唐書巻二十一
志第十一
礼楽十一
音には形がないが、楽には楽器がある。古の音楽をつくる者は、その楽器には必ず弊害があり、音の言を伝えるべきではないのを知り、その楽器が失われて音楽自体が失われてしまうのを恐れている。そこで多くが手法をつくり、これを著わしてきた。そのため始めて音を求める者は律を用い、律をつくる者は黍の粒を用いた。一粒の黍の大きさより、重ねて分・寸の単位とし、一粒の黍の面積より積んで龠・合の単位とし、一粒の黍の重さより、積んで銖・両の単位とした。これは律をつくる根本である。そのためこれを長短の法として度(長さ)を著し、多少の法として量(体積)を著わし、軽重の法として権衡(秤の重さ)を著わした。この三物は、また必ず時として弊害があり、それはまたその法を統べて数を著した。その分寸・龠合・銖両をして皆黄鍾からはじまり、その後律・度・量・衡を互いに用いて表裏一体とし、律の値を得ることができれば度・量・衡を定めることができ、度・量・衡によってまた律を定めることができる。不幸にして皆亡び、そこでその法数を推測してこれを定め、用その長短・多少・軽重を用いて互いに参考にした。四者は既に同じであって、音も必ず決定でき、音がわかった後は楽もつくることができるのだ。物というものは形あるものを用いれば必ず弊害があり、音は無形であること隠して尽きることはなく、数の法則があるから無形の音を求め、その法は詳細に存在している。音律はつくることなければそこでなくなってしまうが、ましてや音律があるのだから、聖人が千年・万年後に去ったとしても、得られないということはないのだ。古の君子は物の終始を知って、世の中を憂いて深謀遠慮し、その多くはこの法をして細々と詳しく知っていたのだから、この境地に至ったというべきなのだ。
三代(夏・殷・周)は既に滅亡し、礼楽はその根本を失ってしまった。その楽器やそれらを守る役人に至っては、また散逸してしまった。漢より以来、歴代の王朝には楽があり、作者はそれぞれその学ぶところによって、清濁高下で時代は同じではないとはいえ、法数から出ることはできない。郊廟・朝廷や朝廷で用いる理由に到っては、人と神が接する喜びがあるからであって、金石の響き、歌舞のかたちは、それぞれ功業・治乱の起きるところによって、その風俗の元とする由来なのである。
漢・魏(後漢・曹魏)が乱れ、晋が江南に遷ると、中国は遂に夷狄に没してしまった。隋が陳を滅ぼすに至って、始めてその楽器を得て、次第にこれによってつくろうとした。しかし時の君主はゆとりがなく、その事を堪えるには足りなかった。この時、鄭訳・牛弘・辛彥之・何妥・蔡子元・于普明といった者が、皆名を楽で知られ、互いに選定しあった。京房の六十律によって、これを六倍とし三百六十律とし、一年の日に当たるからで、また一律を七音とし、音は一調であり、おしなべて十二律を八十四調とし、その説は甚だ詳かであった。しかし隋の世が終わると、用いるところは黄鍾一宮(十二鐘)、五夏・二舞・登歌・房中等の十四調のみであった。
礼記に「功成りて楽を作す」とあるのは、思うに王者はまだ楽をつくらない時、必ず元の楽を用いるからであろう。唐が興ると隋の楽を用いた。武徳九年(626)、始めて詔して太常少卿
祖孝孫・協律郎の
竇璡らに楽を定めさせた。これより以前、隋は黄鍾一宮(十二鐘)を用いたが、ただ七鐘のみ用い、残り五鐘は設置されていたが打たなかった。これを「啞鍾」と言った。唐協律郎の
張文収がそこで古制により竹を断って十二律とし、
高祖は
祖孝孫とともに命じて吹いて五鐘を調律させ、これを叩いて鳴らし、これによって十二鐘はすべて用いることできた。
