王武俊 おうぶしゅん
735-801
盛唐から中唐にかけての武将・藩鎮(第3代成徳軍節度使)。字は元英。本名は王没諾干。契丹怒皆部の出身。王路倶の子。
王士真・
王士清・
王士則・
王士平の父。騎射をよくして張阿労(後の
張孝忠)と名声を等しくし、
李宝臣の幕下に属し、安史の乱で活動したが、李宝臣に朝廷への帰順をすすめて、李宝臣が成徳軍節度使となると、王武俊も御史中丞、維川郡王となる。その後成徳軍節度使は
李惟岳が継承したが、朝廷は継承を認めず、戦乱となり、建中三年(782)
康日知の説得で軍を返して李惟岳を殺害し、自らが成徳軍節度使となって朝廷に帰順した。しかし康日知が深趙観察使となったのを妬み、
朱滔と結託して再度反旗を翻した。討伐にきた
馬燧・
李抱真・
李懐光の軍を打ち破り、
田悦・朱滔とともに王号を称して、国号を趙とし、恒州を真定府とした。しかし李抱真の客人の
賈林に説得されて唐に再度帰順して、今度は朱滔を撃破した。貞元十七年(801)病没した。『旧唐書』『新唐書』に伝がある。
列伝
外部リンク
最終更新:2024年08月15日 15:47