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善哉行 - (2013/03/01 (金) 23:12:39) の編集履歴(バックアップ)





原文

出典:《漢魏六朝百三名家集(国デジ)》 《楽府詩集(台湾)》

其の一

古公亶甫。積徳垂仁。思弘一道。哲王於豳。
太伯、仲雍。王德之仁。行施百世。斷髮文身。

伯夷、叔齊。古之遺賢。讓國不用。餓殂首山。
智哉山甫。相彼宣王。何用杜伯。累我聖賢。

齊桓之霸。賴得仲父。後任豎刁。蟲流出戸。
晏子平仲。積德兼仁。與世沈德。未必思命。
仲尼之世。王國為君。隨制飲酒。揚波使官。

其の二

自惜身薄祜。夙賤罹孤苦。既無三徒教。不聞過庭語。
其窮如抽裂。自以思所怙。雖懷一介志。是時其能與。
守窮者貧賤。惋歎涙如雨。泣涕於悲夫。乞活安能覩。
我願於天窮。琅邪傾側左。
雖欲竭忠誠。欣公歸其楚。快人由為歎。抱情不得敘。
顯行天教人。誰知莫不緒。我願何時隨。此歎亦難處。
今我將何照於光曜。釋銜不如雨。

其の三

→作者が曹丕だという説もある(宋書等)ので、別に項目を設けます。

てけとーな日本語

其の一

古公亶甫は。德を積み仁を垂れ。思いはひろく一道にして。豳の地において賢こい王となった。
太伯、仲雍は、王德の仁をそなえ。行きて百世に施し。斷髮し、身に刺青を彫った。

伯夷、叔齊。古の賢人。國譲りを不用として。殂首山に餓えた。
智なるかな、山甫。彼の宣王に相対す。どうして用いないのか杜伯。我が聖賢に連ねん。

齊桓の霸。仲父を得たことに頼り。後任は狡賢く。ついには蟲が戸を出でて流れた。
晏子平仲。德を積み仁を兼ね。しかし世の人は道徳を失い。必ずしも思命どおりにいくとは限らない。

仲尼の世。王國を主君と為し。制に隨い飲酒して。波を揚げて宮仕えした。

其の二

自らを惜(いた)む、身は祜(さいわい)薄く。賤しい身にして、孤独の苦に見舞われ。
既に母の愛はなく。父の教えも聞けない。
苦しみは極まり、我が身は張り裂けるよう。自らの怙(たの)むべき所を思う。
一介の志、懐くといえども。叶うは何時の日か。

今なお、貧賤のままで。嘆き悲しめば、涙は雨のごとし。
流れる涙に、悲しみはより深くなる。活路を乞うも、どこに見出すことが出来るのか。
蒼天よ、せめて我が祈りを聞け。琅邪を左に傾けよ(?)。

忠誠を尽くさんと欲すれば。帝が洛陽に帰還なさるという(?)。
快哉を叫ぶ人々を見て、溜息をつく。内なる情、述べることも得ず。
善行をあらわし、天を奉じて人を教化したい。しかし誰も知らぬ、我が思いが結ばれぬままにあることを。
我が願いが叶うは、何時の日か。この難所を前に、悲歎に暮れる。

今、我はまさに雲間から射す光に照らされている。しかし心中の怨恨憤怒は澱んで、雨のように流れることも無い。


単語解説(長いよ)

ここで登場する人名は、いずれも有名なので、検索すれば出てきます。
……解説対象が多すぎんだよガッデム

【古公亶甫】周文王の祖父。
甫とは「父」ともいい、古代、男性の姓の下につけて、敬称とした。(今、名字のあとに~様、とつけるようなもの)

