rough rife(laugh life) ◆wUZst.K6uE
◇ ◇ ◇
蝋燭が消えたとき、すべての笑顔は平等に美しく、そして平等に無価値である。
◆ ◆ ◆
放送を聞き終えてから、ツナギは考える。
ついさっきまで意識から切り離していたはずの青年と少女の二人組――
戯言遣いと
八九寺真宵のことを。
なぜ自分は、彼らと一緒に行動しようと思ったのか。あの死んだ魚のような目をした青年の何に対して、自分は興味を持ったのだろうか。
最初に会ったときは、何となく面白そうだからついていってみよう、程度の適当な理由で同行を決めたに過ぎなかった。いつでも切り離せるし切り捨てられる、仲間と呼ぶにはお互いあまりにも淡白な関係でいるつもりでいた。
それがいつの間にか、自分はむしろ率先して彼らを守るための行動をとっていたように思える。自分がそれなりに仲間思いな性格をしているという自覚はあるが、見ず知らずと言っていいはずの彼らに必要以上に肩入れする理由はなかったはずだ。
少なくとも、自分の『魔法』を晒してまで彼らを救う理由はなかった。
デメリットこそあれ、そこまでして彼らを守ることで得られるメリットなど、自分にとってはひとつもない。
皆無である。
八九寺真宵に関しては見るからに「無害な一般人」といった感じの女の子だったから、守らなければいけないという一種の庇護欲はあったかもしれないが。
ただ、あの青年に関しては違う。あの戯言遣いを自称する青年に自分が抱いていたのは、庇護欲や仲間意識などといったわかりやすい感情とは一切かけ離れている。
むしろ正直に言うなら、あの青年には危機感すら抱いていた。見ているだけで不安を煽られるような、それでいて好奇心をくすぐられるような、底の見えない深遠に引きずり込まれる錯覚すら感じてしまうほどの、言いようのない危機感を。
そばにいたくないと思う反面、
そばにいたいと思うような。
そんな矛盾した感情を、あの青年に抱いていた。
もしかすると、その危機感こそが同行を決めた理由だったのだろうか?
江迎怒江を追跡しようと思った理由が「直感的に危険だと思った」からだったように、あの青年が危険だと直感したからこそ、監視のため一緒にいようと決めたのだろうか?
だとしたらなおのこと、守る理由などないように思えるのだが。
ただ、あの二人を守っていたことが失敗だったかと問われれば、そこは否定できる。理由を聞かれたらやはりわからないとしか答えようがないけれど、むしろ途中で行動を別にしてしまったことを後悔する気持ちもあるくらいだ。
自分があの青年の中に何を見出していたのかは、正直今になってもわからない。あるいはその答えをはっきりと出したくないが為に、自分はわざわざあの青年から離れたのかもしれない――ツナギはそう考える。
あの青年の目に、あの青年の言葉に。
自分が何を、誰を重ね合わせていたのか。
供犠創貴か、
水倉りすかか、それとも自分自身なのか。
そのどれもが正解であるような気もするし、どれもが間違いであるような気もする。しかしどれが正解だったところで、それはきっと愉快な解答ではないだろう。
だってそれは、自分にとって「欠けている」部分が何なのか教えられるような、きっとそんな解答であるのだろうから。
「……焼きが回ったかしらね。自分の欠点なんて、とうの昔に知り尽くしてるでしょうに」
ごほ、と痰が絡んだような湿った咳をする。つぶやくような独り言を発することすら、今のツナギにはもはや困難だった。
持っていた折りたたみ式の携帯電話を開き、あらかじめ登録しておいた番号へと発信する。
何回目かのコールで相手は出た。久しぶりに聞くその声に、ツナギは不覚にも少し安堵してしまう。放送で彼らが生きていることはすでに知っていたが、電話越しとはいえ直接その声を聞くと、やはり感じ入るものはある。
これから自分が辿るであろう運命を考えると、余計に。
「あ、もしもし、いーくん? 私だけど」
うまく声が出せず、別人のようにしゃがれた声になる。それでも向こうは、こちらが誰なのか察してくれたようだった。
「私、たぶんこれから死ぬと思うから、それだけ伝えておこうと思って。真宵ちゃんにもよろしくね」
◆ ◆ ◆
時間を少し遡り、放送前。
江迎怒江が
人吉善吉の死体を発見し、それを腐敗させる様子の一部始終を見ていたツナギが江迎に発見された直後。
