照りつける太陽。焦げたようなアスファルトの匂い。
立ち込める陽炎。アブラゼミの大合唱。
夏真っ盛りの8月。
俺は朝も早よからチャリを飛ばしていた。
とっくに学校は夏休みに入っており、例年なら友達と連れ立ってプールに行ったり
ゲームに興じるなど傍目にも自堕落な長期休暇を味わう季節だったはずなのだが、
どういう訳か俺が漕ぐチャリの前かごに入っているのは水着でも携帯ゲーム機でもなく勉強道具。
まぁどういう訳か、などと言いはしたが実際のところ、その理由は至って明瞭で
中学3年である俺は受験生であるからして、つまりこれから塾で夏期講習があるのだった。
自分で言うのはなんだが、まさかこの俺がそんなもんに出る事になろうとは思いもしなかった。
が、右肩下がりする成績にとうとうオフクロの堪忍袋の緒が切れたのをきっかけに
塾に押し込まれ、さらに意外にも、それはまだ継続されているのである。
「あぢぃ」
横に誰がいる訳でもないが愚痴をこぼさねばやってられんほどに暑い。
今日の予想最高気温は36度らしい。バカかアホかと。なんだその数字は。
もちろんこれは華氏ではなく摂氏だ。地球温暖化許すまじ。
そう大した距離でもないが、塾に着いて自転車を専用の駐輪場に止めると
噴出す汗の量も勢いも加速したのではないかと感じたが矢も盾も取らず
俺は空調の効いた空間を求め、塾の中へと走りこんだ。
「やぁキョン」
「お? おぉ、佐々木か。おはようさん」
「あぁ、おはよう。今日も暑いね」
佐々木は自動ドアを入ってすぐのロビーに座っていた。
「まだ教室開いてないのか?」
「いや、そういう訳ではないがね」
「ふうん?ま、いいや。いこうぜ」
「待ちたまえキョン」
階段へ向かおうとした俺を佐々木は引き止めた。
その声に振り返ると佐々木は肩にかけたバッグの中から
シンプルな薄緑のハンドタオルを俺に差し出した。
「その汗のままでは身体に障る。仮にも受験生が、風邪や腹痛で貴重な夏休みを失うのは良くない」
「あ、あぁ・・・そういやそうだな。これじゃ冷えるか」
家を出るまではなんの問題もなかった肌は、暑さに号泣するように汗を流している。
「だが、それはその、お前のタオルだろう。俺が使ったら困らないか?」
「君が気遣いとは珍しいな」
くつくつと喉を鳴らして笑う佐々木の皮肉にジト目を送ると、
佐々木はなおも笑いながら再びバッグに手を戻した。
その手が再び俺の前に現れる時には、タオルは2枚に増えていた。
「この気温だからね。予備のハンドタオルとハンカチは常備しているさ。
だからこちらの1枚はキョンが使うと良い」
「用意周到だな・・・」
そう言いつつ俺は佐々木から有難くタオルを拝借した。
「当然の身だしなみだよ」
日の丸に必勝と殴り書きされた定番のハチマキを頭に巻く講師が
普段より熱っぽく教鞭を取りながら授業は進む。
夏を制する者は受験を制する、とは誰が言った言葉なのか。
今ではさも常識のように言われているし、まぁ、事実そうなのだろう。
周囲の生徒達も心なしか集中している、もしくは集中を強いられているように見える。
しかし佐々木は変わらない。俺の横で涼しい顔をして黙々とノートを取っている。
そのクセ、問題を解けと指名されれば、サラリと淀みなく答えるのだ。
うーむ。コイツは本当に秀才というヤツなのかもしれん。
そんなこんなで休憩を挟みつつ計3科目。
終わる頃には軽くグロッキーになりかけていた。
「キョン、大丈夫かい?」
「あぁ・・・だいぶ慣れた」
「それはよかった。人間の環境に対する順応力の高さはよく言われる事だが
目の前でそれを見せ付けられると、また感慨深くすら感じてしまうよ」
「・・・大げさだ」
だが実際、夏期講習初日は我ながらひどいものだったし、
佐々木はそれを目の当たりにしている。
その辺は少々歯がゆいところもあるのだが、既に佐々木にはかなり恥を晒してしまっている。
ある意味手遅れだ。
「まぁ、それだけ軽口が叩けるなら問題ないだろう。もう一頑張りだね」
そう、佐々木の言うもう一頑張りとは、
他の受講生たちが皆帰っていく中で俺と佐々木は塾に残って午後も自習していくのだ。
『俺が言うのもなんだがこういうのは図書館が定番なのかと思っていたぞ』
『夏休みの図書館は存外混んでいるし、こうは言いたくないが子どもが多い。
キョンには少々集中しづらいと思うがどうかな』
そんなやりとりもあって結局いつも通り、塾の自習室の一角に陣取ることになった。
「帰る頃にはもう少し涼しくなると良いね」
「そうだな。全くそう願いたいもんだ」
いつしか王様のごとく真上に君臨していた太陽も傾き、
窓から差し込む光はオレンジへと変わっていた。
「ふあぁ・・・疲れた・・・」
「お疲れ、キョン」
・・・ホントにコイツはタフだな・・・。
涼しげな顔で片づけをする佐々木を見ながら俺は伸びた身体をぶらぶらさせる。
「・・・帰るか」
一抹の寂しさを胸のどこかに感じなら俺はそう呟いて席を立ち、
カバンに教科書やら参考書やらを無造作に突っ込み、肩に引っ掛けた。
『お疲れ様、気をつけて帰ってね』
顔なじみの講師にロビーで挨拶され、それに会釈とお疲れ様の言葉で応える。
外に出るとアブラゼミはヒグラシにステージの主役を譲ったらしい。
その泣き声はどこか寂寥を感じさせるような気がして、俺は空を見上げた。
「キョン?」
「・・・なんか、聞こえるな」
遠くの方から祭囃子が聞こえる。正確にはスピーカーから録音が流れているのだろうが。
「あぁ、確か今日は夏祭りをやっているのではなかったかな。向こうの方だよ」
「ふーん・・・」
佐々木も、俺も、何も言わずにそちらを見ている。
ヒグラシの鳴く声。緩やかに濃さを増す夕闇。流れる雲。
「・・・少し遠回りになるが」
「・・・」
「そっち通って帰るか」
「・・・うん」
自転車を押す俺と、水色のワンピースに身を包んだ佐々木。
俺達は静かに、祭囃子が聞こえる方へと歩みを進めていくのだった。