祖孝孫はまた十二月をもってあい旋って六十声・八十四調とした。その法は、五音によって二変を生じ、変徴によって正徴となし、変宮によって清宮とした。七音は黄鍾より南呂まで入れ替えて綱紀とした。黄鍾の律は、管の長さ九寸、中宮の土を王とした。これを半ばとして四寸五分、清宮と合わせ、五音の首とした。それだけではなく二変、循環して間はない。そのため一は宮・二は商・三は角・四は変徴・五は徴・六は羽・七は変宮で、その声は濁から清まで一均(一オクターブ)である。おしなべて十二宮調は、皆正宮である。正宮の声の下は、復濁音がなく、そのため五音は宮をもって尊とした。十二商調は、調の下の音の一つを「宮」という。十二角調は、調の下の音の二つを「宮」「商」という。十二徴調は、調の下の音三つを「宮」「商」「角」という。十二羽調は、調の下の音四つを「宮」「商」「角」「徴」という。十二変徴調は、「角」音の後、正徴の前にある。十二変宮調は、「羽」音の後、清宮の前にある。雅楽の成調は、七声から出ることはなく、本宮は互いに用いる。ただ楽章は律に従って均(オクターブ)を定め、合せるのに笙・磬を用い、節は鍾・鼓を以てする。楽がすでに完成すれば演奏する。
太宗が侍臣に、「古の聖人は心にそって音楽をつくったが、国の興衰は、必ずしもこれによるとは限らない」と言った。御史大夫の
杜淹が「陳がまさに亡ぼうとしたとき、「玉樹後庭花」があり、斉がまさに滅ぼうとしているときに「伴侶曲」がつくられました。聞く者は悲しみ泣き、亡国の音の哀しさというのはこのようなものです。こうしてみると(国家の興亡は)音楽によっているのです」と言った。
帝は、「そもそも音楽が感じるところは、それぞれ人によって悲しかったり楽しかったりする。亡びかけた国の政治にあっては、その民は苦しんでいるから、聞いて悲しむだけである。今「玉樹後庭花」や「伴侶の曲」がなおも残っている。公のために演奏するのは、それを着ても公が悲しまないとわかっているからだ」と述べた。尚書右丞の
魏徴が進んで、「孔子はいいました。『楽と云い楽と云うも、鐘鼓を云わんや(楽だ楽だといっても、鐘や太鼓のことであろうか)』と。楽に人の和がありますが、音はありません」と言った。貞観十一年(637)、
張文収は再びほか音楽も整備しようと願い出た。しかし
帝は許さず、「朕は人が和めば音楽も和むと聞いている。隋末の喪乱のときには、音律を改めたが音楽は和まなかった。もし民が安楽なら、金石の楽器も自ずと調うものであろう」と述べた。
張文収は既に楽を定めたが、再び銅律三百六十・銅斛二・銅秤二・銅甌十四・秤尺一を鋳造した。斛の左右の耳は臀とともにすべて方形で、耳だけ十個積むと、斛自体の高さに至る。古玉の尺・玉の斗と同じである。すべて太楽署に納めた。
武后の時、太常卿の
武延秀が奇玩であるから献上した。後に、
中宗の廟楽にしようとした時、役人が奏請してこれを出したが、秤尺がすでに失われており、その跡はまだあるかのようであった。常用の度量で換算してみると、尺は六分の五にあたり、量・衡は皆三分の一であった。
粛宗の時になると、山東の人の魏延陵が律一を得て、中官の
李輔国を通じて献上し、「太常寺の諸楽の調はすべて下で、黄鍾と合致しません。願わくばすべてもろもろの鍾や
磬を刷新していただきたい」と言った。
帝はそうだと思い、そこでことごとく太常寺の諸楽器を取って禁中に入れ、さらに研磨しておよそ二十五日で完成した。帝は三殿(
麟徳殿)に出御してこれを見て、その後太常寺に還した。しかし漢律によって考えると、黄鍾は太簇であるから、当時の議論する者はそうではないとした。
その後、
黄巣の乱で、楽工は逃散し、金奏もみな死んだ。
昭宗が即位すると、郊廟の祭祀をしようにも、役人は楽縣の制度を知らなかった。太常博士の
殷盈孫が周の古法で計算し、鎛鍾の音を合わせた。黄鍾は九寸五分、倍応鍾は三寸三分半、おしなべて四十八等であった。口や頚の大きさ、および径や横の周囲を測り、すなわち命じて鎛鍾十二・
