35-616「ちょっとしたアリス・イン・ワンダーランド」

『ちょっとしたアリス・イン・ワンダーランド』


いつから目が覚めていたのか、うっすらとした意識で妙に平坦な天井を見つめる。
セミの声が聞こえない。ぬるま湯に浸かっているような不思議な感覚だ。
今何時だ? いや、朝に決まってるだろう。身体を起こしベッドから立ち上がる。
くらり。気がつかないほどのめまい。階下へ向かうべくドアを開ける。

ぺたぺたと足音を響かせながら廊下を進む。
夏だというのに妙に涼しい。木目調の床がひんやりと足から体温を奪う。
ウチってこんなに広かったっけ。
迷路を攻略するときのように右手を壁につけて歩く。
ぐるぐる廻る無限螺旋。降りる。十二秒で着いた。

居間に到着。はて、なにをするんだったか。
ちかちか。蛍光灯が明滅する。そういえば喉が渇いた気がする。
うん、渇いたな。水が飲みたい。
プログラムに従う舞台役者のようにふらふらと台所へ向かう。
そのまま居間と台所の境目を越えて――――


ふらり。一瞬の暗転。


「やぁ、田舎のおばあちゃんからスイカを戴いたんだ。今切り終わるからね」

佐々木?

「おや? どうしたんだいキョン。もしかして寝ぼけてるんじゃないだろうな」

そういえばそうだった。
佐々木がスイカ持ってウチに遊びに来たんだったか。
俺も手伝おうかと言ったんだが料理スキルに関しては一日の長どころか万里の長城レベルはあるからな。
包丁技術一つとっても戦力差は歴然だ。
………………。

「さ、切り終わったよ。悪いけど片方持ってくれるかい」

きれいな二等辺三角形を描いたスイカを皿に乗せてエプロン姿の佐々木が口を開く。
見事な切り口だ。そう感想を述べたら日本刀の評価みたいだねと返された。
佐々木と二人、縁側へとスイカを運ぶ。



シャク、と一口。
口の中に冷ややかな甘味が広がる。うん、うまい。
続けてもう一口。隣の佐々木を見るといまだ口をつけてなかった。食べないのか?

「もちろんいただくよ。ただその前にキミの感想を聞いてみたいと思ってね」

なにやら毒見役の様子をみる女宮のようなことを言う。
佐々木の瞳はまるで空虚な夜空のようで、じっと見つめていると深い眠りに誘われそうだ。
思わず目を逸らす。頂点の欠けた三角形はその傷口から血とも紅玉ともつかない色を垂らしていた。

「いい天気だね」

消え入るようにつぶやく佐々木。その手にはきれいなままのトライアングル。
見上げた空は雲の見えないオックスフォードホワイト。あるいは全て雲なのか。
閉じられた世界には太陽はなく雑音もない。今日はセミも休業なのか。
「たまにはそんな日もあるんじゃないかな」

そうなのか、と安易に納得。佐々木が言うんならたぶんそうなんだろう。
三口目を咀嚼しながら唯一の音に耳を傾ける。嚥下。
いつもより言葉少なめな佐々木は妙に楽しそうで、つまらなそうで、嬉しそうで。
それ以上に不安そうだった。俺の勝手な判断だが。

「ねぇキョン。楽しいかい?」

美味しいかではなく楽しいかと。
佐々木の端的な質問の意味を考える。
スイカを食べること? 夏休みのこと? それとも――――

「僕と一緒にいて、キミはつまらなくないかな」

俺の思考を継ぐように、佐々木の声が温度のない世界に浸透する。
三秒ほど時間をかけて再び声の主へと顔を向ける。
楽しいか楽しくないか、つまらないか否か。
否定するのは簡単だ。でもそれじゃいけない気がする。
ここで求められてるのは答えだ。YesかNoかの二択じゃない。
軽く息を吸う。薄い微笑にアンサー。

「そうだな、お前の話は高尚すぎてたまについていけないこともある。
 でもよく考えたらちゃんと理解できるような小気味よさがあるんだよな。
 お前は自分のことをつまらない人間だと思ってるかも知れんがそれは勘違いだ。
 佐々木ほど一緒にいて安心できるようなヤツもいないしな。
 だから安心しろとも言わんがあんま自分を卑下すんな。むしろこっちが不安になる。
 その、まあなんだ。佐々木のことは好ましく思ってるぞ。出来ればずっと一緒に居たいくらいだ」

ちくしょう言い切った。恥ずかしい。
照れ隠しに頬を掻いてると隣から声を押し殺したように、くつくつと佐々木の笑い声が聞こえてきた。

「くっくっ、キミからまさかあんな台詞を聞けるとは思わなかったよ。
 あれではまるで――いや、ホントに驚きだ」

なにがだよ。確かにクサイ台詞だったかも知れんが。
大体つまるとかつまらないとかで友人を選んだりしないだろ。
一緒にいるのが楽しいからつるんでるんじゃないか。

「この期に及んでまだそんなことを言うのかい? 
 僕が気付いてるということはキミも深層心理では十二分に理解してるはずだけど。
 まあ、自分の気持ちというモノは得てして本人には判りにくいものだしね。
 恋愛小説でも周りにはバレバレなのに主人公は最後にようやく自分の気持ちに気付くのが相場というものだ。
 これは僕じゃない誰かにもいえることだが」

