第548話:逃走と覚悟 作:◆CC0Zm79P5c
 彼らは咄嗟に森の中に飛び込んでいた。各々、傷は浅い。
網膜にはひとりの男が焼き付いている。自らの生命を代価に、彼らを生かしてくれた魔界医師。
彼の処置は死に際にあってすら完璧だったのだ。
埋葬をしたいところだったが、その時間はない。事態は生命の危機から立ち直ってなお緊急を要していた。
網膜にはひとりの男が焼き付いている。自らの生命を代価に、彼らを生かしてくれた魔界医師。
彼の処置は死に際にあってすら完璧だったのだ。
埋葬をしたいところだったが、その時間はない。事態は生命の危機から立ち直ってなお緊急を要していた。
「西へ逃げよう」
メフィストの遺言を呟き、決断したのはヘイズだった。だが、その表情は暗い。
全員が分かっていたのだろう。自分たちは足場と見通しの悪い地面を走る。対して相手は空を飛ぶ。
追いつかれるのは必至。さらにいうのなら戦力も桁違いだ。
(勝てるわけがない)
なまじっかI-ブレインによる未来予知演算が可能なヘイズは、誰よりも正しくそれを理解していた。
戦力、状況、地の利――その他諸々の要素で敗北の演算結果がはじき出される。
それでも逃走を選んだのは、ここで生命を放棄できないからだ。
放棄するというのならば、それは侮辱だ。すべてを投げうって彼らを存続させた者への侮辱。
「奴らはそれをしようとしてる」
静かに、呟く。
火乃香、コミクロン、そしてパイフウはその呟きを黙って聞いていた。
誰もがその言葉の意味を理解している。
誰もがその言葉の重みを理解している。
誰もがその言葉の不可能を予測している――
「だけど、俺達はそれにどこまでも抗わなくちゃいけない……!」
すべてを理解している彼らに、反論はない。いや――
ひとりだけ、コミクロンが青白い顔をしてぼそりと呟いた。
「……無駄だ。それじゃ無駄死にだ」
予想外の言葉に、驚愕の表情で火乃香が振り向く。
コミクロンの表情はどこまでも白かった。暗いのではない。ただ白い。そこにはあらゆる感情が消えていた。
「あんなのから逃げられる訳もないし、勝てるわけもな、いっ」
陰鬱な言葉を吐き捨てたコミクロンの語尾が跳ね上がる。
ヘイズがコミクロンの胸ぐらを掴んでいた。押し殺した怒声があがる。
「じゃあどうしろってんだ! このまま無駄死にするってのか!」
「俺たち全員が何をしようと、それは無駄死にになるっていってるんだ!」
いつになく強い語調で、コミクロンが絶叫する。
そこに――その底なしの悲壮感の中に、だが諦観がないことにヘイズは気づいた。
胸ぐらを掴まれたまま、コミクロンが冷たい口調で断言する。
「だから、俺が行く。俺がしんがりで足止めをする。
その間に三人はバラバラに逃げてくれ。そうすれば少しは生き残る確率もあがるだろ」
「馬鹿なこと――」
制止の言葉をあげようとしたヘイズの喉に、夜気で冷えた指先が当たった。
コミクロンの指だ。いつの間にか胸ぐらを掴んでいたヘイズの手が払われ、逆に急所に触れられている。
その正確さと指先から伝わってくる冷気に、ヘイズは身震いした。
いつもふざけたことを言っていたこの男は――こんなにも冷たい表情ができる奴だったか?