【豳】ひんと読む。
周の地名。今の陝西省彬県一帯の古名。まさか、IMEで出てくるとは思わなかった。

【太伯、仲雍】太伯は古公亶父の長男、呉の祖。仲雍は次男、虞仲とも。
《史記》によると、古公亶甫が末弟の季歴に後を継がせたいと考えていたため、太伯と虞仲は、江南(荊、渭水)へと自ら出奔した。後に周の者が二人を迎えに来たが、二人は斷髮文身(髪を切り身に刺青を彫る)して、断った。

【伯夷、叔齊】《論語-公冶長》で聖賢として登場する。
孤竹国の王子兄弟。殷を討伐しようとする周武王を止め、殷の滅亡後は首陽山に隠れ、最後は餓死している。

【山甫】仲山甫。樊侯とも。
周宣王の臣下。周王朝中興の臣といわれた。《詩経-大雅-烝民》に登場する。
小心翼々という言葉の語源。晋盧湛《贈劉昆》「伊陟佐商。山甫翼周」。

【杜伯】山甫と同じ、周宣王に仕えた将軍。
のちに周宣王に疎まれ、無実の罪で死罪となった。

【齊桓之霸】春秋五覇の筆頭、斉の桓公。
管仲を重宝したが、管仲の死後は後任を三貴(管仲が批判した三人の臣下)に任せた結果、後継者争いの中で死後放置され、ついにはウジが扉から湧き出た。
曹操はこの人に何か思うところがあったのか、後期の作品では、よく出てくる。

【仲父】おそらく管仲(管夷吾)。潁上県の人。
斉の桓公を最初は暗殺しようとしたが、失敗に終わる。後に友人の鮑叔に推挙され、桓公を補佐した。

【晏子平仲】晏嬰。字が仲、謚が平。
身長が小さかったが、胆があり、質素を心掛けた。後世では斉の名宰相として、管仲と並び称される。
死後、「斉は田氏に乗っ取られる」という晏子の予言どおりに、斉は滅びた。

【與世沈德】
與世は「世俗」。沈德は「道徳を失う」。

【仲尼】
孔子。字が仲尼。一時、魯の国に仕えたが、憤慨して出国している。後にまた魯の国に仕え、外交官になったが、亡命している。

【隨制飲酒】
『論語』郷党編「惟酒無量、不及乱」
(酒を無量に飲み、乱れることがなかった)

【揚波】
「揚彼」ともいう。

【使官】
指名により国家間を往来する国際的な官僚。大使。

其の二

【三徒】三徒は、仏教だと「三人の弟子」の意になるが、ここだと、「孟母三選」という孟母の逸話。
《列女伝-母儀伝-鄒孟軻母》:鄒孟軻之母也。號孟母。其舍近墓。孟子之少也,嬉遊為墓間之事,踴躍築埋。孟母曰:「此非吾所以居處子也。」乃去舍市傍。其嬉戲為賈人衒賣之事。孟母又曰:「此非吾所以居處子也。」復徙舍學宮之傍。其嬉遊乃設俎豆揖讓進退。孟母曰:「真可以居吾子矣。」遂居之。

(孟子の家は、最初、墓地のすぐ近くにあった。そこで幼い孟子は、墓を作っては葬式ごっこをして遊んでいた。
 孟子の母は、「ここは我が子が住むにはふさわしくない」と言って、市場の近くに引っ越した。

 すると、孟子は商人をまねて、売りをして楽しそうに遊んでいた。
 孟子の母は、「ここも我が子の、真の住処ではない」と言って、学校の近くに引っ越した。

 孟子は、学校で行われている祭事儀礼の真似事をして遊ぶようになった。
 孟子の母は、「ここが我が子の住処だ」と言い、ここを住居に定めた。)

【庭語】
《論語-季氏篇 (季子篇とも)》:陳亢問於伯魚曰:「子亦有異聞乎?」對曰:「未也。嘗獨立,鯉趨而過庭。曰:『學《詩》乎?』對曰:『未也。』『不學《詩》,無以言。』鯉退而學《詩》。 他日,又獨立,鯉趨而過庭。曰:『學禮乎?』對曰:『未也。』『不學禮,無以立!』鯉退而學禮。聞斯二者。」陳亢退而喜曰:「問一得三:聞《詩》,聞禮, 又聞君子之遠其子也。」

