唐書巻二百一十一
列伝第一百三十六
藩鎮鎮冀
李宝臣 惟岳 惟簡 王武俊 士真 承宗 王廷湊 元逵 紹鼎 紹懿 景崇 鎔
李宝臣は、字は為輔で、もとは范陽に内属した奚である。騎射をよくした。范陽の将の張鎖高に養われて仮子となり、そのためその姓を冒し、名を張忠志とした。盧龍府果毅となり、常に陰山の敵を監視し、敵の騎兵が追跡してくると、六人を射て全員を倒して帰還した。そのため
安禄山の射生となり、安禄山に従って入朝し、留まって射生の子弟のために、禁中に出入りした。安禄山が叛くと逃げ帰り、改めて安禄山の仮子となり、勇敢な騎兵十八人を率いさせ、太原尹の
楊光翽を脅かし、挟撃して出撃させ、兵一万あまりで追跡するもあえて迫らなかった。また精鋭を率いて土門に駐屯し、井陘を抑えた。
安慶緒に仕えて恒州刺史となった。九節度使の軍が相州で包囲すると、張忠志は恐れ、朝廷に帰順し、
粛宗はそこでもとの官を授け、密雲郡公に封じた。
史思明が黄河を渡ると、張忠志もまた叛き、兵三万を率いて固守し、賊将の辛万宝が恒州に駐屯すると互いに対峙した。
史思明が死ぬと、張忠志はあえて
史朝義に仕えることをよしとせず、裨将の
王武俊に辛万宝を殺させ、恒州・趙州・深州・定州・易州の五州を捧げて献上した。雍王(後の
徳宗)が東に討伐すると、土門を開いて王師を受け入れ、莫州への攻撃を助けた。史朝義が平定されると、礼部尚書に抜擢され、趙国公に封ぜられ、その軍を成徳軍と名付け、そこで節度使を拝命し、鉄券を賜って死刑とならないことを保証され、他に賜い物ははかりしれず、姓名を李宝臣と賜った。ここに遂に恒州・定州・易州・趙州・深州・冀州の六州の地を有して、馬五千、歩兵五万、財物は豊かであまりあり、ますます亡命者を招き、雄は山東に冠たるものがあった。
薛嵩・
田承嗣・
李正己・
梁崇義と互いに婚姻関係にあり、互いに表裏の関係となった。これより先の天宝年間(742-756)、
玄宗は自らの肖像を鋳造し、州ごとに祠を設置したが、賊が反乱をおこすと、すべて破壊して財物としたが、恒州だけは残存しており、そのためことさらに寵遇され、加えて実封を賜った。
それより以前、李宝臣は
李正己と、最初から
田承嗣に軽視された。その弟の李宝正は、田承嗣の婿であり、魏に行って、田承嗣の子の田維と撃毬をしたが、馬がいなないて、田維が落馬して死んでしまうと、田承嗣は怒り、李宝正を捕らえ、李宝臣に告げた。李宝臣は謝罪するも謹まず、杖を進上して罰を与えるよう求めたから、田承嗣は遂に鞭打って李宝正を殺してしまったから、これより関係が悪化し。そこで李正己とともに田承嗣を討伐すべきと弾劾した。
代宗は自らその計画を実行いしようとし、勢力を分離すれば制しやすいことから、そこで李宝臣と
朱滔および太原に詔して兵でその北を攻めさせ、李正己は滑亳・河陽・江淮の兵とともにその南を攻めさせた。軍は棗彊で合流し、牛を殺して軍に饗宴し、李宝臣は厚く兵士に賜ったが、李正己はかなり粗末に扱ったから、軍は怨みを抱き、李正己は軍乱がおこることを恐れて、即刻引き揚げた。ここに朱滔・李宝臣は滄州を攻撃したが、一年を経ても降すことができず、宗城を攻めて滅ぼし、二千級を斬った。その時、田承嗣の弟の田廷琳は貝州を守り、高嵩巌を派遣して兵三千を率いて宗城を守らせようとしたが、李宝臣は
張孝忠に攻撃させてこれを破り、高嵩巌を斬り、逃走した将軍四十人あまりを捕虜とした。当時、
王武俊が賊の大将の
盧子期を捕虜とし、遂に洺州・瀛州を降した。この時にあたって、河南の諸将は
田悦を陳留で破り、李正己は徳州を奪取し、徹底的に征討しようとした。田承嗣は恐れ、そこで甘言で李正己を偽り、李正己は駐屯して留まり、諸軍もまたあえて前進しなかった。
ここに天子は宦官の
馬希倩を派遣して李宝臣を労い、李宝臣は使者が帰る際に百もの絹布を贈ったが、使者は怒り、道に叩きつけたから、李宝臣は左右の者に振り返って恥じること甚だしかった。諸将は去っていったが、ただ
王武俊だけが刀を佩びて門の下に立っていたから、これまでの経緯を語った。王武俊は「趙兵に功があるのに、それでさえこのようなのです。賊を平定させると、天子は紙切れで召し寄せて京師に置かれて、ただの一匹夫となってしまうだけです」と言った。「どうすればよいか」と尋ねると、「
魏を養って助けるのが上策です」と答えた。李宝臣は「趙と魏は決裂している。どうしてできようか」と言うと、「勢力が同じならば患いも均しく、仇敵を転じて父子となるのは、せきをするほどの間だけのことです。
朱滔は滄州に駐屯しているので、捕らえて魏に送ることを願えば、信用を得ることができるのです」と答えたから、李宝臣はそうだと思った。
これより以前、
田承嗣は李宝臣が若くして范陽の長となることを知って、心の中では常に范陽を得たいと思っていた。そこで石に刻んで占いのようにこれを境に埋め、気を見る者に教えて王気があると言わせた。李宝臣は掘って石を得ると、「二帝同功にして勢いは万全たり。まさに田と伴をなして幽燕に入らんとす」と書いてあった。「帝」とは李宝臣と
李正己の二人をさした。密かに客人を派遣して、「公は
朱滔とともに滄州を攻めて、功績があったが、利は天子に帰し、公に何の頼りがあっただろうか。本当によく承嗣の罪を赦すなら、願わくば滄州を奉って諸趙に入り、范陽を取って報いたい。公が騎兵で前駆となり、承嗣が歩兵で従えば、これ万全の勢いである」と説いた。李宝臣は喜んで滄州を得て、また語っていることが占いと符号していたから、遂に密かに田承嗣を結んで幽州を奪おうとはかり、田承嗣は兵を並べて軍を駐屯させて自ら証拠とした。
李宝臣は欺いて
朱滔の使者に「私は朱公の容貌が神のようだと聞いている。絵で見ることができるだろうか」と言い、朱滔はそこで描いて示した。李宝臣は絵を射堂に置き、大いに諸将を集めて、熟視させて「神の人を信じるのだ」と言った。密かに精兵二千を選抜して、夜に三百里を馳せて朱滔を捕らえようとした。訓戒して、「射堂のような容貌の者を捕らえよ」と言った。その時両軍は意図せず遭遇し、たちまち変を聞き、朱滔は大いに驚き、瓦橋で戦ったが、敗れ、他の服を来て逃れることができ、朱滔に似た者を捕らえて
田承嗣のもとに送った。田承嗣は失敗したことを知って、軍を返して砦に入り、使者を派遣して李宝臣に「河内で非常事態が起こり、公に従う余裕はなくなった。石の占いは、私が戯れにつくっただけだ」と断りを入れたから、李宝臣は恥じて帰還した。俄に隴西郡王に封ぜられ、また同中書門下平章事を拝命した。
徳宗が即位すると、司空を拝命した。
李宝臣は晩年、猜疑心が強くなり、自ら子の
李惟岳が暗愚であることを見て、部下が服従しないのを恐れ、そこで硬骨の将軍の辛忠義・
盧俶・