「……ティッシやキリランシェロほどじゃないけどな。<塔>の魔術士には戦闘訓練が課されているんだ。
殺す覚悟と――殺される覚悟。必要なら、その両方を魔術士は要求される」
我ながら馬鹿げたことを言っていると、コミクロンは自覚していた。
暗殺の時代は終わったのだ。そんなのは前時代的な、カビの生えた訓示でしかない。
それが自分に必要になるなんて、ずっと思っていなかった。
「でも、いまは必要なんだ」
今のコミクロンの命を捨てる覚悟とは、誰かを救う覚悟。
二度と仲間を死なせたくない。自分の無力さが死なせた少女の肌の冷たさ。
そんなものは、もう沢山だ。
「どのみち空を飛ぶ奴らに有効な攻撃手段を持っているのは俺だけだろ。だから」
「……私のことを忘れてない?」
言葉を遮ったのはそれまで沈黙を守っていたパイフウだった。
コミクロンは僅かに目を見開いた。<塔>の最機密――いや、もはやこのゲームにそれは愚問か。
「……施条銃か。でも、それじゃ単純に威力が――」
「威力は関係ないでしょう? あくまで“囮”ならね」
コミクロンはびくりと身を竦めた。
目の前の女性が発した言葉の裏には、自分が相打ち狙いで挑もうとしていることを見破っている響きがあったからだ。
魔術士達は魔術を制御するため、無意識のうちに全力を封じている。
その制限を外して全力で放てば、おそらく刻印で弱体化している今の状態でも通常規模の魔術を放てるだろう。
ただし、バックファイアで確実に死ぬことを厭わなければだ。
コミクロンはそれを承知で意味消滅を仕掛ける気でいた。
この中で傷を治療できるのはコミクロンしかいない。だからコミクロンはひとりで行く必要があった。
自分の中にある、目前でシャーネを死なせた悲しみ。それと同種のものを置き土産にするのは趣味が悪すぎる。
そう、思っていた。
その後ろ向きな逃走を、パイフウが打ち砕く。
「あなたは卑怯者。逃げろなんて言って、一番逃げているのはあなたじゃない」
「……あんたは違うのか?」
逆に問われると、パイフウは苦笑を見せた。
違いない――静かに認める。確かに自分は逃げようとしている。
その質問には答えずに、パイフウは火乃香を見つめた。戸惑うように、火乃香が口を開く。
「先生は……」
「……お願い、ほのちゃん。聞かないで」
懇願する。彼女に問われれば、自分は容易く決壊してしまうかも知れない。
辺境随一の暗殺者。かつて彼女はそう謳われていた。
だが、いまの自分はどうだ。そんな称号など、見る影もない。
ひたすらにいまの彼女は人間だった。冷徹な殺し屋ではなく、ただの人間。人間では怪物に勝てない。
だから逃げているのだ。火乃香にゲームに乗ったことを知られたくない。火乃香にその理由を背負わせたくない。
だが嘘も言えない。これを逃げといわずに何という?
彷徨うように、指先が外套に触れた。
(私も、逃げることしかできない……)
彼女に出会ってしまえば、冷徹な強さは発揮できない。パイフウという人間は、弱い。
そうか。
(……そうか)
メフィストの遺言を呟き、決断したのはヘイズだった。だが、その表情は暗い。
全員が分かっていたのだろう。自分たちは足場と見通しの悪い地面を走る。対して相手は空を飛ぶ。
追いつかれるのは必至。さらにいうのなら戦力も桁違いだ。
(勝てるわけがない)
なまじっかI-ブレインによる未来予知演算が可能なヘイズは、誰よりも正しくそれを理解していた。
戦力、状況、地の利――その他諸々の要素で敗北の演算結果がはじき出される。
それでも逃走を選んだのは、ここで生命を放棄できないからだ。
放棄するというのならば、それは侮辱だ。すべてを投げうって彼らを存続させた者への侮辱。
「奴らはそれをしようとしてる」
静かに、呟く。
火乃香、コミクロン、そしてパイフウはその呟きを黙って聞いていた。
誰もがその言葉の意味を理解している。
誰もがその言葉の重みを理解している。
誰もがその言葉の不可能を予測している――
「だけど、俺達はそれにどこまでも抗わなくちゃいけない……!」
すべてを理解している彼らに、反論はない。いや――
ひとりだけ、コミクロンが青白い顔をしてぼそりと呟いた。
「……無駄だ。それじゃ無駄死にだ」
予想外の言葉に、驚愕の表情で火乃香が振り向く。
コミクロンの表情はどこまでも白かった。暗いのではない。ただ白い。そこにはあらゆる感情が消えていた。
「あんなのから逃げられる訳もないし、勝てるわけもな、いっ」
陰鬱な言葉を吐き捨てたコミクロンの語尾が跳ね上がる。
ヘイズがコミクロンの胸ぐらを掴んでいた。押し殺した怒声があがる。
「じゃあどうしろってんだ! このまま無駄死にするってのか!」
「俺たち全員が何をしようと、それは無駄死にになるっていってるんだ!」
いつになく強い語調で、コミクロンが絶叫する。
そこに――その底なしの悲壮感の中に、だが諦観がないことにヘイズは気づいた。
胸ぐらを掴まれたまま、コミクロンが冷たい口調で断言する。
「だから、俺が行く。俺がしんがりで足止めをする。
その間に三人はバラバラに逃げてくれ。そうすれば少しは生き残る確率もあがるだろ」
「馬鹿なこと――」
制止の言葉をあげようとしたヘイズの喉に、夜気で冷えた指先が当たった。
コミクロンの指だ。いつの間にか胸ぐらを掴んでいたヘイズの手が払われ、逆に急所に触れられている。
その正確さと指先から伝わってくる冷気に、ヘイズは身震いした。
いつもふざけたことを言っていたこの男は――こんなにも冷たい表情ができる奴だったか?
