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巻二十 志第十

唐書巻二十

志第十

礼楽十

凶礼 五服之制 諸臣之喪



【凶礼】
  五を凶礼という。

  『周礼』の五礼の、二を凶礼という。唐初、その篇次を遷して第五としたが、李義府許敬宗が凶事は臣民が議論するのにふさわしくないと考え、遂に「国卹」一篇を取り去り、これによって天子の凶礼は欠如したのである。国に大事があると、いずれも臨時に編纂し、これにあわせて儀礼を行い、大事が終わると、忌んで伝えなかったから、後世は考察することがなかった。開元年間(713-741)になってから礼が制定されると、これらの記述は、天子の水旱の賑卹・遣使しての問疾(お見舞い)、弔問、挙哀(哀悼)・除服(忌明け)・臨喪(葬儀への参列)・冊贈の類は、五服は諸臣の喪葬・衰麻・哭泣のようにし、非常に詳細であった。

  全国での洪水・旱魃・蝗害、天子は持節した使者を派遣してその州に赴かせ、庭に位座し、使者は南面し、持節はその東南に、長官は北面し、寮佐・正長・老人はその背後にあって、再拝し、これによって制書を授けた。

  問疾(お見舞い)もまたこれと同様である。その主人が使者を門外に迎え、使者は東向きとなり、主人は西向きとなり、再拝してから入る。その婦人の病をお見舞いする場合には、お見舞いを受ける者は北向きとなる。

  挙哀(哀悼)の日の場合、別殿を位座とし、文武三品以上は入って庭に哭し、四品以下は門外に哭する。担当官署が「厳粛にしてください」・「外辦(お出ましになる準備は出来ております)」と版奏する。皇帝は服を着替え終わると哭し、その後、百官で内外の位座にある者は全員哭し、十五たび泣き声をあげたのち、哭するのを止めて奉慰する。除服(忌明け)も同様である。皇帝の服は、一品の場合は錫衰(滑らかにした細目の麻布で製した喪服)、三品以上は緦衰(細目の麻布で製した重めの喪服)、四品以下は疑衰(最も軽い弔服)。服期は、三朝(三日間)で夕方には終了する。大功は、一朝(一日)で夕方に終了する。小功以下は、一度の挙哀で終了する。夕方に百官は集まらない。もし蕃国の君長の喪の場合には、城外に幄を設置し、その国の方角に向かって哭し、五たび泣き声をあげたのち、哭するのを止める。

  臨喪(葬儀への参列)の場合、大幄をその門の西に設置し、白絹の布団の榻(いす)を堂上に設置する。皇帝は小駕の鹵簿(行列)で、四望車に乗り、先ぶれの警蹕をし、鼓吹(軍楽)は前もって準備するが演奏しない。皇帝は大幄にやってくると、素服に着替え、従官も全員服を着替えるが、侍臣はそうしない。皇帝が幄を出ると、喪主が絰(喪に帯びる麻の帯)を脱ぎ、杖を置いて、門外に哭するが、乗輿を望見すると、哭を止めて再拝し、先に門の右に入って、西向きとなる。皇帝が堂に到着すると、東の階段から登り、そこで神位(位牌)に哭する。巫・祝それぞれ一人が先に登り、巫が桃を持って東南に立ち、祝が葦の花を持って西南に立ち、戈を持つ者四人は前後に従って登る。喪主は庭に入って再拝し、勅して引き連れて登り、戸内の東に立って、西向きとなる。皇帝が出ると、喪主は門外で拝送する。皇帝は服を幄で着替え、廬に帰る。文官・武官は常服である。皇帝は車に登り、鼓吹は演奏せずに入る。

  勅使を用いて冊贈(追冊・追贈)する場合、朝堂で冊を受け、荷車に乗せ、鹵簿(行列)を準備し、邸宅に到着する。妃・公主は内侍を使者とし、追贈の場合は蝋印を用いて綬の紐を封印する。冊贈は必ず葬と同時にしなければならず、すでに葬していた場合は霊寝にて受諾し、すでに服喪が明けていた場合は廟で受諾する。主人は公服で哭さず、あるいは単衣に介幘とする。受諾すれば必ず祭礼を行い、廟に列していなければ、寝にて受諾する。


【五服之制】
  五服の制度。

  斬衰(最も重い三年の時の喪)は三年。正服は、子は父のために、未婚の娘で家にいる者と、嫁いだ後に実家に戻ってきた者が父のためにする。加服は、嫡孫が後嗣となって祖父のために、父が長子のためにする。義服は、人のために後嗣となった者がその後嗣先の父のために、妻が夫のために、妾が君のために、国官が君主のためにする。王公以下は三ヶ月で葬り、葬ってから虞祭(埋葬後の家での祭り)し、三虞祭してから哭し終わる。十三か月で小祥、二十五か月で大祥、二十七か月で禫祭する。

  斉衰三年。正服は、子が父の存命中に母の為にする。加服は、祖父の後嗣となった者、祖父が卒してから祖母の為に、母が長子の為にする。義服は、継母・慈母(養母)の為に、継母が長子の為に、妾が君の長子の為にする。

  斉衰杖周(斉衰の服喪期間が一年で杖をつく)。降服は、父が卒して再婚した母、もしくは離婚した妻の子が母のために、報いて、服喪することはまた同様である。正服は、為祖父の後嗣の者の為に、祖父が健在である時の祖母の為にする。義服は、父が卒して、継母が再婚し、継母に従った場合、継母のために報いて服喪し、また夫が妻の為にする。