編鐘二百四十を鋳造した。宰相の
張濬は修奉楽縣となり、音楽を知るものを求め、処士の蕭承訓らを得て、
石磬を校合させ、打ち鳴らすと、音楽はついに符合した。
唐が建国してできた楽の制度は非常に簡便であり、
高祖・
太宗は隋楽と、
祖孝孫・
張文収が定めたものを用いただけであった。後世に変更したのは楽章舞曲であった。
昭宗の時代に至って、はじめて
殷盈孫を得た。そのため議論が起こることはまれであった。その楽歌廟舞が現在で用いるようなものは、このことを踏まえて考察すべきである。
宮縣(天子の奏楽の時に楽器を並べるところ)四面は、天子が用いる。祭祀では二日前に太楽令が縣を壇南内の壝(らち)の外に設け、北向きとする。東方・西方には
磬の虡(きょ。鐘掛台の縦柱)を北にたて、鍾の虡がこれに次いだ。南方・北方には
磬の虡を西にたて、鍾の虡がこれに次いだ。鎛鍾は十二で、十二辰の位にあった。
雷鼓を北縣の内、道の左右にたて、建鼓を四隅にたてた。
柷・
敔を縣内に置き、
柷は右に、
敔は左にあった。歌鍾・歌磬を壇上に設け、南方で北向きとした。
磬の虡は西にあり、鍾の虡は東にあった。琴・瑟・箏・筑はそれぞれ一で、
磬の虡の次にあたり、匏・竹は下にあった。おしなべて天神の類はすべて
雷鼓を用い、地祇の類はすべて霊鼓を用い、人鬼の類はすべて路鼓を用いた。これを庭に設けるのは、南にあって、登歌(堂にのぼって歌う楽師)は堂にいた。朝会では鍾・
磬を十二虡加え、鼓吹の十二案を建鼓の外に置いた。案は羽葆鼓が一、大鼓が一、
金錞が一、歌・
簫・笳が二である。登歌は、鍾・
磬がそれぞれ一虡、節鼓が一、歌者は四人で、琴・瑟・箏・筑がすべて一で、堂上にある。笙・和・
簫・
篪・塤はそれぞれ一あり、堂下にある。皇后が先蠶(蚕の神)を享(まつ)る時は、十二の
大磬を設置し、十二辰の方位にあたる。路鼓は設けなかった。
軒縣(諸侯の奏楽の時に楽器を並べるところ)三面は皇太子が用いる。文宣王(孔子)・武成王(太公望)を釈奠するのにまた用いた。その制度は、宮縣から南面を取り去る。判縣(大夫の奏楽の時に楽器を並べるところ)二面は唐の旧礼で、風伯(風神)・雨師(雨神)・五岳(五名山。泰山・衡山・嵩山・華山・恒山)・四涜(四大河。長江・黄河・淮水・済水)をまつるのに用いた。その制度は軒縣から北面を取り去る。すべて建鼓を東北・西北の二隅にたてる。特縣(士の奏楽の時に楽器を並べるところ。一面のみ)は、判縣から西面を取り去り、または階(きざはし)に並べる。その制度はあるにはあるが用いたことはない。
おしなべて横に並べるものは簨(よこぎ)とし、立てるものは虡(きょ。鐘掛台の縦柱)とする。虡は鐘や
磬を懸け、すべて十六あり、周の人はこれを一堵というが、唐の人は一虡という。隋より以前、宮縣は二十虡であった。隋が陳を平定すると、梁の故事によって三十六虡とし、遂にこれを用いた。唐の初め、隋の旧制によって三十六虡を用いた。
高宗が
蓬莱宮を完成させると、増やして七十二虡を用いた。
武后の時に省いた。開元礼が定まると、始めて古によってあらわして二十虡とした。
昭宗の時に至ると、宰相の
張濬がすでに楽縣を修し、そこで言上した。旧制では、
太清宮・南北の郊・社稷および諸殿廷は二十虡を用い、太廟・
含元殿は三十六虡を用いた。張濬は古の制ではないとして、廟や朝廷は狭くあふれ、三十六虡を収容することができないから、そこで再び二十虡を用いた。鐘の四虡は甲・丙・庚・壬にあて、
磬の四虡は乙・丁・辛・癸にあてており、開元礼とは異なっていたが、その改制が実施された時期は不明である。ある説に鐘や磬を陰陽の位に応じさせたとしたが、これは礼記・書経に著されていないものである。
