「短歌行(曹操)」の編集履歴(バックアップ)一覧に戻る

短歌行(曹操) - (2014/02/17 (月) 16:21:55) の編集履歴(バックアップ)





原文

  • 曲調
周西:清商平調(宋書)、對酒:清商平調(宋書)
  • 出典
(其の一のみ掲載):《昭明文選/卷27(近デジ)》/《藝文類聚/巻42(維基)》
(其の一、其の二掲載):《漢魏六朝百三名家集(国デジ)》/《宋書/卷21/志第11 樂三(維基)》/《樂府詩集/卷30/相和歌辭五(維基)(台湾)》

其一

對酒當歌。人生幾何。譬如朝露。去日苦多。
慨當以慷。憂思難忘。何以解憂。唯有杜康。
青青子衿。悠悠我心。但為君故。沈吟至今。
呦呦鹿鳴。食野之苹。我有嘉賓。鼓瑟吹笙。
明明如月。何時可輟。憂従中来。不可断絶。
越陌度阡。枉用相存。契闊談讌。心念舊恩。
月明星稀。烏鵲南飛。繞樹三匝。何枝可依。
山不厭高。海不厭深。周公吐哺。天下歸心。

其一(晋楽所奏)

對酒當歌,人生幾何。譬如朝露,去日苦多。
慨當以慷,憂思難忘。以何解愁,唯有杜康。
青青子衿,悠悠我心。但為君故,沈吟至今。
明明如月,何時可輟。憂從中來,不可斷絶。
呦呦鹿鳴,食野之苹。我有嘉賓,鼓瑟吹笙。
山不厭高,水不厭深。周公吐哺,天下歸心。
+ 単語解説。左の「+」をクリックすれば展開します
【人生幾何】
《左氏伝》襄公八年「俟河之清,人壽幾何」

【譬如朝露】
漢書,李陵謂蘇武曰「人生如朝露」、または古詩十九首其の十三「年命如朝露」

【去日苦多。慨當以慷,憂思難忘。以何解愁,唯有杜康】
古詩の《善哉行》「歡日尚少。戚日苦多。以何忘憂。彈箏酒歌」

【青青子衿】
《詩經》小雅「子衿」の一句
青青を学生のことと取るなら、同じ師に付き従った弟子同士で、旧交を温める詩になる。
女と取るなら女性への歌になるだろうが、女性説は朱子など後世の説である可能性がある。

【但為君故,沈吟至今】
本辞では、この二文は存在しないとする説あり(楽府詩集)。

【呦呦鹿鳴,食野之萍。我有嘉賓,鼓瑟吹笙】
《詩經》小雅「鹿鳴」の一句

【越陌度阡】
《風俗通》:南北曰阡,東西曰陌。(南北に通じるを阡、東西に通じるを陌という。)そうだが、原文未確認。
 後世の風俗通注釈本に掲載されているものを、「風俗通曰、」としているのか?

【枉用相存】
「枉用」は、仕事を無理してまで。用件を曲げてまで。

【心念舊恩】「舊恩」自体は、「以前に受けた恩。昔恩」の意。
《漢書》巻97の孝宣許皇后の項で、
「時掖庭令張賀,本衛太子家吏,及太子敗,賀坐下刑,以『舊恩』養視皇曾孫甚厚。」
とあるため、張賀(wiki)の出自(皇帝に忠誠を尽くした宦官)と併せて、解説に引用されるケースあり。

【烏鵲南飛】
古詩十九首の一『越鳥巣南枝』。鳥も故郷を思い、南の枝に巣をかけるの意。
「鳥は故郷を思って枝を探すが、よるべき枝が見つからない」といった雰囲気か。
後述の「天下の心は帰る」と、対比していると思われ。

【山不厭高、海不厭深】
《管子》「海不辭水,故能成其大;山不辭土,故能成其高;明主不厭人,故能成其衆」
海は水を厭わず、ゆえによく広大となる。山は土を厭わず、ゆえにその高きをなす。
明君は人を厭わず、ゆえに人は集まる。
「厭う」は、「嫌う」「嫌がる」という感じ。その人を拒絶しないので、人も集まってくる。