いったいなんの話をしてるんだお前は。

「くくっ、あまり気にしなくていいよ。
 世の中には自分の気持ちにウソをつける人が多いってことさ。
 理性的な女の子は特にね」

なにがおかしいのか大いに笑う佐々木。
さっきまでのちょっとミステリアスな佐々木よりこっちのほうが俺は好きだけどな。
でもちょっと笑いすぎだろう。
「ごめんごめん。っく、いや、でも安心した。キョンの僕に対する評価もなかなかのものだ。
 卒業から一年間音沙汰なしだったからね。多少は心変わりしてないかと不安だったんだ。
 でもこれならまだまだ大丈夫かな? 僕としては親友のままで構わないんだが彼女のほうはきっとそうじゃない。
 覚悟したまえよ? 普段おとなしいヤツほどいざって時は恐ろしいものさ。追い詰められたらなおさらだ。
 窮鼠猫を噛むというがネズミほど可愛げがあるとは限らないからね。せいぜい頑張りたまえ、全てはキミの肩に掛かっている」

いつものような長広舌を振るう佐々木。なんだその不安を煽る激励は。
それに佐々木のいう彼女って誰だ。何人か思いつくが佐々木とそこまで親しかったっけ?
しばらく頭の中でロールを続けていると少し残念そうな表情で佐々木が口を開いた。

「残念ながらそろそろ時間切れのようだ。
 楽しい時間は永くは続かない。でもそれ以上に待ちわびる時間が楽しいものだ。
 キョン、僕は楽しかった。キミはどうかな?」

楽しかったに決まってるだろ。それにその言い方じゃもう逢えないみたいじゃないか。
今生の別れじゃあるまいし、逢いたいと思ってるならまた逢えるだろ。
佐々木は軽くうつむいた顔を上げ、いつもの調子で喉を鳴らした。

「――くっくっ、そうだね、また逢える。その気持ちさえあればきっと願いは叶う。
 また逢おうキョン。十年後か、二十年後か、意外と早い再会かもしれないがキミにとって幸いな未来が訪れていることを願うよ。
 それじゃあ――――」

いままで見たことないような目の前の少女のきれいな笑顔。
それに少しどきりとした。

「――――おはよう、キョン」

白色の世界が音も立てずに崩壊する。
空に亀裂が奔り、空気に熱が伝わってゆく。
その世界の終わりに俺は――

「――そういやアイツ、スイカ食ってねぇな」

誰かが苦笑する気配がした。



いつから目が覚めていたのか、うっすらとした意識で顔に見えなくもない天井の染みを見つめる。
セミの声が無駄にやかましい。まるでサウナにでも入ってるような感覚だ。
時計を見る。休日にしては早起きな時間だ。ベッドから立ち上がり軽く伸びをする。
なんとなく頭がすっきりしない。ヘンな夢を見た気がする。
内容を思い出そうとするがやめる。まあただの夢だろ。あくびを一つして居間に向かう。

居間のテーブルには書き置き一つ。どうやら家には誰もいないらしい。
妹は友達の家にでも行ったか、シャミセンはたぶんそこらを徘徊中だろう。
水でも飲もうと台所に向かう。麦茶を取り出そうとした冷蔵庫の中には半分に切られたスイカがあった。
そういえばお袋が昨日どこかから貰ってきたんだったか。折角だから食べようかと伸ばした手が止まる。

……そうだ、どうせならアイツを呼ぼうか。

天啓とばかりにひらめいた考えに善は急げとケータイを取りに向かう。
アドレス帳からサ行を開き通話ボタンをプッシュ。コール三回で繋がった。
もしもしという受話器越しの声。さて、なんと言おうか。


「おはよう佐々木、いきなりだがウチでスイカ食わないか?」



――おまけ――

「それにしてもキミからの誘いにはびっくりしたよ。開口一番スイカを食べないか、だからね」

「それについては悪かった。ただスイカを見たら佐々木を思い出してな。一人より二人のほうが美味いと思ったんだ」

「なぜスイカから僕を連想するのかキミのその思考プロセスには興味が尽きないね。
 でも特に今日は予定もなかったしちょうどよかったよ。ん、もう一つくれるかい」

「ほらよ。自分でもなんでかはわからんな。スイカといえば別な人を……思い出しそうなもんだが」

「……その一瞬下降した視線はなんだ? 誰と何を比べたのかな?」

「ちょっ、落ち着け! スイカで拳が血塗れっぽくて怖いから!」

「まったくキミってやつは、もう一つくれるかい」

「食いすぎだ…………で、美味いか?」

「納涼にはさっぱりしていていいね。美味しいよ」

「そりゃよかった」

(おしまい)

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
最終更新:2008年08月31日 17:08
ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。