韓建
855-912
唐末・五代の武将・藩鎮・群雄。字は佐時。許州長社の人。父は叔豊。代々藩鎮の部将であった。忠武軍監軍の
楊復光の配下で、
秦宗権が唐に帰順すると楊復光により秦宗権の麾下に配置された。楊復光が死ぬとその軍は八都に分割され、
鹿晏弘・韓建・
晋暉・李師泰・
王建・
張造・
龐従らに分けられ、鹿晏弘に従ったが、離反して僖宗を迎えた。光啓元年(885)潼関防禦使・華州刺史に任じられた。荒廃した任地の恢復に努めて善政を行い、文盲であったが書を学んだ。そのため荊南節度使の郭禹とともに「北韓南郭」と讃えられた。華商節度使・潼関守捉等使・検校太尉・平章事に累進した。さらに新設の鎮国軍節度使に任じられ、華州・同州を管轄した。大順元年(890)昭宗の
李克用討伐に参加し、夜襲をかけたが大敗し、戦線を離脱した。乾寧二年(895),
李茂貞、
王行瑜とともに王珙の河中節度使の継任を昭宗に迫り、翌三年(896)に昭宗を治所の華州に百官士庶とともに迎えた。昭宗が長安の荒廃を嘆いたため、長安の復興を約束して
大明宮を再建した。乾寧四年(897)八月に兵で
十六宅を包囲して宗室十一王を石堤谷で殺害した。
朱全忠の下僚となり、天祐三年(906)平盧軍節度使に転じ、唐が滅んで後梁が成立すると司徒・同平章事・充諸道塩鉄転運使に任じられた。乾化二年(912)の朱全忠の死にともなう混乱の中殺害された。『旧五代史』『新五代史』に伝がある。
史料
『旧五代史』巻十五 梁書十五 列伝第五 韓建
『新五代史』巻四十 雑伝第二十八 韓建
外部リンク
最終更新:2024年01月21日 00:15