「短歌行(曹操)」の編集履歴(バックアップ)一覧に戻る

短歌行(曹操) - (2012/11/11 (日) 19:13:42) のソース

現在地:[[トップページ]]>[[漢詩大会の漢詩全文]]>[[漢詩大会の漢詩全文/曹操]]>今ココ
-----
#contents(fromhere=true)

-----
*原文
・曲調
周西:清商平調(宋書)、對酒:清商平調(宋書)
・出典
(其の一のみ掲載):《昭明文選/卷27([[近デジ>http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/895908/45]])》/《藝文類聚/巻42(維基)》
(其の一、其の二掲載):《宋書/卷21/志第11 樂三(維基)》/《樂府詩集/卷30/相和歌辭五(維基)(台湾)》
**其一
對酒當歌。人生幾何。譬如朝露。去日苦多。
慨當以慷。憂思難忘。何以解憂。唯有杜康。
青青子衿。悠悠我心。但為君故。沈吟至今。
呦呦鹿鳴。食野之苹。我有嘉賓。鼓瑟吹笙。
明明如月。何時可輟。憂従中来。不可断絶。
越陌度阡。枉用相存。契闊談讌。心念舊恩。
月明星稀。烏鵲南飛。繞樹三匝。何枝可依。
山不厭高。海不厭深。周公吐哺。天下歸心。 

**其一(晋楽所奏)
對酒當歌,人生幾何。譬如朝露,去日苦多。
慨當以慷,憂思難忘。以何解愁,唯有杜康。
青青子衿,悠悠我心。但為君故,沈吟至今。
明明如月,何時可輟。憂從中來,不可斷絶。
呦呦鹿鳴,食野之苹。我有嘉賓,鼓瑟吹笙。
山不厭高,水不厭深。周公吐哺,天下歸心。

**其二
周西伯昌,懷此聖德。三分天下,而有其二。
修奉貢獻,臣節不隆。崇侯讒之,是以拘繁。
後見赦原,賜之斧鉞,得使征伐。為仲尼所稱
達及德行,猶奉事殷,論敘其美。

齊桓之功,為霸之首。九合諸侯,一匡天下。
一匡天下,不以兵車。正而不譎,其德傳稱。
孔子所嘆,並稱夷吾,民受其恩。
賜與廟胙,命無下拜。小白不敢爾,天威在顏咫尺。

晉文亦霸,躬奉天王。受賜圭瓚,秬鬯彤弓,
盧弓矢千,虎賁三百人
威服諸侯,師之所尊。八方聞之,名亞齊桓。
河陽之會,詐稱周王,是其名紛葩。

#region(単語解説。左の「+」をクリックすれば展開します)
【人生幾何】
[[《左氏伝》襄公八年>http://zh.wikisource.org/wiki/%E6%98%A5%E7%A7%8B%E5%B7%A6%E6%B0%8F%E5%82%B3/%E8%A5%84%E5%85%AC#.E8.A5.84.E5.85.AC.E5.85.AB.E5.B9.B4]]「俟河之清,人壽幾何」

【譬如朝露】
漢書,李陵謂蘇武曰「人生如朝露」、または古詩十九首其の十三「年命如朝露」

【青青子衿】
[[《詩經》小雅「子衿」の一句>http://www39.atwiki.jp/sangokushi7/pages/60.html#id_8046fe72]]。

【但為君故,沈吟至今】
本辞では、この二文は存在しないとする説あり(楽府詩集)。

【呦呦鹿鳴,食野之萍。我有嘉賓,鼓瑟吹笙】
[[《詩經》小雅「鹿鳴」の一句>http://www39.atwiki.jp/sangokushi7/pages/60.html#id_c501d881]]。

【越陌度阡】
《風俗通》:南北曰阡,東西曰陌。(南北に通じるを阡、東西に通じるを陌という。)そうだが、原文未確認。
 後世の風俗通注釈本に掲載されているものを、「風俗通曰、」としているのか?