(孔子の弟子の陳亢が、孔子の子、伯魚に聞いた。
「あなたは孔子様の息子さん。孔子様からも、私どもとは違う、特別な教えを学んでおられるのでしょう?」
 対する伯魚の答え。
「いいえ。
 かって、家の庭で、(父の孔子が)一人で立っている前を、私が小走りで駆け抜けようとしたところ、父から「詩経を学んだか?」と声をかけられました。
「いいえ」「詩を学ばなければ、ものを言うことは出来ないぞ」
 私はその場を退いて、詩経を学びはじめました。

 別の日、また、家の庭で、(孔子様が)一人で立っている前を、私が小走りで駆け抜けようとしたところ、父から「礼を学んだか?」と声をかけられました。
「いいえ」「礼を学ばなければ、立つことも出来ないぞ」
 私はその場を退いて、礼を学びはじめました。私が聞いたのは、その二つぐらいです」

 陳亢は退出して、喜んで言った。
「一つの問いで三つを得た。詩経を聞き、礼を聞き、君子は実子と言えども、むやみに近づけないことを聞いた」

【抽裂】
裂いて、われる様。はりさけるよう。

【惋歎】
嘆き悲しむ

【悲夫】
嘆き悲しむ様。夫は助語。

【我願於天窮】
天窮の「窮」は蒼穹の「穹」、すなわち蒼天を指すとも。蒼穹のただなかで独り願う、天に祈る、そんなニュアンス。

【琅邪傾側左】
「左」は、古代地理上では「東」を意味する。
地理上の中央に指南車をおいたとき、つまり南を向いたとき、左側は東になる。
また、楚辞に「左傾」という表現もあるにはある。ただ、初期~中期の作品では、楚辞の影響はあまり考えなくても良さげ。

【欣公歸其楚】
中国の解説サイトや海外の三国志フォーラムだと以下の話によるらしいが、不明。
《春秋穀梁傳-襄公九年》「外災不志,此其志何也?故宋也。」、
《春秋穀梁傳-襄公二十九年》「二十有九年春王正月, 公在楚。 閔公也。夏五月,公至自楚。喜之也。致君者,殆其往而喜其反,此致君之意義也。」

【抱情不得敘】
「抱情」情を抱く。「不得敘」敘を得ず。敘はしゃべる、話す。

【顯行天教人】
顯行は功をあげる。天教人は天が人に教える、つまり天子が人々を教化する。

【釋銜】
心の中の怨恨憤怒を消し去る。


コメント

其の一

善哉行は、名前どおり、「善きかな!」と賛嘆するための曲調。
単純に見るだけなら、曲に合わせて、昔の偉人を並べて嘆美しただけなんだが。
内容……褒めてるか、これ? むしろ、世の人が讃えるのを皮肉っている感じ。

其の二

三徒、庭語みたいに独特の言い回しがあり、細部の訳が断定できない。
古典や論文を総当りして埋めてみたが、訂正が行き届かない。

最初は、「父母が無い自らを卑下した上で、自らの志を思う」
次に、「志が叶わぬまま終わるならば、せめて生きている間に、父の復讐を成し遂げようとする」
最後に、「自分の志がまだ叶っていないことを思い、溜息をつく」

この作品での「善哉」は、作品内で言う「志」と、「何らかの吉事」と考える。
「顯行天教人」、天の教えを人に広めたい、つまり「良い行い」が志。
献帝が戻ってきたことが、「吉事」。
父を亡くし、(古くからの親友に裏切られるなど)相当追い込まれていた時期なので、本来なら善き哉!と讃えるべき吉事も、素直に喜べないという内容。



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