  斉衰不杖周(斉衰の服喪期間が一年で杖をつかない)。正服は、祖父母の為に、伯叔父の為に、兄弟の為に、衆子(庶子)の為に、兄弟の子および娘で未婚と既婚の者、嫡孫の為、姑、および未婚の姉妹で、報いて服喪するのは、娘が結婚した者が祖父母の為に、妾がその子の為にする。加服は、娘で結婚した者が兄弟で父の後嗣となった者の為にする。降服は、妾がその父母の為に、人の後嗣となった者がその父母の為にし、報いて服喪するのは、娘で結婚した者がその父母の為にする。義服は、伯叔母の為に、継父で同居している者の為に、妾が嫡妻の為に、妾が君の庶子の為に、婦が舅(母の兄弟)・姑の為に、夫の兄弟の子の為に、舅・姑は嫡婦の為にする。

  斉衰五か月。正服は、曾祖父母の為にし、娘が未婚および結婚した者もまた同様である。

  斉衰三か月。正服は、高祖父母の為にし、娘で未婚および結婚している者もまた同様である。義服は、継父で同居していない者の為にする。

  その父が卒して母が再婚した場合、離婚した妻の子が母の為に、および祖父の後嗣の為、祖父が健在中の場合の祖母の為の場合、周忌あけであっても、心喪三年とする。

  大功(喪服の一。粗い織り目の麻布で作り、九か月の喪に用いた)、長殤(十六歳から十九歳に至るまでの夭折者)は九か月、中殤(十二歳より十五歳に至るまでの夭折者)は七か月である。正服は、子・娘の長殤・中殤の為に、叔父の長殤・中殤の為に、姑・姉妹の長殤・中殤の為に、兄弟の長殤・中殤の為に、嫡孫の長殤・中殤の為に、兄弟の子・娘の子の長殤・中殤の為にする。義服は、夫の兄弟の子・娘の長殤・中殤の為にする。成人が行う九か月の正服は、従兄弟の為に、庶孫の為にする。降服は、娘の夫の為に、姑・姉妹の夫の為に服喪し、家から出た母が娘の夫の為に、兄弟の娘の夫のために服喪し、人の後嗣となった者がその兄弟と姑・姉妹で未婚の者の為に服喪する。義服は、夫の祖父母と伯叔父母の服喪の為に、夫の兄弟の娘で既婚の者の服喪の為に、夫が人の後嗣となった者が、その妻が生存中の舅(母の兄弟)・姑の為に、衆子(庶子)の夫人の為にする。

  小功(喪服の一つ。細やかな地質の麻の布でつくり、五か月の喪に用いた)五か月。殤(未成年者に対する服喪)の正服は、子・娘の下殤(八歳より十一歳に至るまでの夭折者)の為に、叔父の下殤の為に、姑・姉妹の下殤の為に、兄弟の下殤の為に、嫡孫の下殤の為に、兄弟の子・娘の下殤の為に、従兄弟姉妹の長殤(十六歳から十九歳に至るまでの夭折者)の為に、庶孫の長殤の為にする。降服は、人の後嗣となった者がその兄弟の長殤の為に、結婚した姑が姪の長殤の為に、人の後嗣となった者がその姑・姉妹の長殤の為にする。義服は、夫の兄弟の子・娘の下殤の為に、夫の叔父の長殤の為にする。成人の正服は、従祖祖父の服喪の為に、従祖父の服喪の為に、従祖の姑・姉妹で家にいる者の服喪の為に、従祖の兄弟の服喪の為に、従祖祖の姑で家にいる者の服喪の為に、外祖父母の為に、舅(母の兄弟)および従母の服喪の為にする。降服は、従父の姉妹で嫁いだ者の服喪の為に、孫娘で嫁いだ者の為に、人の後嗣となった者がその姑・姉妹で嫁いだ者の服喪の為にした。義服は、従祖祖母(父の叔母)の服喪の為に、従祖母の服喪の為に、夫の姑・姉妹で家にいる者および嫁いだ者の服喪の為に、夫の兄弟の妻の服喪の為に、同母異父の兄弟姉妹の服喪の為に、嫡母の父母兄弟従母の為に、庶母で自分を育てた者の為に、嫡孫の夫人の為に、母が離婚して家に入った継母の父母兄弟従母の為に、義姉義弟の服喪の為にする。

  緦麻(高祖父母、妻の父母などのためする三か月の最も軽い喪)三か月。殤(未成年者に対する服喪)の正服は、従兄弟姉妹の中殤(十二歳より十五歳に至るまでの夭折者)・下殤(八歳より十一歳に至るまでの夭折者)の為に、庶孫の中殤・下殤の為に、従祖叔父の長殤(十六歳から十九歳に至るまでの夭折者)の為に、従祖の兄弟の長殤の為に、舅(母の兄弟)および従母の長殤の為に、従父兄弟の子の長殤の為に、兄弟の孫の長殤の為に、従祖の姑・姉妹の長殤の為にする。降服は、人の後嗣となった者がその兄弟の中殤・下殤の為に、甥の中殤・下殤の為に、結婚した姑の服喪の為に、人の後嗣となった者がその姑・姉妹の中殤・下殤の為にする。義服は、人の後嗣となった者が従父兄弟の長殤の為に、夫の叔父の中殤・下殤の為に、夫の姑・姉妹の長殤の為にする。成人の正服は、族兄弟の為に、族曾祖父の服喪の為に、族祖父の服喪の為に、族父の服喪の為に、外孫の為に、曾孫・玄孫の為に、従母兄弟姉妹の為に、姑の子の為に、舅(母の兄弟)の子の為に、族曾祖の姑で家にいる者の服喪の為に、族祖の姑で家にいる者の服喪の為に、族姑で家にいる者の服喪の為にする。降服は、従祖姑・姉妹の結婚した者の服喪の為に、娘で結婚した者が従祖父の服喪の為に、庶子で父の後嗣となった者がその母の為に、従祖の姑の結婚した者の服喪の為に、人の後嗣となった者が外祖父母の為に、兄弟の孫娘で結婚した者の服喪の為にする。義服は、族曾祖母の服喪の為に、族祖母の服喪の為に、族母の服喪の為に、庶孫の夫人の為に、娘で結婚した者が従祖伯叔母の為に、庶母の為に、乳母の為に、婿の為に、妻の父母の為に、夫の曾祖高祖父母の為に、夫の従祖祖父母の服喪の為に、夫の従祖父母の服喪の為に、夫の外祖父母の服喪の為に、従祖兄弟の子の為に、夫の従父兄弟の妻の為に、夫の従父姉妹で家にいる者および結婚した者の為に、夫の舅(母の兄弟)および従母の服喪の為にする。改葬は、子が父母の為に、妻妾がその夫の為にし、その冠・服・杖・履物はすべて『儀礼』による。皇族で断絶して傍親が服喪する者がいなかった場合、皇弟・皇子は彼らのために全員一等を降した礼を服する。

