太廟
長安、皇城に位置した施設。唐朝の祖廟祭祀が行われた。皇城内、
承天門街の東側に位置する太常寺を、安上門街を挟んでさらに東、第七横街の北、
安上門の北西に位置し、東に
中宗廟が位置した。唐の成立した武徳元年(618)に四廟として始められたが、隋の宇文廟の転用で、その前身は前秦の苻堅の時代から使われてきたものともいわれた。貞観九年(635)に六廟となったが、武周革命がおこると、天授二年(691)三月、太廟を享徳廟に改め、四季の祭りは
高祖以下三室のみとし、他の四室は門を閉ざされ、祭祀の礼は廃された。神龍元年(705)唐の復辟とともに太廟の称が復し、七廟となった。開元五年(717)に四室が倒壊、神主を
太極殿に遷し、新たに造営された。開元十年(732)に九廟となったが、天宝十五載(756)に
安禄山の反乱軍に焼き払われ、神主を長安殿に遷した。長慶二年(822)に雷雨のため鴟尾が落ちた。会昌六年(864)に十一廟となり、二十三間、十一架の規模であったという。
僖宗が山南に逃れると、太廟は
黄巣軍に焼き払われたため、少府監の大庁を仮に太廟とした。
史料
『旧唐書』巻二十五 志第五 礼儀五 太廟
参考文献
徐松 撰、愛宕元 訳注『唐両京城坊攷 長安と洛陽(東洋文庫577)』(平凡社、1994年)
丸山茂「古代廟建築についての一考察-唐代の廟形式より想像しうる日本建築への若干の影響について」(『建築史学』4,1985年4月)
最終更新:2025年10月24日 01:49