王鎔

王鎔 おうよう

873-921
唐末・五代の藩鎮(第13代成徳軍節度使)。成徳軍節度使王景崇の子。中和三年(883)父の死により成徳軍節度使に擁立された。幼くして節度使となったにも関わらず、智謀によって趙の地を保った。李克用の攻撃を受けたが、幽州の李匡威の救援によって窮地を救われ、李匡威が幽州を追放されると、迎え入れて敬ったが、かえって李匡威に捕らえられるも智謀により反撃して殺害した。朱全忠が帝位につくと趙王に封ぜられ、後唐が成立するとさらにそれに仕えた。道釈を信じ、不老長寿を求めると家臣に政務を委ねて趙の政治は混乱し、天祐十八年(921)子の王昭祚と義子の王徳明(張文礼)が実権を握ったが、王徳明のクーデターによって一族皆殺しとされた。『旧唐書』『新唐書』『旧五代史』『新五代史』に伝がある。

列伝

『新唐書』巻二百一十一 列伝第一百三十六 藩鎮鎮冀 王廷湊
『旧唐書』巻一百四十二 列伝第九十二 王廷湊 景崇子鎔
『旧五代史』巻五十四 唐書三十 列伝第六 王鎔
『新五代史』巻三十九 雑伝第二十七 王鎔

外部リンク

維基百科,自由的百科全書 王鎔(中文)
https://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E7%8E%8B%E9%95%95

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最終更新:2024年08月16日 02:07
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