『百年戦争』
百年戦争(ひゃくねんせんそう、The Hundred years War)は、フランス王国の王位継承をめぐるヴァロア朝フランス王国と、プランタジネット朝およびランカスター朝(イングランドも含む)の戦い。1337年11月1日のエドワード3世による宣戦布告から1453年10月19日のボルドー陥落までの百年以上、両国は内乱状態にあった(但し、百年間の間には事実上の休戦状態であった時期もあり、毎日休まず戦闘を行っていたわけではない)。現在のフランスとイギリスの国境線を決定した戦争であり、両国の国家体系と国民の帰属意識は、この戦争を通じて形成されたといっても過言ではない。
原因
フランス国王として君臨したカペー朝は、シャルル4世の代に直系男子を失い、1328年、血縁のヴァロア伯フィリップに王位が継承され、フィリップ6世を名乗った。これに対してイングランド王エドワード3世は、母イザベルの血縁を主張し、フランスの王位継承を主張したが、これを黙殺されたばかりか、アキテーヌ公として臣下の礼をも捧げざるを得なかった。
この王位継承問題は、1333年、エドワード3世がブリテン島統一のためスコットランドに軍事侵攻を行ったことによって再燃する。この侵略によってスコットランド王デイヴィッド2世は亡命を余儀なくされ、フィリップ6世の庇護下に入った。エドワード3世はこの対抗処置として、フランス国王の逆臣ロベール・ダルトワを保護したことから両者の緊張は一気に高まり、1337年5月、フィリップ6世はエドワード3世に対して、 アキテーヌ領の没収を宣言した。これに対して、1337年10月7日、エドワード3世はウェストミンスター寺院において臣下の礼の撤回とフランス王位の継承を宣誓し、11月1日、ヴァロア朝フランス王国に対して宣戦布告を行った。
戦争の経過
1337年に勃発したフランスのヘントにおける反乱は、フランドル諸都市の追従を誘ってフランドル伯を追放し、エドワード3世への忠誠を宣誓させた。1338年、イングランド王軍はフランドルに前線を敷き、1340年には、エクリューズでフランス王軍200隻の艦隊と激突し、これを破った。しかし、内陸部ではフランス王軍にたびたび敗北を喫し、両者とも決定的な勝利をつかめないまま、1340年9月25日、約2年間の休戦協定が結ばれた。休戦の最中、スコットランド王デイヴィッド2世が帰国したため、エドワード3世はスコットランド問題にも手を回さなければならなかった。
1341年、モンフォール伯ジャンと、パンティエーヴル女伯ジャンヌとその夫ブロワ伯シャルルの間で争いが起きた。ブロワ伯がフィリップ6世の甥であったため、モンフォール伯はエドワード3世に忠誠を誓い、ナントを占拠してフランス王軍に対峙した。フィリップ6世はブロワ伯を擁立するために軍を差し向け、ナントを攻略したが、モンフォール伯妃ジャンヌ・ドゥ・フランドルの徹底抗戦によって、休戦協定の期限切れを迎えたエドワード3世の上陸を許した。このブルターニュ継承戦争は、1343年に教皇クレメンテ6世の仲介によって休戦協定が結ばれたが、一連の戦闘によってイングランド王軍はブルターニュに対しても前線を確保することができた。
1346年7月、イングランド王軍はノルマンディに上陸し、騎行戦術を採ったため、フィリップ6世はクレシー近郊に軍を進め、敵軍と対峙した。このクレシーの戦いでフランス王軍は大敗北を喫し、勢いづいたイングランド王軍は港町カレーを陥落させ、アキテーヌではその領土を広げ、スコットランドではデイヴィッド2世を捕らえるなどの戦果を挙げた。1347年、教皇クレメンテ3世によって1355年までの休戦協定が結ばれるが、その年に黒死病(ペスト)が流行し始め、和平条約の締結が模索された。
1350年に、フランス王フィリップ6世が死去し、ジャン2世 (フランス王)が即位した。エドワード3世は、和平条項としてフランス王位を断念する代わりにアキテーヌ領の保持を認め、ポワトゥー、トゥーレーヌ、アンジュー、メーヌの割譲を求めたが、ジャン2世がこれを一蹴したため、1355年9月、イングランド王軍は騎行を再開した。1356年、エドワード黒太子率いるイングランド王軍は、アキテーヌ領ボルドーを出立したが、フランス王軍の展開に脅かされ、急遽トゥールからボルドーへの撤退を試みた。しかし、ポワティエ近郊でフランス王軍の追撃に捉えられたため、黒太子エドワードはこれに応戦する決意を固めた。このポワティエの戦いで、フランス王軍はまたも大敗北を喫し、ジャン2世はイングランド王軍に投降すると、捕虜としてボルドー、そしてロンドンに連行された。