【心念舊恩】「舊恩」自体は、「以前に受けた恩。昔恩」の意。
[[《漢書》巻97の孝宣許皇后の項>http://zh.wikisource.org/wiki/%E6%BC%A2%E6%9B%B8/%E5%8D%B7097%E4%B8%8A]]で、
「時掖庭令張賀,本衛太子家吏,及太子敗,賀坐下刑,以『舊恩』養視皇曾孫甚厚。」
とあるため、張賀([[wiki>http://ja.wikipedia.org/wiki/張賀]])の出自(皇帝に忠誠を尽くした宦官)と併せて、解説に引用されるケースあり。

【烏鵲南飛】
古詩十九首の一『越鳥巣南枝』。鳥も故郷を思い、南の枝に巣をかけるの意。
「鳥は故郷を思って枝を探すが、よるべき枝が見つからない」といった雰囲気か。
後述の「天下の心は帰る」と、対比していると思われ。

【山不厭高、海不厭深】
《管子》「海不辭水,故能成其大;山不辭土,故能成其高;明主不厭人,故能成其衆」
海は水を厭わず、ゆえによく広大となる。山は土を厭わず、ゆえにその高きをなす。
明君は人を厭わず、ゆえに人は集まる。

文選、古詩源では「海不厭深」とする。《楽府詩集》晋楽所奏、《漢魏六朝百三名家集》では、海を「水」とする。
「水」派については、典拠を、曹丕が短歌行で引用した《論語-雍也》「知者楽水、仁者楽山~(略)~仁者寿」にするからか

【周公】
文王の子、武王の弟。甥の成王を助け、また洛陽を建設した。[[wiki>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8%E5%85%AC%E6%97%A6]]、[[コトバンク>http://kotobank.jp/word/%E5%91%A8%E5%85%AC]]

【周公吐哺】
(史記・魯周公世家>http://zh.wikisource.org/wiki/%E5%8F%B2%E8%A8%98/%E5%8D%B7033)より
「我文王之子,武王之弟,成王之叔父,我於天下亦不賤矣。
 然我一沐三捉髮,一飯三吐哺,起以待士,猶恐失天下之賢人。子之魯,慎無以國驕人」
 これが、のちに「一飯三吐哺(一飯に三たび哺を吐く)」という故事になった。

【天下歸心】論語素王受命讖「河授圖,天下歸心」(原文未確認)

【賜與廟胙,命無下拜】
葵丘之会([[wiki(中国語)>http://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%91%B5%E4%B8%98%E4%B9%8B%E4%BC%9A]])での一幕。このとき、周王の使者から「(廟胙を賜る時)堂下に降りなくて良いよ」と言われた。

【小白】桓公の別名の小白か。
桓公がまだ小白と名乗っていた頃、暗殺を狙った管仲に弓で射られたが、矢が運よく腰に当たり生き延びた。このあたりの幸運な逸話も踏まえているか。

【不敢爾】あえて近づかず?
 不敢は「自信がない」といったイントネーションだった気ガス。

【咫尺】傍ら、近く。このくだりは「天子の位に近づかずとも、天意は常に顔の傍らにあった(天子の威徳に満ち溢れていた)」といった感じか。
#endregion
-----
*てけとー訳
**其の一
酒を前にさぁ歌おう、人生の残りはどれほどか。
例えれば朝露の如し、日が去るごとに苦しみ募る。
高まりゆく悲しみの歌声、積もりし憂いは忘れ難い。
何を以って憂いを解くか、唯だ酒のみが有る。

「青青たる君の衿、悠悠たる我が心」
ただ君のために、深く吟じて今に至る。
「鹿はゆうゆうと鳴き、野の萍を食む。
我に嘉き賓客あり、瑟を鳴らし笙を吹こう」

明るいこと月のごとく、いつ採ることができるのか。
憂いは私の裡から来て、いまもなお断絶しない。
君はあぜを越え道を渡り、我が前まで来て下さった。
酒を飲み交そう我が友よ、古きよしみを心に描こう。

月明らかに星稀に、南へ飛ぶ烏鵲。
木を幾たび巡れども、寄るべき枝はどこにある。
山は高きを厭わず、海は深きを厭わず。
周公こころを捧げ、天下の心はここに帰る。
**其の二
周の文王、聖徳を裡にいだき。天下三分のうち、その二を有した。
貢献おおくも、臣の節を逸脱せず。諸侯の勧めにも、忠義をまげず。
天子を補佐し、軍事権を意味する斧鉞を賜るも、異民族征伐のために使った。
だから孔子も論語で文王の徳行に触れ、なお殷に仕えたことを褒め称えた。

斉の桓公は功をあげ,春秋五覇の筆頭となる。諸侯を糾合し,天下をひとつにまとめた。
天下を一つにまとめる時,兵車を用いず。正にしていつわらず,その徳は伝説となった。
孔子の嘆ずるところ,「並みいる異民族を打ち払い、民は其の恩を受けた」
堂に登り胙を受ける時も、堂下に降りて拝礼し。天子の位に近づかずとも、天意は常に傍らにあった。