  当初、太宗はかつて、同じ家庭内で暮らす場合に義理の親族であっても緦哀を着るのに、兄嫁や夫の弟の場合は服喪せず、舅(母の兄弟)と従母親らは服喪規定が異なっていることについて、侍中の魏徴・礼部侍郎の令狐徳棻らに詔して議論させ、以下のように報告された。「舅(母の兄弟)は母の本族ですが、姨(母の姉妹)は他家に嫁いで異姓となるから、舅は真に重い意味があり、服喪を時代によって止め、姨の喪を五か月で止めるのは、古人の目が行き届かなったものでしょう。ですから曾祖父・曾祖母に対する服喪は、従来は斉衰三か月でしたが、増やして斉衰五か月となされますように。子と結婚した夫人は大功(喪服の一。粗い織り目の麻布で作り、九か月の喪に用いた)でしたが、一年に増やしてくださりますように。衆子(庶子)の夫人は小功(喪服の一つ。細やかな地質の麻の布でつくり、五か月の喪に用いた)でしたが、増やして大功となされますように。兄嫁や夫の弟は小功五月によって服喪なされますように。弟の妻および夫の兄に対する服喪を小功となされますように。舅(母の兄弟)に対する服喪は緦麻(三か月の喪)でしたが、従母(母の姉妹)と同様に小功に増やされるようお願いいたします。」 しかし律疏では舅が甥のために緦麻を服す、とあった。顕慶年間(656-661)、長孫无忌が甥・舅の為の服喪は従母と同様であるから、舅の為の服喪を昇格して従母の服喪と同様にした。また古代には庶母の場合は緦麻であったが、現在は服喪規定がなく、また庶母の子、昆弟もまた、杖斉(斉衰の服喪期間が一年で杖をつく)としていたが、これは同じ母親から生まれた兄弟姉妹であっても吉凶はそれぞれ異にしているから、これより同じく緦麻の服喪に改められた。上元元年(674)武后が、「父が存命中の場合、母への服喪は三年」とするよう願い出た。開元五年(717)、右補闕の盧履冰が「『礼』に、「父が存命中の場合、母への服喪を期(一年の喪)とする(『礼記』喪服四制)」とありますから、三年の服喪は正しくありません。もと通りに戻されますように」と申し上げた。そこで詔して、舅(母の兄弟)および兄嫁・叔(父の弟)への服喪も同時に議論させたが、長いこと結論に至らなかった。開元二十年(732)、中書令の蕭嵩らが五礼を改修し、ここに父が存命中の場合は母への服喪は斉衰三年となった。


【諸臣之喪】
  諸臣の喪。

  病気のため危篤になると、正寝にて物忌みし、病人を北窓の下に東枕で寝かせる。病気がさらに重くなると、来ていた衣を脱がせて、新たな衣を着せ、音楽を止め、内外を清掃する。その際には四人が座ってそれぞれの手足を持ち、遺言あれば書かせて、真綿を口鼻に近づけて絶息をうかがう。絶息すると、地に寝かせる。男子は白布を着て、髪はざんばらで裸足となり、婦人・女子は青い縑(かとり)を着て、首飾りを取り外し、斉衰以下は、男性は白冠とする。主人は寝床の東に座り、何度も泣き踊る。衆主人(死者の庶子で斬衰に服すべき主人の庶兄弟)はその背後にあって、兄弟の子以下も同じくその背後にいて、全員西向きで南を班位の上とし、哭泣する。妻は寝床の西に座り、妾および娘はその背後にあって、何度も泣き踊る。兄弟の娘以下も同じくその背後におり、全員東向きで南を班位の上とし、藳を敷いて座って哭泣する。内外の境目は、行帷を用いて隔てる。祖父以下は帷を東北の壁の下に設置し、南向きとして西を班位の上とする。祖母以下は帷を西北の壁に設置し、南向きで東を班位の上とする。婚姻関係にある他姓の男性は戸の外の東にて、北向きで西を班位の上とする。婦人は主婦の西北にて、南向きで東を班位の上とする。凡そ内喪(死者と同姓の親類の喪)の場合は、優れた行いの男子および婚姻関係にある他姓の男性の席位を前堂にし、戸の外の左右になるようにし、共に南向きとなる。宗親の戸は東とし、西を班位の上とする。女系親族は戸の西にし、東を班位の上とする。葬礼になると、全員、着ける喪服の地の精粗によって身分の程度をあらわし、国官の位座を門内の東にし、二列に並んで北向きで西を班位の上とし、共に斜めの布で髪を束ね、帕頭(頭巾)を被り、薦を広げて座る。僚属の位座を門内の西にし、二列に並んで北向きで東を班位の上とし、素服で、全員席を広げて座り、哭泣する。斬衰(最も重い三年の時の喪)では三日食さず、斉衰では二日食さず、大功では三度食さず、小功・緦麻では二度食さない。

  正寝で招魂する。招魂する者は三人で、死者の上等の服の左の肩に担い、東の軒から屋根に登り、棟の上に立ち、北向きで西を班位の上とする。左の者は襟を、右の者は腰を、招魂する者は左を持つ。招魂するたびに、長い声で、「某よ、戻ってこい」と叫び、三度呼んで止め、衣を前に投げ、下にいる者が篋(はこ)で受け取り、東の階段から登り、入って遺体に着せる。

