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己が選択に悩んだ軌条の上

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匿名ユーザー

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己が選択に悩んだ軌条の上 ◆L62I.UGyuw


島が夜に抱え込まれていく。
その外周を、密やかに進む船が一つ。


**********


鉄製のシャッターが非常口の先の通路を完全に塞いでいる。

「それで、伊万里。これが?」

沙英の声がシャッターに跳ね返った。

「そうですね。この非常口を抜けると、E-6の工場内に出るはずです。
 実際に私が通ったので間違いありません」

ひよのが答える。
うーん、と銀時が唸った。

「ナンかこう、全然ワープポイントって感じがしねーなコレ。
 もっとアレだ、ギュイーンとかグワーンとかいう感じじゃねーの普通は」
「どんな感じですか、どんな」
「そうですよ。ぴゅーんって感じでしょう、普通は」
「おいおい全然わかってねーよダメダメだよこいつ。そんな軟弱なワープじゃ人生の荒波には立ち向かえねーぞ。なァ沙英」
「えっ、何なのこれ同意すればいいの?」

どうも緊張感に欠ける。
船上でそう言ってみると、肩肘張っていても事態は好転しないのだ、というようなことを二人は宣ってくれたのだが、この二人に限っては地獄の底でも平然と漫才を繰り広げているのではないかと沙英は思う。
傍から見たら自分も同類ではないだろうかという疑問は心のゴミ箱に捨てておく。

三人が水族館を探索しているのは、ゆのを探すためでもあるが、それ以外にもいくつか目的があった。
その一つがワープポイントの確認である。ただ、工場で起きた騒動によって降りたシャッターは、ここの通行も封じていた。

「まあともかく、先に行きましょうか」
「そーだな」

何にせよ、これ以上物言わぬシャッターを眺めて突っ立っていても得られるものはない。
ひよのが踵を返し、二人が後に続く。
しかし十歩ほど歩いたところで、突然沙英が立ち止まった。
銀時とひよのが訝しげに振り返る。

「どーしたよ、沙英」

答えず沙英は軽く俯いて視線を床に彷徨わせていたが、やがて顔を上げ口を開いた。

「……ねえ、二人とも。変な音、しない?」
「そーか?」

首筋を掻く銀時の隣で、ひよのが耳に手を添えて目を瞑った。

「……うーん、そう言われれば……そんな気もしますけど……」
「その辺の機械の音じゃねーの?」
「……ううん、やっぱり聞こえる。ほら、段々大きくなってる」
「あー、確かに聞こえますね。これは、そうですね。おそらく車のエンジン音――」

全く理不尽に、水の館の隅々にまで行き渡っていた静寂は、粉微塵になった。

まず非常口のシャッターが飴細工のように内側に膨張し、破裂した。
同時に飛び出した白い何かが、呆気に取られる彼らを後目に耳障りな金属音を引き摺りながら爆走していく。
その何かの正体が車だと気付いた次の瞬間に、シャッターの残骸が横一文字に切り裂かれ、車より更に巨大な黒い影が砲弾の勢いで撃ち出された。
シャッターの破片が弾け飛び、粉塵が舞った。

ここでようやく、銀時が最初のアクションを起こした。
流れるように刀を抜き、三人に飛来した破片を器用に弾く。そして即座に、思いっ切り叫んだ。

「何考えてんだ危ねーだろーがオイぃぃぃぃぃぃぃ! テメーら大人しく豆腐屋とでも勝負してろボケェェェ!!」

しかし彼を一顧だにせず、二つの暴走する影は遠ざかっていく。
銀時はもう二、三言悪罵して、その徒労を悟ったのか黙った。

「な……何なの、あれ」

思考の空転からようやく開放された沙英が、辛うじてそれだけ呟く。

「えー……多分ですけど、後ろのでっかいのが前の車を襲ってるのではないかと」
「う、うん、そうだよね。うーん……と。……あ、な、なら助けないと――」
「つってももう見えねーぞあいつら」

銀時の言った通り、彼らは騒音だけを残して既に視界の外に行ってしまっていた。
いきなりパニック映画のクライマックスだけを見せ付けられたような感覚。
自分達を完全に無視して過ぎ去っていく事態に、三人共ただ困惑するしかない。

何だったんだ、今のは。
三人が誰からともなしに顔を見合わせた、そのとき。いきなり、形容のし難い強烈な唸り音が辺り一帯に響き渡った。
思わず見合わせた顔を歪め、首をすくめて両手で耳を塞ぐ三人。

