あら、
私は好きよ、
美しいときに、
呆気なく散る、
素敵なことじゃない、
私もいつか、
──寒椿
真っ暗な夜。
月さえ飲み込んでしまいそうな夜。
しかし、それにさえ負けない"それ"は一際明るく見える。
柔らかな月明かりの中に血を連想させる紅を放つ"それ"の花弁に触れる。
「めぐ」
姿に振り返らずその名だけを紡ぐ。
しかし、反応が返されることもなく紡いだ言葉は闇に消えた。
「……綺麗に咲いてるわよ、出てこないの?」
ようやく振り返り、縁側に足をかける。
四角く切り取られた唯一の外界との境界から彼女を覗くと白く病的な足首だけが見えた。
その他の部分は漆黒の暗闇に喰われている。
「めぐ、出てこないの?」
もう一度名を紡ぐが、衣擦れの音とともに足首も闇に喰われた。
やれやれ。
消えてしまったその姿を慌てて追うわけでもなく、ゆるりと息を吐いた。
「怖いの?」
外界が。
やはり反応は返ってこない。
しかし、悲しくはない。彼女は"返さない"のではなく"返せない"のだ。
それを己は知り得ている。だから、悲しくはない。
簡単に襖で区切られた外と内の境界を軽く越えると彼女のもとへ歩む。
「……そう"こんなもの"が恐いのね」
闇に飲まれた彼女の表情は未だ解せない。
しかし、予測はできる。
彼女の感情は何もない。
喜怒哀楽の一切を捨てた彼女の感情は。
白い彼女の足首が照らされていた場所、今は己の手。
「以前はあんなに好きだと言ってたのに」
するり、と。
きめ細かい彼女の頬を包む掌。
闇にようやく慣れた瞳に写る彼女の姿。
彼女は私の"恋人"。
あれはチラチラと春らしい小さな花弁が舞っていた時。
それを見つめて病的な彼女が呟いた。
「私、嫌いよ。桜って」
何故?
と問えば少し意外そうに黒曜石の瞳を見開いた。
「散り際まで美しいなんて、美しくないわ」
頓知のような難しい言葉を私は解せなかった。
「あぁ、巴は剣道を学んでいたわね」
なら、武士の気持ちが分かるのかしら。
コロコロと彼女が微笑んだ。
「武士は桜を好んで、椿を嫌うの。何故か知ってる?」
「桜は美しく散るけれど、椿はポトリとその花を落とすから?」
「そうよ。でも、私は椿が好きよ。……──美しいじゃない、」
空虚な彼女の黒曜石はふわふわと宙をさ迷っている。
"死は何よりも甘美な誘惑"と唄う彼女は何を見ているのか。
「大輪の花を咲かせ、散るときはそのままあっさり、──まさに"断首"」
美しいじゃない。
"断首"。
思わず目線が彼女の細い首に辿り着いた。
首を斬られたいとでも言うのだろうか。その花のように。
「真っ白な雪に映える紅の寒椿が好きよ。凛と冷たくて……──まるで、」
"巴"みたいで。
蒼白い頬にその時、仄かに椿色が灯った。
凡そ"この時"彼女の心を捕らえていたのは"死"であろう。
でなければ、そんな愛しい表情はしないはず。
かさり、と風に揺られた寒椿の首が真っ白な雪の地面に落ちた。
その音につられてフラリと外界に足を出す。
蒼白い月に照らされた雪に、紅の寒椿。
綺麗だ。
と思った。
"あの時"の彼女みたいで。
雪の中に映える椿が"己"に似ていると語った時。
この"椿"は"己"か、それでなければ"彼女"の。
その"首"を拾い上げる。
まだ瑞々しささえ残すその首は、生きながら死に絶えている様。
やはりこれは"彼女"に見える。
今、私がこの"椿"を手にしていても、最早これは"死"に魅了された後のもの──。
"あの時"の"彼女"そのもの。
「私は美しいこの時に、未練残さずに死にたいの」
そう笑顔で語る"彼女"。
彼女にとって"死"は"己"よりも魅力的なものだった。
つまり、"死に魅了された彼女"は嫌い。
ただ、そういうこと。
だから、彼女を手中に入れることなど不可能だった。
……──否、一度だけ。
一度だけ、それを得たときがあった。
行為の果て。
得も知れぬ快感に溺れ、意識を飛ばした時。
病弱故にその命が絶たれたのかと"不安"が襲うと同時に感じた。
満足感。
"彼女の最期"が"自分"。
彼女が死ぬ間際に見たものが。
彼女が死ぬ間際に感じたものが。
全てが"己"。
幸い、彼女は気絶しただけで"誘惑"に乗ったわけではなかった。
知らなかった。
知り得なかった。
自分の中の"欲"を。
気付かれるな。
