第568話:私は平和な世界に飽き飽きしていました 作:◆5KqBC89beU
 長い廊下がある。
通路の内装は、無用に自己主張しすぎることなく、それでいて品の良いものだ。
一定の間隔で設置された照明さえも、見事に機能美を表現していた。
屋外の風景は見えない。左右の壁には延々と扉が並び、視界内には窓がない。
雨音と雷鳴が、遠く響く。
四つの足が床を踏む音は、ほとんど絨毯が消していた。
足早に歩く女と、その背を追う男が、言葉を交わしつつ直進していく。
「いやぁ、それにしても、大変なことになっていたんですねぇ」
頼りなさげな微苦笑を浮かべて、神父の格好をした男は無駄口を叩いている。
眼鏡をかけた彼の名は、アベル・ナイトロードという。
頬をかく人差し指が、これ以上ないくらいに腑抜けた雰囲気を醸し出していた。
「言わずとも済むことをいちいち口に出すでない。不愉快じゃ」
顔をしかめて美貌を台無しにしながら、天使である女は言う。
喪服姿の彼女のことを、バベルちゃんと呼ぶ者は呼ぶ。
頭に生えた立派な角は、ひょっとすると普段より鋭く尖っていたかもしれない。
「ところで」
「何じゃ?」
視線を合わせることすらせず、彼と彼女は会話する。歩調は減速しそうにない。
「この一件が解決したら……あなたがたは、それからどうするんですか?」
「解決してから話してやろう。頼むから、しばらく黙っていてくれぬか」
苛立った声で告げられた拒絶を、彼は平然と受け流した。
「そんなこと言わずに教えてくださいよ。聖職者が天使様のことを知りたがるのは、
当たり前じゃないですか。すごく気になるんですよ」
「この場の空気さえ読めぬ者が、一人前の神父として働けるとは思えんのじゃが」
女の酷評を理解していないかのように、男が舌を蠢かせる。
「やっぱり以前の任務を再開するんですか? 不老不死を人間の手から奪うために」
通路の内装は、無用に自己主張しすぎることなく、それでいて品の良いものだ。
一定の間隔で設置された照明さえも、見事に機能美を表現していた。
屋外の風景は見えない。左右の壁には延々と扉が並び、視界内には窓がない。
雨音と雷鳴が、遠く響く。
四つの足が床を踏む音は、ほとんど絨毯が消していた。
足早に歩く女と、その背を追う男が、言葉を交わしつつ直進していく。
「いやぁ、それにしても、大変なことになっていたんですねぇ」
頼りなさげな微苦笑を浮かべて、神父の格好をした男は無駄口を叩いている。
眼鏡をかけた彼の名は、アベル・ナイトロードという。
頬をかく人差し指が、これ以上ないくらいに腑抜けた雰囲気を醸し出していた。
「言わずとも済むことをいちいち口に出すでない。不愉快じゃ」
顔をしかめて美貌を台無しにしながら、天使である女は言う。
喪服姿の彼女のことを、バベルちゃんと呼ぶ者は呼ぶ。
頭に生えた立派な角は、ひょっとすると普段より鋭く尖っていたかもしれない。
「ところで」
「何じゃ?」
視線を合わせることすらせず、彼と彼女は会話する。歩調は減速しそうにない。
「この一件が解決したら……あなたがたは、それからどうするんですか?」
「解決してから話してやろう。頼むから、しばらく黙っていてくれぬか」
苛立った声で告げられた拒絶を、彼は平然と受け流した。
「そんなこと言わずに教えてくださいよ。聖職者が天使様のことを知りたがるのは、
当たり前じゃないですか。すごく気になるんですよ」
「この場の空気さえ読めぬ者が、一人前の神父として働けるとは思えんのじゃが」
女の酷評を理解していないかのように、男が舌を蠢かせる。