「な、何? 何これっ!?」
「うるせェェェェ! メガネのカラオケよりうるせェェェェェェ!! あっ、メガネって沙英じゃなくて」

神経を削る破滅的な怪音はなおも続く。産毛が揺れ、毛細血管がざわめく。

ぴしり。
乾いた異質な音が響き、ほとんど同時に怪音が止まった。
一瞬不自然なまでに静かになり、そして再び乾いた音が今度は連続して鳴る。
一体何が起こっているのか。訳が解らないといった様子で、三人は恐る恐る耳を塞いでいた手を離す。
と、ひよのが不意に表情を硬くする。

「あのー、ちょっとあれを」

正面を指差した。
沙英が振り返ってそちらに目を遣り、銀時も倣う。そして二人は同時に息を呑んだ。
見れば、大水槽の円い強化ガラスにはいくつもの小さな白い罅が入っていた。びしびしとその罅は見る間に広がっていく。
氷像のように棒立ちで見守る三人を嘲うように、周囲にある大小の水槽にも蜘蛛の巣が描かれていく。

「オイコレすっげぇヤな予感がするんだけど。ハチャメチャが押し寄せてくる気がするんだけど」
「奇遇ですね。私もです」
「悠長なこと言ってる場合じゃ――」

ぴゅう、と亀裂の一箇所から水が噴き出した。
三人が今度こそ完全に凍り付いた。
青く煌く放物線が床を濡らしていく。連続する亀裂音に被せるように、ぱしゃぱしゃと不吉な水音が続く。
そして、恐ろしく長い一呼吸の後、上下左右のガラスがけたたましい音を立てて一斉に砕け散った。

「きゃあああっ!」
「ざっけんなァァァァアイツらクソッタレェェェェェェェェェェェェ!!」
「――っ、こっちですっ!」

ひよのが真っ先に駆け出し、ほとんど反射的に銀時と沙英もその後を追う。
水族館の通路は、もはや荒れ狂う水流の通る蛇口に過ぎない。活路は唯一つ。

「タイヤの跡、外へっ!」

破壊された非常口に飛び込む。暗く開けた空間。壊れた機械群。傷だらけのアクリルの床。
一変した景色に目を配る余裕もなく、沙英は死に物狂いで脚を動かす。

地が揺れる。
耳を聾する轟音。
莫大な量の水が床を滅多打ちにし、空を震わせ押し寄せてくる、その音。
足音が耳に届かない。前を走る銀時が、多分悪態を吐いている。聴こえない。
手足が恐ろしく重い。空気がどろどろに融けた水飴のように身体に絡み付いている気がする。
現実感を失いそうになる。振り返る勇気はない。

道を選ぶ余裕もなく、本能の命ずるままただ真っ直ぐに走って狭い通路に飛び込んだそのとき。

あ。
閃く。
そうだ。忘れていた。九竜神火罩。絶対防御の宝貝。

「これを、使えば――あっ!」

肩の宝貝に気を取られ前方から意識が逸れた瞬間、躓く。

途端、巨人に殴り付けられたような衝撃を受け、そのまま凄まじい力の奔流に巻き込まれた。
轟々と猛り狂う龍の叫びが耳元で聴こえる。あるいはここが龍の腹の中か。
天地の区別すら付かない。洗濯機に放り込まれたようにもみくちゃにされる。
ただ目を固く瞑り体を丸めて祈るのが精一杯の抵抗だ。

無限とも思える嵐の時間が過ぎ、やがて唐突に揺さ振りが収まった。


**********


水面に顔を出した沙英は、激しく咳き込んだ後、何度も目を瞬かせた。
暗い。
髪から水がぼたぼたと垂れるのを感じる。
鼻に水が入ったのだろう、眉間の奥がつんと痛む。
きーんという高周波が耳に貼り付いている。
頭の中がぐらぐらと揺れる。肺が締め付けられるように痛い。

目を瞑る。
右手を胸に当てて深呼吸。
胸が大きく上下する。
しっかりとした鼓動が掌から伝わってくる。
温かい。大丈夫。生きている。

水流に呑まれた後の出来事は、記憶からほとんど欠落していた。
辛うじて憶えているのは、墨のような黒に塗り潰された視界と、その端の薄ぼんやりとした光。
死に物狂いで水を掻き分けてその光を目指した、気がする。あくまで気がするだけだ。実感はない。
ほんの数十秒前にあったことのはずだが、その記憶の不確かさは十年前に観た冒険映画の一場面とそう変わらない。

頭を振る。
行方不明になった記憶の捜索は諦めて、沙英は現在の状況を確かめにかかる。
まず周りを見回すと、景色が奇妙に歪んでいて、眩暈がした。一瞬混乱しかけたが、すぐに原因は判った。
眼鏡がずれていて、しかもレンズに水滴が付いている。まともに見える訳がない。
一旦眼鏡を外してレンズを軽く拭いながら、沙英は眼鏡を失くさなくて本当に良かったと思った。
これまであまり意識していなかったが、正直なところ、眼鏡がないと人の顔を見分けられるかすら怪しいのだ。