文選、古詩源では「海不厭深」とする。《楽府詩集》晋楽所奏、《漢魏六朝百三名家集》では「水不厭深」とする。
「水」派については、典拠を、曹丕が短歌行で引用した《論語-雍也》「知者楽水、仁者楽山~(略)~仁者寿」にするからか

【周公】
文王の子、武王の弟。甥の成王を助け、また洛陽を建設した。wikiコトバンク

【周公吐哺】
(史記・魯周公世家>http://zh.wikisource.org/wiki/%E5%8F%B2%E8%A8%98/%E5%8D%B7033)より
「我文王之子,武王之弟,成王之叔父,我於天下亦不賤矣。
 然我一沐三捉髮,一飯三吐哺,起以待士,猶恐失天下之賢人。子之魯,慎無以國驕人」
 これが、のちに「一飯三吐哺(一飯に三たび哺を吐く)」という故事になった。

【天下歸心】
論語素王受命讖「河授圖,天下歸心」(原文未確認)

其二

周西伯昌,懷此聖德。三分天下,而有其二。
修奉貢獻,臣節不隆。崇侯讒之,是以拘繁。
後見赦原,賜之斧鉞,得使征伐。為仲尼所稱
達及德行,猶奉事殷,論敘其美。

齊桓之功,為霸之首。九合諸侯,一匡天下。
一匡天下,不以兵車。正而不譎,其德傳稱。
孔子所嘆,並稱夷吾,民受其恩。
賜與廟胙,命無下拜。小白不敢爾,天威在顏咫尺。

晉文亦霸,躬奉天王。受賜圭瓚,秬鬯彤弓,
盧弓矢千,虎賁三百人
威服諸侯,師之所尊。八方聞之,名亞齊桓。
河陽之會,詐稱周王,是其名紛葩。

+ 単語解説。左の「+」をクリックすれば展開します
【賜與廟胙,命無下拜】
葵丘之会(wiki(中国語))での一幕。このとき、周王の使者から「(廟胙を賜る時)堂下に降りなくて良いよ」と言われた。
「廟胙」は祭壇のひもろぎ、祭祀のとき神にささげた肉を賜る。

【小白】桓公の別名の小白か。
桓公がまだ小白と名乗っていた頃、暗殺を狙った管仲に弓で射られたが、矢が運よく腰に当たり生き延びた。このあたりの幸運な逸話も踏まえているか。

【不敢爾】あえて近づかず?
 不敢は「自信がない」といったイントネーションだった気ガス。

【咫尺】傍ら、近く。このくだりは「天子の位に近づかずとも、天意は常に顔の傍らにあった」といった感じか。
 とか悩んでいたら、元ネタの「天威咫尺」が「そば近くに仕える」の意味だそうな。(大辞林)


てけとー訳

其の一

酒を前にさぁ歌おう、人生の残りはどれほどか。
例えれば朝露の如し、日が去るごとに苦しみ募る。
高まりゆく悲しみの歌声、積もりし憂いは忘れ難い。
何を以って憂いを解くか、唯だ酒のみが有る。

「青青たる君の衿、悠悠たる我が心」
ただ君のために、深く吟じて今に至る。
「鹿はゆうゆうと鳴き、野の萍を食む。
我に嘉き賓客あり、瑟を鳴らし笙を吹こう」

明るいこと月のごとく、いつ採ることができるのか。
憂いは私の裡から来て、いまもなお断絶しない。
君はあぜを越え道を渡り、我が前まで来て下さった。
酒を飲み交そう我が友よ、古きよしみを心に描こう。