許崇俊・張南容・張彭老ら二十人あまりを殺し、その財貨を没収したから、軍はそこで二心を抱いた。李宝臣はすでに離反の心を溜め込み、妖人を引き立てて占いをし、丹書・霊芝・朱草をつくり、別室でお籠りをし、築壇して銀盤・金器・玉の酒器をつくり、みだりに「内に甘露神酒をつくる」と言い、玉印を刻んで、その部下に「天瑞が自然とやって来た」と告げたが、軍中ではあえて言う者はいなかった。妖人はまた「玉印が天から下ることがあれば、海内は戦わずして定まるだろう」と言い、李宝臣は大いに喜び、厚く金や絹を与えた。露見して誅殺されることを恐れて、欺いて「公は甘露の液を飲めば、天神と接することができる」と言い、密かに液をわずかに置き、李宝臣は飲んで即座に悶絶し、三日して死んだ。年六十四歳。李惟岳はことごとく妖人を誅殺した。時に建中二年(781)のことであった。遺表して李惟岳に軍を領させることを願い、書簡を宰相に寄せて家の事を委ね、使節を朝廷に返還した。詔して太傅を追贈された。
李惟岳は、若くして行軍司馬・恒州刺史となった。
李宝臣が死ぬと、軍中は推戴して留後とし、父の位を継承することを求めたが、
帝は許さなかった。葬列を護衛して京師へ赴くことは、
張孝忠を代理とした。
田悦が李惟岳の継承を願い出たが、聴されなかった。遂に田悦・
李正己とともに謀って朝廷の命を拒んだ。府小史の
胡震・私人の
王他奴らが専ら反計を企てた。府属の
邵真が泣いて、「先公は将相の地位につかれ、朝廷の恩は非常に厚いのに、大夫は喪中であるのに命に違い、愚か者どもが強く惑わしています。
魏は近く、また国の命運をともにしているので、にわかに断絶すべきではなく、断絶すればただちに災いになりますから、厚く礼してその使者を派遣し、おもむろに改めて計画してください。
斉は遠く交流も疎遠ですから、使者を拘束して京師に送り、また討伐を要請するのにこしたことがありません。そうすればお上は大夫の忠義をお喜びになるので、継承の許可を願い出るのです」と言ったから、李惟岳は悟り、邵真に上奏文を作成させた。しかし胡震と将吏は建議して不可を述べ、李惟岳もまた従った。李惟岳の舅の谷従政は豪傑かつ英俊な人物であり、強く諌めたが受け入れられなかった。
ここに
張孝忠は易州とともに天子に帰順し、天子は
朱滔と張孝忠に詔して兵を合わせて李惟岳を討伐し、ことごとく吏や兵士を赦し、李惟岳の首を贖うことによって報奨とした。李惟岳は朱滔と束鹿で戦ったが、大敗した。遂に深州を包囲された。翌年正月、兵一万あまりを率いて、
王武俊に束鹿を攻撃させたが、
田悦もまた
孟祐を派遣して救援した。王武俊は精兵でまず陣を陥落させ、軍を退けた。朱滔は刺繍で獅子をつくって、勇士百人に被らせて騒がせ、李惟岳の軍中を走らせたから、馬はいなないて軍は混乱し、そのため大敗し、その軍営に放火して去った。ここに深州は日に日に窮し、田悦も城を取り囲んだ。李惟岳は恐れ、
邵真を呼び寄せると、使者を河東の
馬燧に派遣し、その弟の
李惟簡を
帝に謁見させ、大将を斬って謝罪し、軍は
鄭詵に属させ、自身京師の朝廷に赴くことを議した。孟祐はその謀を知って、急いで田悦に報告し、田悦は
扈岌を派遣して「我軍が出動したのは、もとはといえば君のために節度使に任じられるよう求めたのであって、どうして叛逆をするのか。馬燧に敗れたからといっても、士大夫たちを励まして城に拠って防御し、そうしてから後の謀をすればいいのだ。今君は邵真による関係を悪化させるような悪口で、罪をこの田悦に帰そうとし、自らは罪を洗い清めようとしているが、どうして背こうとするのか。孟祐の派兵をやめて軍を撤退すれば、残らず王師の捕虜となるだろう。もし邵真を誅殺して従うのなら、公に仕えるは元通りとしよう」と断りを入れた。李惟岳はひるんで決断ができず、
畢華は李惟岳に面会して、「大夫は
魏と盟約してまだ長くはありません。魏は包囲されているとはいえ、魏は貯蓄が多く、まだ降伏しないでしょう。
斉は兵が強く、地は広く、山河が横たわり、いわゆる東秦険固の国で、互いに維持し、天下に抵抗することができるのです。義に背くのは不幸を招き、軽挙は禍いを生むのです。また孟祐は勇将で、王武俊は善戦しており、先日は朱滔を追い払い、朱滔はかろうじて免れましたから、今両将を合わせれば、朱滔を必ず破るのです。このことは詳細に検討してください」と言ったから、李惟岳は包囲されても解囲されないから、孟祐が帰還してしまうのを恐れ、そこで邵真を斬って田悦に謝り。翌日再び戦うも、また大敗した。しかも
康日知は趙州ごと朝廷に服属して命令に従い、李惟岳はますます窮し、そこで牙将の
衛常寧に兵五千を与え、王武俊に騎兵八百で康日知を攻撃させた。
王武俊は勇敢であったが、もとから李惟岳に嫌われており、軍が進撃すると、衛常寧に向かって、「大夫(李惟岳)は讒言を信じ、眼の前のことを考える余裕もなく、戦いに行って勝とうが勝つまいか、どちらにせよ私は再びに恒州に入ることができない。身を定州の張公(
張孝忠)に託すなら、どうして首を持って処刑されようか」と言うと、
衛常寧は副官の李献誠とともに、「君は詔書を聞いていないのか。大夫の首を斬ればその官位を賜るそうだ。大夫の勢いを見てみるとついぞ
朱滔に滅ぼされるだろう。もし戈をかえして府に戻るなら、事は実に図りやすいもので、勝てないようなことがあったら、張公に帰順しよう」と言い、王武俊はそうだと思った。李惟岳は属官の謝遵を派遣して王武俊の陣地に行かせて事を図らせたが、王武俊は謝遵と通謀し、内応させた。その時にいたると、城門を開き、王武俊は入り、庭中で人を殺したが、抵抗する者はいなかった。そこで伝令して、「大夫は命に叛き、今まさに除いた。あえて拒む者は皆殺しだ」と言い、兵士はあえて動かなかった。王武俊は裨校の任越に李惟岳を引き出させ、軍営の門の下で絞殺し、あわせて
鄭詵・
王他奴ら数十人を殺し、子の
王士真に李惟岳の首を京師に伝送させた。
帝はことごとくその府の将兵の罪を許し、節度使の部内の租役を三年間免除とした。
邵真は始め
李宝臣に仕えて、文事を司り、
王武俊はその忠義を上表して、戸部尚書を追贈された。その息子の邵呂は冀州長史に抜擢された。
衛常寧は
王武俊の時に用いられ、内史監となったが、その後叛乱を企てて誅殺された。
李惟岳の異母兄の
李惟誠は、儒教を尊び、謙譲かつ寛容な人物で、
李宝臣に愛され、軍事を決させようとしたが、李惟岳が正嫡であったから、強く譲って担当することをよしとしなかった。その妹は
李納の妻であったから、そのため李宝臣は李惟誠に再びもとの姓である張氏に戻るよう要請して、鄆に仕えさせ、李納は営田副使に任じて、四たび州の刺史となった。
それより以前、
李惟岳が叛くと、弟の
李惟簡が家僕・郎党百人あまりとともに母の鄭氏を助けて京師に亡命し、
帝は客省に拘束した。
朱泚の乱のため