おしなべて楽は八音(八種の楽器)で、漢より以来、ただ金が鍾を以て律呂(音律)を定めたから、その制度は最も詳細であったが、その他の七音は、史官が記さなかった。唐になって、ただ宮縣と登歌・鼓吹の十二案の楽器に数があり、そのほかは皆略して著さなかったが、その物の名は具さにあった。八音は、一つめを金といい、鎛鍾・
編鐘・歌鍾・
錞・
鐃・鐲・鐸とする。二つめが石といい、大磬・
編磬・歌磬とする。三つめを土といい、壎・嘂とし、嘂とは大壎をいうのである。四つめが革といい、
雷鼓・霊鼓・路鼓であり、これらはすべて
鼗であり、また建鼓・
鼗鼓・縣鼓・節鼓・拊・相である。五つめを絲といい、琴・瑟・頌瑟であり、頌瑟は箏のことであり、また
阮咸・筑である。六つめを木といい、
柷・
敔・雅・応である。七つめを匏といい、
笙・
竽・巣であり、巣とは大笙のことであり、また和であり、和は小笙のことである。八を竹といい、
簫・管・
篪・笛・舂牘である。これらはその楽器である。
それより以前、
祖孝孫はすでに楽を定め、そこで「大楽は天地と和を同じくす(礼記楽記)」といった。十二和をつくり、法天の成和を以て「大唐雅楽」と号した。一を予和、二を順和、三を永和、四を粛和、五を雍和、六を寿和、七を太和、八を舒和、九を昭和、十を休和、十一を正和、十二を承和という。郊廟・朝廷にて用い、人と神を和した。祖孝孫が卒すると、
張文収は十二和が未整備であるから、そこで役人に詔して改定し、
張文収は正律呂を考え、起居郎の
呂才はその声音を叶え、楽曲は遂に備わった。
高宗より以後、次第にその曲名は改まった。『開元礼』が定まると、始めてまた
祖孝孫の十二和を遵用した。以下にその礼を示すと、
一を予和といい、天神を降す。冬至に圜丘を祀るとき、正月上辛に祈穀するとき、孟夏に雩(あまごい)するとき、季秋に明堂を享(まつ)るとき、朝に日の神、夕に月の神に拝するとき、巡狩で圜丘に告するとき、封禅で燔柴告至するとき、太山に封祀するとき、上帝に類祭(不時の祭)するときは、すべて圜鍾を宮とし、三度演奏する。黄鍾を角とし、太簇を徴とし、姑洗を羽とし、各一度演奏する。文舞は六編成(雲門・咸池・大韶・大夏・大濩・大武)である。五郊(中郊・南郊・西郊・北郊・中郊)で設祭して気を迎え、黄帝は黄鍾を宮とし、赤帝は函鍾を徴とし、白帝は太簇を商とし、黒帝は南呂を羽とし、青帝は姑洗を角とし、すべて文舞は六編成(雲門・咸池・大韶・大夏・大濩・大武)である。
二を順和とし、これで地祇に降る。夏至に方丘を祭るとき、孟冬に神州地祇を祭るとき、春秋の社祭、巡狩の時の社廟への告、社廟の前での出陣の祭り、社首(蒿里山)での禅は、すべて函鍾を宮とし、太簇を角とし、姑洗を徴とし、南呂を羽として、それぞれ三回演奏し、文舞は八編成である。山川に望んでは蕤賓を宮とし、三回演奏する。
三を永和といい、人鬼を降す。時享(四季の祭祀)、禘・祫の祭祀や、役人をして廟に告謁させるときは、すべて黄鍾を宮とし、三回演奏し、大呂を角とし、太簇を徴とし、応鍾を羽とし、それぞれ二度演奏する。文舞を九編成とする。先農を祀り、皇太子が釈奠する場合、すべて姑洗を宮とし、文舞は三編成である。神を送るのは、それぞれその曲を一編成とする。蜡祭(年末の祭り)で天地人を兼ねる時は、黄鍾で予和を演奏し、蕤賓・姑洗・太簇で順和を演奏し、無射・夷則で永和を演奏し、六均をすべて一編成として神を降して、神を送るのは予和を用いる。
四を粛和といい、登歌(楽師が堂にのぼって歌う)して玉帛を奠(まつ)る。天神においては、大呂を宮とし、地祇においては、応鍾を宮とし、宗廟においては、圜鍾を宮とし、先農・釈奠を祀るのは、南呂を宮とし、山川に望んでは、函鍾を宮とした。
