鄭昌図 ていしょうと
?-887
晩唐の官人・偽帝李熅の宰相(在任886)。字は光業。太原節度使の鄭涓の子。咸通十三年(872)に進士に及第し、状元(首席)となる。戸部侍郎、中書舎人、鳳翔節度副使を歴任した。中和元年(881)潞州留後に任じられて赴任したが、現地は
孟方立に心を寄せたから実効支配できなかった。中和二年(882)
黄巣討伐のため
王鐸が諸道行営都統に任じられるとその幕府に入った。兵部侍郎となる。光啓二年(886)
朱玫が
李熅を嗣襄王、監軍国事に擁立すると、朱玫に冊書を命じられた
蕭遘が拒絶したため、代って冊書を作成した。李熅の中書侍郎平章事(宰相)に任じられた。朱玫が殺害されると、李熅・
裴澈とともに東渭橋に逃げたが王重栄に捕縛された。光啓三年(887)蕭遘・裴澈とともに誅殺された。
本紀・表・列伝
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最終更新:2024年09月08日 02:26