晋の文公も覇をとなえ,天子である周王を奉じた。圭瓚,秬鬯彤弓,盧弓矢千,虎賁三百人を受け賜わった。
その威に諸侯は屈服し,文公の軍を尊んだ。八方これを聞き,名を斉の桓公と並べ称した。
しかし文公は河陽の地に集い,狩りと詐称して周王を呼んだ,これで後世の評価は入り乱れた。

-----
*コメント:短歌行
[[其の一の日本語訳&解説>>http://www.geocities.jp/sangoku_bungaku/so_so/tankako.html]] / [[其の二の解説>>http://hdl.handle.net/2324/9721]]
関連:[[《詩經》小雅「子衿」>http://www39.atwiki.jp/sangokushi7/pages/60.html#id_316f2653]] / [[《詩經》小雅「鹿鳴」>http://www39.atwiki.jp/sangokushi7/pages/60.html#id_99e12fea]] / 「[[短歌行(曹丕)]]」

 『短歌行』本辞は、其の一、其の二がある。
 其の二については、《昭明文選》には掲載されておらず、《宋書》、《楽府詩集》に出てくる。
 《宋書》では、其の一と其の二が逆なので、当初は其の二→其の一が正しい順番だったかも?
 二首のうち、其の一だけが晋楽所奏の形式と共に伝わり、後世で楽府の代表格のひとつとされるほど有名になった(”《樂府解題》曰:“《短歌行》,魏武帝‘對酒當歌,人生幾何’,晉陸機‘置酒高堂,悲歌臨觴’,皆言當及時為樂也。”)模様。

 人材を求める志を読んだとされる一首目が有名だが、全文を通して読むと、作者の思考や精神の複雑さが伺える。
 一首目は、積もる憂いのなかで、旧友?との再会を喜び、周公の逸話で終わる。
 二首目は、3つの構成からなる。
 天子の権限を預かりながら、なお臣であり続けた周文王。
 己の徳と才で天下をすべ、天子の権限を預かっても使用しなかった斉桓公。
 天子から多くを預かり、さらに天子=天を騙した晋文公。

 孫盛の記録では、臣による帝位就任の奏上に対し、曹操がこのように述べたとされる。
「もし天命が吾にあっても、吾は周の文王となろう」
 この一文と、当時の他の作品(王粲の[[公讌詩>http://zh.wikisource.org/wiki/%E5%85%AC%E8%AE%8C%E8%A9%A9_%28%E7%8E%8B%E7%B2%B2%29]]など)から、曹操は己を周文王になぞらえていたとされる。
 しかし、残っている記録を見る限りでは、曹操は己を当初から斉桓公になぞらえたか、或いは当初、其の一でみられる周公になぞらえていたのを、斉桓公に変えた可能性もある。

 理由は二つ。
 「[[秋胡行>秋胡行(曹操)]]」で、周文王ではなく、斉桓公の逸話が引用されていること。
 「短歌行」二首目の内容と、史書における曹魏の軍事構成とを比較すると、斉桓公のスタイルに近いと思われること。
 曹操の勝因は主に、自分や配下豪族の私兵と、荀氏はじめ名士の情報、外交、計略である。
 漢皇帝の名声は利用しても、皇帝の軍事力そのものには、頼っていない。

 理想は周文王。せめて斉桓公でありたい。晋文公にはなりたくない。

 地上の王に授けるべき軍権を、天子から奪ったのは誰か? 吾の出世は天子の意によるもの。天意を批判するのか?
 晋文公のように、天子を呼びつけたわけではない。そもそも、何を基準として、吾を批判するのか?

 さらに、晋文公のくだりについては、一種の韜晦を感じられる。
 曹操が漢の名声を利用した一方で、当時は袁兄弟の話に見られるように、皇帝軽視の風潮も存在した。
 後に、曹魏の皇帝は、臣下に廃され、あるいは殺され、「晋」という王朝によって終焉を迎えた。
 この皮肉に満ちた未来さえ、繰り返される歴史として曹操は認識していたかもしれない。

 [[其の二の解説>>http://hdl.handle.net/2324/9721]]にあるように、また魏王朝をみるに、曹操は新時代の創造者になりきれず、後漢の気風に縛られた一面もある。
 限りなく天に近い才人の、己の限界を知る故の虚無と寂寥。
 『短歌行』第二首の節々にたゆたう棘が、『短歌行』第一首の憂いをより深めている。

-----

[[漢詩大会の漢詩全文/曹操]]インデックスに戻る