月明らかに星稀に、南へ飛ぶ烏鵲。
木を幾たび巡れども、寄るべき枝はどこにある。
山は高きを厭わず、海は深きを厭わず。
周公こころを捧げ、天下の心はここに帰る。

其の二



コメント:短歌行


 『短歌行』本辞は、其の一、其の二がある。
 其の二については、《昭明文選》には掲載されておらず、《宋書》、《楽府詩集》に出てくる。
 《宋書》では、其の一と其の二が逆なので、当初は其の二→其の一が正しい順番だったかも?
 二首のうち、其の一だけが晋楽所奏の形式と共に伝わり、後世で楽府の代表格のひとつとされるほど有名になった(”《樂府解題》曰:“《短歌行》,魏武帝‘對酒當歌,人生幾何’,晉陸機‘置酒高堂,悲歌臨觴’,皆言當及時為樂也。”)模様。

 人材を求める志を読んだとされる一首目が有名だが、全文を通して読むと、作者の思考や精神の複雑さが伺える。
 一首目は、積もる憂いのなかで、旧友?との再会を喜び、周公の逸話で終わる。
 二首目は、3つの構成からなる。
 天子の権限を預かりながら、なお臣であり続けた周文王。
 己の徳と才で天下をすべ、天子の権限を預かっても使用しなかった斉桓公。
 天子から多くを預かり、さらに天子=天を騙した晋文公。

 孫盛の記録では、臣による帝位就任の奏上に対し、曹操がこのように述べたとされる。
「もし天命が吾にあっても、吾は周の文王となろう」
 この一文と、当時の他の作品(王粲の公讌詩など)から、曹操は己を周文王になぞらえたとされる。
 実際に残っている作品や記録を見ると、確かに、曹操は己を、周公、斉桓公をはじめ、様々な古人になぞらえている。
 しかし、周文王は、曹操の記述にあまり登場しない。この作品ぐらい?
 回りの文章は様々だが、曹操本人は、己をいったい何になぞらえていたのか?

 さらに、晋文公のくだりについては、一種の韜晦を感じられる。
 曹操が漢の名声を利用した一方で、当時は袁兄弟の話に見られるように、皇帝軽視の風潮も存在した。
 後に、曹魏の皇帝は、臣下に廃され、あるいは殺され、「晋」という王朝によって終焉を迎えた。
 この皮肉に満ちた未来さえ、繰り返される歴史として曹操は認識していたかもしれない。

 其の二の解説にあるように、また魏王朝をみるに、曹操は新時代の創造者になりきれず、後漢の気風に縛られた一面もある。
 限りなく天に近い才人の、己の限界を知る故の虚無と寂寥。
 『短歌行』第二首の節々にたゆたう棘が、『短歌行』第一首の憂いをより深めている。

●追記(12/12/22)
 まず、曹操の短歌行は、少なくとも2つ現存している。其の一は有名な「對酒當歌」、其の二が「周西伯昌」。
 この「周西伯昌」の最後の「晋文」が、司馬氏による「晋」王朝、司馬懿の当初の諡号である「文」と一致している。

 で、前に「周西伯昌」を訳したときは、(まぁ偶然だろうが、当時も気づいた人はいただろう。
 晋書宣帝紀の「曹操は夢を見て、司馬氏がいつか曹氏に取って代わると予言した」という話は、この話から生まれた寓話かもなぁ。
 晋書のオカルトも、元ネタが有るならバカにできんぞ)、という所で止まっていた。

 ところが、2chの「三国時代の文学スレッド」で、話の流れから「周西伯昌」を紹介したところ、「司馬昭が、晋公の称号をいったん断っている」「司馬懿の諡号を変えるよう上奏している」という指摘を頂いた。
 つまり、「周西伯昌」が、実際に、魏晋禅譲の流れに影響を及ぼしている可能性が出てきた。
 該当スレへのリンク