  床を部屋の戸の内の西に設置し、脚・簟(あしむしろ)・枕を撤去し、幄を設置し、裙を取り去る。遺体を寝床に移し、首を南に向け、掛布団で覆いながら、着ていた死に装束を脱がせ、口を開いて歯を角匙で支えて物を含ませ、両足は脇息に当てがって縛り、枷を南にする。この場合、内外の哭する者の位座は死んだ時の儀礼と同様である。

  お供えは干し肉・塩辛を用い、酒は吉礼の器具を用いる。東の階段から登り、遺体の東の肩骨のあたりでお供えする。内喪(死者と同姓の親類の喪)の場合、賛者はいずれも戸外にて受けて設置する。

  沐浴。穴を階段の間に掘り、少し西に南に掘っていき、広さ一尺(約23cm)、長さ二尺(約46cm)、深さ三尺(約69cm)で、掘った土は南に置く。土竈を西牆の下につくり、東向きとし、湯が煮えるのを待つ。新盆・瓶・六鬲をすべて洗い、西の階段の下に陳列する。髪を拭う沐巾一枚、身体を湯浴みする浴巾二枚、細いまたは荒い葛布を用い、籠に満たし、櫛を箱もしくは簟(あしむしろ)に満たし、浴衣を篋(はこ)に満たし、いずれも西序(正房の西の牆)の下に準備し、南を班位の上とする。水で稷・米をとぎ、汁を取って煮て、また汲んで湯で沐浴を待つ。盆にとぎ汁を盛って盤を洗い、西の階段から登り、授沐者・沐者はとぎ汁および盤を取って入る。主人は皆戸の東から出て、北向きで西を班位の上とし、主婦以下は戸の西に、北向きで東を班位の上とする。一緒に立って哭泣する。優れた行いの者、男子は主人の東に、北向きで西を班位の上とし、婦人は主婦の西に、北向きで東を班位の上とする。一緒に座って哭泣する。婦人は帳を用いる。髪を洗って櫛を削り、髪を束ねるのに紐を用い、拭うのに巾を用いる。湯浴みでは四人が掛布団を挙げ、二人が湯を使わせ、洗うには巾を用い、拭うのに浴衣を用いる。寝床を遺体の東に設置し、衽(しとね)は莞(いむしろ)を下にし簟(あしむしろ)を上にする。浴者は遺体をあげ、寝床を変え、枕を置き、もみあげや爪を切ることは生前と同様にし、小さな袋の中に入れ、大斂(納棺)の際に棺の中に入れる。口を開いて物を入れた際に歯を支えた匙や浴巾は、すべて穴に埋納する。衣は明衣裳を用い、四角形の布で顔を覆い、大斂(納棺)の死に装束を用いて覆う。部屋の内・外にいる者は入って位座につき、哭泣する。

  襲(上下重ねの衣服)。襲衣は三称(かさね)で、襟を西にし、南を班位の上とし、明衣裳、舄(くつ)は一足で、帛巾は一、一尺八寸(約41cm)四方で、耳当ては白い綿を用い、顔を覆う面衣は、黒色で一尺(約23cm)四方、裏は赤橙色で、組糸の紐がついて、手を包む握手は、表が黒で薄赤の裏とし、長さは一尺二寸(約28cm)、幅五寸(約12cm)、中央を削ること両脇から一寸(約2.3cm)ずつ、綿を用いて組糸の紐がつく。庶襚(親者および庶兄弟・朋友が死者に送る衣類)は三称に次いで並べるが、用いない。襲を行う前に、寝床・席を西の階段の西に準備し、部屋の内も外も全員出て哭泣することは、浴と同様である。襲を行う者は寝床に登り、入って遺体の東に設置し、枕席を並べ、襲を席に陳列する。祝(儀礼の主催者)は巾を撤去し、面衣を加え、耳当て・握手を設置し、舄(くつ)を納めることは履(くつ)と同様である。襲が終わると、大斂(納棺)の衾(死装束)で覆い、部屋の内外の者は入って哭泣する。

  唅(死者の口に含ませる玉)。賛者は盤の水および竹籠を捧げて、一品から三品までは、飯は粱(おおあわ)を用い、唅は璧を用いる。四品から五品までは、飯は稷(きび)を用い、唅は碧を用いる。六品から九品までは、飯は粱を用い、唅は貝を用いる。堂に戻り、唅を行う者は手を戸外で洗い、粱・璧を洗って竹籠に満たし、持って入り、祝は従って入り、北向きとなり、枕と衾を撤去し、竹籠を受け取り、遺体の東にお供えする。唅を行う者は寝床の東に座り、西向きとなり、巾の口の部分を切って、飯・唅を遺体の口に納める。唅が終わると、主人はもとの位座に戻る。

  明旌(銘の旗)をつくり、赤色で広さは幅であり、一品から三品までは、長さ九尺(約207cm)、旗竿を袋に入れ、銘は「某官封の柩」とし、西の階段の上に設置する。四品から五品までは、長さ八尺(約184cm)、六品から九品までは、長さ六尺(約138cm)である。

  木を削って重(仮の魂寄)をつくり、一品から三品まで、長さ八尺(約184cm)、横幅はその半分で、その位置は庭の南北を三分してその一つだけ南のところにある。四品から五品まで、長さ七尺(約161cm)、六品から九品までは、長さ六尺(約138cm)である。米を研いで粥をつくり、鬲(三本足を持つ煮沸用の器)に満たし、荒布で蓋をし、竹の表皮の青いところでつなぎ、木でつくった重(仮の魂寄)をかけた。葦の筵を用いて重(仮の魂寄)と鬲を覆って、北向きとなり、両端を屈して後に交え、西端を班位の上とし、竹の表皮の青いところで綴る。祝は銘を取って重のところに立てかけて置き、堂前の柱の下で殯し、葦の筵で挟む。

