嗣襄王李熅 りおん
?-887
晩唐の宗室・偽帝(在位886)。伊吾郡王
李宣の孫。襄王
李僙の曾孫。
粛宗の玄孫。光啓元年(885)宦官
田令孜と河中節度使
王重栄の関係悪化により、
僖宗が田令孜とともに長安を脱出し、李熅も同行したが、病により置き去りにされた。光啓二年(886)田令孜への対抗をもくろむ
朱玫に保護され、同年四月、嗣襄王、権監軍国事となった。長安に入ると、十月、朱玫に擁立されて皇帝となり、年号を建貞と改元した。藩鎮の大半が僖宗ではなく李熅支持にまわり、僖宗を支持して李熅を皇帝と認めなかった藩鎮は、田令孜の兄
陳敬瑄、
李克用、
朱全忠の三人にとどまった。
楊復恭の計略により朱玫は殺害され、庇護者を失って
王重栄に捕らえられて殺害された。首は僖宗のもとに送られ、庶民の礼で葬られた。『旧唐書』『新唐書』に伝がある。
后妃
(不明)
子女
(不明)
年号
建貞 886
宰相
列伝
『新唐書』
巻八十二 列伝第七 十一宗諸子 粛宗諸子 襄王僙 熅
『旧唐書』巻一百七十五 列伝第一百二十五 憲宗至昭宗諸子 嗣襄王熅
外部リンク
最終更新:2024年09月08日 19:29