「……ティッシやキリランシェロほどじゃないけどな。<塔>の魔術士には戦闘訓練が課されているんだ。
殺す覚悟と――殺される覚悟。必要なら、その両方を魔術士は要求される」
我ながら馬鹿げたことを言っていると、コミクロンは自覚していた。
暗殺の時代は終わったのだ。そんなのは前時代的な、カビの生えた訓示でしかない。
それが自分に必要になるなんて、ずっと思っていなかった。
「でも、いまは必要なんだ」
今のコミクロンの命を捨てる覚悟とは、誰かを救う覚悟。
二度と仲間を死なせたくない。自分の無力さが死なせた少女の肌の冷たさ。
そんなものは、もう沢山だ。
「どのみち空を飛ぶ奴らに有効な攻撃手段を持っているのは俺だけだろ。だから」
「……私のことを忘れてない?」
言葉を遮ったのはそれまで沈黙を守っていたパイフウだった。
コミクロンは僅かに目を見開いた。<塔>の最機密――いや、もはやこのゲームにそれは愚問か。
「……施条銃か。でも、それじゃ単純に威力が――」
「威力は関係ないでしょう? あくまで“囮”ならね」
コミクロンはびくりと身を竦めた。
目の前の女性が発した言葉の裏には、自分が相打ち狙いで挑もうとしていることを見破っている響きがあったからだ。
魔術士達は魔術を制御するため、無意識のうちに全力を封じている。
その制限を外して全力で放てば、おそらく刻印で弱体化している今の状態でも通常規模の魔術を放てるだろう。
ただし、バックファイアで確実に死ぬことを厭わなければだ。
コミクロンはそれを承知で意味消滅を仕掛ける気でいた。
この中で傷を治療できるのはコミクロンしかいない。だからコミクロンはひとりで行く必要があった。
自分の中にある、目前でシャーネを死なせた悲しみ。それと同種のものを置き土産にするのは趣味が悪すぎる。
そう、思っていた。
その後ろ向きな逃走を、パイフウが打ち砕く。
「あなたは卑怯者。逃げろなんて言って、一番逃げているのはあなたじゃない」
「……あんたは違うのか?」
逆に問われると、パイフウは苦笑を見せた。
違いない――静かに認める。確かに自分は逃げようとしている。
その質問には答えずに、パイフウは火乃香を見つめた。戸惑うように、火乃香が口を開く。
「先生は……」
「……お願い、ほのちゃん。聞かないで」
懇願する。彼女に問われれば、自分は容易く決壊してしまうかも知れない。
辺境随一の暗殺者。かつて彼女はそう謳われていた。
だが、いまの自分はどうだ。そんな称号など、見る影もない。
ひたすらにいまの彼女は人間だった。冷徹な殺し屋ではなく、ただの人間。人間では怪物に勝てない。
だから逃げているのだ。火乃香にゲームに乗ったことを知られたくない。火乃香にその理由を背負わせたくない。
だが嘘も言えない。これを逃げといわずに何という?
