「ごきげんよう」
「ごきげんよう」
さわやかな朝の挨拶が、澄み切った青空にこだまする。
ザイア様のお庭に集う乙女たちが、今日も天使のような無垢な笑顔で、防護点の高い門をくぐり抜けてゆく。
汚れを知らない心身を包むのは、深い色の修道服。
つい数年前に創立されたこの修道院は、少なからぬ不幸を背負った少女たちのためにつくられた第二の家、あるいは最後の砦である。
ディルクール近郊。魔動機文明時代の遺跡を未だに残しているこの地区で、神に見守られ、生きていくために必要な教育を受けられる乙女の園。
「待ちたまえ」
ある日。
銀杏並木の途中でリラは足を止めた。
ザイア像の前であったから、一瞬ザイア様が呼び止めたのかと思った。
そんな錯覚を与えるほど、凛とした、よく通る声だった。
ザイア様は女神であるとの一説を聞いたばかりだったからかもしれないが。
「なにかしら」
身体全体で振り返る。
不意のことでも驚いた素振りは見せない。
舞踏のように、あくまで優雅に美しく振り返る。
「私になにか用かしら」
2人だけの世界であることはあきらかだったが、確かめるように尋ねる。
「呼び止めたのはワタシ、呼び止められたのはキミだ、間違いない」
間違いない、と言われても、これは本当に現実ですか、と叫んで逃げ出したい心境だった。頭の中はパニック寸前だった。
そんなことなど知る由もないその人は、うっすらと微笑を浮かべ、真っ直ぐ距離を詰める。
声を聞くのも久しぶりだった。
腰まで伸びたストレートヘアは、手入れの方法を教えて欲しいほどつやつやで。
この長さをキープしていながら、枝毛のひとつもないように思えた。
「じっとしていろ」
そういうと、彼女は両手を首の後ろに回した。
(きゃーっ!!)
何が起こったのか一瞬わからず、リラは目を閉じた。
「タイが曲がってる」
「あら?」
「身だしなみはしっかりしろといつも言っているだろう?ザイア様が見てらっしゃるぞ」
そう言って、その人は先に修道院へ向かい歩いていった。
(あれは……)
後に残されたリラは、状況を理解するにつれて徐々に体温が上がっていった。
間違いない。
マトヴィスだ。
二人して修道院を出ていって以来、すっかり途絶えた公式からの供給である。
マトリお姉様の後を追うように、ヴィスタリアお姉様も修道院へと向かってゆく。
リラは頬を強くつねった。
これは夢か、あるいは強めの幻覚か?
ザイア様のいじわる。
せっかく夢か幻覚を見せてくれるなら、もっと濃厚なものをお願いします。
頬はじんじんと痛みを放つ。
これが現実であると伝えるように、ザイア像は厳格にそびえ立っていた。
「公式からの爆弾だったわ」
話を聞くやいなや、リラの親友、エリンは天を仰いだ。
「たすかる……たすかるけど、リラってジニマト派じゃなかったっけ?」
「雑食ですので」
澄ました顔でリラは答えた。
じゃあぼくとそういう関係になってみる?
何度飲み込んだか分からない言葉を、今一度エリンは抑え込む。
ティーカップを静かに置き、リラは続ける。
「まあ、最推しはジニマトなんですけども」
マトヴィスはここ、ローズフィールド修道院において王道と言わざるを得ない人気を誇っている。
魔動機文明時代に存在したとされる教育機関、ジョシ・コーで例えるならば、高嶺の花と内面イケメンのハイパーつよつよカップリングである。
それゆえ過激派も少なくなく、ヴィスマトは地雷だの、むしろヴィスマトこそ至高だの、ヴィスマトにするにはヴィスタリアお姉様の攻撃力が低すぎただの、議論の絶えない界隈であった。
今リラの目の前にいる親友も、マトヴィス派の1人であり、百歩譲ったとしてもマトジニ派であり、リバはNGという少女である。
絶対的にマトリお姉様は主導権を握る側であってほしい。
それがエリンの正義であり、ジニマト派のリラとは本来分かり合えない存在であるはずであった。
それでも二人の間に親友と呼ぶに相応しい絆があったのは、互いの正義を押し付けないという暗黙のルールがあったおかげである。
ヴィスタリアお姉様とマトリお姉様の間に時折漏れ出す、甘ったるい空気感の存在はリラも知るところではあったし、それがハイパーつよつよカップリングのパワーを更に上げている事実はリラも認めざるを得なかった。
しかし、それでもリラが真に信じるのはジニマトである。
百合の本質は恋愛感情に非ず。
百合の本質とは関係性の変化である。
それがリラのたどり着いた真理であり、リラをジニマト派たらしめる所以であった。
マトヴィスを花開き始めた蕾と称するのならば、ジニマトはまだ芽の段階である。