眼鏡を掛け直し、沙英は改めて周囲を見回した。
今いる場所は通路のようだ。殺風景で、水族館とは全く異質な、人を拒絶する冷たく湿った闇が満ちている。
通路は半分水没しているが、水深はそれほど深くない。真っ直ぐ立つと、水に浸かるのは腰の下までだ。
雰囲気としては昼に通った下水道に近い。
しかし下水道と違い壁は金属的で、壁際の頭より少し高い位置にはパイプが数本走っているのが確認出来る。
更に壁に沿って視線を上に向けると、天井の非常灯が陰気な光を放っているのが見えた。
辺りが真の闇でないのはこの非常灯のお陰のようだ。

前を向く。通路の前方は、十メートルくらい先で右に直角に折れている。
後方、つまり沙英が流されてきた方には、下層へ伸びる階段があり、これは完全に水没していた。
水と壁と闇。何もないし、誰もいない。
そう、誰も。

「……あれ? 銀、さん?」

返事はない。水面の揺れる音だけが鼓膜を撫でる。
同行者の不在に気付いた沙英は、きょろきょろと周囲に視線を走らせる。

「……銀さん? …………伊万里?」

少し大きな声で二人の名を呼ぶが、声は空しく壁に跳ね返るのみ。
腕を下ろすと、手の甲が水面を叩いた。水音が反響して、すぐに霧散する。

逸れた。
沙英は自分の顔が妙な具合に弛緩したのを感じた。
拙い。途轍もなく拙い。祭り会場で友達と逸れるのとは訳が違う。一刻も早く合流しなければ。
理性はそう囁いているが、感情の方はまるで事態に追い付いていないらしく平坦なままだった。

「二人とも、大丈夫かな」

そんなことを心配する余裕もあった。
そして、多分大丈夫だろう、と妙に冷えた頭が結論した。
根拠がある訳ではないが、自分が無事でいられる程度の事態で彼ら二人がどうにかなるとは思えなかった。

沙英は暗闇に息を吐いた。
感覚器への入力が極端に乏しく、そのためか熱も光も薄膜を透しているかのようにおぼろげに感じる。
顎を引いて耳を澄ませてみる。微かな水音以外に聴こえるものはない。
体温がジーンズの中の水を生温くして、その存在を薄めている。
現実感に欠けている。一連の馬鹿げた狂騒が嘘のようだ。
それどころか、今日一日の全てが虚構だったような錯覚にさえ陥る。

いや。
もしかしたら、本当に虚構だったのではないか。
殺し合い――そんなものは、テレビの、映画の、本の中だけの話だったはずではなかったか。
少なくとも、単なる日本の一学生が巻き込まれるものではなかったと思う。
だから、目を瞑ってもう一度開ければ、見慣れた天井が見えるような気がする。
みんながいる、いつものひだまり荘の。



「痛っ……」

沙英に現実感を取り戻させたのは、痛みだった。
腰の後ろが鈍く痛む。身体を捻ってジーンズを少し下ろし、痛む箇所を確認する。
流されている間にどこかにぶつけたのだろうか、腰骨から臀部にかけて変色しているが、大きな怪我ではないように思える。

そこで異変に気付き、ぎょっとした。
先程よりも水面の位置が高い。よくよく観察すると、少しずつだが水嵩が増してきている。

「えっ、ちょっと、な、何で、そんな」

足に冷たい流れを感じ、総身が粟立った。混乱を何とか抑えて、思考を巡らす。
どこかでせき止められていた水が溢れたのかもしれない。あるいは水槽が更に壊れたか。
いや、とにかく、考えるのは後だ。逃げなければ。

水を掻き分けて進み、角を右に曲がると、重々しい雰囲気の扉が道を塞いでいた。

扉に寄ってドアノブに手をかけ、捻る。
がちりと引っ掛かった。回らない。
焦りつつ、がちゃがちゃとノブを回そうとするが、全く回る気配はない。
鍵が掛かっているのかもしれない、という当たり前の発想が、そこでようやく頭に浮かんだ。
同時に、水よりも黒くて冷たいものが腹の底からせり上がり、充満していくのを感じる。
水位がドアノブの高さに達した。手に冷たい水がかかり、そしてなけなしの冷静さはあっという間に水に呑まれた。

