第576話:幻影―illusion― 作:◆5KqBC89beU
舌打ちしつつ、甲斐氷太は市街地を歩いている。
魔界刑事を殺し上機嫌で大の字に寝転んだ数十分後には、もう仏頂面で起きていた。
それまで意識していなかったものに気がついた結果だ。それ以来ずっと、鬱陶しげに
甲斐は周囲を探り続けている。
妙な気配が甲斐の近くに漂っていた。気配は薄く淡く曖昧であり、だが消える様子が
一向にない。むしろ、徐々に存在感を増しているようですらある。
南の市街地で暴れ始めた悪魔らしき何かに惹かれ、そちらに行こうかどうか悩んだ
こともあったが、それでも優先したのはこちらの気配を調べる作業だった。
他の参加者たちに倒される心配がなさそうな標的よりも、後から出てきて漁夫の利を
得ようと企んでいるかもしれない不確定要素を先にどうにかしておいた方がいい、と
甲斐は判断していた。無粋な横槍を入れられては、戦いがつまらなくなってしまう。
茫漠とした気配は、甲斐の精神をずっと逆撫でし続けている。
気配の正体は判らない。よく知っている何かのようでありながら、そうではなくて
似ているだけの別物であるような気も同時にする。
甲斐氷太が“欠けた牙”だとするならば、その感覚は、欠落した部位を苛む幻痛だ。
呪いの刻印さえなければ、甲斐は事態の本質を把握できたかもしれない。
刻印の気配と、甲斐に付き纏う気配とは、どういうわけか微妙に似ている。
例えるなら、猟犬と野獣がそれぞれ同じ香水を全身に浴びているようなものだ。
周囲に潜む気配には、暗く不吉で禍々しい印象がある。
夜と闇の領域に属する密やかな何かが、すぐ近くにある。
暖かな陽光の下では生まれない、鋭く澄んだ空気がある。
それは、甲斐自身にも共通する要素だ。
動くものを探しながら、住人のいない街角を甲斐は進む。
煙草を取り出し、火種が手元にないことを思い出してポケットに戻す。
ライターは発見できておらず、喫茶店にあったマッチは湿っていた。
ショーウィンドウに映る己の影を一瞥し、甲斐は吐き捨てるように悪態をつく。
ガラスの表面に見えるものは、ただの意思なき自然現象でしかない。
とてつもない強さを誇った“影”は、もはや追憶の中にしか存在しない。
物部景は死んだ。
悪魔狩りのウィザードが甲斐氷太と戦う機会は、もう二度と訪れない。
魔界刑事との死闘によって一度は漂白された頭の中が、急速に赤黒く濁っていく。
忘れえぬ情念が爆発的に荒れ狂う。思考が疾走を始める。
――鮮烈なブルー――鉤爪のような指先が――カプセルを――鏡――ただ心の命じる
ままに――きっと厭なものが――最高に痛快な破壊音を――大気を裂いて泳ぐ――水の
中につながっていて、そこには――闘争の狂喜――“影”は一瞬にして――中と外が
入れ替わる――黒鮫が咆哮を――テメエがどういう野郎かは、この俺が誰より――もう
二度とは元の形に戻らない――消えることのない「笑み」――違う世界が広がって――
赤い瞳は笑っていた――会心の攻撃――見事な回避――この真剣勝負こそが真実だ――
爽快感は、とうの昔に消え失せていた。
カプセルの効果で鋭敏になった神経が、虚無感を強調する。
悪魔を使って超人を噛み殺しても、飢えと渇きは癒えなかった。
ただ、わずかな間だけ誤魔化すことができていただけだった。
魔界刑事は、ウィザードと同じ高みには立っていなかった。
剣道の達人が空手の達人と勝負して勝ったようなものだ。
確かに本気だった。勝ち取ったものは無意味ではない。
しかし、それは最初の目的とは違う別のものだった。
握りしめられた拳の中で、カプセルが潰れ、粘液を漏らす。
苛立ちを声に乗せて甲斐が叫ぼうとした瞬間、どこからか女の声が聞こえてきた。
『聞きなさい。あたくしの名はダナティア・アリール・アンクルージュ』
ダナティアの演説は、堂々と、朗々と、高らかに続く。
その言葉のすべてに対して、甲斐はただひたすらに腹を立てた。
