喜んでね、間にあったと言って、二人でまた飲み屋で一杯飲んで。私はあとから、南方事務所のマブチさんという人に「赤松隊長、どうして、お願い聞いてくれたのかね?」と聞いたら、「照屋君、あの人は、沖縄病といわれるくらい沖縄にかかっている偉いい方から、何とか沖縄を救えないかと耳打されたという話があるんだが、だからあんなに一生懸命になっているんだよ」と。

本当か、真実はわかりませんよ。赤松隊長が、私が命令したということにしようと十字架を背負ってくれた。赤松隊長さんは、村民からは、神様みたいな方だった。非常にいい人、私も、会ってみてそう思います。

「住民は、赤松さんがそうやってくれらから援護金が出たことを知っているのですか?」

わかってる。だから、いかにどんな人が来てもね、口をつぐんでいる。唇寒しでね、絶対言いませんよ。向こうの住民は、絶対に、

「援護担当だったコミネさんは喋ってくれないのですか?」

言わない。あの 村のね、援護係してたのは小峯幸信。まず言わないでしょう。五十年くらい前よ、絶対言ってならん、死んでも言ってならん、これ言ったら、大変になるよつって、玉井村長と小峯さん、この僕と三人で誓いを立てたんです。村民はね、これを聞いてね 全部わかるわけです。絶対言わない、座間味も同じ。

「あらためて、お聞きしますが、なぜ、今証言すると決めたんですか」

深い理由があるんですよ。赤松隊長はね、余命三ヶ月、ガンで亡くなったらしいんですがね、電話でね、私は命が三ヶ月しかありません、だから、玉井村長、村史から私が自決命令をしたと、あれをね、削除して、その訂正文をはさんでくれんかと何回もきた。何回もね。そうしたら村長さんはね、赤松隊長はもう病気だし、照屋くん、どうしたらいいか、恩はあるし、村史からこれ消したらいけないし、僕はもう寝ても起きてもできないよってね、どうしたらいいのって言ってね、いろいろ弁護士とかね、いろいろ調べたらね、ああもいかない、こうもいかない、もう、心配して眠ることもできないんですよ。

そしてどうしようかって二人とも夜通し酒飲んで、帰ってきても、また電話きてね 照屋くん、僕、ウィスキー飲んでも、睡眠薬飲んでも眠れんつって。僕は慰めてね、宥めながら何回も呼ばれ、やけ酒飲みました。そして赤松隊長が亡くなったら、玉井村長、あの人は、ああも出来ない、こうも出来ないと毎日心労してね 病気して、間もなくして死にましたよ。あの人はこれで死んだんですよ。

考えてみんさいよ、どこの隊長がね、学識ある人がよ、例え命令したと言ってもね、命令しなかったと突っぱねるのが普通ですよ。悪いことを僕が引き受けましょうって、いかに善い人であるかね、本当に十字架を背負ってね、僕らは毎日手を合わせておりましたよ。だってこの人に責任負わせて苦しめているでしょ、新聞に赤松隊長の悪口見たりするとね、心が張り裂ける思い。胸に短刀裂かれる思いしよった。あんないい人をね、だから私もね、真実を言ってね、もう隠すもんじゃない、言うべきとこは言っておこうと、もう寿命しれてるからって言ってね、生きてるうちにはっきりしたことを申し上げようと思って今、申し上げてるんですよ。あの人のね、御霊をね、安らかにするために、私は真実を言わなければいけないんです。


インタビューを終えた照屋氏は、長く苦しかった「沈黙」から解き放たれたせいか、疲れてはいたが、ほっとした様子とすべきことをした誇りに満ちた表情を浮かべていた。インタビューの途中では、何度も声を詰まらせ、涙を流した。その涙が、凍結されたままだった「沈黙」を一筋づつ溶かしていくように思われた。男の涙はいいものだと思った。