帝が奉天に出発したとき、李惟簡も難に赴こうとして、鄭氏に相談すると、鄭氏は「お前の父は功績を河朔に立て、位は宰相となったが、身は京師に到ったことはなく、兄は人の手にかかって死んだ。お前は入朝したが、まだ天子を知らない、忠義をすることができなければ、私はお前を子だとは思わない」と言って、帝のもとに行くよう励まし、さらに「でも王事のために死ねれば、私の名は不朽となろう」と言い、関を強行突破して出て、道では七度戦い、行在に到着した。帝は謁見してあつくなだめて、太子諭徳に任命した。李惟簡は賊を討伐して功績があった。帝は山南に遷り、李惟簡も三十騎で従ったが、夜に道を失い、馳せて盩厔の西に到着し、宦官が話しているのを聞いて、天子の所在を尋ねると、密かに「
お上はここにおいでになる」と言ったから、帝は李惟簡に謁見すると涙を流し、その手をとって「お前は母がいるのに、朕に従ってくれたのか」と言うと、「臣は死をもって誓いました」と答えた。夜明けになって、北方に塵が舞い起ったのが見え、帝は心配になった。李惟簡は高いところに登って、「
渾瑊が騎兵でやって来ました」と言った。渾瑊が到着すると、遂に興元府に向かうことが決定され、李惟簡は先導した。帝が帰還すると、武安郡王に封ぜられ、元従功臣と号し、肖像画は凌煙閣に描かれ、鉄券を賜った。
憲宗の時、左金吾衛大将軍となったが、長吏の
万国俊が興平の民田を奪ったものの、吏は恐れてあえて治めておらず、ここに到って李惟簡に訴え、即日万国俊の田を廃止し、地を民間に与えた。京師より出されて鳳翔節度使となり、耕牛を売って農耕器具を給付することによって、一年で墾田が数十万畝増加した。卒した時、年五十五歳で、尚書右僕射を追贈された。
子の
李元本は、軽薄で行いがなく。長慶年間(821-825)末、
薛渾とともに
襄陽公主に密通していたが、事実が発覚して、襄陽公主は禁中に幽閉され、李元本は功臣の子であったから、死を免れ、嶺南に流された。弟の
李銖は、好学かつ博識で、儒者の風貌があった。
王武俊は、字は元英で、もとは契丹怒皆部の出身である。父の王路倶は、開元年間(713-741)、饒楽府都督の李詩らとともに五千帳で官職を襲職することを求め、入って薊州に居住した。王武俊は十五歳となると、騎射をよくし、
張孝忠と名声を等しくし、
李宝臣の幕下に属して裨将となった。宝応年間(762-763)初頭、王師が井陘に入ると、王武俊は李宝臣に向かって、「寡兵で大軍を相手にし、曲がった者たちで真っ直ぐな者たちと遭遇するなら、戦えば離反してしまい、守れば潰滅してしまいます。精兵が遠くで戦ったところで、どうやって守ることができましょうか」と言うと、李宝臣は遂に恒州・定州などの五州とともに自ら朝廷に帰順し、共に他の賊を平定したのは、王武俊の謀であった。奏上によって御史中丞を兼任し、維川郡王に封ぜられた。その子の
王士真もまた沈着かつ勇敢で判断にすぐれ、李宝臣は可愛がって、軍帳中に出入りさせ、娘を王士真の妻とした。李宝臣は猜疑心のため
許崇俊らを殺したが、王士真は密かに李宝臣の側近と結びつきがあったから、そのため王武俊は難を免れた。
李惟岳が朝廷の命令を拒み、ある者が王武俊に異心があると述べ、王武俊はこのことを知って、出入りすることわずかに一・二度で、賓客に接したことがなかった。李惟岳は心の中では疑っていたが、だからといって屈服させることもできず、またよく戦うのを惜しみ、殺すのに忍びなかった。
康日知が趙州とともに朝廷に降伏すると、李惟岳は討伐する人選を謀ったが、全員が「王武俊は胆力があり、先君は命じられて大夫(李惟岳)を補佐させました。
王士真もまた大夫の義弟です。今事は急を告げており、嫌疑を去って任命すべきです。そうでなければ誰にさせようというのでしょうか」と言い、そこで
衛常寧とともに派遣して兵を率いて出発させた。そこで李惟岳を捕らえようと謀り、康日知もまた人を派遣して禍福を説いたから、王武俊は軍を帰し、人を派遣して李惟岳に、「大夫は
斉・
魏とともに同じく悪行を行いました。今魏兵はすでに敗北し、斉は
趙州に行動を制限され、
幽州の兵は定州の近在にあり、三軍もまた死の淵からすくいました。詔があって大夫を召還していると聞いています。帰順すべきです」と言ったが、李惟岳は恐れてにわかに脱出しようとしたから、遂に絞殺された。そこでその部下の
孟華を派遣して天子に奏上した。孟華の弁に詔勅による返答があり、
徳宗は孟華を抜擢して兵部郎中とし、王武俊に検校秘書監兼御史大夫・恒冀観察使を授けた。
この当時、
李惟岳の将の
楊政義は定州とともに降伏し、
楊栄国は深州とともに降伏し、
朱滔は受諾して彼らに守らせた。
帝は定州を
張孝忠に賜い、
康日知を深趙観察使とした。王武俊は節度使となれず、しかも趙州・定州を失ったことを怨み、朱滔もまた深州を失ったことを恨んだから、二人は互いに結託した。王武俊はそこで使者を捕縛して朱滔に送還し、ともに叛いた。帝はこのことを聞いて、
孟華に詔して説諭したが、聞き入れなかった。
当時、
馬燧・
李抱真・
李芃・
李晟は
田悦を討伐し、田悦は窮地に陥っていたが、王武俊・
朱滔が救援し、連篋山に駐屯した。帝は
李懐光に詔して神策の兵を率いて賊の討伐を助けさせ、軍は一舎(16km)のところに到着し、気鋭は甚だしく、馬燧に向かって、「詔を奉って敵を養うようなことをしてはならない。防壁が完成する前に攻撃すれば、滅ぼすことができよう」と言い、そこで兵を出撃させて朱滔の防壁に突入させ、千人あまりを殺した。田悦の軍はすでにしばしば敗北し、布陣することができなかった。李懐光は轡を緩めて見ていたが、王武俊はその緩みに乗じて、
趙万敵らを派遣して二千騎で側面から突撃させ、朱滔の軍も駆けつけたから、王師は混乱し、互いに踏み合って死に、死体が河を堰き止めて流れなかった。李懐光は戻って防壁に逃げた。王武俊は夜に河を決壊させて王莽渠に注ぎ込ませ、馬燧の糧道を寸断させた。馬燧は計略に窮して、朱滔とはもとから婚姻関係にあったから、そこで使者を派遣しておもむろに朱滔に挨拶して「老夫(馬燧)は自分の考えではどうすることもできず、諸君と敵対関係になってしまった。王大夫(王武俊)は善戦し、天下に匹敵する者はなく、私はもとより敗れてしまうだろう。幸いにも公が図られて、老夫を河東に戻すことができれば、諸将もまた戦いをやめるだろうから、私は公のために天子に申し上げて、河北の地を公に付させよう」と言い、朱滔もまた王武俊が勝利をあげて制することができなくなるのを密かに嫌い、そこで王武俊に、「王師はすでに敗れており、馬公は腰を低くしてこのように約束している。人を追い込んで険悪なことになるのはよいことではない」と言ったが、王武俊は「馬燧らは皆国の名臣であり、兵十万を連ねて、一戦して敗北して、国家の恥となったのを、何の面目があって天子に見えるのかわからないのか。彼は五十里も行かずして、必ず戻って我らを拒むだろう」と答え、朱滔は頑なになって馬燧を許した。馬燧は魏県に到着すると、陣地を築いて守りを堅固にし、軍は再び勢力を盛り返した。朱滔は恥じて謝し、はじめて不和が引き起こされるようになった。王武俊は
張鍾葵に趙州を攻撃させたが、
康日知はその首を斬って上奏した。
ここに王武俊は