彷徨うように、指先が外套に触れた。
(私も、逃げることしかできない……)
彼女に出会ってしまえば、冷徹な強さは発揮できない。パイフウという人間は、弱い。
そうか。
(……そうか)
 唐突に、気づく。
パイフウは顔を上げた。
そうだ、自分は弱い卑怯者だ――捨て鉢な戦いは出来ない。
何故ならば、その理由は目の前にいるではないか。
パイフウは顔を上げた。
そうだ、自分は弱い卑怯者だ――捨て鉢な戦いは出来ない。
何故ならば、その理由は目の前にいるではないか。
「私は逃げるんじゃない。そしてあなた達を助けるでもない」
 自分は弱い――だからどうした。
「私には私の矜持がある」
 口許に刻むは獣の笑み。
何故黒幕の犬に成り果てた――?
何故黒幕の犬に成り果てた――?
「私は譲れない、奪われたくない物のために戦う!」
 ――彼女を救うと誓ったからだろうが!
彼女の宣告に、コミクロンとヘイズは黙っていた。だが、長い沈黙ではない。
その言葉には力があった。皮肉にも彼女が破滅の切っ掛けを作った大集団の長、ダナティアと同種の力が。
「やれやれ――ティッシかアザリーみたいな女だな」
「嫌いじゃないぜ。そういうの」
二人の顔には苦笑と了解。だが、火乃香だけが表情を歪ませている。
パイフウは優しい笑みを浮かべながら、迷彩外套を火乃香に押しつけた。少しでも彼女を救ってくれるように。
こんな表情も……忘れていた。管理者共に奪われていた。
だが取り戻した。もう大丈夫だ。この顔ができるのなら、自分はまだ戦える。
「あなた達、彼女をきちんと守りなさいよ――ナイトの役目を譲ってあげるんだから、光栄に思いなさい」
「お姫様ってタマかよ。だが、約束する。俺たちは絶対に死なない。そしてお互いに誰も死なせない」
ヘイズが力強く断言する。
「コンビネーション1-1-9」
コミクロンが大陸最高峰の治癒魔術を発動。鈍痛のみを神経に残し、パイフウの傷が瞬時に塞がる。
「餞別、いやこれは貸しだな。あとで返せよ。そしてこの偉大なる頭脳に刻まれたことを感謝するがいい」
「……ありがとう」
彼女のためならば、臆面もなくそんな言葉も言えた。
「先生……あとで、また会えるよね?」
ただ、泣きそうな顔をした火乃香には、ひと言も返すことは出来なかった。
困ったように笑みを浮かべて、誤魔化す。
彼女にだけは、嘘をつけなかった。
彼女の宣告に、コミクロンとヘイズは黙っていた。だが、長い沈黙ではない。
その言葉には力があった。皮肉にも彼女が破滅の切っ掛けを作った大集団の長、ダナティアと同種の力が。
「やれやれ――ティッシかアザリーみたいな女だな」
「嫌いじゃないぜ。そういうの」
二人の顔には苦笑と了解。だが、火乃香だけが表情を歪ませている。
パイフウは優しい笑みを浮かべながら、迷彩外套を火乃香に押しつけた。少しでも彼女を救ってくれるように。
こんな表情も……忘れていた。管理者共に奪われていた。
だが取り戻した。もう大丈夫だ。この顔ができるのなら、自分はまだ戦える。
「あなた達、彼女をきちんと守りなさいよ――ナイトの役目を譲ってあげるんだから、光栄に思いなさい」
「お姫様ってタマかよ。だが、約束する。俺たちは絶対に死なない。そしてお互いに誰も死なせない」
ヘイズが力強く断言する。
「コンビネーション1-1-9」
コミクロンが大陸最高峰の治癒魔術を発動。鈍痛のみを神経に残し、パイフウの傷が瞬時に塞がる。
「餞別、いやこれは貸しだな。あとで返せよ。そしてこの偉大なる頭脳に刻まれたことを感謝するがいい」
「……ありがとう」
彼女のためならば、臆面もなくそんな言葉も言えた。
「先生……あとで、また会えるよね?」
ただ、泣きそうな顔をした火乃香には、ひと言も返すことは出来なかった。
困ったように笑みを浮かべて、誤魔化す。
彼女にだけは、嘘をつけなかった。
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