「やっぱり以前の任務を再開するんですか? 不老不死を人間の手から奪うために」
 そう言って、アベル・ナイトロードを装っていたそれは立ち止まった。
 女の体が石像のごとく硬直し、次の瞬間には振り返って臨戦態勢をとる。
「そなた、いったい何者じゃ? どうして極秘任務の内容を知っている?」
その冒涜的な“何か”は、もうアベルを演じていない。
「わたしは御遣いだ。これは御遣いの言葉だ。……質問に答えよう、愚かな天使」
アベルの声で、アベルの姿で、アベルのようなものが宣う。
「かつて答えた問いには、過去と同じ答えを返す。君に返答を確約するのは一度だけ
だが、既出の質問については数に入れない。薔薇十字騎士団よりも上位に在る者、
あの殺し合いを望んだ者、それがわたしだ。名が要るならばアマワと呼べ」
命を弄ぶ者どもの首魁が、今ここにいる。
「!?」
それは、アベル・ナイトロードではない。
ならば、現在地がミラノ公の館であるとは限らない。
そして、この世界が薔薇十字騎士団の出身地だという確証もない。
もはや、ここへの来訪を提案した、眼帯の天使が無事なのか否かも判らない。
だから、天使の組織を束ねる議長ともあろう者が、自身の判断さえも信じられない。
問いに答えるため、御遣いは無表情に口を開く。
「厳重に秘されているはずの情報を漏らしたのは、君たちが『神』と呼んでいる者だ。
あれはわたしの協力者であり、必要な知識はあらかじめ伝えられている」
「デタラメを言いおって!」
語気を荒げて、女が叫ぶ。
「認めないのは君の勝手だが、永遠に、その解釈は正しいと証明できない」
応じる口調には、何の感慨も込められていない。
「嘘じゃ! わらわたちが捨てられたなど!」
悲鳴のような糾弾からは、今にも熱が消えそうだった。
「君たちは、あれの被造物にして、不要になれば処分される玩具でしかない。そして、
捨てられる理由は、主たる『神』の命令よりも同胞の幸福を優先した故にではない。
そもそも、君たちは『神』へ反逆できるよう設計されていた。あれがそれを望んで、
そうなるように創ったからだ。君たちは失敗作ではない。飽きられたから捨てられる
だけの消耗品だ。いつか廃棄されることまで、創造された時点で決まっていた」
「そ……そんなことなどあるものか!」
女の顔面には、憤怒よりも、焦燥と狼狽の色が濃く滲んでいる。
「本当に? 君は本当にそうだと思っているか?」
毒の滴るような笑みをアベルの顔が浮かべ、その容姿が別のものに変わる。
「今、ここには、君たちが『神』と呼ぶあれの力が届いていない」
眼帯をした天使の姿で、御遣いは語る。
噛みしめられた女の奥歯が、耐えきれずに軋みをあげる。
「だから、あれの影響で認識できなかった真実が、今の君には理解できる」
モヒカン頭な天使の姿で、御遣いは述べる。
握りしめられた女の手指が、掌に爪を食い込ませていく。
「もう一度よく考えろ」
目の下にクマのある、羊の角を生やした天使の姿で、御遣いはささやく。
「あれは本当に君たちの味方か?」
「っ」
娘の姿をしたそれを、女は攻撃できなかった。
「不老不死の薬を創るはずの草壁桜に、時を遡って干渉し、歴史を改変する。それが
君たちに望まれている役目だった。ならば、それが成功すればどうなるか。歴史は
改変され、“不老不死の薬が創られた世界にいた君”は消える。改変された未来で、
誰かが、過去の世界へ行った天使を見つける。その天使は歴史を改変した当事者だ」
女の内側で、大切な何かに亀裂が入った。
いつの間にか、周囲からは多くのものが見えなくなっている。