田悦らと勝手にお互いに王号を称した。王武俊は国号を趙とし、恒州を真定府とし、
王士真を留守兼元帥に命じた。
畢華・鄭儒を左右内史とし、王士良を司刑とし、王佑を司文とし、
王士清を司武とし、二人とも尚書とした。
王士則を司文侍郎とし、
宋端を給事中とし、
王洽を内史舎人とし、張士清を執憲大夫とし、
衛常寧を内史監とし、皇甫祝を尚書右僕射とし、他は官職の次第によって任命を行った。
建中四年(783)、
李抱真は客人の
賈林を詐って王武俊に降伏させ、謁見して「私が来たのは詔を伝えるためで、降伏したのではありません」と言うと、王武俊の顔色は変わって動揺した。賈林は「天子は、大夫が登壇して建国し、悲憤して側近に向かって、「私はもとから忠義であったが、天子が顧みられないから、だからこうなったのだ」と言ったのを知り、今、諸軍がしばしば大夫の至誠を上表したから、お上は上表を見て顔色を変えて、「朕は以前に対処を誤り、追ってももう間に合わないのだ。親友の間柄なら思いを失えば謝るべきであろうが、朕は四海の主であり、些末な過失であってもかえって自らの心を新たにすることができないのだ」と仰せになり、今大夫は自ら逆賊の首級を断ちましたが、宰相は物事に暗く、国家と大夫にはどうしてとるにたりないことがありましょうか。
朱滔は利を以て動くのに、公はどうして朝廷ではなく朱滔を取るのでしょうか。本当によく
昭義軍と同心し、広々として謀を改めれば、上は君臣の義を失わず、下は子孫の計略となるのです」と述べた。王武俊は、「私は異民族の人であって、百姓を撫育するのを知るのみです。天子はもとより殺人につとめず天下を安泰しておられます。今、山東は何度も戦争しては戦い、骨はことごとく野にさらされており、勝利したところで誰が住んでいるのでしょうか。今、帰国をはばからず、諸軍と盟約しないのは、異民族としての性格が正直で、自分自身を曲げようと欲しないからです。朝廷が恩情をくだされて水に流されるなら、私は真っ先に帰順して命令に従い、従わない者があれば、命令を奉って討伐します。河北は五十日もしないうちに平定されるでしょう」と答えた。当時、帝は奉天を出て、李抱真は沢潞に帰還しようとしており、
田悦は王武俊・朱滔に後尾を襲撃するよう説いた。賈林は、「軍が退却するということは、前軍には輜重が配置され、後軍には精鋭が配置されます。人心は堅く一体となって、はかることはできません。戦勝して地を得たところで、利は
魏に帰し、不幸にして軍を失えば、趙がその災いをうけることになるのです。今、滄州・趙州は故地ですが、どうして取らないことがありましょうか」と言い、王武俊は遂に北に引き揚げると、賈林はまた勢いづけて「公は異邦の豪英で、中華の謀に適合しません。また
燕は陰険で、彼は王室が強いから公の援軍を待っており、勢力が削られれば自身に併呑しようとしています。また河北には趙・魏・燕があるだけですが、朱滔は国号を冀としており、心の中で公の領有する冀州を狙っています。朱滔に山東を制圧させることができると、大夫は朱滔に仕えて臣となるでしょうし、拒否すれば攻撃されます。朱滔の臣となれますか」と言うと、王武俊は袂を投げて「二百年も天子に仕えることができなかったのに、どうして小僧っ子の臣となれようか」と言い、そこで計略を定めて李抱真と通好して、
馬燧と盟約した。
興元元年(784)天下に大赦が行われ、王武俊は大いにその軍を集め、偽の王号を退けた。国子祭酒の
董晋と宦官に詔して宣慰させ、検校工部尚書・恒冀深趙節度使を拝命し、また検校司空・同中書門下平章事を加えられ、幽州盧龍節度使・琅邪郡王を兼任した。
この当時、
朱滔は幽州・薊州の全軍で回紇とともに貝州を包囲し、白馬津との交通を遮断しようとし、南は洛陽に急行した。
李懐光は河中を占有し、
李希烈は汴州を陥落させ、南は江淮を掠奪し、
李納は叛こうとしていて、ただ
李晟が渭水上に駐屯していた。緊急の伝文で天下の十分の三を徴発し、人心は恐懼した。
田緒が
田悦を殺すと、
賈林は再び王武俊に「朱滔はもとから魏博を得ようと思っていましたが、たまたま田悦が死に、魏人は不安となり、公が救わなければ、魏もまた降るでしょう。朱滔軍勢数万を増やし、
張孝忠は北面して朱滔に仕えるでしょうから、三道が連衡、回紇を統率し、長駆して南に向かえば、
昭義軍は必ず山西を守るだけになり、そうすれば河朔はすべて朱滔の手に入ります。今、魏を保全するならば、張孝忠も朱滔に従わず、公は昭義軍と兵を合わせて破るなら、名声は関中に振るい、京邑もまた自然と回復し、天子は正道に帰し、不朽の業は、誰が公と並ぶでしょうか」と説くと、王武俊は大いに喜び、李抱真とともに奏上し、自らは軍を率いて南宮に駐屯し、李抱真は経城に駐屯し、両軍は互いに十里を経だって布陣した。王武俊は密かに軍を李抱真に合流し、感慨を述べ、李抱真もまた心を互いの結びつきに傾け、兄弟となることを約束し、遂にともに東は貝州に陣を敷き、城を隔てること十里(16km)で停止した。朱滔は迎撃しようとしたが、王武俊は兵士を戒めて飽食させて「軍はまだ合流していない。妄動してはならない」と言い、趙琳・
趙万敵を派遣して兵五百で林を覆って待機させた。朱滔は勇将の
馬寔・
盧南史を西に陣を敷かせ、李少成は回紇を率いて翼部に布陣した。日中に兵が接敵し、王武俊は子の
王士清とともに精兵の騎兵を率いて李少成の軍に対応し、李抱真はこれに続き、朱滔は騎兵二百を馳せさせ王武俊の東南に出撃させ、戦場の太鼓の大きな音に乗じた。王武俊は歩兵に決戦させ、自らは騎兵で回紇に対応し、兵をまとめてその猛攻を避けた。回紇の馬は突撃してくるのをやり過ごし、まだ引き返してくる前に、王武俊は急いで攻撃し、趙琳らの兵もまた出撃し、回紇は驚き、中央で分断させ、遂に先鋒が逃走した。それより以前、朱滔の兵は王武俊の軍に迫っていたが、損害を与えることができず、回紇はすでに退却したから、そこで引き返そうとしたが、騒動のために止めることができず、軍は大いに敗走し、朱滔も逃げて陣地に戻った。王武俊は流矢にあたったが、朱抱真に、「兵士はやや弱体化したが、思うに騎兵で軍を渡らせれば、敵の巣穴を占領できるだろう」と言い、李抱真は来希皓に強力な騎兵を率いて朱滔の軍営に肉薄させ、盧玄真はその背後に乗じたから、朱滔は恐れ、軍を引き換えさせたが、来希皓はこれを追撃し、王武俊も隘路で迎撃したから、朱滔は大敗し、免れた者は八千人ほどであった。夜になると、それぞれ駐屯し、王武俊の軍営は朱滔の東北に、李抱真の軍営は西北に置いた。朱滔は支えられないことを知って、夜半に兵糧の車両を焼き払い、逃れて幽州に帰還した。火は昼間のようで、軍は大いに騒ぎ、その声は地に鳴り響いた。李抱真は山東が蝗害となったため、食料が少なく、潞州に帰還し、王武俊もまた帰還した。
たまたま詔があって
朱滔の官爵を復し、王武俊もお上に幽州盧龍節度使の職を返還した。また詔によって恒州を大都督府とし、そこで王武俊に長史を授け、徳州・棣州の二州を賜い、
