「短歌行(曹操)」の編集履歴(バックアップ)一覧に戻る

短歌行(曹操) - (2013/03/16 (土) 13:23:58) の編集履歴(バックアップ)





原文

  • 曲調
周西:清商平調(宋書)、對酒:清商平調(宋書)
  • 出典
(其の一のみ掲載):《昭明文選/卷27(近デジ)》/《藝文類聚/巻42(維基)》
(其の一、其の二掲載):《漢魏六朝百三名家集(国デジ)》/《宋書/卷21/志第11 樂三(維基)》/《樂府詩集/卷30/相和歌辭五(維基)(台湾)》

其一

對酒當歌。人生幾何。譬如朝露。去日苦多。
慨當以慷。憂思難忘。何以解憂。唯有杜康。
青青子衿。悠悠我心。但為君故。沈吟至今。
呦呦鹿鳴。食野之苹。我有嘉賓。鼓瑟吹笙。
明明如月。何時可輟。憂従中来。不可断絶。
越陌度阡。枉用相存。契闊談讌。心念舊恩。
月明星稀。烏鵲南飛。繞樹三匝。何枝可依。
山不厭高。海不厭深。周公吐哺。天下歸心。

其一(晋楽所奏)

對酒當歌,人生幾何。譬如朝露,去日苦多。
慨當以慷,憂思難忘。以何解愁,唯有杜康。
青青子衿,悠悠我心。但為君故,沈吟至今。
明明如月,何時可輟。憂從中來,不可斷絶。
呦呦鹿鳴,食野之苹。我有嘉賓,鼓瑟吹笙。
山不厭高,水不厭深。周公吐哺,天下歸心。

其二

周西伯昌,懷此聖德。三分天下,而有其二。
修奉貢獻,臣節不隆。崇侯讒之,是以拘繁。
後見赦原,賜之斧鉞,得使征伐。為仲尼所稱
達及德行,猶奉事殷,論敘其美。

齊桓之功,為霸之首。九合諸侯,一匡天下。
一匡天下,不以兵車。正而不譎,其德傳稱。
孔子所嘆,並稱夷吾,民受其恩。
賜與廟胙,命無下拜。小白不敢爾,天威在顏咫尺。

晉文亦霸,躬奉天王。受賜圭瓚,秬鬯彤弓,
盧弓矢千,虎賁三百人
威服諸侯,師之所尊。八方聞之,名亞齊桓。
河陽之會,詐稱周王,是其名紛葩。

+ 単語解説。左の「+」をクリックすれば展開します
【人生幾何】
《左氏伝》襄公八年「俟河之清,人壽幾何」

【譬如朝露】
漢書,李陵謂蘇武曰「人生如朝露」、または古詩十九首其の十三「年命如朝露」

【去日苦多。慨當以慷,憂思難忘。以何解愁,唯有杜康】
古詩の《善哉行》「歡日尚少。戚日苦多。以何忘憂。彈箏酒歌」


【但為君故,沈吟至今】
本辞では、この二文は存在しないとする説あり(楽府詩集)。

【呦呦鹿鳴,食野之萍。我有嘉賓,鼓瑟吹笙】
《詩經》小雅「鹿鳴」の一句

【越陌度阡】
《風俗通》:南北曰阡,東西曰陌。(南北に通じるを阡、東西に通じるを陌という。)そうだが、原文未確認。
 後世の風俗通注釈本に掲載されているものを、「風俗通曰、」としているのか?

【枉用相存】
「枉用」は、仕事を無理してまで。用件を曲げてまで。

【心念舊恩】「舊恩」自体は、「以前に受けた恩。昔恩」の意。
《漢書》巻97の孝宣許皇后の項で、
「時掖庭令張賀,本衛太子家吏,及太子敗,賀坐下刑,以『舊恩』養視皇曾孫甚厚。」
とあるため、張賀(wiki)の出自(皇帝に忠誠を尽くした宦官)と併せて、解説に引用されるケースあり。

【烏鵲南飛】
古詩十九首の一『越鳥巣南枝』。鳥も故郷を思い、南の枝に巣をかけるの意。
「鳥は故郷を思って枝を探すが、よるべき枝が見つからない」といった雰囲気か。
後述の「天下の心は帰る」と、対比していると思われ。

