追憶 ―灰色の日々―

歳を重ね、やがて後悔する


虫が喧しい、よく晴れた夏日。とある屋敷の一室。
そんな外の喧噪に、女の声が飲まれている。
正装に身を包み、眼鏡を掛けたその女は、
教師と呼ばれる身分にあった。
女は今、机に向き合う一人の男の為に、
教鞭を振るっている。

「ですから、精霊とは大地に宿る生き…って、聞いていますか?」

この男、先程から心ここにあらずと言った様子だ。
落ち着かないのか、しきりに窓の外に視線が向いている。

「窓の外に何かあるのですか?」
「いや!ないないない!気のせいだった!」

何かを誤魔化すような露骨な態度。
やはりこの男は何か企んでいる。
そう、以前に授業を抜け出した前科が、
この男にはあるのだ。

「以前のようにはいきませんよ?バカな考えはやめることです。」

お手洗いと言ったきり、そのまま戻ってこなかった。
授業をサボりたかったのか、何か別の目的があったのかは知らない。
ただ女は、給金を貰った手前、男に教鞭を振るう義務があった。

「分ってる!分かってますよ。ちゃんと続けて下さいって!」

訝し気な視線を向ける。
しかし、現状は問題の一つも起きていないのだから、
これ以上男を責めるのはお門違いだろう。
仕方ない。そう思い、授業を再開した直後。

『コン、コン』

ドアがノックされる。
不意を突ついたそれは、調子を崩してしまう。
つい苛立ちながら、女は返事をしてしまった。
—――しかし、間をおいても訪問者が入ってくる気配はない。
二度返事をしても、それは変わらなかった。
悪戯かとも思ったが、そんな人物に心当たりはない。
様子を確かめべく、女は授業を中断せざるを得なかった。

「どなた様ですか?」

少し乱暴に、部屋のドアを開く。
その先の廊下には、誰も居なかった。
辺りを見渡すが、やはり誰も居ない。
代わりに女は、ドアの外側に取り付けられた、何かを見つける。
ドラムのバチと、それに繋がった装置のような何か。
ハッとして、後ろを振り返る。

そこには、開け放たれた窓に、風に揺らめくカーテン。
パラパラとめくれる書物は、その読み手の不在を訴えている。
その最後のページには『ごめんなさい』の一文だ。
この部屋が二階であったために、女は油断していたのだ。

「…野生児め。」

悪態をついても、男は戻ってこない。
窓に鉄格子が必要がなるとは、思いもしなかっただろう。
今はただ、あの男の横着さに、感心する他ないのだった。
最終更新:2021年08月22日 01:10