王士真を観察使・清河郡王とした。天子は自ら梁よりやって来ると、王武俊への待遇はますますあつく、子弟は幼児であっても、全員が官職を授かった。にわかに検校太尉兼中書令に昇進し、建廟京師に廟をつくることができ、役人が作業にあたった。
王武俊は弓をよくし、かつて賓客と猟を行った際、一日で鶏・兎を九十五匹射たから、見る者は驚き心服した。貞元十七年(801)に死に、年六十七歳であった。群臣が天子を慰め奉ることは、
渾瑊の故事の通りであった。太師を追贈した。役人は諡を威烈としたが、帝は改めて忠烈とした。
王士真が位を襲封した。
王士真は、その長子である。若くして父が功績を立てるのを助け、困難は危機から救った。節度使となると、兵を休ませて守りをよくし、勝手に吏を置き、賦入を私的にしたとはいえ、毎年数十万緡を貢納し、
燕・
燕に比べると朝廷を敬っていた。元和年間(806-820)初頭、同中書門下平章事を拝命した。元和四年(809)死に、司徒を追贈され、諡を襄という。軍中はその子の
王承宗を推戴して留後とした。
それより以前、河北三鎮は自ら副大使を置き、常に嫡長子をあて、そのため
王承宗は御史大夫の職によって副大使となった。留後の事を統べるようになると、
憲宗はしばらく返答せず、変事となるかを伺った。王承宗はしばしば上疏して弁明した。帝は
劉済・
田季安がともに大病であることを聞いて、改めて別の節度使を立てるかを議した。翰林学士の
李絳は、「鎮州は代々継承しており、人々には習慣となっており、命令を拒めば討伐しなければなりません。また諸道の賞は百万の兵士に兵糧を与えることになり、また
燕・
魏・
淄青は、勢力を同じくして必ず合流します。長江・淮水は洪水となり、財力は疲弊していますから、王承宗に詔して領を継がせるべきです。田季安らは病だとはいえ、おもむろに計画するのがよいでしょう。四方を定めるのは天の時があり、急いではなりません」と言い、帝もそうだと考え、鎮を割いて節度使を分けようと思い、王承宗に毎年の貢納を
李師道のようにさせた。李絳は、「たとえ王承宗が詔を奉っても、諸道は地を割くことによって一同に怨みを抱かせることになり、官爵を虚しく出したところであたることはありません。使者に諭させるにこしたことがなく、お上の意から出たということにしてはなりません」と言い、帝はそこで京兆尹の
裴武に詔して慰撫させ、王承宗は詔を奉って恭しむこと甚だしく、徳州・棣州の二州の献上を願い、遂に検校工部尚書の地位によって節度使を継承し、徳州刺史の
薛昌朝を保信軍節度使とし、徳州・棣州を統治させた。
薛昌朝は、
薛嵩の子であり、王承宗と婚姻関係にあったから、帝はその親将を離反させようと思い、そのため任命したのであった。詔が到着する前に、王承宗は騎兵で急行して奪って帰り、薛昌朝を捕縛した。詔して改めて棣州刺史の田渙を登用して二州団練守捉使とし、宦官を派遣して詔を伝えて薛昌朝を帰らせようとしたが、王承宗は命令を拒絶したから、帝は怒り、詔して官爵を削り、宦官の
吐突承璀を派遣して左右神策軍を率い、河中・河陽・浙西・宣歙の兵を率いて討伐させた。
趙万敵なる者は、もとは
王武俊の将で、戦場での敢闘によって有名であり、
王士真の時に入朝した。上言して王承宗を討伐すれば必ず勝てるといい、
吐突承璀とともに出兵させた。詔に「王武俊の忠節は非常にすばらしく、実封によって子の
王士則に賜った。墳墓を壊してはならない」と述べられた。
吐突承璀の軍は到着したが、威や軍略がなく、軍は勢いを失った。神策大将の
酈定進は勇将で、
劉闢を捕縛する功績によって、陽山郡王に封ぜられたが、ここに戦うも敗北し、駆けたが倒され、趙人が「酈王だぞ」と言い、殺害され、軍の士気はますます挫けた。
呉少誠が死ぬと、
李絳は上奏し、「
蔡には四隣の援軍はなく、攻撃・討伐は容易いことですから、王承宗を赦すにこしたことがなく、淮西への対応を専らにすべきです」と述べたが、帝は聴さなかった。昭義軍節度使の
盧従史は王承宗に買収され、外は自ら固め、内実は与えていた。太常卿の
権徳輿は諌めて「神策軍の兵は民間で屠畜や物販をする者で、戦場には適しておらず、恐れることは、大変だからといって遠くに行くことをはばかり、潰えて盗賊となることです。恒州・冀州には騎兵・壮兵が多く、これを攻撃するのに必ず月日を費やし、西戎(吐蕃)はその間に乗じてくるので、禁衛を急速に消耗させてはなりません。山東は疥癬ですが、京師は心腹です。そのことは深く考えるべきです。また軍は出兵してから半年、費用は銭五百万緡にも及んでいます。夏になると非常に暑く洪水となり、疫病が流行します。真に敗北の変事があることを恐れるのです」と述べた。また「山東の諸侯は、全員息子を自らの副とし、人心は遠からず、誰が陛下のために力を尽くすことをよしとしましょうか。また
盧従史は敵によりかかって援助をし、
吐突承璀を誘惑して寵遇の利益に迎合しています。軍営の善将を召し寄せて、駅を増やして馳せさせ、半ばまで到達したら、沢潞軍を授けて、盧従史を他の鎮に移し、その邪な計画を破り、その後に王承宗を赦せば、軍の士気は必ず心服するでしょう」と述べたが、帝は許さなかった。
元和五年(810)、河東軍は一陣営を陥落させられたが、
張茂昭はこれを木刀溝で撃破した。帝は
盧従史の偽りを心配し、ついに計略によって捕縛して京師に送った。
劉済もまた安平を陥落させた。王承宗は恐れ、その部下の崔遂を派遣し上書して謝罪し、また、「往年地を納めましたが、三軍に迫られて勝手なこともできず、盧従史のために買収されて利を求めました。吏を領内に入れて賦を納め、自ら刷新したいと願います」と述べた。当時、配備された軍には長らく功績がなく、兵糧も乏しく、帝は憂いた。しかも
淄青・
盧龍はしばしば上表して王承宗の赦免を願ってきており、そこで詔して罪を洗い流し、尽く故地を賜い、諸道の兵を徹底させた。
薛昌朝は京師に帰り、右武衛将軍を授けられた。王承宗は兵が国境から少なくなったのを見て、撤退し、罪を盧従史に帰したが、難詰させることができず、自らの謀略が成功したといい、尊大に振る舞って憚ることはなかった。
元和七年(812)、武器庫が火災となり、武器・鎧がほとんど焼失したから、守吏を百人あまり殺したものの、不安となった。
呉元済が叛くと、王承宗は
李師道とともに上書して赦免を願ったが、その将の尹少卿に命じて蔡のために遊説させたが、宰相に面会すると語は不遜で、
武元衡は怒り、叱責して追い返した。王承宗は非常に怨み、李師道と謀って、悪少年数十人を派遣して河陰に潜ませ、暗闇に乗じて吏を射て、吏が逃げると、そこで漕院に放火し、人々が火の所にやってくると、戦って死ぬ者が十人あまりとなったから、県は大いに民を徴発して盗賊を捕らえようとしたが、逃亡していて捕らえられず、銭三十万緡・粟数万斛を費やすだけとなった。しばらくもしないうちに、