  小斂の衣は十九称(かさね)、朝服は一、笏は一で、東序(正房の東の牆)に並べ、襟を西にし、北を班位の上とする。

  お供えを東堂の下に設置し、甒(とっくり)は二で、醴(さけ)・酒で満たし、觶(青銅製の小型の三升入飲料器)が二、角柶(さじ)一、少牢・干し肉が三で、籩(高坏)・豆(高坏形の青銅盛器)・俎がそれぞれ八である。手洗い盆をお供え物の東に設置し、布巾を置く。賛者は干し肉・塩辛を退け、遺体の寝床の西南にお供えする。

  斂。寝床を堂の西に設置し、手洗い盆を西の階段の西に設置することは、東方と同様である。斂者は手洗いし、服を持つ者は斂衣を持って入り、喪者は東西いずれもやや退き、内も外も哭泣する。斂し終わると、夷衾(棺にかぶせる布)で覆い、寝床を堂の上の両柱の間に設置し、衽(しとね)は莞(いむしろ)を下にし簟(あしむしろ)を上にし、枕がある。斂が終わると、帷が開き、主人以下は西向きでよりかかって哭泣し、主婦以下は東向きでよりかかって哭泣し、退いた。

  斂髪(髪の手入れ)をしてお供えする。賛者は手を洗ってお供え物を捧げて階段にやってきて、登り、遺体の東に設置し、醴(さけ)・酒をお供え物の南にお供えし、西を班位の上とし、俎は祝が巾を受け取って覆う。お供えする者は襲(上下重ねの衣服)を撤饌し、お供えし、西の階段から降りて出る。帷を下りると、内外の者は共に座して哭泣する。国官・幕僚は、官人が代わりに哭泣し、いない場合、故人との親しい関係に応じて行った。夜になると庭にかがり火を焚き、明るくなるとかがり火を消した。

  大斂。衣は三十称(かさね)で、上服は一称(かさね)、冕は簪・導・纓があり、内喪(死者と同姓の親類の喪)では花釵、衾が一で、西に襟を向け、南を班位の上とする。

  お供えを設置することは小斂と同様であるが、甒(とっくり)には柄杓を加え、篚(竹籠)は東南にあり、籩(高坏)・豆(高坏形の青銅盛器)・俎はいずれも冪(白布)があり、目の細かい布を用いる。

  棺が入ると、内外の者は全員哭泣を止め、棺を殯の所にあげ、そこで哭泣する。八つの篚(竹籠)の中身を煎るが、黍・稷・粱・稲がそれぞれ二つで、いずれも魚・干し肉を加える。燭を手に取る者がお供えの東で待機し、手洗い盆を東階段の東南に設置する。祝が手洗いし終わるとい、東の階段から登り、布を撤去し、巾を持つ者は東階段の下で待機する。祝の手洗いすると、賛者は小斂のお供えを撤饌し、西の階段から降り、序(正房の牆)の西南に設置し、西の雨樋にあたり、堂を上に設置する。そこで東階段の下の新饌所に行き、帷堂・内外の者はやや退き、立って哭泣する。御者の斂は、加冠することは花釵のようにし、衾で覆う。帷を開き、喪の者は東西に哭泣することは小斂と同様で、親族たちも哭泣する。斂する者は四人で寝床をあげ、男女が従い、遺体を棺に納棺し、そこで覆いを加え、夷衾(棺にかぶせる布)で覆い、内外の者は全員位座に戻ることは最初と同様である。穀を煎る準備をし、頭と足にそれぞれ一篚(竹籠)、傍らにそれぞれ三篚で、木で棺の上を覆い、そこでこれを塗り、幕を殯の上に設置し、祝は銘を持って殯に置く。

  お供えする。巾・ひじかけ・席を持つ者は東の階段から登り、入って部屋の西南の隅に設置し、東向きとなる。またひじかけ・巾が加えられた後、賛者はお供えを持って登り、部屋に入り、西向きで、席の前に設置する。祝は巾を俎に加え、お供えする者は西の階段から降りて退出する。帷を下ろし、内外の者は全員位座について哭泣する。

  殯し終わると、霊座を平日用いる供養である燕養を行う下室の西の間に設置し、東向きとし、寝床・ひじかけ・机・屏・帳・服飾を設置し、時候の御馳走および湯沐を捧げることは平生と同様である。殷奠(毎月朔望の供物)の日、下室では改めて朝夕の食をおくることはしない。

  廬(喪の際に用いる質素な仮小屋や庵)は殯堂の東廊の下にあり、やや南で、毛布替わりの苫と枕替わりの土くれを用意する。斉衰はその南で、堊室(荒壁のままで上塗りをせず、飾り気のない室)をつくり、共に北に戸をつき、切った蒲を席とし、縁付は用いない。大功もまたその南で、帷を張り、席には蒲を用いる。小功・緦麻も同じく、寝床を設置し、蒲を用いて席とした。婦人は西房で待機する。

  三日成服(喪服を完全に整える)、内外の者は全員哭泣し、ひどく悲しむ。降りて次室(喪屋)に入り、服喪規定の喪服を着用し、服喪の規定がない者はそのため素服となる。相者(介添人)は主人以下を引き連れて共に杖ついて登り、殯に立ち、内外の者は全員哭泣する。子孫たちは跪いて尊者の前で哭泣し、祖父は子孫を撫で、娘は対となって立って哭泣し、ただ父たちは撫でなき。尊者が出て、主人以下が降りて東の階段に立つ。

  朔望殷奠(毎月朔望の供物)は、東堂の下にお供えし、瓦甒(とっくり)二つに、醴(さけ)および酒を満たし、角觶(青銅製の小型の三升入飲料器)二つ、木製の柶(さじ)、少牢および干し肉を三つの俎、二つの簋(脚付きの青銅蓋物)・二つの簠(穀物を盛る方形の祭食器)・二つの鈃(酒の器皿)、六つの籩(高坏)・六つの豆(高坏形の青銅盛器)に盛り付ける。その日、平日用いる供養である燕養を行う下室では改めて朝夕の食をおくることはしない。