壁も扉も天井も照明も床も絨毯も、ない。
「いずれ多くの人間を助けられるかもしれなかった、大罪など犯していない草壁桜に、
天使が酷いことをしていたわけだ。理由を訊けば、『何故か自分でも判らない』と
言うかもしれないし、『彼が不老不死の薬を創れないように邪魔しただけ』と言う
かもしれない。改変された者たちにとっては、どちらだろうと精神病患者の妄言だ。
歴史を改変したその天使は、間違いなく悲惨な末路を辿る」
長い廊下など、どこにも存在していない。
「君たちが『神』と呼ぶあれは、歴史が改変されても改変以前の記憶を失わないが、
その天使を絶対に庇わない。不要だからだ。代わりならいくらでも創れるのだから、
薄汚れた玩具など壊れてしまえばいい――あれはそう考える」
雨音も雷鳴も既にない。
「草壁桜が“不老不死の薬を創れる程度の能力”を持っていたのも、それが放置された
のも、君たちが『神』と呼ぶあれが原因だ。あの一件は、あれの戯れでしかない。
草壁桜の存在そのものを抹消することさえ、あれがその気になりさえすれば一瞬で
片が付く雑事だ」
もう真実しか聞こえない。
「君が指揮する勢力は草壁桜の命を狙い、三塚井ドクロはそれを阻止しつつ歴史を改変
しようとしている。だが、草壁桜の学業を妨害せずとも、三塚井ドクロは歴史を改変
できる。三塚井ドクロは撲殺天使――草壁桜を撲殺し再生する者だ。自覚などしては
いまいが、彼女の能力で人間を完全に復活させることはできない。限りなく本物に
近い偽物を、本物の残骸を材料にして造る程度が精一杯だ。死と再生が繰り返される
ごとに、誤差は蓄積されていく。復元されるたびに、草壁桜と呼ばれているそれは、
人間ではないものになっていく。君たちの世界では、精神的刺激によって成分不明の
体液を垂れ流す生物を人間とは定義していまい。撲殺して造り直して、それを何度も
続ければ、“不老不死の薬を創れる程度の能力”もまた徐々に失われていく」
無数のモノリスが乱立する闇の荒野で、御遣いが天使に言う。
「草壁桜は三塚井ドクロと出会った日に殺された。その日、草壁桜の死体を元にして
造られたのは草壁桜の紛い物だ。君が殺そうとしていたのは草壁桜の成れの果てだ。
すべては、あれがそうなるように望んだからだ」
この領域を、御遣いの盟友は“無名の庵”と呼称している。
視界を妨げることのない異界の闇に包まれ、疲れきった声で女はつぶやいた。
「……何故、そのようなことをわらわに話すのじゃ?」
女の娘を模した御遣いが、わずかに顔をしかめた。
「君たちの『神』は、己の創った玩具が壊れていく様子を楽しんでいる。確かにあれは
わたしの協力者だが、決してわたしの友ではない。あれは観客だ。余計なことはせず
必要最低限の対価は支払うがそれ以上の尽力はしない。邪魔されぬよう、あれ好みの
惨劇を見物させて、機嫌をとるべき相手ですらある。この話もそんな惨劇の一幕だ。
わたしが望みを叶えても叶えられなくても、そこに惨劇があるのなら、あれは何も
手出しをしない。君たちの『神』は、わたしも君も救わない。あれは誰も救わない」
ついに、女の内側で、核であり要でもあった部分が砕けていく。
澄んだ音を響かせて、数条の光が女の背から生えた。
光で形作られた翼は、まるで女を突き刺す白刃のようだ。
天使の力が暴走し、浪費されている。
女の肉体が、少しずつ透け始める。
「消滅に至る病、『天使の憂鬱』――これも『神』が望んだものか」
「必要な知識はすべて伝えられている。『天使の憂鬱』を発症させる方法も教わった」