気付かれるな。
彼女は"死"にとても貪欲だから。
「私、巴になら殺されてもいいかもしれない」
それは行為後の戯言。
でなければ、都合の良い空耳。
そう思わなければ、私は彼女を本当に──。
「巴がいない世界なんて死んだも同然よ」
「……死にたいんじゃなかったの?」
「"以前"の私なら、ね」
そう言ってベッドを這い出た彼女はしなやかな体を月明かりの下に照らし出された。
「そうね、……──安っぽい言葉で言うならば、」
"貴方さえいればいい"。
「他に何もいらない」
美しく、それでいて挑戦的な彼女の笑み。
「生きてるのか死んでるのか分かんない生活を送るくらいなら、巴だけの世界に行きたいわ」
聞くな。
聞くな。
ゾクリと背筋が凍った。
「……めぐ、」
ダメだ。
これ以上、口を開いてしまっては、私は彼女を……──。
掴んだ椿を内界に戻り、彼女の傍らに置いた。
ゆるとその"首"に手を伸ばす彼女の表情は変わらない。
いや、変える手段を"持ち得ていない"。
「めぐ」
名を紡いでもやはり返っては来ない。
しかし、呼ばれたことは理解できるらしく空虚な目がこちらを振り向く。
それだけで、いい。
「私を見て、めぐ──」
頬に手を寄せ、視線をこちらに向ける。
「私が分かる?」
口は開かない。
しかし、私の手を少し握り、また珍しげにその五指を絡ませる。
先程、一緒に持ってきた椿の枝を差し出すと、それをゆると握る。
二輪の"首"をまだつけたままの枝を。
「本当に、」
唇が少し震えている。
"緊張"、"禁忌"、"冒涜"、"背徳"。
それらの感情に圧された唇が震える。
「"私だけ"の世界がいい?」
「……当たり前よ」
少し頬を膨らませた彼女が、愛らしい。
「なら、」
そう言って、彼女に手を差し出した。
「こっちに来て」
蒼白い満月に照らされた病室。
満月の日に人は犯罪を犯しやすいと言う。
強ち、間違いではない。
彼女を病室から連れ出し、もう使ってない山奥の家屋に閉じ込めた。
彼女の"世界"が"巴だけの世界"になってから。
彼女は何もできなくなった。
何をするのも、何処へ行くにも、いつも私が手を引いてやらねばいけなくなった。
もちろん、私を認識することもなくなった。
後悔しているか?……──否。
むしろ、その状況に満足している自分がいる。
彼女を魅了する"甘美"にもう"焦燥"を感じることはないから。
自分がいなければ彼女は生きていけない。
それはもうずっと求めていた"世界"──。
彼女は"巴だけの世界"を手に入れる代わりに一切を失った。
曰く、"壊すのは簡単なこと"。
唯一残ったのは。
椿の紅さにも怯む、あの臆病な性質と、何も映さない空虚な黒曜石。
ぶち、と残酷な音で"首"が堕ちた。
"こうなった"彼女は枝ごとの椿を与えると、こうして遊ぶ。
ポトリ、椿が堕ちた。
楽しんでいるのかは分からない。
紅を映す黒曜石には、相変わらず何の色さえ浮かんでいない。
──綺麗だと思う。
一切を殺ぎ落とした彼女は。
その何ものにも染まらぬ様は"白無垢"を連想させて、止まらない。一点の穢れもないその姿は。
──美しい。
彼女が美しいと言った、この"椿"よりもずっと。
魅了される。
「めぐ」
そう紡げば、二輪目にかけていた手を止め、こちらを見た。
「寝ましょうか」
彼女がどこまで自分の言葉を理解出来るか、それは彼女しか知り得ない。
「寒、──」
開けっ放しの外界との境界から冷たい風が頬を掠めた。
閉めよう。
そう考えるのが先か否か、彼女の頬に滑らせていた手を離し布団から降りようとして──止めた。
「……?」
微かに行動に反発する力を感じて、振り替えれば己の裾を掴む蒼白い手。
それは、離さないと云う意志が強く伝わる。──痛い程に。
「め、──」
やはり、黒曜石には何も浮かんではいない。
けれど、一切を棄てた彼女の腕から総てが伝わってくる。
闇に浮いた、蒼白い彼女の体を抱き締める。
──嗚呼、何と言い得よう。
"幸せ"。
そんな言葉じゃ、もう最早足らない。
言葉なんて、無くても構わない。彼女はただ、"己"を求める。
"己"を棄ててでも"私"だけを──。
嗚呼、できるのならば、どうかこのまま目醒めないで。
私だけを求めて。
闇に浮かぶ一輪の紅の"首"。
その"首"は、誰の──。
終わり