【山不厭高、海不厭深】
《管子》「海不辭水,故能成其大;山不辭土,故能成其高;明主不厭人,故能成其衆」
海は水を厭わず、ゆえによく広大となる。山は土を厭わず、ゆえにその高きをなす。
明君は人を厭わず、ゆえに人は集まる。
「厭う」は、「嫌う」「嫌がる」という感じ。その人を拒絶しないので、人も集まってくる。

文選、古詩源では「海不厭深」とする。《楽府詩集》晋楽所奏、《漢魏六朝百三名家集》では、海を「水」とする。
「水」派については、典拠を、曹丕が短歌行で引用した《論語-雍也》「知者楽水、仁者楽山~(略)~仁者寿」にするからか

【周公】
文王の子、武王の弟。甥の成王を助け、また洛陽を建設した。wikiコトバンク

【周公吐哺】
(史記・魯周公世家>http://zh.wikisource.org/wiki/%E5%8F%B2%E8%A8%98/%E5%8D%B7033)より
「我文王之子,武王之弟,成王之叔父,我於天下亦不賤矣。
 然我一沐三捉髮,一飯三吐哺,起以待士,猶恐失天下之賢人。子之魯,慎無以國驕人」
 これが、のちに「一飯三吐哺(一飯に三たび哺を吐く)」という故事になった。

【天下歸心】
論語素王受命讖「河授圖,天下歸心」(原文未確認)

【賜與廟胙,命無下拜】
葵丘之会(wiki(中国語))での一幕。このとき、周王の使者から「(廟胙を賜る時)堂下に降りなくて良いよ」と言われた。

【小白】桓公の別名の小白か。
桓公がまだ小白と名乗っていた頃、暗殺を狙った管仲に弓で射られたが、矢が運よく腰に当たり生き延びた。このあたりの幸運な逸話も踏まえているか。

【不敢爾】あえて近づかず?
 不敢は「自信がない」といったイントネーションだった気ガス。

【咫尺】傍ら、近く。このくだりは「天子の位に近づかずとも、天意は常に顔の傍らにあった(天子の威徳に満ち溢れていた)」といった感じか。

てけとー訳

其の一

酒を前にさぁ歌おう、人生の残りはどれほどか。
例えれば朝露の如し、日が去るごとに苦しみ募る。
高まりゆく悲しみの歌声、積もりし憂いは忘れ難い。
何を以って憂いを解くか、唯だ酒のみが有る。

「青青たる君の衿、悠悠たる我が心」
ただ君のために、深く吟じて今に至る。
「鹿はゆうゆうと鳴き、野の萍を食む。
我に嘉き賓客あり、瑟を鳴らし笙を吹こう」

明るいこと月のごとく、いつ採ることができるのか。
憂いは私の裡から来て、いまもなお断絶しない。
君はあぜを越え道を渡り、我が前まで来て下さった。
酒を飲み交そう我が友よ、古きよしみを心に描こう。

月明らかに星稀に、南へ飛ぶ烏鵲。
木を幾たび巡れども、寄るべき枝はどこにある。
山は高きを厭わず、海は深きを厭わず。
周公こころを捧げ、天下の心はここに帰る。

其の二

周の文王、聖徳を裡にいだき。天下三分のうち、その二を有した。
貢献おおくも、臣の節を逸脱せず。諸侯の勧めにも、忠義をまげず。
天子を補佐し、軍事権を意味する斧鉞を賜るも、異民族征伐のために使った。
だから孔子も論語で文王の徳行に触れ、なお殷に仕えたことを褒め称えた。

斉の桓公は功をあげ,春秋五覇の筆頭となる。諸侯を糾合し,天下をひとつにまとめた。
天下を一つにまとめる時,兵車を用いず。正にしていつわらず,その徳は伝説となった。
孔子の嘆ずるところ,「並みいる異民族を打ち払い、民は其の恩を受けた」
堂に登り胙を受ける時も、堂下に降りて拝礼し。天子の位に近づかずとも、天意は常に傍らにあった。