ジニアお姉様とマトリお姉様の間の空気感は親友、あるいは本来の意味での姉妹感に近く、同じく距離感は近くとも、ヴィスタリアお姉様とマトリお姉様の間のような甘ったるさは、全くと言っていいほど存在していない。
それでも、もし何か一歩ジニアお姉様が踏み出すようなことがあれば、ジニマトはキテると言える状況が生まれるはずである。
まだ咲かぬ花もとい関係性の変化を想い、リラはジニマトを信じているのだ。
「ごきげんよう」
リラがエリンとの会話に花を咲かせていると、背後から声がかかる。
振り向くとそこには同い年の少女、サーラがいた。
「ずいぶんと楽しそうじゃありませんの、わたくしも混ぜていただけないかしら?」
返事も待たず、サーラは席につく。
リラがサーラの分のお茶を注いでいると、エリンが先程の話をサーラにも伝える。
「ああ……」
サーラは天を仰いだ。
ヴィスサラの波動を感じ、リラはティーカップを落としそうになったが、エリンに支えられ、なんとか惨事を避けられた。
サーラは1、2を争うほどのヴィスタリアお姉様好きである。
丁寧な口調も、ヴィスタリアお姉様をお慕いするがためのもの。
かつてリラがヴィスタリアお姉様のどこが好きなのか聞いたところ、サーラは長い苦悶の末、まず顔が良すぎると答えた。
ヴィスタリアお姉様はただただ単純に、もはや暴力的なまでに顔が良すぎるのだ。
幼子から少女への一歩を踏み出し始めたサーラたちにとって、憧れを抱くには十分すぎる理由であった。
なんだかんだ打点を高めてぶん殴るのが強いのです、というのはかの"白金の乙女"こと、
アマリリスお姉様の金言である。
アマリリスお姉様はアマリリスお姉様でたいへん顔が良く、文武両道才色兼備と修道院の少女たちの憧れの的であったりするのだが。
多忙故言葉を交わす機会はあまりなく、ジョシ・コーで言うところの美人教員に対する憧れに近いものであり、ヴィスタリアお姉様たちに対する感情とはまた少し違ったものであった。
閑話休題。
ヴィスサラはキテるというのはリラの妄言ではなく、実際にヴィスサラ派はそれなりに存在している。
お姉様たち×少女たちという組み合わせの中に於いては、かなりキテるほうなのである。
もしヴィスタリアお姉様にマトリお姉様とジニアお姉様の次に仲のいい相手は誰か、と尋ねて返答があるとすれば、サーラと答えるだろう。
そのくらいヴィスタリアお姉様との親交を深めたサーラですら、まず顔が強すぎると言ってしまうくらいの顔面なのだ。
APP限界突破なのである。
緊張のあまりまともに言葉を交わせない少女たちも少なくない。
少女たちが会話の機会を求めている中、ヴィスタリアお姉様はマトリお姉様を追いかけるように冒険に出かけてしまった。
王都でマトリと同棲することにしますわ、とジニアお姉様たちに報告した際に一瞬漏らした、ヴィスタリアお姉様の表情を見逃すサーラではない。
あれは間違いなく女の顔であった、と後にサーラは語る。
このサーラの証言はマトヴィス派を更なる沼に突き落とし、サーラは崇められた。
生粋のマトヴィス派ではなくとも、リラも例外ではない。
どんな生活あるいは性活が繰り広げられているのかと思うと大変捗ったし、報告を聞いた時のジニアお姉様の心境を都合よく想像し、ジニマトもキテるんじゃないかと妄想が止まらなかった。
ヴィスサラ派の存在も知らぬサーラ本人はマトヴィス派であり、そんな彼女に供給の報告をするとこでリラもまたヴィスサラの供給を得る、win-winの関係であった。
ヴィスタリアお姉様をお慕いする者は多いが、マトリお姉様を慕う声もそれに並ぶ。
例えば、エリンは生粋のマトリお姉様派である。
やや少年のような口調になったのもその影響である。
もしマトリお姉様が男の子だったらなあ。
もしそうだったら結婚してほしかった。
近くに当の本人、マトリお姉様がいた事にも気付かずに、ある日リラの前でエリンが言葉を漏らしたことがある。
「おや、今のままで問題あるのかね?」
エリンの手をそっと取り、マトリお姉様がこう返した。
その時のエリンの表情はリラにも見せたことのない、恋する乙女の顔であった。
あの時リラが感じた胸の痛みはなんだったのだろう。
リラがマトリお姉様のどこが好きなの、とエリンに聞いた事ももちろんある。