何様のつもりだ、と。何も知らない奴が偉そうに御託を並べるな、と。
『あたくしを動かすのは……』
目を血走らせ、悪口雑言を撒き散らしながら、甲斐は天を仰いだ。
『……決意だけよ!』
それは市街地の片隅からでも見えた。
南東の方角から曇天の夜空へと赤い柱がそそり立っていた。
煌々、轟々と迸る閃光は上空の雲を貫いていた。
『刻みなさい。あたくしの名はダナティア・アリール・アンクルージュ』
赤い閃光が消えた夜空には一筋の光が射し込んでいた。
上空の曇天を貫いた閃光は強い風を生んでいた。
『あなたたちに告げた者の名です』
風が雲に生んだ小さな空の切れ目。
そこから射し込む月光の中、甲斐の視界の端で、何かが動いた。
甲斐が注視した先にあったのは、ショーウィンドウに映った影だ。
ガラスの表面に見えるものは、ただの意思なき自然現象ではなかった。
甲斐は思わず絶句する。
魔界刑事を殺し上機嫌で大の字に寝転んだ数十分後には、もう仏頂面で起きていた。
それまで意識していなかったものに気がついた結果だ。それ以来ずっと、鬱陶しげに
甲斐は周囲を探り続けている。
妙な気配が甲斐の近くに漂っていた。気配は薄く淡く曖昧であり、だが消える様子が
一向にない。むしろ、徐々に存在感を増しているようですらある。
南の市街地で暴れ始めた悪魔らしき何かに惹かれ、そちらに行こうかどうか悩んだ
こともあったが、それでも優先したのはこちらの気配を調べる作業だった。
他の参加者たちに倒される心配がなさそうな標的よりも、後から出てきて漁夫の利を
得ようと企んでいるかもしれない不確定要素を先にどうにかしておいた方がいい、と
甲斐は判断していた。無粋な横槍を入れられては、戦いがつまらなくなってしまう。
茫漠とした気配は、甲斐の精神をずっと逆撫でし続けている。
気配の正体は判らない。よく知っている何かのようでありながら、そうではなくて
似ているだけの別物であるような気も同時にする。
甲斐氷太が“欠けた牙”だとするならば、その感覚は、欠落した部位を苛む幻痛だ。
呪いの刻印さえなければ、甲斐は事態の本質を把握できたかもしれない。
刻印の気配と、甲斐に付き纏う気配とは、どういうわけか微妙に似ている。
例えるなら、猟犬と野獣がそれぞれ同じ香水を全身に浴びているようなものだ。
周囲に潜む気配には、暗く不吉で禍々しい印象がある。
夜と闇の領域に属する密やかな何かが、すぐ近くにある。
暖かな陽光の下では生まれない、鋭く澄んだ空気がある。
それは、甲斐自身にも共通する要素だ。
動くものを探しながら、住人のいない街角を甲斐は進む。
煙草を取り出し、火種が手元にないことを思い出してポケットに戻す。
ライターは発見できておらず、喫茶店にあったマッチは湿っていた。
ショーウィンドウに映る己の影を一瞥し、甲斐は吐き捨てるように悪態をつく。
ガラスの表面に見えるものは、ただの意思なき自然現象でしかない。
とてつもない強さを誇った“影”は、もはや追憶の中にしか存在しない。
物部景は死んだ。
悪魔狩りのウィザードが甲斐氷太と戦う機会は、もう二度と訪れない。
魔界刑事との死闘によって一度は漂白された頭の中が、急速に赤黒く濁っていく。
忘れえぬ情念が爆発的に荒れ狂う。思考が疾走を始める。
――鮮烈なブルー――鉤爪のような指先が――カプセルを――鏡――ただ心の命じる
ままに――きっと厭なものが――最高に痛快な破壊音を――大気を裂いて泳ぐ――水の
中につながっていて、そこには――闘争の狂喜――“影”は一瞬にして――中と外が
入れ替わる――黒鮫が咆哮を――テメエがどういう野郎かは、この俺が誰より――もう
二度とは元の形に戻らない――消えることのない「笑み」――違う世界が広がって――
赤い瞳は笑っていた――会心の攻撃――見事な回避――この真剣勝負こそが真実だ――
爽快感は、とうの昔に消え失せていた。
カプセルの効果で鋭敏になった神経が、虚無感を強調する。