内政の転換
1356年、王太子シャルルは軍資金の枯渇と王不在の事態に対処するためにパリで 三部会を開いたが、パリの商人頭エティエンヌ・マルセルの台頭により既存の三部会の利用を諦め、国王代理から摂政を自任して、プロヴァンスやコンピエーニュでパリとは別の三部会を開催した。彼はこれらの三部会で軍資金を得ると、パリ包囲に着手し、パリ内紛を誘引してエティエンヌ・マルセル殺害に成功した。
1358年から1359年にかけて、ロンドンで和平条約締結の交渉が行われ、ジャン2世は帰国を条件に、アキテーヌ、ノルマンディ、トゥーレーヌ、アンジュー、メーヌの割譲を承諾した。しかし、王太子シャルルが三部会においてその条約の否決を決議したため、1359年10月、イングランド王軍はカレーに上陸して騎行を行ったが、王太子シャルルはこの挑発に応じず、撤退するのを待った。1360年5月、教皇インノケンティウス6世の仲介により、仮和平条約の締結が行われ、アキテーヌ、カレー周辺、ポンテュー、ギュイーヌの割譲と、ジャン2世の身代金が決定された。ジャン2世は、身代金全額支払い前に解放されたが、その代わりとなった人質の一人が逃亡したため、自らがその責任をとってロンドンに再渡航した。ジャン2世はそのままロンドンで1364年に死去し、王太子シャルルはシャルル5世として即位した。彼は、1355年に規定された税制役人を整備し、全国の臨時徴税を恒久化して通常税収とすると、年貢から税収入へと国王の主要歳入を転換した。
1364年、ブルターニュ継承戦争が再燃し、オーレの戦いでイングランド王軍が勝利を収めた。シャルル5世はこれを機会に継承戦争から手を引き、ゲラント条約を結んでブルターニュ公ジャン・ドゥ・モンフォール(ジャン4世)を認めたが、彼に臣下の礼をとらせて反乱を封じた。
1366年には、カスティーリャ王国の「残酷王」ペドロ1世を廃してエンリケ・デ・トラスタマラを推すために、ベルトラン・デュ・ゲクランを総大将とするフランス王軍を遠征させた。フランス王軍はエンリケ・デ・トラスタマラをエンリケ2世として戴冠させることに成功したが、ペドロ1世はアキテーヌの黒太子エドワードの元に亡命し、復位を求めた。1366年9月23日、両者の間でリブルヌ条約が交わされ、イングランド王軍はカスティーリャ王国に侵攻した。1367年、ナヘラの戦いに勝利した黒太子エドワードは、総大将デュ・ゲクランを捕え、ペドロ1世の復権を果たしたが、この継承戦争によって赤痢の流行と多額の戦費の負債を抱えることとなった。この遠征の負債は、アキテーヌ南部のガスコーニュに領地を持つ諸公の怒りを買い、シャルル5世に対して黒太子エドワードに対する不服申し立てが行われた。1369年1月、黒太子エドワードにパリへの出頭命令が出されたが、これが無視されたため、シャルル5世は彼を告発した。エドワード3世は、アキテーヌの宗主権はイングランドにあるとして異議を唱え、フランス王位を再要求したため、1369年11月30日、シャルル5世は黒太子エドワードに領地の没収を宣言した。
1370年3月、カスティーリャでペドロ1世を下したデュ・ゲクランはパリに凱旋し、大元帥に抜擢されると、1370年12月4日、ポンヴァヤンの戦いでイングランド王軍を撃破した。1372年には、ポワトゥー、ラ・ロシェル、ポワティエを占拠し、イングランド王軍の前線を後退させ、1373年にブルターニュに上陸したイングランド王軍を撤退させると、ブルターニュの殆どを勢力下においた。1375年にはエドワード3世と2年間の休戦協定が設けられるに至ったが、1377年にエドワード3世が死去するに及んで、1378年12月、ブルターニュを王領に併合することを宣言した。しかし、これはブルターニュの諸公の反感を買い、激しい抵抗にあった。1380年、シャルル5世の死去によって再びゲラント条約が結ばれ、ブルターニュはジャン4世の主権が確約された。
休戦
1381年、新王リチャード2世とシャルル6世の間で和平交渉がはじめられるが、交渉は長引いた。この間、休戦の合意が固められるが、イングランドでは、1380年に人頭税が課されたことにより、1381年にワット・タイラーの乱が勃発した。この乱を鎮めたリチャード2世は、親政を敷き、イングランド議会と激しく対立するに至ったが、最終的に退位を迫られ、ロンドン塔に幽閉された。