五を雍和といい、おしなべて祭祀で俎(生贄を載せる足付祭器台)を入れるときに用いる。天神の俎のときは、黄鍾を宮とし、地祇の俎のときは、太簇を宮とし、人鬼の俎のときは、無射を宮とする。また豆(高坏状の祭器)をさげる際にも用いる。おしなべて祭祀は、俎を入れた後、接神の曲もまたこのようである。
六を寿和といい、酌献(楽を設けて神に供える)・飲福(祭祀が終わった後に神に供えた酒を飲む)で用いる。黄鍾を宮とする。
七を太和といい、行節で用いる。また黄鍾を宮とする。おしなべて祭祀は、天子が門に入って即位し、その上り下りとともにし、引き返してくると、行くと作り、止まると止まった。朝廷にあって天子がまさに内より出ると黄鍾の鐘を撞き、右の五鍾に応じて演奏した。その礼が終わると、興って入ると、蕤賓の鐘を撞き、左の五鍾に応じて演奏した。すべて黄鍾を宮とした。
八を舒和といい、出入すると二舞する。皇太子・王公・群后・国老もしくは皇后の妾御・皇太子の宮臣が、門を出入すると演奏する。すべて太簇の商である。
九を昭和といい、皇帝・皇太子が酒を勧めるときに用いる。
十を休和といい、皇帝が食事の際に三老に頭を垂れて拝礼するときに用い、、皇太子が食事する時も同様である。すべてその月律(十二調を分けてそれぞれの月に配分したもの)の均とした。
十一を正和といい、皇后が冊を受けると行った。
十二を承和といい、皇太子がその宮にあって、行動するときに行った。もし駕が出れば、黄鐘を撞き太和を演奏した。太極門を出ると采茨を演奏し、嘉徳門に至ると演奏を止めた。還ってきたときも同様である。
それより以前、隋に文舞・武舞があったが、
祖孝孫が楽を定めると、さらに文舞を「治康」といい、武舞を「凱安」といい、舞者はそれぞれ六十四人であった。文舞は、左は籥で右は翟で、纛(はた)を持つ者とともに引者二人、すべて
委貌冠、黒色の木綿、絳領(あかえり)、広袖、白袴、革帯、
烏皮履である。武舞は、左は干で右は戚で、旌(はた)を持って前者二人におり、
鼗を持つ者と
鐸を持つ者はすべて二人、
金錞は二、輿者は四人、奏者は二人、
鐃を持つ者は二人、相を持って左におり、雅を持って右におり、すべて二人で挟み導き、平冕を着て、ほかは文舞と同じである。朝会の時は武弁(武冠)、
平巾幘、広袖、金色の甲冑、豹文の袴、
烏皮鞾である。干戚(楯と斧を持つ武舞)で挟み導くことは、すべて郊廟と同じである。おしなべて初献の時は、文舞の舞をなし、亞献・終献の時は、武舞の舞をなす。太廟降神では文舞を用い、部屋に酌献(楽を設けて神に供える)するごとに、それぞれその廟の舞を用いた。禘・祫、遷廟(周王朝)の木主(いはい)は合祭し、そこで舞もまた同じであった。儀鳳二年(677)、太常卿の
韋万石は凱安舞六変を定め、一変は龍興参墟を象り、二変は克定関中を象り、三変は東夏賓服を象り、四変は江淮平を象り、五変は獫狁伏従を象り、六変は復位以崇を象り、兵が帰還して凱旋するのを象った。
はじめ
太宗の時、秘書監の
顔師古らに詔して弘農府君から
高祖太武皇帝にいたるまでの六廟の楽曲・舞名を撰定させ、その後の変更は一つではなかった。
献祖より以下の廟の舞は、ほぼ見るべきである。
献祖を「光大の舞」といい、
懿祖を「長発の舞」といい、
太祖を「大政の舞」といい、
世祖を「大成の舞」といい、
高祖を「大明の舞」といい、
太宗を「崇徳の舞」といい、
高宗を「鈞天の舞」といい、
中宗を「太和の舞」といい、
睿宗を「景雲の舞」といい、
玄宗を「大運の舞」といい、
粛宗を「惟新の舞」といい、
代宗を「保大の舞」といい、
徳宗を「文明の舞」といい、
順宗を「大順の舞」といい、
憲宗を「象徳の舞」といい、
穆宗を「和寧の舞」といい、
敬宗を「大鈞の舞」といい、
文宗を「文成の舞」といい、