御遣いの視線は、学者が実験動物を見るときのそれに似ていた。
とある世界において、天使とは観念的な存在だ。
その世界の天使にとって、肉体とは、存在力によって構成されるものでしかない。
存在力の源は、天使自身の個性――己の在るべき姿を自覚し、具象化する意思の力だ。
その世界の天使は、『神』の領域以外の場所では、少しずつ存在を蝕まれていく。
帰郷して静養し、自分の個性を再確認しない限り、病状は悪化していく。己の個性を
忘れて体調を崩した天使は、『神』の領域の外に滞在し続けるだけで消滅する。
己の生まれた世界の地上にいてさえ蝕まれてしまう天使は、異界の中に留まれない。
しかも、『神』の悪意をもって精神を蹂躙されては、意思の力などすぐ尽き果てる。
「わらわたちは、滅ぶのじゃろうか?」
「三塚井ドクロ以外の、君の同胞たちは、すべて君と同じように処分した」
女の頬を濡らす雫は、地面に落ちることなく光の粒となって拡散した。
ただ静かに泣く女へ、御遣いは言う。
「君が刻印に小細工をしたとき、君たちの『神』は大喜びしていた。君のせいで刻印の
機能は安定性を失い、参加者たちの能力には大幅な格差が生まれた。三塚井ドクロの
刻印が本来の効果を発揮しきれていなくても不自然ではない状況を作るためだけに、
君は他の参加者全員を巻き添えにした。同胞以外の参加者たちが、どんなに理不尽な
目に遭おうとも気にしなかった。冷酷な君を、君たちの『神』は得意げに自慢した」
「…………!」
「君が刻印に施した小細工についても、デイパックのどれかに君が忍ばせた紙と鍵に
ついても、そのまま放置してあるし、薔薇十字騎士団が君の規則違反を知ることは
最後までない。君たちの『神』がそれを願い、その要望がわたしの目的と競合しない
以上、紙と鍵を持った参加者が薔薇十字騎士団の居場所に踏み込んでも、わたしは
管理者を守らない。わたしの友も、君たちの『神』も、管理者には加勢しない」
「親切すぎて胡散くさいとしか言えぬ。そなた、すべてを語ってはおるまい?」
「その通りだ、賢しい天使。元々、用が済めば薔薇十字騎士団は始末する予定だった。
結果が同じならば過程はどうでも構わない。無論、君にはそれ相応の報いを今から
わたしが与える」
「何を今さら――」
「君の小細工によって、三塚井ドクロの刻印は正常な効力を発揮しなくなっていく。
ただの人間を撲殺できなかった彼女の腕力は、非常識で致命的な破壊力を取り戻す。
灰から煙草を作ることすら不可能だった彼女の能力は、故障中の機械を材料にして
問題なく稼動する機械を作れるほどに蘇る。怪我をしても自力で回復できるように
なる。自身を弱体化させている力への拒絶反応が、攻撃衝動を活性化させ、生存率を
上げる。ほとんどの参加者たちは、制限の緩い彼女を殺せない。しかし、刻印の力は
参加者を害するものばかりではない。三塚井ドクロの刻印は、もはや彼女の精神から
違和感を取り除かない。『今の自分はどこかおかしい』と彼女は常に思う」
透けて薄れていく女の顔が、絶望に歪んだ。
「故に彼女は己の個性を確信できない。『天使の憂鬱』を発症しても、優勝しない限り
帰郷は許されない。君たちの『神』は狂喜している」
天使は、いなくなった。
御遣いだけが、闇の荒野に立っている。
「君たちの“消滅”が死であるとは、誰も証明できていない。元の世界からいなくなり
二度と戻ってこないだけだ。生も死も観測されていないなら、それは未知だ。肉体を
失って、余分なものを削ぎ落とした君たちは、わたしに近しい存在ではないのか?