張晏らは宰相の武元衡を殺したから、京師で大捜索し、その間天子は晩遅くになってからようやく食事につくほどであった。王承宗はかつて武元衡に疎んじられて咎められたから、心に留められていた。ここに
帝は出御して群臣に大議を示すと、全員が声高にその罪は討伐すべきであると願った。詔して王承宗の朝貢を断ち、その弟の
王承系・王承迪・王承栄を遠方に逃れさせ、博野県・楽寿県をもとは范陽の地であったから、命じて
劉総に帰属させた。しかし派遣されたところでは盗賊があちこちに頻発し、
建陵の門の戟を破壊し、
献陵の寝宮に放火し、兵を伏せて洛陽に反攻しようとしたが、勝てなかった。王承宗はしばしば出兵して近隣の村々を掠奪したから、
田弘正は王承宗を誅殺すべきであると上言し、帝は軍を派遣して国境を威圧した。王承宗は詔の内容を推し量って兵はただちに進ませず、そこで滄州・景州・易州・定州の間を掠奪したから、人々は苦しんだ。
元和十一年(816)、詔して官爵を削り、実封を
王士平に賜い、
王武俊の後を奉らせた。河東・義武・盧龍・横海・魏博・昭義の六節度使の兵に進討させ、おおむね数十万、地を数千里とりまき、その勢力を分割した。しかし軍営・駐屯は離れて設置され、約束ごとをしたが一も得られず、そのため兵士は傍観するだけであったが、ただ昭義軍の
郗士美のみは賊の境に肉薄し、賊はあえて攻撃しなかった。それより以前、王承宗は叔父たちとはそりがあわず、全員が京師に出奔していた。
王士則は神策大将軍となり、その謀反を聞いて、京兆に戸籍を移すことを願い、
裴度は願いを用いて邢州刺史とし、昭義軍に隷属させ、趙人を危機に陥らせた。王怡なる者は、王武俊の従子で、王承宗のために南宮を守ったが、王士則に招かれ、帰順すると約束したが、謀は漏れて殺害された。子の王元伯は逃走し、監察御史に抜擢され、詔して王怡に尚書左僕射を追贈された。
翌年、
呉元済が平定されると、王承宗は大いに恐れ、牙将の石汎に二子とともに魏博にやって来て、
田弘正にたよって入侍を求め、また徳州・棣州の二州を返還し、租税・賦税を入れ、天子が任命した官吏の派遣を願い出た。田弘正は
王知感・
王知信を派遣して朝廷に詣でさせて命を請うた。それより以前、
帝は尚書右丞の
崔従を派遣して詔書を賜って自ら刷新することを許し、王承宗は素服で罪の判決を待った。ここに詔して官爵を復し、華州刺史の
鄭権を横海節度使として、徳州・棣州・滄州・景州などの州を総べさせ、王承宗に実封戸三百を復し、領有するなかで飢饉の場所に帛一万匹を賜った。
李師道が平定されると、法を奉ってますます謹直となり、上表して領するところの州録事・参軍・判司・県主簿・令は、すべて王官の派遣を要請した。
元和十五年(820)死に、侍中を追贈された。軍はその弟の
王承元を推戴して留後とした。王承元はあえて鎮を世襲しなかったが、登用され、詔して義成軍節度使となった。事象については
本伝を見よ。
王廷湊は、もとは回紇の
阿布思の一族で、安東都護府に属した。曽祖父の五哥之は、
李宝臣の幕下にあって、勇敢でよく戦い、
王武俊が養子とし、そのため王姓をおかし、代々裨将となった。
王廷湊は生まれて筋肉壮健で、沈着かつ勇敢で言葉少なく、鬼谷子や兵家の諸書を読むのを喜んだ。
王承宗の時、兵馬使となった。
田弘正が鎮州にやって来ると、詔によって度支銭百万緡で軍を労ったが、予定外のこととなったから、王廷湊はその考えをあらわして軍の心を見てみると、軍ははたして怨みを抱いていたから、これによって田弘正を殺害し、自ら留後を称し、監軍を脅して上表して節度使とするよう願い出た。また冀州を奪い、刺史の
王進岌を殺した。
穆宗は怒り、田弘正の子の
田布を魏博節度使とし、軍を率いて討伐に進軍させ、そこで
横海軍・
昭義軍・
河東軍・
義武軍に命じて合力させた。ここに大将の
王位らは王廷湊を捕らえようと図ったものの、勝てず、死者は三千人あまりとなった。たまたま
朱克融が
張弘靖を捕らえ、そのため幽州は軍乱となり、そこで合従して王師を防いだ。
詔があってどちらを先に討伐すべきか議したが、剣南東川節度使の
王涯が「范陽が首謀ではないので、先に鎮州に対処すべきです。また魏博の怨みがありますから、晋陽・滄徳に軍を留め、挟撃して前進します。兵を用いてもし戦うならば、まずその喉を締めるといいます。今、瀛莫・易定は真に賊の喉元ですから、重兵で守らせ、死生を互いに聞かせず、間諜を入らせなければ、これは万勝の策なのです」と上奏した。
帝はそこで義武軍節度使の
陳楚に詔して国境を閉鎖させ、諸軍に督促して三道から攻撃させた。滄徳の
烏重胤は最も宿将で、一面を担当した。
裴度に河東節度使で幽・鎮招撫使を兼任させ、承天軍に駐屯させた。烏重胤は時宜に敵わないと知り、兵を休ませ、前進することをよしとせず、帝は聞いたところに浮つき、激しく討伐すべきとして、深冀行営節度使の
杜叔良に交替させた。杜叔良はもとより宦官と結び、帝に謁見して、「討伐すれば、賊なんぞ簡単に破れます」と大言し、たまたま裴度が王廷湊の兵を会星で追い払い、また元氏県に入り、陣地二十二箇所を焼き払った。杜叔良は諸道の兵を率いて深州を救援に向かい、博野県で戦ったが、大敗して、持節を失い、身を以て逃れたから、帰州刺史に貶された。杜叔良は、将軍の家の子で、もとは権力に近づいて霊武節度使となったが、罪となったが罷免されず、また権力に近づき、滄景節度使となった。王廷湊はその臆病さを知っていたから、先に攻撃し、軍はそのため敗れたのであった。
この当時、
帝は賜物に限度がなく、府庫は空となっていたが、既に諸道の兵を召集し、徴発して急行させたから、民はその労苦に堪えられなかった。度支が必要とする者はおおむね兵十五万となり、役人は給付できないのを恐れ、南北供軍院を設置した。すでに賊の村々に迫り、糧道は困難となり、柴や薪は継続して得られず、兵は交替で休んで柴を取った。王廷湊は隙に乗じて転運車六百乗を奪い、食はいよいよ困窮し、衣服や帛を待つべきところも、道半ばで、諸軍は強奪するようになり、役人は制することができなかった。その県の軍が深く入った者は、衣食を得られなかった。また監軍の宦官は、精鋭で勇敢な兵士をことごとく取って自らに従え、疲れがたまった者は行軍・布陣に備え、戦えばたちまち潰滅した。王廷湊・
朱克融の二賊の軍は一万人あまりに過ぎなかったが、王師は統制がとれず、ついに功がなく終わった。宰相は兵法を知らず、異議を唱えて動揺を誘い、指示は一致せず、深州の包囲はますます危急となった。
翌年、魏の牙将の
史憲誠が叛き、
田布の軍は南宮で潰滅した。
帝はやむを得ず、王廷湊を赦し、検校右散騎常侍・成徳軍節度使とした。たまたま
牛元翼が出奔し、王廷湊は遂に深州を奪い、兵部侍郎の
韓愈に詔してその軍を慰撫させた。
王廷湊は許されると、一際抜きん出て、
朱克融・
史憲誠とともに深く互いに結びつき、輔車の関係となって助け合った。滄州の
李全略が死ぬと、子の
李同捷が襲封を求めたが、