武宗を「大定の舞」といい、
昭宗を「咸寧の舞」といった。そのほかは欠損しているから著さない。
唐の自ら楽をつくるのはおよそ三、一は「七徳舞」、二は「九功舞」、三は「上元舞」という。
「七徳舞」は、本名を「秦王破陣楽」という。
太宗が秦王であったとき、
劉武周を破り、軍中にて「秦王破陣楽曲」をつくった。即位すると、宴会になると必ず演奏した。侍臣に、「激しい舞とはいえ文容とは異なっている。だが功業はこれにより、楽章を演奏するのは、示して本を忘れないためだ」と言い、右僕射の
封徳彝は、「陛下は聖武をもって艱難を平定されました。楽を並べて徳を象り、文容はどうして道にたるでしょうか」と言った。
帝は驚いて、「朕は武功を興したとはいえ、終いには文徳をもって海内を安んじてきた。文容は激しい舞に及ばないとはいえ、それは言い過ぎだ」と言った。そこで舞図をつくり、左は右方を図して、兵車を前に卒伍を後ろに、入り混じっては曲げたり延ばしたりして、魚麗の陣、鵝鸛の陣を象った。
呂才に命じて図を楽工百二十八人に教え、銀の甲冑を着用して戟を持って舞い、およそ三変、変わるごとに四陣とし、撃ったり刺したり往来するのを象った。歌う者は和して「秦王破陣楽」という。後に
魏徴をして員外散騎常侍の
褚亮・員外散騎常侍の
虞世南・太子右庶子の
李百薬にさらに歌辞をつくらせ、名づけて「七徳舞」といった。舞がはじめて完成すると、見る者は皆自分の腕を握りしめて踊り、諸将は祝寿を述べ、群臣は万歳を唱え、蛮夷で庭にいる者は一緒に舞うことを願った。太常卿の
蕭瑀は「楽の盛徳の表現を見事とするわけは、すべてをつくさないところにあります。陛下は
劉武周・
薛挙・
竇建徳・
王世充を破りました。願わくばその形を図して識らしめてください」といい、
帝は、「まさに四海はいまだ定まっておらず、戦争は禍乱を平らげるが、楽をつくるのはその概略を述べるだけなのだ。もし捕虜となるところを写し備えてしまえば、今将軍となっている中にはかつてその臣であった者もおり、これを見るのに忍びないだろう。我れはだからしないのだ」と言った。これより元日・冬至の朝会・慶賀に、「九功舞」とともに同じく演奏した。舞人はさらに
進賢冠・虎文の袴・螣蛇(飛竜)の帯・
烏皮鞾をつけ、二人は旌(はた)をもって前にいた。その後さらに「神功破陣楽」と号した。
「九功舞」は、本名を「功成慶善楽」といった。
太宗は
慶善宮に生まれ、貞観六年(632)に行幸し、従臣と宴し、賞を村里に賜うことは漢の沛・宛と同じであった。帝は喜ぶこと甚だしく、詩を賦し、起居郎の
呂才に管絃を演奏させた。名づけて「功成慶善楽」という。童児六十四人をもって、
進徳冠・紫の袴褶・長袖・漆髻を着せ、くつを履いて舞い、「九功舞」と号した。進蹈安徐(静かに礼拝)するのは文徳を象っている。麟徳二年(665)詔して、「郊廟・享宴に文舞を演奏し、「功成慶善楽」を用い、履を引っ張って(余暇と快適さを表し)、縄を持ち、袴褶(常服)を着て、童子冠とするのはもとのままとする。武舞では「神功破陣楽」を用い、甲冑を着用し、戟を持ち、纛(はた)を持つ者は金の甲冑を着用し、八佾の舞で、
簫・笛・歌鼓を加え、並べて宮縣の南に配置し、もし舞えば即ち宮縣とともに合奏する。その宴楽の二舞は別に設ける」とした。
「上元舞」は、
高宗がつくった。舞者は百八十人、雲を描いた五色の衣を着て、元気を象った。その楽は上元・二儀・三才・四時・五行・六律・七政・八風・九宮・十洲・得一・慶雲の曲があり、大祠を享(まつ)るときにはすべてこれを用いた。上元三年(676)になって詔して、「ただ圜丘・方沢・太廟に用い、他の使用は停止せよ」とした。また、「「神功破陣楽」は雅楽に入れず、「功成慶善楽」は降神で演奏すべきではない。またすべて停止せよ」とした。しかし郊廟で「治康舞」・「凱安舞」を用いることはもとの通りであった。