悪魔を使って超人を噛み殺しても、飢えと渇きは癒えなかった。
ただ、わずかな間だけ誤魔化すことができていただけだった。
魔界刑事は、ウィザードと同じ高みには立っていなかった。
剣道の達人が空手の達人と勝負して勝ったようなものだ。
確かに本気だった。勝ち取ったものは無意味ではない。
しかし、それは最初の目的とは違う別のものだった。
握りしめられた拳の中で、カプセルが潰れ、粘液を漏らす。
苛立ちを声に乗せて甲斐が叫ぼうとした瞬間、どこからか女の声が聞こえてきた。
『聞きなさい。あたくしの名はダナティア・アリール・アンクルージュ』
ダナティアの演説は、堂々と、朗々と、高らかに続く。
その言葉のすべてに対して、甲斐はただひたすらに腹を立てた。
何様のつもりだ、と。何も知らない奴が偉そうに御託を並べるな、と。
『あたくしを動かすのは……』
目を血走らせ、悪口雑言を撒き散らしながら、甲斐は天を仰いだ。
『……決意だけよ!』
それは市街地の片隅からでも見えた。
南東の方角から曇天の夜空へと赤い柱がそそり立っていた。
煌々、轟々と迸る閃光は上空の雲を貫いていた。
『刻みなさい。あたくしの名はダナティア・アリール・アンクルージュ』
赤い閃光が消えた夜空には一筋の光が射し込んでいた。
上空の曇天を貫いた閃光は強い風を生んでいた。
『あなたたちに告げた者の名です』
風が雲に生んだ小さな空の切れ目。
そこから射し込む月光の中、甲斐の視界の端で、何かが動いた。
甲斐が注視した先にあったのは、ショーウィンドウに映った影だ。
ガラスの表面に見えるものは、ただの意思なき自然現象ではなかった。
甲斐は思わず絶句する。
鮮烈なブルーのゴーストが、背後に“影”を従えて立っていた。
ダナティアの演説は響き続けていたが、もはや甲斐は気に留めなかった。
奇麗事で飾られた理想郷などより、ずっと魅力的な戦場がそこにあった。
瞬時に振り返る。
だが、ガラスに映っていた姿は、街角のどこにも存在していない。
慌てて視線を巡らせる。
甲斐の瞳が再びショーウィンドウを視界に捉え、先ほどとは異なる色彩を発見した。
ワインレッドのスーツを着た男が、鬼火を掲げ、長い銀髪を風になびかせていた。
もう一度、甲斐は後方を確認する。やはり誰もいない。
鏡と化したガラスへと、甲斐は向き直った。
ずっと甲斐の周囲に漂っていた気配は、今や鏡面の向こう側から溢れ出している。
漆黒の鉤爪が鱗をめがけて振り下ろされ、細長い尻尾が甲冑を下から打ち据える。
物部景が、死線を楽しむ狂人の笑みを唇に浮かべている。
宙に舞い上がった大蛇が黒い炎を吐き、“影”が瞬時に厚みを消して地面を滑る。
緋崎正介が、冷厳でありながら歓喜に満ちた目を細める。
二匹の悪魔が睨み合う。
二人は同時にカプセルを掴み、口に含んで咀嚼した。
悪魔を使役し戦う者たちの楽園が、そこにあった。
「そういうことか。テメエら、そんなところに隠れてやがったんだな」
甲斐は思う。あいつらはあの『王国』へ行き、だから管理者は生死を見誤った、と。
トリップの影響で鈍磨した思考は、数々の違和感や疑問点を些事として切り捨てた。
涙が滲みそうになるのを堪えながら、甲斐は笑う。
万感の思いを込めて、呼びかける。
「ぃようっ、ウィザード。捜したぜ」
景の視線と甲斐の視線が、一瞬だけ重なり合った。
景が甲斐の存在に気づけなかった、という風には見えなかった。
そして、甲斐に対して一切の興味を示さず、無造作に景は目を逸らした。
塵芥にすら劣る“どうでもいいもの”をすぐに忘れただけ、とでもいうように。
少なくとも、甲斐はそう感じ、その印象を確信した。
甲斐を全否定する情景は、猛毒のごとく精神を熱して蝕んでいく。
「……上等じゃねえか。俺がそっちに行くまで、そこの三枚目で肩慣らしでもしてろ。
どんな手を使ってでも殴り込みに出向いてやるから、覚悟しとけ」