晋の文公も覇をとなえ,天子である周王を奉じた。圭瓚,秬鬯彤弓,盧弓矢千,虎賁三百人を受け賜わった。
その威に諸侯は屈服し,文公の軍を尊んだ。八方これを聞き,名を斉の桓公と並べ称した。
しかし文公は河陽の地に集い,狩りと詐称して周王を呼んだ,これで後世の評価は入り乱れた。


コメント:短歌行


 『短歌行』本辞は、其の一、其の二がある。
 其の二については、《昭明文選》には掲載されておらず、《宋書》、《楽府詩集》に出てくる。
 《宋書》では、其の一と其の二が逆なので、当初は其の二→其の一が正しい順番だったかも?
 二首のうち、其の一だけが晋楽所奏の形式と共に伝わり、後世で楽府の代表格のひとつとされるほど有名になった(”《樂府解題》曰:“《短歌行》,魏武帝‘對酒當歌,人生幾何’,晉陸機‘置酒高堂,悲歌臨觴’,皆言當及時為樂也。”)模様。

 人材を求める志を読んだとされる一首目が有名だが、全文を通して読むと、作者の思考や精神の複雑さが伺える。
 一首目は、積もる憂いのなかで、旧友?との再会を喜び、周公の逸話で終わる。
 二首目は、3つの構成からなる。
 天子の権限を預かりながら、なお臣であり続けた周文王。
 己の徳と才で天下をすべ、天子の権限を預かっても使用しなかった斉桓公。
 天子から多くを預かり、さらに天子=天を騙した晋文公。

 孫盛の記録では、臣による帝位就任の奏上に対し、曹操がこのように述べたとされる。
「もし天命が吾にあっても、吾は周の文王となろう」
 この一文と、当時の他の作品(王粲の公讌詩など)から、曹操は己を周文王になぞらえたとされる。
 実際に残っている作品や記録を見ると、確かに、曹操は己を、周公、斉桓公をはじめ、様々な古人になぞらえている。
 しかし、周文王は、曹操の記述にあまり登場しない。この作品ぐらい?

 理想は周文王。せめて斉桓公でありたい。晋文公にはなりたくない。

 地上の王に授けるべき軍権を、天子から奪ったのは誰か? 吾の出世は天子の意によるもの。天意を批判するのか?
 晋文公のように、天子を呼びつけたわけではない。そもそも、何を基準として、吾を批判するのか?

 さらに、晋文公のくだりについては、一種の韜晦を感じられる。
 曹操が漢の名声を利用した一方で、当時は袁兄弟の話に見られるように、皇帝軽視の風潮も存在した。
 後に、曹魏の皇帝は、臣下に廃され、あるいは殺され、「晋」という王朝によって終焉を迎えた。
 この皮肉に満ちた未来さえ、繰り返される歴史として曹操は認識していたかもしれない。

 其の二の解説にあるように、また魏王朝をみるに、曹操は新時代の創造者になりきれず、後漢の気風に縛られた一面もある。
 限りなく天に近い才人の、己の限界を知る故の虚無と寂寥。
 『短歌行』第二首の節々にたゆたう棘が、『短歌行』第一首の憂いをより深めている。

●追記(12/12/22)
 まず、曹操の短歌行は、少なくとも2つ現存している。其の一は有名な「對酒當歌」、其の二が「周西伯昌」。
 この「周西伯昌」の最後の「晋文」が、司馬氏による「晋」王朝、司馬懿の当初の諡号である「文」と一致している。

 で、前に「周西伯昌」を訳したときは、(まぁ偶然だろうが、当時も気づいた人はいただろう。
 晋書宣帝紀の「曹操は夢を見て、司馬氏がいつか曹氏に取って代わると予言した」という話は、この話から生まれた寓話かもなぁ。
 晋書のオカルトも、元ネタが有るならバカにできんぞ)、という所で止まっていた。

 ところが、2chの「三国時代の文学スレッド」で、話の流れから「周西伯昌」を紹介したところ、「司馬昭が、晋公の称号をいったん断っている」「司馬懿の諡号を変えるよう上奏している」という指摘を頂いた。
 つまり、「周西伯昌」が、実際に、魏晋禅譲の流れに影響を及ぼしている可能性が出てきた。
 該当スレへのリンク