「まず優しいところかなとにかく女の子を大事にしてくれるっていうか昔はこうじゃなかったよってジニアお姉様は言ってたけどヴィスタリアお姉様の影響らしいよやっぱマトヴィスはキテるんだねそれでいて料理も上手で家事も得意でお裁縫もできるなんだかんだ女子力が高いところも好きかなこれはシスターの影響だよってジニアお姉様が言ってたんだけどつまり大切な人のために自分が変わるってのを自然とできちゃう感じっていうか尽くしてくれそうな感じがほんと好きあと自分自身整ったお人形さんみたいな顔なのにそれに気づいてなさそうっていうか自分に対する好意に鈍そうな感じというかその癖女の子をお姫様扱いしてくるから罪な女だよほんとあっむりしんどいって感じおっとそれからこれは語らざるを得ないことなんだけどヴィスタリアお姉様に対してだけは扱いがちょっと雑なところあるじゃないあれは絶対クソデカ感情の裏返しだしやっぱぼくの中ではマトヴィスが至高なんだなって思ってしまうところではある」
今のは読まなくていい部分である。
リラも聞いてちょっと後悔した。
エリンの言う通り、マトリお姉様も実際顔が良い。
ただ隣に居るのが始まりの剣級美少女ヴィスタリアお姉様であるせいで、自分の魅力に気づいていないというか、自分のコンプレックスばかりが目についてしまっているのではないのだろうか。
あまり緊張感を与えない分、マトリお姉様のほうがワンチャンありそうな気がしてくるのか、あるいはお姫様扱いしてくれるからか、なんだかんだけっこうモテるのである。
それでも自分に対する好意を受け入れるのが下手なのか、実際にお付き合いにまで発展したという話は聞かない。
本当に好意に気づいていないだけという可能性もあるが。
ヴィスタリアお姉様に対する対応が雑、というのはリラも感じていることであったし、クソデカ感情を抱いているであろうという推測ができないほどリラの目は節穴ではない。
あしらいかたが雑なだけであって、よく世話を焼いている姿が思い浮かぶし、時折ヴィスタリアお姉様に対し、すごく優しい眼を向けているとエリンも言っていた。
今朝のマトヴィスもそうだ。
タイの乱れに気づくということは、それだけヴィスタリアお姉様のことをよく見ているということ。
正直リラはあのまま口づけするんじゃないかと真剣に思った。
あの時のマトリお姉様は愛おしいものを見る眼をしていたことは、遠目に見ていてもわかった。
強めの幻覚ではないはずだ……自信はないけれど。
ここまで友人たちの性癖を暴露しておいて、じゃあリラ本人はどうなんだというと、リラ本人は個人個人ではなく、関係性を見るのが好きなのである。
強いて言うのであれば、ジニアお姉様が好きだ。
ヴィスタリアお姉様とマトリお姉様の間の歳であるジニアお姉様は、それぞれに対し、親友または仲のいい姉妹のような関係を築き上げている。
魔動機文明時代に存在したとされるリリー・コミックの世界であるのならば、ジニアお姉様はきっと、ヴィスタリアお姉様とマトリお姉様の間を繋ぐ親友ポジションである。
関係が徐々に甘くなってゆく主人公たちに対して、ずっと変わらず一番の友達であり続ける、そんな役割。
ヴィスタリアお姉様にとっても、マトリお姉様にとっても、ジニアお姉様は間違いなく特別な存在ではあるけれど、その間にあるのは恋や愛とはまた違った絆なのだ。
修道院の少女たちの中で、ジニアお姉様は唯一マトリお姉様の姉のように振る舞える存在である。
ヴィスタリアお姉様はあくまで姉面しているだけ。そんな所も好き・・・とサーラは言っていたが。
ヴィスタリアお姉様は言わずもがな、マトリお姉様もけっこう人の目を惹く顔立ちであるのに対し、ジニアお姉様は良い意味で素朴な空気を纏っているというか、等身大の少女然とした雰囲気の女の子である。
きっと、異性にはなんだかんだで一番人気のあるタイプで、朗らかな性格もあり近寄り難い雰囲気が全くない。
それゆえ修道院の少女たちからは、憧れより親しみやすさを感じられやすい傾向にあると思う。
リラもジニアお姉様とはよく会話をして、マトリお姉様とヴィスタリアお姉様の馴れ初めを聞いたりしている。
マトリお姉様とヴィスタリアお姉様が冒険に出るようになってから、時折ジニアお姉様は寂しそうな顔をするようになった。
元々熱心なほうではあったが、ザイア様に祈っている姿を見ることも増えたと思う。
そんな姿がとても健気に見えて、リラは強く心を揺さぶられた。
――ああ、やっぱりジニマトはあったのだ。
ザイア様、どうかお許しください。
健気な姉の姿を見て、こんなことばかり考えてしまう私のことを。
「尊い」
「尊い」
さわやかな午後の茶会の合言葉が、日の短くなった茜空にこだまする。
ザイア様のお庭に集う乙女たちが、今日も天使のような無垢な笑顔で、推しの尊さを語っている。
そろそろザイアに怒られるかもしれない。
サーラのキャラってたぶんこういうのではないのだろうと思いながら書いた。
ちょっとすまんとは思っているのでサーラ関連の苦情があればお気軽にどうぞ。
20/11/17 一部の表現を変更
最終更新:2020年11月17日 01:30