  葬の時期を決める。その一日前の夜、葦の障を撤去し、賓の次(並ぶ場所を示す印)を大門の外の右に設置し、南向きとする。殯をお開きにした日、主人と子供たちは全員冠をはずし、斜めの布で髪を束ね、帕頭(頭巾)を被り、位座について哭泣する。祝は衰衣を着用し荒布を持ち、東の階段から登り、殯の南に到着すると、北向きとなり、内外の者は哭泣を止め、三度「ああ」と感嘆の声をあげ、そこで「謹んで吉日を選んで殯をお開きにします」と言い、報告が終わると、内外の者は哭泣する。祝は銘を取って重(仮の魂寄)のところに立てかけて置く。掌事者(臨時に事務処理を行う責任者)は登り、殯への道を撤去し、席を柩の東に設置し、柩を席に登らせる。また席を柩の東に設置し、祝は荒布を持って登り、柩を拭い、夷衾(棺にかぶせる布)で覆い、周囲に帷を設置し、戸を開いて東向きにする。主人以下は登り、帷の東で哭泣し、西向きとなり、共に南を班位の上とする。祖父たち以下は帷の東北の壁の下で哭泣し、祖母たち以下は帷の西北の壁の下で哭泣し、婚姻関係にある他姓の男性は帷で東を班位の上とし、婦人の帷は西を班位の上とする。祝はお供えを捧げる者と共にそれぞれお供えを持って登り、柩の東の席の上に設置し、祝は醴(さけ)を酌んでお供えする。

  祭器を並べる。殯をお開きにした日の夜、墓地に向かって出発する五刻(1時間15分)前、一回鼓をたたいて一度目の厳粛体制にし、吉凶の儀仗を敷き並べ、方相氏・誌石(墓碑銘)・大棺の車および副葬品以下を、柩車の前に並べる。一品は引く綱は四本、披(柩車の左右から出た進行方向を補助する紐)が六本・鐸(鐘)は左右にそれぞれ八つ、黼翣(葬列に柩車にそって人が掲げ持つ斧を描いた旗印)二本、黻翣(弓模様の旗印)二・画翣(雲気を描いた旗印)二本である。二品・三品は、引く綱が二本、披が四本、鐸は左右それぞれ六つ、黼翣二本、画翣二本である。四品・五品は、引く綱が二本、披が二本、鐸は左右それぞれ四つ、黼翣二本、画翣二本である。六品から九品までは披が二本、鐸二つ、画翣二本である。

  二刻(日の出30分後)頃、二度鼓をたたいて二度目の厳粛体制にし、お供えを持つ者は啓奠(出棺に先立ち、殯を開き柩を現す儀礼)を撤去して出て、内外の者は共に立って哭泣する。紼(ふつ。柩の引綱)を持つ者は全員入り、掌事者(臨時に事務処理を行う責任者)は帷を撤去し、翣(旗)を持つ者は登り、翣を用いて柩を覆い隠す。紼(柩の引綱)を持つ者は登り、鐸(鐘)を持つ者は西の階段をはさんで立ち、纛(はた)を持つ者は入り、西の階段の南にあたって、北向きに立つ。掌事者は重(仮の魂寄)を取って出て、門外の東に座る。旌(はた)を持つ者は纛の南に立ち、北向きとなる。三度鼓をたたいて三度目の厳粛体制にし、霊車は内門の外を進み、南向きとなり、祝は腰輿を用いて霊座の前に詣でて、西向きに跪いて報告する。腰輿は西の階段から降り、霊車に詣でる。腰輿は退く。

  鐸(鐘)を持つ者は鐸を振り、降りて階段の間につき、南向きとなる。翣(はた)を持つ者は翣を障として覆い隠す。纛(はた)を持つ者は前後に行って引き連れ、輴(霊柩車)は止まって北向きに立ち、旌(はた)を持つ者も同じく進んで南に行き、輴は止まって、北向きとなる。主人以下は順序によって従う。

  輴(ちゅん。霊柩車)は庭にある。輴は庭に到着すると、主人および子ら以下は立って輴の東北で哭泣し、西向きで南を班位の上とする。祖父以下は立って輴の東北で哭泣し、南向きで西を班位の上とする。異姓の男性は立って主人の東南で哭泣し、西向きで北を班位の上とする。婦人は順序によって従って降り、妻・妾・娘以下は立って輴の西で哭泣し、東向きで南を班位の上とする。祖母以下は立って輴の西北で哭泣し、南向きで東を班位の上とする。異姓の婦人は立って主婦の西南で哭泣し、東向きで北を班位の上とする。内外の者との境界は、障を用いて行帷とする。国官は立って紼(柩の引綱)を持つ者の東で哭泣し、北向きで西を班位の上とする。僚佐は立って紼を持つ者の西南で、北向きで東を班位の上とする。祝はお供えを持つ者を率いて祖奠(おくりのそなえもの)を輴の東に設置することは、大斂と同様である。祝は酌奠(酌んで供えた醴)してお供えをたてまつり、北向きに跪いて、「永遠の旅立ちの儀礼によって、霊魂は長居することはありません。謹んで霊柩車をまわさせていただき、先祖の慣習に従い、供物を献上いたします」と言う。

  輴(霊柩車)が出発すると、車に乗り、披(柩車の左右から出た進行方向を補助する紐)を持つ者は前後の披を持ち、紼(柩の引綱)を持つ者は引いて輴を出発させ、旌(はた)が先導し、纛はその次、主人以下は従って輴の後ろで哭泣する。輴が出発すると、輀車(柩車)が到着し、紼(柩の引綱)を持つ者は解散して輀車につき、帷障を輴の後方に設置し、遂に柩に乗る。祝はお供えを持つ者と共にお供えを柩の東に設置することは、祖奠(おくりのそなえもの)と同様である。