向かってくる江迎の姿を見て、ツナギはもはや交渉の余地はないと思っていた。
こちらを見る江迎の形相は、すでに正気のものではなかった。目は虚ろで焦点があっておらず、大きく裂けた口の端からは絶え間なく血が流れ続けている。
その血をぬぐうこともなく、足取りだけは確かにツナギのほうへまっすぐに歩みを進めてくる。
化け物のようだ、とツナギは思う。
身体がすでに人間のそれではない自分が、そんな感想を抱くのもどうかとは思うが。
この女は身体ではなく、精神がすでに人間のそれではない。そんなふうに感じた。
「あなた、何者?」
すでに没交渉であることを承知で、ツナギは目の前の女へと向けて話しかける。
言葉が通じるかどうかも微妙と思ってしまうような見た目の相手だったが、意外にも江迎はツナギの言葉に足をぴたりと止める。
狂ったような表情はそのままだったが。
「魔法使い――じゃないわよね。『魔法』使いでもない。魔方陣でも魔法式でも、ここまで大規模に魔法を発動して、魔力を全然感知できないなんてことがあるはずないもの。
魔法じゃないなら、私にはもう『現象』としか言いようがないのだけれど。魔法以外でそんな『現象』を引き起こすことができる人間なんて初めて見るわ。いったい何なの? あなた」
江迎は答えない。
聞いているのかいないのか、まるで腐ったものでも見るような目を、黙ってツナギへと向けてくる。
「ああ、自己紹介がまだだったわね。私はツナギ。小学五年生の魔法少女よ。あなたの名前は?」
「…………あなたに名乗る名前なんてないわ」
ツナギは初めて相手の声を正面から聞く。
「何なのよあなた――今までこそこそ隠れていたくせに、急に堂々と話しかけてこないでよ……見つかったからって開き直り?」
意外に人間らしく喋る――ツナギはそう思う。いや、意外にも何も、相手は人間なのだが。
人間なのだとは思うが。
あからさまに不快そうにはしているが、感情が見て取れるぶんまともに見える。どうやら完全に話が通じない相手というわけではないらしい。
「あなたみたいなガキに、気安く話しかけられる筋合いはないわよ。魔法少女? 頭おかしいのあなた……大体なんなのよ、その頭の口。気持ち悪い」
「……半分口裂け女のあんたに言われたくはないけどね」
ツナギの言葉に、江迎の様子が再び急変する。ざわ、と周りの空気がうごめくような気配を感じたかと思うと、たちまちのうちに辺りが腐臭に包まれ、喉がひりつくような感覚を覚える。
属性「風」、種類「反応」、顕現「化学反応」――そんなふうにツナギは江迎の能力を「魔法」として分析したのだったが、やはり今の江迎から魔力を感知することはできない。
(魔法でないなら、単なる「科学」による文字通りの化学反応――っていう線もありうるのかしらね)
引き起こされる現象があまりに大規模で不可解なものであったから、ほとんど当たり前のようにそれを魔法として考えていたが、思えば何も魔法に限定して考える必要はない。魔力を感知できないなら魔法ではないと考えるのはむしろ自然だと言える。
物質の腐敗を促進、強制するというのは、いかにも科学による技術、バイオテクノロジーの一種と言えるのではないか――現代の科学力を考えれば、細菌などを利用することで人為的に腐敗を促進するというのは十分に可能な技術だろう。
ただ、先程江迎が見せたような、早回し映像さながらの腐敗となると、少なくとも一般に知られているレベルでの技術では説明が付かなくなる。なにより江迎は、触れてもいない、近づいてすらいない周囲の物質さえ腐敗させてみせたのだから。
(科学か超科学か――まあ、それを考えること自体に意味はないか)
どちらにせよ、常識をはるかに超えたレベルの『現象』であることに変わりはない。
ツナギにとって厄介なのは、これが魔法ではないという一点のみだった。ツナギの魔法は属性が「肉」、種類が「分解」、自身の「口」で喰らった魔力を分解し、己の魔力として吸収してしまうという魔法。
だから相手の攻撃が魔法である場合、ツナギとしてはただ真正面から喰い尽くしてしまえばいいだけの話なのだが、今の相手はそう簡単にはいきそうもない。
ツナギの魔法は決して「魔法使い」相手に特化しているというわけではないのだが――相手の引き起こす『現象』の正体が明らかでない以上、自分の魔法がいつもどおりに作用する保障はまったくない。