……未知になった君たちは、わたしに心の実在を証明できるだろうか?」
闇の荒野には、誰もいなくなった。
「そなた、いったい何者じゃ? どうして極秘任務の内容を知っている?」
その冒涜的な“何か”は、もうアベルを演じていない。
「わたしは御遣いだ。これは御遣いの言葉だ。……質問に答えよう、愚かな天使」
アベルの声で、アベルの姿で、アベルのようなものが宣う。
「かつて答えた問いには、過去と同じ答えを返す。君に返答を確約するのは一度だけ
だが、既出の質問については数に入れない。薔薇十字騎士団よりも上位に在る者、
あの殺し合いを望んだ者、それがわたしだ。名が要るならばアマワと呼べ」
命を弄ぶ者どもの首魁が、今ここにいる。
「!?」
それは、アベル・ナイトロードではない。
ならば、現在地がミラノ公の館であるとは限らない。
そして、この世界が薔薇十字騎士団の出身地だという確証もない。
もはや、ここへの来訪を提案した、眼帯の天使が無事なのか否かも判らない。
だから、天使の組織を束ねる議長ともあろう者が、自身の判断さえも信じられない。
問いに答えるため、御遣いは無表情に口を開く。
「厳重に秘されているはずの情報を漏らしたのは、君たちが『神』と呼んでいる者だ。
あれはわたしの協力者であり、必要な知識はあらかじめ伝えられている」
「デタラメを言いおって!」
語気を荒げて、女が叫ぶ。
「認めないのは君の勝手だが、永遠に、その解釈は正しいと証明できない」
応じる口調には、何の感慨も込められていない。
「嘘じゃ! わらわたちが捨てられたなど!」
悲鳴のような糾弾からは、今にも熱が消えそうだった。
「君たちは、あれの被造物にして、不要になれば処分される玩具でしかない。そして、
捨てられる理由は、主たる『神』の命令よりも同胞の幸福を優先した故にではない。
そもそも、君たちは『神』へ反逆できるよう設計されていた。あれがそれを望んで、
そうなるように創ったからだ。君たちは失敗作ではない。飽きられたから捨てられる
だけの消耗品だ。いつか廃棄されることまで、創造された時点で決まっていた」
「そ……そんなことなどあるものか!」
女の顔面には、憤怒よりも、焦燥と狼狽の色が濃く滲んでいる。
「本当に? 君は本当にそうだと思っているか?」
毒の滴るような笑みをアベルの顔が浮かべ、その容姿が別のものに変わる。
「今、ここには、君たちが『神』と呼ぶあれの力が届いていない」
眼帯をした天使の姿で、御遣いは語る。
噛みしめられた女の奥歯が、耐えきれずに軋みをあげる。
「だから、あれの影響で認識できなかった真実が、今の君には理解できる」
モヒカン頭な天使の姿で、御遣いは述べる。
握りしめられた女の手指が、掌に爪を食い込ませていく。
「もう一度よく考えろ」
目の下にクマのある、羊の角を生やした天使の姿で、御遣いはささやく。
「あれは本当に君たちの味方か?」
「っ」
娘の姿をしたそれを、女は攻撃できなかった。
「不老不死の薬を創るはずの草壁桜に、時を遡って干渉し、歴史を改変する。それが
君たちに望まれている役目だった。ならば、それが成功すればどうなるか。歴史は
改変され、“不老不死の薬が創られた世界にいた君”は消える。改変された未来で、
誰かが、過去の世界へ行った天使を見つける。その天使は歴史を改変した当事者だ」
女の内側で、大切な何かに亀裂が入った。
いつの間にか、周囲からは多くのものが見えなくなっている。
壁も扉も天井も照明も床も絨毯も、ない。
「いずれ多くの人間を助けられるかもしれなかった、大罪など犯していない草壁桜に、
天使が酷いことをしていたわけだ。理由を訊けば、『何故か自分でも判らない』と
言うかもしれないし、『彼が不老不死の薬を創れないように邪魔しただけ』と言う
かもしれない。改変された者たちにとっては、どちらだろうと精神病患者の妄言だ。
歴史を改変したその天使は、間違いなく悲惨な末路を辿る」
長い廊下など、どこにも存在していない。
「君たちが『神』と呼ぶあれは、歴史が改変されても改変以前の記憶を失わないが、
その天使を絶対に庇わない。不要だからだ。代わりならいくらでも創れるのだから、