狂犬じみた表情筋の歪みで口の端を吊り上げ、甲斐はカプセルを噛み砕いた。
今の甲斐に迷いはない。他に手がないなら、弱者を捕らえて悪魔を召喚させ、それを
自分の鮫たちに喰わせることでさえ躊躇しない。そうしない理由など一つもない。
――すべては、ウィザードと戦うために。
奇麗事で飾られた理想郷などより、ずっと魅力的な戦場がそこにあった。
瞬時に振り返る。
だが、ガラスに映っていた姿は、街角のどこにも存在していない。
慌てて視線を巡らせる。
甲斐の瞳が再びショーウィンドウを視界に捉え、先ほどとは異なる色彩を発見した。
ワインレッドのスーツを着た男が、鬼火を掲げ、長い銀髪を風になびかせていた。
もう一度、甲斐は後方を確認する。やはり誰もいない。
鏡と化したガラスへと、甲斐は向き直った。
ずっと甲斐の周囲に漂っていた気配は、今や鏡面の向こう側から溢れ出している。
漆黒の鉤爪が鱗をめがけて振り下ろされ、細長い尻尾が甲冑を下から打ち据える。
物部景が、死線を楽しむ狂人の笑みを唇に浮かべている。
宙に舞い上がった大蛇が黒い炎を吐き、“影”が瞬時に厚みを消して地面を滑る。
緋崎正介が、冷厳でありながら歓喜に満ちた目を細める。
二匹の悪魔が睨み合う。
二人は同時にカプセルを掴み、口に含んで咀嚼した。
悪魔を使役し戦う者たちの楽園が、そこにあった。
「そういうことか。テメエら、そんなところに隠れてやがったんだな」
甲斐は思う。あいつらはあの『王国』へ行き、だから管理者は生死を見誤った、と。
トリップの影響で鈍磨した思考は、数々の違和感や疑問点を些事として切り捨てた。
涙が滲みそうになるのを堪えながら、甲斐は笑う。
万感の思いを込めて、呼びかける。
「ぃようっ、ウィザード。捜したぜ」
景の視線と甲斐の視線が、一瞬だけ重なり合った。
景が甲斐の存在に気づけなかった、という風には見えなかった。
そして、甲斐に対して一切の興味を示さず、無造作に景は目を逸らした。
塵芥にすら劣る“どうでもいいもの”をすぐに忘れただけ、とでもいうように。
少なくとも、甲斐はそう感じ、その印象を確信した。
甲斐を全否定する情景は、猛毒のごとく精神を熱して蝕んでいく。
「……上等じゃねえか。俺がそっちに行くまで、そこの三枚目で肩慣らしでもしてろ。
どんな手を使ってでも殴り込みに出向いてやるから、覚悟しとけ」
狂犬じみた表情筋の歪みで口の端を吊り上げ、甲斐はカプセルを噛み砕いた。
今の甲斐に迷いはない。他に手がないなら、弱者を捕らえて悪魔を召喚させ、それを
自分の鮫たちに喰わせることでさえ躊躇しない。そうしない理由など一つもない。
――すべては、ウィザードと戦うために。
【A-4/市街地/1日目・21:40頃】
【甲斐氷太】
[状態]:あちこちに打撲、頭痛
[装備]:カプセル(ポケットに十数錠)
[道具]:支給品一式(パン5食分、水1500ml)
/煙草(残り十一本)/カプセル(大量)
[思考]:手段を選ばず、鏡の向こうに見える『王国』へ行く
[備考]:『物語』を聞いています。悪魔の制限に気づいています。
『物語』を発症し、それを既知の超常現象だと誤認しています。
現在の判断はトリップにより思考力が鈍磨した状態でのものです。
肉ダルマ(小早川奈津子)は死んだと思っています。
[状態]:あちこちに打撲、頭痛
[装備]:カプセル(ポケットに十数錠)
[道具]:支給品一式(パン5食分、水1500ml)
/煙草(残り十一本)/カプセル(大量)
[思考]:手段を選ばず、鏡の向こうに見える『王国』へ行く
[備考]:『物語』を聞いています。悪魔の制限に気づいています。
『物語』を発症し、それを既知の超常現象だと誤認しています。
現在の判断はトリップにより思考力が鈍磨した状態でのものです。
肉ダルマ(小早川奈津子)は死んだと思っています。
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