文宗は許さず、改めて兗海節度使を授けた。李同捷は命令に背き、そこで珍しい宝で子女があつく王廷湊と結びつき、
帝はその変事を心配し、そのため検校司徒を授けた。
幽・
魏・
徐・
兗の兵で李同捷を討伐させ、王廷湊は魏の北の村々を取り巻いて牽制し、滄景の塩辛い食料を送って、隣道の使者を捕らえて派遣させなかった。帝は怒り、詔してその貢納を絶やした。ここに易定節度使の
柳公済が新楽県で戦い、斬首三千級を得た。昭義軍節度使の
劉従諌が臨城県で破り、漳河を引いて深州・冀州に注ぎ込んだ。詔に「李同捷の乱は、王廷湊も同じく悪であり、ただちに官爵を削るべきである。諸道は兵で討伐に進撃し、よく王廷湊を斬った者は、銭二万緡を賜い、よい官職を与える。鎮州を降した者には、等差の賜物があることは以上の通りである」とあり、柳公済は行唐県で再戦し、すべて勝利し、砦十五箇所を焼き払った。王廷湊は蝋書(蝋で固めた密書)を幽州に射たが、行営の
李載義はこれを鹵獲した。また魏の叛将
丌志沼を受け入れた。たまたま李同捷が平定されると、王廷湊はやや恐れ、上表して景州を献上したが、弓高県・楽陵県・長河県の三県は固守し、再び書を奉って謝罪した。帝は戦争を嫌がるようになり、王廷湊を赦し、すべての官爵を復し、献上してきた州を返還した。しばらくして兼太子太傅・太原郡公に昇進した。
鎮冀は
李惟岳以来、天子の命令を拒んだ。しかし近隣との友好関係を重視し、法を恐れ、やや屈服することがあれば自ら態度を刷新してきた。王廷湊となるや性格は凶悪で人に悖り、猛毒で戦乱を好み、臣とならず真心もなく、夷狄であったとしてもよしとしなかった。大和八年(834)死に、太尉を追贈された。軍中は
王元逵に命令を請い、
帝は節度使の襲封を聴した。
王元逵は、その次子である。礼法を知り、毎年の貢献は本職のようであった。
帝は喜び、詔して絳王
李悟の娘の
寿安公主を娶らせた。王元逵は人を派遣して誼を宮中に納め、食事千人分の盤・良馬・公主の化粧品・化粧道具・奴婢を進上し、議する者はその恭しさをよしとした。その後、
劉稹が叛くと、
武宗は王元逵に詔して北面招討使とした。詔が下ると、即日軍は道を引き返し、宣務山の陣地を陥落させ、援軍を尭山で破り、邢州を攻撃して陥落させた。累進して検校司徒・同中書門下平章事に遷った。劉稹が平定されると、兼太子太師を加えられ、太原郡公に封ぜられ、食実封二百戸を得て、兼太傅に昇進した。大中八年(854)に死に、年四十三歳であった。太師を追贈され、諡を忠という。
子の
王紹鼎が襲封した。字は嗣先で、検校尚書左僕射に抜擢された。その人となりは淫乱で酒に溺れて自ら放縦で、性格は暴虐で、あつく財物を貯め込み、楼に登って弾弓で道行く人を射て楽しみとしていた。軍はその暴虐さに怒り、追放しようとしていたが、たまたま病死した。司空を追贈された。
子は幼なく物事を行うことができなかったから、
宣宗は
王元逵の次子の
王紹懿を留後として後を継がせ、にわかに節度使とし、太原県伯に封じ、検校司空を加えた。政治は簡易であった。咸通七年(866)に死に、司徒を追贈された。
王紹鼎の子の
王景崇に継がせた。それより以前、王紹懿の病はあつく、王景崇を召し寄せて「先君は政務を私に託したが、お前の成長を待って授けようと思っていた。今病気は非常に重く、お前は幼いとはいえ、勉めて軍務を総べ、近隣の藩鎮に礼をつくし、朝廷を奉れば、家業は失墜しないだろう」と言い、監軍はその様子を奏上したから、
懿宗は喜び、王景崇を抜擢して留後とし、ついで節度使に昇進させた。
王景崇は、字は孟安で、
寿安公主の嫡孫であったから、最も寵遇を蒙った。
龐勛が叛くと、王景崇は兵を派遣して王師と合同して賊を平定し、検校尚書右僕射に昇進した。公主が薨去すると、章恵公主と諡し、王景崇は喪にあること礼の通りであった。母の張氏が卒すると、母の喪で哀悼のあまり憔悴したから、当時の人々はこれを称えた。政務は賓佐に委ね、親族を登用することを戒めたから政務を共にすることがなかった。かつて母の弟を引き立てて牙将としようとしたが、その部下の張位は「軍中で人を用いるのは、功労や能力がある人です。もしその人を私事で引き立てたいのでしたら、厚く田宅や禄を与えるのがよいでしょう。どうして必ず官である必要がありましょうか」と言ったから、王景崇は謝った。同中書門下平章事・検校太尉兼中書令に昇進し、趙国公に封ぜられた。乾符五年(878)、常山王に進封された。
黄巣が叛くと、
帝は西に行き、偽使が詔を持ってやって来たが、王景崇は斬って布告し、そこで兵を発して馳せて諸道に触文し、定州の
王処存と合流して軍を連ねて西は関に入り、
行在の居場所を尋ね、相継いで貢納を輸送した。語るごとに宗廟や園陵の話に及び、たちまち涙を流した。
蔚州刺史の
蘇祐が沙陀に攻撃され、軍を幽州に要請し、美女谷に駐屯したが、兵は不利であった。蘇祐は出奔しようとしたが、たまたま詔があって濮州刺史に遷されたから、兵を擁して任地に向かうこととし、道すがら成徳軍の鎮を通過し、王景崇は霊寿県に宿泊させたが、その部下が勝手に掠奪したから、王景崇は蘇祐を殺した。
節度使を継いでからおよそ十四年、官職を十三遷して検校太傅に至った。中和三年(883)に死に、年三十七歳であった。太傅を追贈され、諡を忠穆という。子に
王鎔がいる。
王鎔は、年十歳で、軍中が衰退して留後とし、朝廷より検校工部尚書を授けられた。
李克用・
楊復光が
黄巣を攻撃すると、王鎔はおおむね再三粟を給付するだけで軍は留めた。
僖宗が蜀から帰還すると、馬・牛・戎・武器を献上することは万を数えた。
ここに
李克用は
孟方立を邢州で攻撃しようとしたが、王鎔は飼料・兵糧を差し戻した。邢州が平定されると、李克用は遂に山東の攻略をはかり、常山の西に駐屯し、軽騎を率いて滹沱河を渡って軍をはかり、大澍で合流すると、平地に水が出て、王鎔の兵が突然やって来たから、李克用は林の中に隠れて免れた。この時、幽州の
李匡威もまた易州・定州を奪取してその地を分割しようと計画した。
王処存は手厚く李克用に仕え、李克用の寵将の
李存孝が邢州を陥落させると、王鎔の南部の村々を掠奪し、別将の
李存信らが井陘に出て合流した。王鎔は尭山に侵入すると、李存孝は攻撃して破り、遂に深州・趙州に到達してしまった。王鎔は救援を李匡威に求めた。李存孝は臨城県などの数県を攻略しようとしたが、李匡威が鄗に駐屯したのを聞いて、軍を引き揚げた。李存信はもとより李存孝を嫌っていたから、みだりに「賊を攻撃する意思がない」と言い、李克用はこれを信じた。李存孝は、飛狐の人で、いわゆる安敬思という者のことである。騎射をよくし、
葛従周を攻撃し、
張濬・
韓建を破り、しばしば優れた功績があった。ここに至って讒言を恐れ、邢州をひっさげて
朱全忠に帰順し、あわせて王鎔と結んで助力となった。天子は詔して
鎮・
幽・