電話が鳴ると心臓が縮む 真実語った照屋さんの今


さて、二人のインタビューでも指摘されていない一つの「沈黙」について、私はあえて述べておきたいと思う。慶良間諸島の皆さんの「沈黙」は、ただ、援護金をもらうために自決を軍命令にしたという理由だけではないということである。

それは、もし、軍の自決命令が無く、戦前の日本の「軍人勅諭」的な価値観を採らず、戦後の価値観で考えてみると、集団自決は大規模な無理心中殺人事件であり、当時残っていた法律の「尊属殺人罪」の適用も考えられなくはなかったのである。情状酌量の余地は勿論あるが、少なくとも戦後的価値観で見れば、特殊な状況下における殺人事件と見られても仕方ない。

だからこそ、どんなことがあっても、軍命令としたかった要素もあったのではないか。戦前までの日本において、自決は自らの誇りと武勇、栄光を体現するものだった。慶良間の集団自決もそんな流れの中に起きた。集団自決で散華なさった皆さんを軍国主義に騙された戦争被害者として片付ける戦後日本と沖縄に、私は怒りすら覚えるのである。

私達は、この照屋昇雄氏と金城武徳氏に対して五月に行ったインタビュー内容を文字メディアで取り上げてもらおうと、テープと企画書を産経新聞社に持ち込んだ。産経はこれまでも集団自決問題について積極的に報道、論評してきたが、今回も記者が沖縄まで取材に飛んでくれた。それが八月二十八日付けで、同紙一面(東京版)に掲載された記事である。  

私達も衛星放送「日本文化チャンネル桜」(CH767)として、八月十五日、「沖縄集団自決の真実」として特別番組で放送した。この反響は大きかった。インターネットの2ちゃんねるでは、投稿数が一万を超える大きな反応を呼んだ。照屋さんの勇気を称える投稿がほとんどだった。

これに対して、沖縄ではどうだったのか。集団自決は軍命令だったとする主張の大本となった「鉄の暴風」の出版元で現地の新聞社「沖縄タイムス」は、冷たい黙殺を続け、沖縄タイムスと並ぶもう一つの現地新聞社琉球新報は、早速文化欄で、「集団自決訴訟 問われる沖縄戦観」と題して訴訟被告側の岩波書店編集局副部長のインタビュー記事を掲載した。その見出しは「軍の残虐性否定が目的 沖縄の人々への挑戦」という刺激的なものだった。

九月初め、私たちは再び座間味島取材のため、沖縄を訪れ、照屋さんに話をうかがった。新報の記事が出ても、その決意は全く揺ぎ無いものだったが、電話が鳴ると心臓が縮むような思いがすると話していた。琉球新報も、その後はインターネット上の反応に恐れをなしたか、沖縄タイムス同様、沈黙を続けている。この両新聞を読んでいると、朝日新聞が保守新聞に思えてくると言っていた沖縄の知人が、曽野綾子氏さんの『沖縄戦・渡嘉敷 島集団自決真実』(絶版になっていた『ある神話の背景』をWAC出版が今年五月に文庫として復刻)那覇市内の書店の店頭には並らんでいないと連絡して来た。これが戦後沖縄の現実なのだろう。

 そういえば、大江健三郎氏が、九月になって五回目の中国訪問をしたという報道があった。大江氏は、南京市内にある「南京大虐殺記念館」を初めて訪れ、「館内には展示品がたくさんあるが、大江氏は一つひとつに丁重に頭を下げていた」「頭を下げた回数は全部で100回を超えているだろう」(九月十三日付、中国紙「現代快報」)「大江氏は日本人の鑑だ」(同紙十四日付)などと現地メディアに報じられた。このノーベル賞作家の中国での神妙な平和の使徒のごとき表情を想像すると、私は笑うに笑えず、得体の知れない私達人間への「沈黙」を余儀なくされるのである。

取材スタッフ 井上和彦・仙頭直子
取材協力 奥茂治(南西諸島安全保障研究所) 
                  産経新聞記者 豊吉広英 
             (おわり)
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