テメリオは誤解されがちな神格である。第二の剣系列の神ということもあって人族社会では一般的に打ち倒すべき悪神とされるが、彼の生涯において大きな悪事を働いたという記録は存在しないのだ。
こんなことを言えば記録がないだけだとか、現に悪事をはたらく者に力を貸しているだとかいう種々の的外れな批判が飛んできそうだ。
そんなものにいちいち真面目に応えるのも馬鹿らしいと諦めた先人の気持ちは大いに理解できるが、それでは何も変えられないので例示したものくらいには簡単に反論しておこう。
まず、記録がないものを論じるのは学者の仕事ではないので、どうしてもその話が聞きたければその道の専門家に頼るといいだろう。井戸端に集う無責任なご婦人方や、酒場でくだを巻く下男どもが適任と思われる。
なお、そのような何らの根拠を持たない論は一般に妄想や世迷言と呼ばれ、信じる者は暗愚の烙印を押されるので注意されたい。
何者に力を与えるかの議論などは愚論であり下論であり誤論である。ひとつ極端な例を挙げよう。争いを避けるために自ら砕け散ったカルディアは世界に満ちるマナとなったが、そのマナはすぐに争いのために使われるようになった。
もっと直接的な例を出せば風来神がいる。第二の剣陣営であり、蛮族にも力を与え、何も導かぬ神だ。テメリオと何が違うというのだろうか?
力そのものに責任を求めるのはお門違いであると言わざるを得ない。力に責任を持つべきはそれを振るう者である。
さて、少しはテメリオへの偏見を解消できただろうか。しかしあまり美点ばかりを語っても公平性に欠ける。ここであえて一つだけ彼の落ち度を挙げるとすれば、それは一切の抗弁をしないことだろう。自らの行為を事実として認め、邪推された悪意を否定しない。
衆愚と同じ目線で語る必要はないが、蒙を啓いてやらねば自分を疑うことすらできないのが衆愚だ。勝手な理解で突き放して、敵に回れば悪と蔑む。愚かなれど衆なればそれなりの力を持つ。
彼がそれを見切れていなかったのか、それとも見切りをつけたのかは図りかねる。しかしその毅然とした無関心が今日の悪評につながっているのは確かだ。
私は起動に当たって何らの使命を課されていない。好きに生きて好きに死ねと神は仰せだ。他神のような盲従も盲信も求められず、ただ力のみを与えられた。これでは使徒はおろか信者すら名乗れない。
故に私は学者を自らの在り方として定義した。
そしてその生の使命をテメリオの正しい再評価であると定めた。毒の神という評は正しい。しかし薬の神でもあり医術の神でもある。あるいはこれらを教訓として伝える二面性の神ともいえるだろう。
おそらくこの行為は多くの者にとって無意味であろう。しかし私はそれを為すと決めた。神にも人にも何物にも望まれなくとも私が望む。
もとより何も望まれず生まれた私だ。好きに生きて好きに死んでやろうではないか。
最終更新:2023年06月08日 16:28