魏の兵を出して救援した。景福元年(892)、李克用は王鎔に領内の通過して李存孝を討伐することを求めたが、王鎔は返答せず、そこで王処存とともに兵を合わせて王鎔を攻撃し、堅城を陥落させて鎮の防備を固め、新市県を攻撃した。王鎔は李克用の将の薛万金を捕虜とした。李匡威は兵三万で王鎔を救援した。李克用は自ら常山を攻撃しようと、滹沱河を渡河した。王鎔は騎兵十万を率いて夜に稾水を渡河し、襲撃してこれを破り、二万もの首級を斬り、甲冑・兵器を車三百乗分も奪い、李克用は退却して欒城に立て籠もった。天子は詔して三鎮と和解させ、李克用は帰還したが、まだ思い通りにならなかったから、そのため再度王鎔を攻撃した。李匡威は五千騎で李克用を元氏県で破り、王鎔は牛酒を備えて李匡威と稾城に会し、金二十万を送って謝礼とした。
にわかに
李匡威が弟の
李匡籌に放逐されると、王鎔は自分を助けたことを徳として、迎えて館に住まわせた。李匡威の親の忌日となると、王鎔も行って弔うこととしたが、伏兵が決起して、その府の部下の楊洽および親吏の淡従を殺し、甲冑を着た者が王鎔の袖を引っ張った。李匡威は、「私に四州を与えれば、死なないだろう」と言ったから、王鎔は与えることを許した。王鎔が節度使の牙城に入ろうとすると、鎮軍が騒いで左門を開き、垣を越えて出て戦いとなった。たまたま暴風雨となり、木は抜けて瓦は飛んだ。兵が互いに接近し、屠殺業者の墨君和が肌脱ぎとなって敵に迫り、軍は四散すると、そこで王鎔を抱きかかえて城に入った。そのため窮地を免れ、千金を賞とし、邸宅は第一区を与え、十死(十度の死刑となるべき懲罰)を許した。李匡威は東園に逃げ、兵でこれを囲み、従事の
李抱貞とともに死んだ。翌日、王鎔は礼によって李匡威を葬り、素服を着て諸廷で慟哭し、使者を派遣して李匡籌に報告した。李匡籌は怒り、書簡を送って兄が死んだ理由を難詰し、天子に上表して王鎔の討伐を願ったが、詔して沙汰止みとなった。また
朱全忠に詔して
幽 ・
鎮への怨みを鎮めさせた。
李克用は
李匡威が死んだのを聞いて、自ら兵を率いて城下を包囲した。王鎔は大いに驚き、縑二十万を納めると退いた。
李匡籌は楽寿県・武強県を攻撃し、李克用は縛馬関に出撃し、鎮州の兵を平山で破り、そこで王鎔の外城に侵攻した。王鎔は幽州の助けを失い、そこで盟を願い、幣五十万を進上し、兵糧二十万を贈り、出兵して
李存孝を討伐するのに助けとなることを願い、そこで解囲できた。
李克用は欒城に駐屯し、
李存信は琉璃陂に駐屯し、
邢人にその軍営を夜襲され、李存信の軍は混乱し、追ったが勝利できなかった。李克用は進撃して邢州に迫り、城を包囲して塹壕を掘り、長いあいだ包囲することを示した。城中の兵はしばしば出撃したが、塹壕のため成功しなかった。裨将の
袁奉韜は
李存孝に偽って「あなたが恐れるのはただ
王だけです。王は塹壕を完成させて西に帰りたいと思っています。あなたはどうしてこれを許さないのですか」と言ったから李存孝の兵は出撃せず、塹壕が完成すると、攻撃はますます激しくなり、城中の食料は尽きた。李存孝は城に登って慟哭して「私は計略を誤った。私は生きて王に会えるなら、死んでも恨まない」と言い、李克用は母親を派遣して招いたから、李存孝は出てきて、自ら罪があることを表明して李存信に誣告されたと言ったが、李克用は、「お前は王鎔に与えた書簡で、私を多く罵っていた」と言い、車裂きの刑に処して死体を市にさらした。
光化年間(898-901)、
朱全忠は幽州の
劉仁恭を討伐し、王鎔は兵を派遣して蓨城に駐屯し、にわかに劉仁恭が敗れると、その帰路を攻撃し、十人中八人を倒した。朱全忠はすでに邢州・洺州・礠州を奪取し、また潞州を得て、そこで河東を版図とした。
羅紹威に王鎔を仄めかさせて太原との交流を絶やさせ、共に朱全忠を尊んだ。王鎔はどっちつかずで、朱全忠は不快であった。たまたま
李克用の将の
李嗣昭は洺州を攻撃し、朱全忠は自ら軍を率いて攻撃して敗走させ、王鎔と李嗣昭との書簡を得て、朱全忠は怒り、軍を率いて王鎔を攻撃し、元氏県に向かった。王鎔はその部下に「国の危機である。どうするか」と尋ね、周式は朱全忠への謁見を、弁舌で止めさせるよう願ったから、これを許した。朱全忠は出迎えて「お前の主君は
太原に従って親しくしているから、今は許さない」と叱りつけ、そこで書簡を出して周式に見せて「李嗣昭がいるなら、ただちに寄越して来い」と言い、周式は「王公が共に和する理由は、人々を戦争の間に休ませるからだけです。ましてや天子の詔を奉って和解するのは、一片の紙を北路に落とすことができるでしょうか。太原は趙とはもとより恩がなく、李嗣昭はどうして趙に入ることをよしとしましょうか。公は唐の桓公・文公となり、まさに仁義をもって霸業をなしとげようとしています。どうして人を人に厳しくして困らせるのでしょうか」と言うと、朱全忠は喜び、周式の袖を持って「私はただふざけただけだ」と言い、招いて帳の中に入れ、修好を議した。王鎔は幣二十万を軍に贈り、子の
王昭祚を人質として朱全忠の幕府に仕えさせ、朱全忠はそこで王昭祚に妻を娶らせた。王鎔の判官の
張沢は謀って「失火の家は、遠くに救援を望むことはできません。今、親しくすべき者を定めるのなら、太原と親しくすべきですが、朱全忠の版図とさせるべきです」と言い、王鎔は周式を朱全忠のもとに派遣し、朱全忠はそこで定州を奪い、
王郜は遂に太原に逃亡した。
王鎔の母の何氏は、婦徳があり、王鎔を厳しく教育した。母が亡くなると、王鎔ははじめて蓄財し、美姫千人を侍らせ、儀礼の服は分不相応であった。また房山に西王母の祠があり、しばしば遊覧し、妄りに不老長寿を求め、一か月たっても帰らなかった。
始め、
王廷湊が卑賤の身であった時、鄴に道士がいて占いをし、「乾之坤」を得て、「君まさに土を有せんとす」とあった。藩鎮となると、道士を迎えて非常に恭しかった。また寿命はどれくらいか、子孫はどれくらいかを尋ねた。「公の三十年後に、まさに二王あらんとす」と答えた。すでに王廷湊が立って十三年で死に、思うに文を隠していたのだろう。
王景崇・
王鎔は皆王氏であった。王廷湊はかつて使者として河陽に到り、酔って道で寝てしまった。その場所を通過する者が見て、「尋常の人ではない」と言い、従者は王廷湊に告げたから、走って追いかけ、その理由を尋ねると、「私は君の鼻の息を見たが、左は龍のようで、右は虎のようであった。子孫は王たること百年になろう。家に大樹があって、堂を覆うようになれば、君は栄えるのだ」と言った。
田弘正を殺害すると、樹は覆うこと寝殿に庇のようになっていた。王廷湊から王鎔まで、およそ百年であった。
賛にいわく、
朱滔・
王武俊は南面して王と称し、地は交々を連ねて昵懇であった。
朱泚が天子の位を僭称すると、朱滔はこれに応じようとしたことは、当時の危機であった。
賈林は一語で王武俊を悟らせ、兵を戦わせてそれぞれが敵となり、幽・薊の精兵を挫き、朱泚はその友を失って、孤城から出られず、ついに皆殺しとなった。賈林の功績を用いたが、賞は身に及ばせなかった。これは
徳宗の不明である。
最終更新:2025年08月26日 00:21