儀鳳二年(677)、太常卿の
韋万石が奏して、「願わくば「上元舞」をつくり、兼ねて「破陣楽」・「慶善楽」の二舞を演奏してください。しかし「破陣楽」は五十二偏のうち、雅楽におさめられるものは二偏、「慶善楽」五十偏のうち、雅楽におさめられるものは一偏、「上元舞」二十九偏ですが、すべて雅楽におさめられますように」といい、また、「雲門・大咸・大韶・大夏は、古の文舞です。大濩・大武は、古の武舞です。国家は禅譲によって天下を得たのなら、まず文舞を演奏し、征伐で天下を得たのなら、まず武舞を演奏します。「神功破陣楽」は武事の象があり、「功成慶善楽」は文事の象があり、二舞を用いるのなら、願わくばまず「神功破陣楽」を演奏してください」とした。それより以前、朝会では常に「破陣舞」を演奏していたが、
高宗が即位すると、見るに忍びず、そこで設けなかった。後に
九成宮に行幸し、酒宴を開くと韋万石が、「破陣楽舞は、祖宗の功業を宣揚するものであって、もって後世に示すものです。陛下が即位されてより、やめて演奏されないことは久しくなっています。礼というのは、天子が自ら干戚(武器を使って踊る武舞)をすべられ、以て先祖の楽を舞うのです。今、「破陣楽」は久しく廃され、群臣は叙述するところなく、孝心を発露するいわれではなくなっています」と言った。
帝は再び演奏させた。舞が終わると帝は歎いて、「この楽を見ないことは三十年になろうとしている。王業の働きを思い起こすことはこのようであった。朕はどうして武功を忘れることがあろうか」と言い、群臣は皆万歳を唱えた。しかし饗燕になって二楽を演奏すると、天子は必ず席を離れるから、座っていた者は皆立ち上がった。太常博士の
裴守真は「二舞を演奏している時は、天子は起立してはなりません」と言ったから、詔して従った。
高宗が崩ずると、「治康舞」を改めて「化康舞」といい、諱を避けた。
武后が唐の太廟を壊すと、「七徳舞」・「九功舞」はすべて亡び、ただその名だけが残った。その後復活して隋の文舞・武舞を用いるのみとなった。
燕楽(宴会の音楽)は、
高祖が即位すると隋の制度によって九部楽を設けた。燕楽伎は、楽工・舞人は変わることはなかった。清商伎は、隋の清楽である。
編鐘・
編磬・独絃琴・撃琴・瑟・秦琵琶・
臥箜篌・筑・箏・節鼓があり、すべて一であり、笙・笛・
簫・
篪・
方響・跋膝は、すべて二である。歌は二人、吹葉は一人、舞者は四人、あわせて「巴渝舞」を習った。西涼伎は、
編鐘・
編磬があり、すべて一である。弾箏・搊箏・
臥箜篌・
竪箜篌・琵琶・
五絃・笙・
簫・
觱篥・小
觱篥・笛・横笛・腰鼓・
斉鼓・
檐鼓は、すべて一である。
銅鈸は二、貝は一である。白舞は一人、方舞は四人である。天竺伎は、
銅鼓・
羯鼓・
都曇鼓・
毛員鼓・
觱篥・横笛・
鳳首箜篌・琵琶・
五絃・貝があり、すべて一であり、
銅鈸は二、舞者は二人である。高麗伎は、弾箏・搊箏・
鳳首箜篌・
臥箜篌・
竪箜篌・琵琶があり、蛇皮を槽(胴部)とし、厚さは一寸あまり、鱗甲があり、楸木を面とし、象牙を撥とし、国王の形を描く。また
五絃・義觜笛・笙・葫蘆笙・
簫・小
觱篥・桃皮觱篥・腰鼓・
斉鼓・
檐鼓・亀頭鼓・鉄版・貝・大
觱篥がある。胡旋舞は、舞者が毬の上に立ち、旋回すること風のようである。亀茲伎は、弾箏・
竪箜篌・琵琶・
五絃・橫笛・笙・
簫・
觱篥・
答臘鼓・
毛員鼓・
都曇鼓・侯提鼓・
鶏婁鼓・腰鼓・
斉鼓・
檐鼓・貝があり、すべて一であり、
銅鈸は二である。舞者は四人である。五方の獅子を設け、高さは一丈あまり、五方色(青赤白黒黄)で飾る。獅子ごとに十二人がいて、衣を描き、紅仏(赤い払子)を持ち、首に紅袜で飾り、これを「師子郎」という。安国伎は、