「嘘でしょ。開いて! 開いてってば! ねえ!」

水から逃れるようにノブから手を放し、夢中で扉を叩く。びくともしない。
息が苦しい。恐怖だけで窒息しそうだ。
溺死は最も苦しい死に方だ、と何かの本で読んだ一文が頭を過ぎった。こんな時に。
自分の口から何か懇願するような言葉が出ていることは判るが、何を言っているのかは自分でも判らない。
死にたくないと思いながら、死なない方法を考えるだけの余裕はなかった。



考えてみれば、天井までの空間を埋め尽くす量の水が再び流入するという事態はそもそも考え難いのだ。


沙英を脅かしていた水位の上昇は、鳩尾の辺りでいつの間にか止まっていた。
そのことに気付いて、全身から力が抜けるのを感じ、そして沙英は大きく息を吐いた。

拳が痛い。どうやら相当強く扉を叩いていたらしい。
緊張が解けたためか、今頃になって涙が零れた。眼鏡を上げ、涙を拭って、ゆっくりと呼吸を整える。
潮が引くようにぐちゃぐちゃの感情が流れ去っていく。

恐ろしいと思った。
恐慌に陥ったことよりも、それがあっさりと去っていったことの方が恐ろしかった。
要するに、自分はこれだけ絶望的な死の崖っ縁に丸一日立たされてなお、真っ当な危機意識を持てていなかったのだ。
そして本当に解り易い、目に見える危機が訪れてようやく、立っている崖の高さに気付いたのだ。
それすらも過ぎ去ってしまえばあっという間にリアリティを失い、速度超過のトラックに轢かれかけた経験と類似のラベルを貼られて、記憶の倉庫に還元されてしまう。

最初はそうではなかった。
少なくとも夜の街に独りで放り出された直後は、恐ろしい現実に恐怖していたはずだ。
いつから。
そうだ。
ヒロが死んだ。
そう告げられて。
その後からだ。
その後からずっと、心のどこかで、全部何かの間違いだと思っていた。
いや、今でもきっと、そう思っている。
自覚してなお、大切な人の死は、やはりどうしても認められなかった。



一応は落ち着いたとはいえ、悪い状況であることに変わりはない。すぐには死なないというだけだ。
水はあまり冷たくないが、かといって長時間浸かっていられる温度でもない。
体温を奪われて動けなくなる前に、何とか脱出しなければならない。

改めて目の前の扉を探ってみると、やはり鍵が掛かっているようだった。
軽く叩いてみると、重たげな音がした。生半可な力では壊れそうもない。
沙英は扉を開ける手段はないかと頭を巡らし、そして嫌なモノを思い出した。
どこかの小学生が考えたようなネーミングセンスの卑猥な形の大砲である。まだデイパックで眠っているはずだ。
仮にも大砲なら、扉の一枚や二枚くらい破壊出来る威力はあるのではないか。
そもそも水中で撃てる代物なのかという問題もあるが、試してみる価値はあるかもしれない、と考えはしたが。

「それは――やっぱり駄目でしょ、危な過ぎて」

沙英は火器の知識など持っていないが、密閉された狭い空間で威力不明の大砲をぶっ放すなどという行為が非常にリスキーであることくらいは解る。
しかし、他に扉を突破出来そうな方法は思い付かない。
それしか手がないのならやるしかないが――ただ、目の前の扉以外にも出口はもう一つ残っている。

来た道を引き返し、最初の場所、つまり下層への階段前に戻った。
そして沙英は、しばらく暗く静かに揺らぐ水面を見つめる。傍からは入水自殺五秒前といった風に見えるかもしれない。

水が一向に引かないことから考えて、今いる空間は少なくとも水族館への非常口よりも低い場所であることは確かだ。
おそらくは工場の地下部分に当たるのだろう。そして地下には今いる場所と似たような空間が多数存在すると考えられる。
運悪くこの空間は他から隔離されているが、他の空間もそうとは限らない。
地上に通じている空間を見付ける。現状で、脱出する現実的な方法はこれだ。

一旦デイパックを抱えて、水が入らないように慎重に開いて中身を調べる。
防水性が高いのかそれとも他の理由かは判らないが、中に水が滲み込んだ形跡はない。
眼鏡と肩の九竜神火罩を外してデイパックに仕舞い、更に水を吸って重くなったセーターとジーンズを動き易いように脱ぎ捨てる。
一旦深呼吸をした後、階段を慎重に下りていき、そして肩まで水に浸かったところで息を止めて、そのままゆっくりと水に潜った。
濃密な黒。本能的な暗闇への恐れが体を竦ませる。だがこれで怖気付いていては話にならない。
更に潜り水没した通路の奥に目を凝らすと、期待した通り、遠くに幽かな光が見えた。

後は、ほんの少しの勇気さえあればいい。

覚悟を決めて、黒々とした水に潜る。


**********


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