 この問題に対し、文学スレッドで、「周西伯昌」側からのアプローチと、「司馬懿の諡変更問題」側からのアプロ-チを行った。
 以下抄訳

▼「周西伯昌」における、2つの謎
1)史書の掲載
晋書楽志に「周西伯昌」は掲載されていない。宋書については、この作品だけ順番が逆。
2)「周西伯昌」に込められた志
曹操の作品は楽府、人前で奏でることを前提に作られた。
また、短歌行は、曹丕が曹操の追悼に使ったタイトルであり、重要な曲。
曹操が重要な曲を使って歌い上げる必要があった「周西伯昌」の志は何か?
漢魏禅譲にまつわる曹操の志をこめたという説がある。

▼「司馬懿の諡変更問題」
 嘉平三年秋八月、司馬懿が死去したとき、安平郡公を贈られ、諡は文とされた。

 正元二年、司馬師の死去後、司馬昭が「司馬懿の文、司馬師の武の諡を変えるよう」上奏。
(晋書から引用)
「臣亡父不敢受丞相相國九命之禮,亡兄不敢受相國之位,誠以太祖常所階歴也。今諡與二祖同,必所祗懼。
 昔蕭何、張良、霍光咸有匡佐之功,何諡文終,良諡文成,光諡宣成。必以文武為諡,請依何等就加。」
(「(司馬昭の)亡父(司馬懿)は丞相、相国、九命の礼をあえて受けず、亡兄は相国の位をあえて受けなかったのは、まこと太祖(曹操)がつねづね地位の区別をしていたからです。 いま諡号が(魏の)二祖(武帝、文帝)と同じであり、父も兄も必ず恐懼するでしょう。
 むかし蕭何、張良、霍光は補佐の功がありましたが、蕭何は文終と諡され、張良は文成と諡され、霍光は宣成と諡されました。
 どうしても文武という諡を頂けるのであれば、蕭何ら(の前例)によって(文字を)追加なさいますよう」
 詔勅により許され、(司馬師は)忠武と諡された。

 次に、景元四年冬十月、司馬氏の功を称え、晋公とする詔の一文。
故齊魯之封,於周為弘,山川土田,邦畿七百,官司典策,制殊羣后。惠襄之難,桓文以翼戴之勞,猶受錫命之禮,咸用光疇大德,作範于後。
(斉・魯の封地は、周において広くなり、~。(周)恵襄王の難のとき、斉桓公・晋文公は国を助けた労をもって、錫命の礼を受け~)
 司馬昭は死後、晋文と贈名された。
 司馬一族は、本来ならもっと早くに、由緒正しい晋文を名乗りたかったが、曹操の「周西伯昌」が邪魔だった。そこで曹操が別々に分けた斉桓・晋文を、曹魏の皇帝に同等のものとさせることで、晴れて晋文を名乗れた、ということも出来てしまう。

 個人的にはやや懐疑的。
 晋書のうち、司馬師の斉王廃立等の内容が《漢書》霍光の記述に似ており、晋もしくは後世の意図が入り込んでいる可能性があるため。
 晋書以外の資料(三国志正史、当事者の手紙等)を調べた上で、諡を決めたのが誰か、こうしたシナリオを誰が作ったか、分析する必要があると思う。

●晋の称号について
 司馬一族の出身地が晋の拠点だったので、禅譲を受けるなら、よほどの事情がない限りは、出身地の国号である晋を名乗ることになる。
 戦国時代の魏は、春秋時代の晋から分裂して出来た。これは司馬晋の、曹魏に対する優位性を示せる事項であり、問題にならない。
 王朝の名称は、魏晋代まで国号=出身地、本拠地という一定の法則がみられるが、これが六朝以降、必ずしも本拠地とは限らなくなるのは、単に異民族の王朝だったからか?

 以上、備忘録として纏めておく。誰かやってくれるなら歓迎。

 下手すると「周西伯昌」は、漢魏と魏晋、2度の禅譲に影響した作品ってことになってしまう。実際にそうなのか、どうなのか。
 いずれにせよ、「周西伯昌」がもってしまった歴史的意義は、作者の意図や後世の想像以上に重いかもしれない、というのが現時点での感想。



漢詩大会の漢詩全文/曹操インデックスに戻る