劉漢宏 りゅうかんこう
?-886
唐末の群雄。兗州(山東省済寧市)の人。もとは兗州の下級役人であったが、
王仙芝討伐の際に補給物資を奪って逃走した。乾符年間(874-879)末、江陵を掠奪したため、都統の
王鐸が
崔鍇を派遣して降伏させ、浙東観察使に任じられ、
僖宗から義勝軍節度使に任じられた。七州を有し、明州の
鍾季文、処州の
盧約、婺州の
蒋瓖、台州の
杜雄、温州の
朱褒を従えた。
中和二年(882)、杭州の
董昌を攻撃したが敗れ、それより董昌配下の
銭鏐の攻撃を受け、
光啓二年(886)、銭鏐の侵攻により大敗し、根拠地越州が陥落して母・妻は斬刑に処され、台州に逃走。台州で杜雄に酔ったところを捕らえられ、董昌の元に送られ、処刑吏に斬刑に処されるところを、銭鏐自身の手による処刑を臨んで処刑された。『新唐書』に伝がある。
列伝
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最終更新:2026年07月13日 22:48