  お供えし終わると、掌事者(臨時に事務処理を行う責任者)が蒲・葦で犠牲の下半身の節を包むこと五つで、縄で束ね、盤に盛り、輿の前に載せる。方相氏・大棺車・輴車(霊柩車)、明器(副葬品)の輿・下帳の輿・米の輿・酒や干し肉や塩辛の輿・犠牲を包んだ輿・食物の輿を六輿とし、銘旌(はた)・纛(はた)・鐸(かね)・輀車は順番に進む。

  賓に贈(賵。主君が亡くなった臣下に賜った葬儀用の車と馬)を扱う者がおり、祖奠(おくりのそなえもの)が終わると、賓は大門の外の西の廂に立ち、東向きとなり、従者は篚(竹籠)を持って黒と薄赤をたてまつって西南に立ち、馬を賓の東南に並べ、北を頭として西を班位の上とする。相者(介添人)は入り、命を受けて出て、西向きとなって、「お招きしてください」と言う。賓は「某は賵の礼を行います」と言うと、相者は入って告げ、出て、「孤の某は使者をお待ちします」と言い、篚を持つ者はお供えし、幣を取って賓に授ける。馬を牽く者は先に入り、輴車(霊柩車)を南に並べ、北を頭にして西を班位の上とする。賓が入ると、馬の西にによって輴車の南にしようとし、北向きに立ち、内外が哭泣を止める。賓が「某の諡・封号は某の位の通りで、幽宅に帰ろうとしていますから、賵の礼を行います」と言い、そこで哭泣すると、内外の者は全員哭泣する。主人は拝して地に頭をつける。賓は輴(霊柩車)の東に進み出て、西向きとなり、幣を車の上にお供えし、西から出て、主人は拝して地に頭をつけて見送る。

  葬列は墓所に到着すると柩をおろす。輴車(霊柩車)を柩車の後方に進め、帷を張り、柩を輴におろす。男性は西にあって、柩に寄りかかって哭泣する。身分が低い者は拝礼し、主人以下の婦人は全員行帷を障壁とし、羨道の西で哭泣し、東向きで北を班位の上とする。

  墓に入れる。施行は席を墓穴の戸の内の西にし、紼(柩の引綱)を持つ者は紼を輴(霊柩車)につけ、遂に柩を墓穴の戸の内の席の上におろし、北を頭とし、夷衾(棺にかぶせる布)で覆う。

  輴(霊柩車)が退出すると、翣(はた)を持って入り、翣を墓穴内の両廂によりかけ、遂に帳を柩の東に張り、南向きとなる。米・酒・干し肉を東北にし、食盤を前方に設置し、肉汁・塩辛を盤の南に置き、犠牲の包みを四隅に置き、明器(副葬品)を右に設置する。

  墓穴。掌事者(臨時に事務処理を行う責任者)は黒と薄赤を持って主人に授け、主人は祝に授け、奉って入り、霊座にお供えし、主人は拝して地に頭をつける。銘旌・誌石(墓碑銘)を墓穴の門の内に施し、戸を覆い、鍵をつけ、土を被せること三度する。主人以下は拝して地に頭をつけて哭泣し、退き、共に霊座について哭泣する。儀礼を掌る者は后土を墓の左に祭る。

  反哭(墓所から帰って祖廟で哭する)。柩を墓穴におろし終わった後、一度鼓をたたいて一度目の厳粛体制にし、戸を覆う。二度鼓をたたいて二度目の厳粛体制にし、内外の者が霊所につく。三度鼓をたたいて三度目の厳粛体制にし、酒・干し肉の捧げものを撤去し、霊車を帷外に追いやり、儀仗を敷き並べることは従来の儀の通りである。腰輿が入ると、しばらくして出て、霊車の後方に到着する。霊車が出棺し、内外の者は哭泣することは来儀の通りである。墓門を出て、尊者は乗り、墓から百歩、身分が低い者は乗って哭泣する。霊車が邸宅の西の階段の下に到着すると、南向きとなる。祝は腰輿で霊車の後方に到着する。しばらくして、登り、入って霊座の前に詣でる。主人以下は従って登り、霊座の東に立ち、西向きで南を班位の上とする。内外の者が共に登る。祖父たち以下は帷の東北の壁の下で哭泣し、南向きとなる。妻および娘以下の婦人は霊の西で哭泣し、東向きとなる。祖母たち以下は帷の西の北壁の下で哭泣し、南向きとなる。婚姻関係にある他姓の者は南の廂にて哭泣し、男性は帷の東で、婦人は帷の西で、いずれも北向きとなる。弔者は堂上で哭泣し、西向きとなる。主人以下は出て次(並ぶ場所を示す印)につき、沐浴して虞を待ち、斬衰(最も重い三年の時の喪)の者は沐しても櫛でとかない。

  虞祭(埋葬後の家での祭り)。神主(位牌)には桑を用い、長さは一尺(約23cm)、方四寸(約9cm)で、穴の口径は九分(約2cm)、黒漆の箱で、霊座に置き、寝室の内の戸の西に置いて東向きとし、白いひじかけは右にある。手洗いを西の階段の西南に設置し、瓦甒(とっくり)二つを北窓の下に設置し、醴(さけ)・酒は東にある。喪者は沐した後、霊所に登る。主人および子たちは杖を戸外によりかけ、入って位座で哭泣することは最初の通りである。お供えが入ることは、殷奠(毎月朔望の供物)と同様で、東の階段から登る。主人は手を洗って爵を洗い、醴(さけ)を酌んで、西向きに跪いてお供えし、哭泣するのを止める。祝は跪いて祝を読み上げ、主人は哭泣して拝礼し、内外の者で拝に応じる者は全員哭泣して拝礼する。退出すると、杖ついて西の階段を降り、次(並ぶ場所を示す印)に戻る。日をあけて再虞祭し、後日に三虞祭をするが、礼は最初の通りである。