薄汚れた玩具など壊れてしまえばいい――あれはそう考える」
雨音も雷鳴も既にない。
「草壁桜が“不老不死の薬を創れる程度の能力”を持っていたのも、それが放置された
のも、君たちが『神』と呼ぶあれが原因だ。あの一件は、あれの戯れでしかない。
草壁桜の存在そのものを抹消することさえ、あれがその気になりさえすれば一瞬で
片が付く雑事だ」
もう真実しか聞こえない。
「君が指揮する勢力は草壁桜の命を狙い、三塚井ドクロはそれを阻止しつつ歴史を改変
しようとしている。だが、草壁桜の学業を妨害せずとも、三塚井ドクロは歴史を改変
できる。三塚井ドクロは撲殺天使――草壁桜を撲殺し再生する者だ。自覚などしては
いまいが、彼女の能力で人間を完全に復活させることはできない。限りなく本物に
近い偽物を、本物の残骸を材料にして造る程度が精一杯だ。死と再生が繰り返される
ごとに、誤差は蓄積されていく。復元されるたびに、草壁桜と呼ばれているそれは、
人間ではないものになっていく。君たちの世界では、精神的刺激によって成分不明の
体液を垂れ流す生物を人間とは定義していまい。撲殺して造り直して、それを何度も
続ければ、“不老不死の薬を創れる程度の能力”もまた徐々に失われていく」
無数のモノリスが乱立する闇の荒野で、御遣いが天使に言う。
「草壁桜は三塚井ドクロと出会った日に殺された。その日、草壁桜の死体を元にして
造られたのは草壁桜の紛い物だ。君が殺そうとしていたのは草壁桜の成れの果てだ。
すべては、あれがそうなるように望んだからだ」
この領域を、御遣いの盟友は“無名の庵”と呼称している。
視界を妨げることのない異界の闇に包まれ、疲れきった声で女はつぶやいた。
「……何故、そのようなことをわらわに話すのじゃ?」
女の娘を模した御遣いが、わずかに顔をしかめた。
「君たちの『神』は、己の創った玩具が壊れていく様子を楽しんでいる。確かにあれは
わたしの協力者だが、決してわたしの友ではない。あれは観客だ。余計なことはせず
必要最低限の対価は支払うがそれ以上の尽力はしない。邪魔されぬよう、あれ好みの
惨劇を見物させて、機嫌をとるべき相手ですらある。この話もそんな惨劇の一幕だ。
わたしが望みを叶えても叶えられなくても、そこに惨劇があるのなら、あれは何も
手出しをしない。君たちの『神』は、わたしも君も救わない。あれは誰も救わない」
ついに、女の内側で、核であり要でもあった部分が砕けていく。
澄んだ音を響かせて、数条の光が女の背から生えた。
光で形作られた翼は、まるで女を突き刺す白刃のようだ。
天使の力が暴走し、浪費されている。
女の肉体が、少しずつ透け始める。
「消滅に至る病、『天使の憂鬱』――これも『神』が望んだものか」
「必要な知識はすべて伝えられている。『天使の憂鬱』を発症させる方法も教わった」
御遣いの視線は、学者が実験動物を見るときのそれに似ていた。
とある世界において、天使とは観念的な存在だ。
その世界の天使にとって、肉体とは、存在力によって構成されるものでしかない。
存在力の源は、天使自身の個性――己の在るべき姿を自覚し、具象化する意思の力だ。
その世界の天使は、『神』の領域以外の場所では、少しずつ存在を蝕まれていく。
帰郷して静養し、自分の個性を再確認しない限り、病状は悪化していく。己の個性を
忘れて体調を崩した天使は、『神』の領域の外に滞在し続けるだけで消滅する。
己の生まれた世界の地上にいてさえ蝕まれてしまう天使は、異界の中に留まれない。
しかも、『神』の悪意をもって精神を蹂躙されては、意思の力などすぐ尽き果てる。
「わらわたちは、滅ぶのじゃろうか?」
「三塚井ドクロ以外の、君の同胞たちは、すべて君と同じように処分した」
女の頬を濡らす雫は、地面に落ちることなく光の粒となって拡散した。
ただ静かに泣く女へ、御遣いは言う。
「君が刻印に小細工をしたとき、君たちの『神』は大喜びしていた。君のせいで刻印の
機能は安定性を失い、参加者たちの能力には大幅な格差が生まれた。三塚井ドクロの
刻印が本来の効果を発揮しきれていなくても不自然ではない状況を作るためだけに、