 この問題に対し、文学スレッドで、「周西伯昌」側からのアプローチと、「司馬懿の諡変更問題」側からのアプロ-チを行った。
 以下抄訳

▼「周西伯昌」における、2つの謎
1)史書の掲載
晋書楽志に「周西伯昌」は掲載されていない。宋書については、この作品だけ順番が逆。
2)「周西伯昌」に込められた志
曹操の作品は楽府、人前で奏でることを前提に作られた。
また、短歌行は、曹丕が曹操の追悼に使ったタイトルであり、重要な曲。
曹操が重要な曲を使って歌い上げる必要があった「周西伯昌」の志は何か?
漢魏禅譲にまつわる曹操の志をこめたという説がある。

▼「司馬懿の諡変更問題」
 嘉平三年秋八月、司馬懿が死去したとき、安平郡公を贈られ、諡は文とされた。

 正元二年、司馬師の死去後、司馬昭が「司馬懿の文、司馬師の武の諡を変えるよう」上奏。
(晋書から引用)
「臣亡父不敢受丞相相國九命之禮,亡兄不敢受相國之位,誠以太祖常所階歴也。今諡與二祖同,必所祗懼。
 昔蕭何、張良、霍光咸有匡佐之功,何諡文終,良諡文成,光諡宣成。必以文武為諡,請依何等就加。」
(「(司馬昭の)亡父(司馬懿)は丞相、相国、九命の礼をあえて受けず、亡兄は相国の位をあえて受けなかったのは、まこと太祖(曹操)がつねづね地位の区別をしていたからです。 いま諡号が(魏の)二祖(武帝、文帝)と同じであり、父も兄も必ず恐懼するでしょう。
 むかし蕭何、張良、霍光は補佐の功がありましたが、蕭何は文終と諡され、張良は文成と諡され、霍光は宣成と諡されました。
 どうしても文武という諡を頂けるのであれば、蕭何ら(の前例)によって(文字を)追加なさいますよう」
 詔勅により許され、(司馬師は)忠武と諡された。

 次に、景元四年冬十月、司馬氏の功を称え、晋公とする詔の一文。
故齊魯之封,於周為弘,山川土田,邦畿七百,官司典策,制殊羣后。惠襄之難,桓文以翼戴之勞,猶受錫命之禮,咸用光疇大德,作範于後。
(斉・魯の封地は、周において広くなり、~。(周)恵襄王の難のとき、斉桓公・晋文公は国を助けた労をもって、錫命の礼を受け~)
 司馬昭は死後、晋文と贈名された。
 司馬一族は、本来ならもっと早くに、由緒正しい晋文を名乗りたかったが、曹操の「周西伯昌」が邪魔だった。そこで曹操が別々に分けた斉桓・晋文を、曹魏の皇帝に同等のものとさせることで、晴れて晋文を名乗れた、ということも出来てしまう。

 個人的にはやや懐疑的。
 晋書のうち、司馬師の斉王廃立等の内容が《漢書》霍光の記述に似ており、晋もしくは後世の意図が入り込んでいる可能性があるため。
 晋書以外の資料(三国志正史、当事者の手紙等)を調べた上で、諡を決めたのが誰か、こうしたシナリオを誰が作ったか、分析する必要があると思う。

●晋の称号について
 司馬一族の出身地は春秋時代の晋に属するので、禅譲を受けるなら、よほどの事情がない限りは、出身地の国号である晋を名乗ることになる。
 戦国時代の魏は、春秋時代の晋から分裂して出来た。これは司馬晋の、曹魏に対する優位性を示せる事項であり、問題にならない。
 王朝の名称は、魏晋代まで国号=出身地、本拠地という一定の法則がみられるが、これが六朝以降、必ずしも本拠地とは限らなくなるのは、単に異民族の王朝だったからか?

 以上、備忘録として纏めておく。誰かやってくれるなら歓迎。

 下手すると「周西伯昌」は、漢魏と魏晋、2度の禅譲に影響した作品ってことになってしまう。実際にそうなのか、どうなのか。
 いずれにせよ、「周西伯昌」がもってしまった歴史的意義は、作者の意図や後世の想像以上に重いかもしれない、というのが現時点での感想。



漢詩大会の漢詩全文/曹操インデックスに戻る