竪箜篌・琵琶・
五絃・横笛・
簫・
觱篥・
正鼓・
和鼓・
銅鈸があり、すべて一で、舞者が二人いる。疏勒伎は、
竪箜篌・琵琶・
五絃・
簫・横笛・
觱篥・
答臘鼓・
羯鼓・侯提鼓・腰鼓・
鶏婁鼓があり、すべて一であり、舞者が二人いる。康国伎は、
正鼓・
和鼓があり、すべて一であり、笛・
銅鈸はすべて二である。舞者が二人いる。工人の服はすべてその国の制に従った。
隋楽では九部の楽を演奏し終えるたびに、たちまち「文康楽」を演奏し、これを「礼畢」といった。
太宗の時、命じてこれを削り去り、その後遂に亡んだ。高昌(トルファン)を平定すると、その音楽を収めた。
竪箜篌・
銅角が一あり、琵琶・
五絃・横笛・
簫・
觱篥・
答臘鼓・腰鼓・
鶏婁鼓・
羯鼓は、すべて二人である。工人の布巾は、袷袍・錦襟・金銅帯・画絝であった。舞者は二人で、黄袍袖、練襦、五色絛帯、金銅耳璫、赤鞾(赤い革靴)であった。これより初めて十部楽となった。
その後、内宴によって
長孫无忌に詔して「傾盃曲」をつくり、
魏徴は「楽社楽曲」をつくり、
虞世南は「英雄楽曲」をつくった。帝が
竇建徳を破った時に乗った馬の名を黄驄驃といい、高麗を征伐するときに道中で死に、非常に悲しみ惜しみ、楽工に命じて「黄驄畳曲」をつくった。これら四曲はすべて宮調である。
五絃は、琵琶のようで小さく、北国から出たものであり、昔は木の撥で弾いていた。楽工の
裴神符が初めて手で弾くと、
太宗は非常に喜び、後人は習って琵琶を指で奏でた。
高宗が即位すると、景雲が見え、黄河の水が澄んだので、
張文收が古誼を采って「景雲河清歌」とし、または「燕楽」と名付けた。
玉磬・
方響・搊箏・筑・
臥箜篌・大小の
箜篌・大小の琵琶・大小の
五絃・吹葉・大小の笙・大小の
觱篥・
簫・
銅鈸・長笛・尺八・短笛があり、すべて一で、
毛員鼓・連鞉鼓・桴鼓・貝は、すべて二である。楽器ごとに楽工が一人、歌が二人である。工人は絳(あか)い袍・金帯・
烏鞾を着用する。舞者は二十人である。四部に分け、一を「景雲舞」、二を「慶善舞」、三を「破陣舞」、四を「承天舞」とした。「景雲楽」は、舞が八人、五色雲の冠、錦の袍、五色の袴、金銅の帯を着用する。「慶善楽」は、舞が四人、紫の袍・白袴を着用する。「破陣楽」は、舞が四人で、綾の袍・絳(あか)い袴を着用する。「承天楽」は、舞が四人、
進徳冠・紫の袍・白袴を着用する。「景雲舞」、元会の第一に演奏する。
高宗は琴曲が次第に絶え、伝える者がいても、また宮商(調性)を失っていたから、役人をして修学させた。太常丞の
呂才が上言して、「舜は
五絃の琴を弾いて、南風の詩を歌い、ここに琴を操り曲をもてあそび皆歌に合わせることを知ったのです。今「御雪詩」を「白雪歌」としています。古今より正曲を演奏して再び声を送ることあれば、君は唱い臣が和すの義は、群臣が和した詩十六韻を送声十六節となさんことを」といい、
帝はこれを善しとし、そこで太常寺に命じて楽府につけた。呂才はまた琴歌・白雪などの曲を撰し、帝もまた歌詞十六をつくり、皆楽府につけた。
帝はまさに高麗を征伐しようとして、洛陽の城門に宴し、屯営に行って舞を教え、新征用武の勢を考案し、名づけて「一戎大定楽」し、舞者は百四十人、五采の甲冑を着用し、槊を以て舞い、歌う者はこれに和して「八紘同軌楽」といい、高麗が平定して天下が大いに定まることを象った。遼東が平定されると、行軍大総管の
李勣は夷美賓の曲をつくって献上した。
調露二年(680)、洛陽城の南楼に行幸し、群臣と宴し、太常寺は六合還淳の舞を演奏したが、その儀容や制度は伝わっていない。
高宗は自ら李氏老子の後裔であるからとして、楽工に命じて道調法曲をつくった。
最終更新:2025年09月08日 23:45