朱滔

朱滔 しゅとう

744-785
中唐の武将・藩鎮(第4代盧龍軍節度使)。幽州昌平県の人。朱泚の弟。盧龍軍節度使李懐仙の部将であったが、朱希彩・朱泚とともにその殺害に関与し、朱希彩も殺害されると兄朱泚を推戴して節度使とした。大暦九年(774)クーデターで兄を長安に追放すると自身が軍権を完全に掌握した。成徳軍節度使李惟岳が朝廷の討伐を受けると、討伐したが、恩賞の不満から、魏博節度使田悦・成徳軍節度使王武俊とともに叛き、建中三年(782)王号を名乗って、国号を冀とした。兄の朱泚が叛いて皇帝を僭称すると、それに助力を試みたが、失敗し、田悦は殺害され、王武俊は唐に帰順すると孤立、ついに朝廷に屈服し、本領は安堵されたものの、気鬱となって貞元元年(785)死去した。盧龍軍節度使は部下の劉怦が継承した。子に朱洄、孫に朱克融がいる。『旧唐書』『新唐書』に伝がある。

列伝

『新唐書』巻二百一十二 列伝第一百三十七 藩鎮盧龍 朱滔
『旧唐書』巻一百四十三 列伝第九十三 朱滔

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最終更新:2024年07月12日 01:50
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