イングランドの内紛によって和平交渉は早急にまとめられ、1392年のヘンリー4世、シャルル6世の直接会談の後、1396年3月11日にはパリにおいて、1398年から1426年までの全面休戦協定が結ばれた。フランスでは、ブルゴーニュ公フィリップらによる国政の濫用が行われたため、1388年、シャルル6世による親政が宣言され、オルレアン公フィリップたちがこれに同調したが、1392年、突如シャルル6世に精神錯乱の発作が起こるようになり、ブルゴーニュ派とオルレアン派による権力闘争が行われた。両者がイングランド王軍に援軍を求めるなど、内政は混乱を極めた。
フランス・イングランド統一王国
1413年、ヘンリー4世の死去によってヘンリー5世が即位すると、彼は1414年にアキテーヌ全土、ノルマンディ、アンジュー領の返還を宣言し、翌年8月にはノルマンディに上陸した。フランス王家の内紛に乗じて、イングランド王軍は進撃を続け、1415年のアジャンクールの戦いでフランス王軍を大敗させ一気に趨勢を決めると、1417年の再上陸の際にはノルマンディの首都ルーアンを陥落させた。
この間、フランス王家はブルゴーニュ公ジャンがシャルル6世の王妃イザボー・ドゥ・ヴァヴィエール(「淫乱王妃」と呼ばれ、王太子はシャルル6世の子ではないと発言して王太子シャルルの王位継承を否定しようとした。)に接近して王太子シャルルを追放したが、イングランド王軍にブルゴーニュのポントワーズが略奪されるにおよんで王太子との和解を試みた。しかし、王太子シャルルはブルゴーニュ公を惨殺したため、ブルゴーニュ公フィリップはイングランド王家と結託し、1419年12月2日、アングロ・ブルギーニョン同盟を結んだ。この同盟は、シャルル6世の王位をその終生まで認めることとし、フランス王女カトリーヌとヘンリー5世の婚姻によって、ヘンリー5世をフランス王の継承者とするものである。当然、王太子シャルルはこの決定を不服とし、イングランド連合軍に抵抗するが、イングランドは着実に勢力を拡大した。
しかし、イングランド・フランス連合王国は、1422年、ヘンリー5世、シャルル6世がともに死去したため、実現することはなかった。イングランドはヘンリー6世を王位に就けるが、彼はまだ赤子であり、また、王太子シャルルはシャルル7世 (フランス王) を名乗り、ブールジュでなおも抵抗を続けた。
フランスの逆襲
イングランド摂政ベッドフォート公ジョンは、アングロ・ブルギーニョン同盟にブルターニュ公ジャン5世を加え、ノルマンディ三部会を定期的に開催することによって財政の立て直しを計った。また、シャルル7世は、反イングランド勢力との同盟を結び、ブールジュでの再起を狙っていたが、イングランド側は、ロワール河沿いのオルレアンを陥落させ、勢力を一気にブールジュにまで展開する作戦を立てた。
これに対して、1429年4月29日、イングランド連合軍に包囲されたオルレアンを救うべく、ジャンヌ・ダルクを含めたフランス軍が市街に入城した。フランス軍はオルレアン防衛軍と合流し、5月4日から7日にかけて次々と包囲砦を陥落させ、8日にはイングランド連合軍を撤退させた。このオルレアン解放が、今日、ジャンヌ・ダルクを救世主、あるいは聖女と称える出来事となっている。しかし、実際には、この戦闘には後にフランス軍を支える知将・名将が参加しており、ジャンヌ・ダルクはいてもいなくても大勢に影響はなかったとする説が一般的である。
オルレアンの包囲網を突破したフランス軍は、ロワール河沿いを制圧しつつ、ランスに到達し、シャルル7世の戴冠式を行った。ジャンヌ・ダルクは、1429年、シャルル7世によりパリの解放を指示されるが失敗、1430年にはコンピエーニュの戦いで負傷、捕虜として捕らえられ、翌年5月30日に火刑に処された。
1431年、リールにおいて、ブルゴーニュ公フィリップとシャルル7世の間に6年間の休戦が締結される。これを機にシャルル7世は、ブルゴーニュのアングロ・ブルギーニョン同盟脱退を画策し、1435年には、フランス、イングランド、ブルゴーニュの三者協議において、イングランドの主張を退け、フランス・ブルゴーニュの同盟を結ぶことに成功した。
戦争の爪痕
この戦争の後、イングランドでは、「薔薇戦争」が起こって諸侯は疲弊し没落したが、王権は著しく強化されテューダー朝による絶対君主制への道が開かれた。フランスでも宗教戦争が起こって内乱が発生したが、祖国が統一されたことで王権が伸張しブルボン朝の絶対君主制へと進んだ。
written by N.Masakazu