  小祥。廬(喪の際に用いる質素な仮小屋や庵)を壊して堊室(荒壁のままで上塗りをせず、飾り気のない室)をつくり、蒲の席を設ける。堊室では蒲の席を除去し、地面を席とする。主人および子たちは沐浴して櫛を切り、首絰(喪の際に着用する頭・首に巻いた麻・葛でできた環状の帯)・練冠(練り上げた布の喪冠)を取り去り、妻・妾・娘は腰絰(喪の際に着用する腰に巻いた麻・葛でできた環状の帯)を取り外す。主に栗を用い、祭儀は虞礼と同様である。

  大祥の祭儀は小祥と同様である。月をあけて禫祭し、祥服を脱ぐが、禫祭は大祥と同様である。祥して外寝(荒壁のままで上塗りをせず、飾り気のない室。堊室)に戻る。妻・妾・娘も同じく寝に戻る。食は塩辛・醤で、禫祭が終わると醴(さけ)・酒を飲み、乾肉を食べる。

  廟に合わせ祭る日を占筮する。合わせ祭ろうとする際、掌事者(臨時に事務処理を行う責任者)は埳室(神主を納めるための壁龕)を始祖廟の室の西壁につくり、主人および亜献以下は散斎すること三日、致斎は一日行う。一日前、主人は酒・干し肉を持って遷す神主(位牌)に報告し、そこで幄座に遷し置き、また酒・干し肉をお供えして神を安置する。お供えを持つ者は膳を撤饌して出て、廟をつかさどる者は箱をつかって神主を埳室に納める。また考(亡父)の合わせ祭る座を曾祖父の室内の東壁の下に設置し、西向きとし、右にひじかけを置く。主人の位座を東南に設置し、西向きとする。子孫の位座を南門の内の道の東に設置し、北向きで西を班位の上とする。亜献・終献の位座を主人の東南に設置する。掌事者以下の位座を終献の東南に設置し、共に西向きで北を班位の上とする。賛唱者の位座を主人の西南に設置し、西向きとする。酒・尊を堂の上の室の戸の東南に設置し、北向きで西を班位の上とする。手洗いを東階段の東南に設置し、北向きとし、満たした爵が三、布巾が二で、冪(白布)を加える。その当日、少牢のお供えを二座用意し、それぞれ俎が三・簋(脚付きの青銅蓋物)が二・簠(穀物を盛る方形の祭食器)が二・鈃(酒の器皿)が二。酒尊が二で、そのうち一つに玄酒(酒の代用とする水)を満たして上とし、そのうち一つに清酒を満たして次とする。それを籩(高坏)・豆(高坏形の青銅盛器)の間に祭り、一品はそれぞれ十二、二品・三品はそれぞれ八である。主人および行事する者は祭服を着用する。掌事者は腰輿を備え、掌廟者・閽寺人(宦官)は廟庭に立ち、北向きとなって再拝し、東階の階段から登り、入って、埳室を開き、曾祖父・曾祖母の神主を出して座に置き、降りて、退出する。尊・樽・篚(竹籠)を持つ者は入って位座につき、祝は座前に進み出て、西向きとなって「今のよき日によって、神主を廟に遷し奉ります」と告げ、輿を持つ者は輿を持って登り、入って、輿を座の前に進め、祝は神主を箱に納め、輿に載せ、祝は左をたすけて、西の階段から降り、子孫や内外の者は後方に従う。廟門に到着すると、婦人たちは門外に停め、行帷で囲み、祭が終わるのを待って帰還する。神主は南門から入り、西の階段から登り、室に入る。子孫たちは登るのに従い、室の戸の西に立ち、二列に並んで東向きとなり、北を班位の上とする。行事する者は従って入り、それぞれ位座につく。輿は室前に到着すると、輿をまわして西向きとする。祝は箱を開いて神主を出し、座に置く。輿は降りて西の階段の下に立ち、東向きとなる。相者(介添人)は主人以下を引きつれて東の階段から降り、それぞれ位座につく。祝は立ち定めると、賛唱者は「再拝せよ」と言い、位座にある者は全員再拝する。お供えを持つ者はお供えを引き連れて入り、東の階段から登り、室に入り、それぞれ神座の前に設置する。主人は手を洗い、爵を洗い、東の階段から登り、醴(さけ)・酒を酌み、室に入って進み、北向きに跪き、爵を曾祖父の神座の前にお供えする。主人が出ると、爵を取って酒を酌み、室に入って進み出て、東向きに跪き、祖父の座の前にお供えする。戸を出ると、北向きに立つ。祝は版を持って室の戸の外の右に進み出て、東向きに跪いて祝文を読み、主人は再拝する。祝は進み出て、版を曾祖父の座に捧げる。主人が出ると、降り、もとの位座に戻る。それより以前、主が出ると、亜献は手を洗い、爵を洗い、登り、酒を酌んで入り、進んで、北向きに跪き、曾祖父にお供えし、また酒を酌んで入り、進んで、東向きに跪き、祖父の神座にお供えし、戸を出て、北向きに再拝し終わると、また室に入り、西壁の下に立ち、東向きに再拝し、出ると降り、位座に戻る。亜献が終わろうとすると、終献が入ることは亜献と同様である。祝が入ると、豆(高坏形の青銅盛器)を撤饌し、賛者は全員再拝する。主人および位座にいる子孫以下が退出する。お供えを持つ者が入り、撤饌して退出する。掌廟者は曾祖父の神主を埳室に入れ、退出し、また腰輿を以て諸考(父祖)の神座の前に登り、神主を箱に納め、輿に置き、考廟に詣でて、神主を出して座に置き、酒・干し肉のお供えを進め、しばらくして、撤饌する。祝は神主を埳室に納める。六品以下には正寝にて合わせ祭るお祭りをし、礼はほぼこれと同様である。


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最終更新:2026年07月03日 15:03
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