君は他の参加者全員を巻き添えにした。同胞以外の参加者たちが、どんなに理不尽な
目に遭おうとも気にしなかった。冷酷な君を、君たちの『神』は得意げに自慢した」
「…………!」
「君が刻印に施した小細工についても、デイパックのどれかに君が忍ばせた紙と鍵に
ついても、そのまま放置してあるし、薔薇十字騎士団が君の規則違反を知ることは
最後までない。君たちの『神』がそれを願い、その要望がわたしの目的と競合しない
以上、紙と鍵を持った参加者が薔薇十字騎士団の居場所に踏み込んでも、わたしは
管理者を守らない。わたしの友も、君たちの『神』も、管理者には加勢しない」
「親切すぎて胡散くさいとしか言えぬ。そなた、すべてを語ってはおるまい?」
「その通りだ、賢しい天使。元々、用が済めば薔薇十字騎士団は始末する予定だった。
結果が同じならば過程はどうでも構わない。無論、君にはそれ相応の報いを今から
わたしが与える」
「何を今さら――」
「君の小細工によって、三塚井ドクロの刻印は正常な効力を発揮しなくなっていく。
ただの人間を撲殺できなかった彼女の腕力は、非常識で致命的な破壊力を取り戻す。
灰から煙草を作ることすら不可能だった彼女の能力は、故障中の機械を材料にして
問題なく稼動する機械を作れるほどに蘇る。怪我をしても自力で回復できるように
なる。自身を弱体化させている力への拒絶反応が、攻撃衝動を活性化させ、生存率を
上げる。ほとんどの参加者たちは、制限の緩い彼女を殺せない。しかし、刻印の力は
参加者を害するものばかりではない。三塚井ドクロの刻印は、もはや彼女の精神から
違和感を取り除かない。『今の自分はどこかおかしい』と彼女は常に思う」
透けて薄れていく女の顔が、絶望に歪んだ。
「故に彼女は己の個性を確信できない。『天使の憂鬱』を発症しても、優勝しない限り
帰郷は許されない。君たちの『神』は狂喜している」
天使は、いなくなった。
御遣いだけが、闇の荒野に立っている。
「君たちの“消滅”が死であるとは、誰も証明できていない。元の世界からいなくなり
二度と戻ってこないだけだ。生も死も観測されていないなら、それは未知だ。肉体を
失って、余分なものを削ぎ落とした君たちは、わたしに近しい存在ではないのか?
……未知になった君たちは、わたしに心の実在を証明できるだろうか?」
闇の荒野には、誰もいなくなった。
【X-?/無名の庵/1日目・19:20頃】
【バベルちゃんを含む管理者側の天使たち 消滅】
【バベルちゃんを含む管理者側の天使たち 消滅】
※薔薇十字騎士団以外のトリニティ・ブラッド勢は、すべて黒幕による幻影でした。
※『天使の憂鬱』は天使特有の病気であり、非超常的な医療行為では完治できません。
発症すると、高熱に苦しめられる、言動が“らしく”なくなる、等の症状が表れ、
刻一刻と心身が不安定になっていき、最終的には存在の消滅に至ります。
※参加者たちの刻印は安定性を失っており、ドクロちゃんの能力に関する影響もこれが
原因でした。刻印の不安定さは、参加者たちを利する場合も害する場合もあります。
そして、どんな影響が『偶然』表れるのかに干渉できる能力がアマワにあるため、
刻印の不安定さが、余興では済まない影響(参加者が刻印の誤作動で死ぬ、黒幕を
簡単に倒せるほどの強さが参加者の身に宿る、等)を及ぼすことはありません。
※『天使の憂鬱』は天使特有の病気であり、非超常的な医療行為では完治できません。
発症すると、高熱に苦しめられる、言動が“らしく”なくなる、等の症状が表れ、
刻一刻と心身が不安定になっていき、最終的には存在の消滅に至ります。
※参加者たちの刻印は安定性を失っており、ドクロちゃんの能力に関する影響もこれが
原因でした。刻印の不安定さは、参加者たちを利する場合も害する場合もあります。
そして、どんな影響が『偶然』表れるのかに干渉できる能力がアマワにあるため、
刻印の不安定さが、余興では済まない影響(参加者が刻印の誤作動で死ぬ、黒幕を
簡単に倒せるほどの強さが参加者の身に宿る、等)を及ぼすことはありません。
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