牛元翼 ぎゅうげんよく
?-823
中唐の武将。趙州の人。成徳軍節度使
王承宗の部将。智謀に優れ、王承宗が強雄となったのは牛元翼の献策によるものであったといい、
傅良弼とともに軍中に冠たるものがあった。元和十五年(820)王承宗が死ぬと、軍はその弟
王承元を推戴したが、王承元は成徳軍を朝廷に返還して長安に向かったため、軍は混乱となり、
王廷湊が自立して軍を掌握。朝廷は
田弘正を成徳軍節度使としたが、王廷湊に殺害されたため、朝廷は深州刺史であった牛元翼を成徳軍節度使とした。しかし実態とはかけ離れていたから深冀節度使としたが、王廷湊の猛攻を受け、救援に向かった魏博節度使
田布はかえって軍乱のため自決した。長慶二年(822)朝廷は
王廷湊の罪を赦し、牛元翼を山南東道節度使に遷し、深州を
王廷湊に賜ったが、深州の攻囲は解かれず、牛元翼は十騎あまりで包囲を脱出し長安に赴いたが、残った深州の将たちは虐殺された。そのことを聞いて憤死したが、
王廷湊によって家族は皆殺しとなった。『新唐書』に伝がある。
列伝
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最終更新:2024年06月19日 12:54