裴璩 はいきょ
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唐末の官人・藩鎮。字は挺秀。裴克の子。
裴諝は曽祖父の従兄弟にあたる。鎮海節度使となり、乾符四年(877)
王郢が叛くと、王郢本人とは戦わず、周囲の朱実を離反させて、王郢軍を分裂させた。同年四月、
曹師雄が宣州・潤州より湖州に侵攻したが、迎撃して勝利を収め、王重隠も戦死させた。尚書右僕射となり、中和3年(883)
黄巣より長安が奪還されると、荒廃した宮殿の修理、輦輅・仗衛・旧章・秘籍の購入を命じられた。光啓二年(886)襄王
李熅が皇帝を称する際に
朱玫の恫喝により、太子太師として帝位を勧めた。大順元年(890)に
朱全忠より節度使となり得る縉紳名族の歴任の重臣として、
王徽・孔晦・
崔安潜とともに名をあげられている。最終は検校司空に昇り、唐末三公に任じられた重臣であった。
表・列伝・史料
『新唐書』巻七十一上 表第十一上 宰相世系一上 裴氏 東眷裴
『新唐書』
巻八十二 列伝第七 十一宗諸子 粛宗諸子 襄王僙 熅
『新唐書』
巻二百二十五下 列伝第一百五十下 逆臣下 黄巣
『旧唐書』巻二十上 本紀第二十上 昭宗 大順元年三月丁亥朔条
『資治通鑑』巻二百五十三 唐紀六十九 乾符四年閏月条、四月条
『資治通鑑』巻二百五十六 唐紀七十二 光啓二年九月条
外部リンク
最終更新:2024年09月07日 23:30