水倉りすかにとって、ツナギが天敵であったように。
ツナギにとっては、目の前の江迎こそが天敵であるのかもしれないのだ。
「……私を殺す気かしら?」
腐臭に顔をしかめながらツナギは言う。
まるで相手の殺気が、怒気が、そのまま腐臭に変換されているかのような有様だった。
「あなたの態度しだいでは、協力してあげることもやぶさかじゃあなかったんだけどね……私としては、極力無駄な争いは避けたいところだし」
後半はともかく、前半は完全に嘘だった。こんな危険な相手と協力関係を結ぶなど、たとえメリットがあったところで御免だ。向こうから頼まれてもお断りだっただろう。あくまでこれは、相手の目的を探るための台詞だった。
「無駄な争いは避けたい」というのは本音ではあったが、それは目の前の女――江迎怒江との戦闘を避けるという意味としては不適切だった。自分が今、この女をここで始末できるというなら、それはまったく「無駄な争い」ではないのだから。
この女を野放しにしておくよりは、ずっと有意義な闘争である。
それは現時点においては、江迎の能力や奇行を観察した上での、ほぼ直感によった判断と言っていい程度のものでしかなかったが――この直後にツナギは、その直感がこの上なく正しいものだったと理解することになる。
「私はね、死にたくないの」
ツナギの言葉に対して江迎は、やけに明瞭な発音でそう言う。
「善吉くんみたいに、誰かに殺されたりしたくない――嫌われてもいいから、幸せになれなくてもいいから、せめて最後まで生き残って、皆のところに生きて帰りたい」
「皆」というのが誰のことを言っているのかツナギには知る由もなかったが、この女にも仲間と呼べるものがいるのだろうか――とツナギ一瞬だけ、江迎に対する危険意識を緩める。
一瞬だけ。
江迎が次の言葉を発するまでの、本当に一瞬だけ。
「だから、あなたは殺さなくちゃいけないのよ」
今までとまったく変わらぬ口調で、江迎はそう言った。
「だってあなたを殺さないと、私が死んじゃうじゃない」
当然のことをあえて確認するように、まるで自然なことを言うように。
「あなたを殺さなかったら、私があなたに殺されちゃうじゃない――生き残ったあなたが、いつか私のことを殺しちゃうじゃない」
だから死んで――と、
最後には微笑すら浮かべて、江迎は言った。
「…………」
江迎のこの発言について、ツナギが何かを言える道理はないだろう。まさに今、江迎のことを危険人物として始末しようとしている立場である彼女には。
ただ、それでもあえて、五十歩百歩であることを承知で何かを言うなら、江迎の考え方は、自分のそれより圧倒的に醜悪だった。
彼女は今、相手が危険であるかどうかも、相手がどんな人間であるのかも一切関係なく、「ただ目の前にいるから」という理由だけでツナギを殺そうとしている。
それはある意味、今のこの状況にとても即した考えであるとも言える。
「相手を殺さなければいつか自分が殺される」という彼女の思考は、「最終的に生き残れるのは一人だけ」というこのバトル・ロワイアルにおける前提をこの上なく理解したものであると言うことができるのだから。
自分以外を殺し、自分だけが生き残る。
それはこの舞台において、理想的とはいかなくとも、模範的というには十分すぎるくらいのスタンスだった。
――――ぐじゅり。
言い終えると江迎は、おもむろに地面に四つん這いの姿勢になる。地面につけた両手からとても厭な音が聞こえたかと思うと、次の瞬間、周囲に尋常ならざる変化が起こる。
先程の「腐敗」とはまるで逆の現象――周囲の木々が、早回しの映像を見せているかのように、急速に成長、肥大化していく。
若木は成木に。
成木は大木に。
大木はそれ以上の大樹に。
ツナギを中心に、次々に成長していく木々はあっという間に天を衝くような大きさとなり、まるで巨大な檻のようにツナギを取り囲む。
「…………無茶苦茶すぎるでしょ」
さすがにこの『現象』には面食らったのか、ツナギは小さく舌打ちする。
「魔法で例えるなら、属性は「木」、種類は「成長」――いや「増殖」ってとこかしら? 『腐らせる』の次は『成長させる』とはね……まったく恐れ入ったわ」
魔法とは「使用者の『精神』を外側に向けて放出する行為」であり、行使する魔法の種類やそれによって引き起こされる現象を知ることは、その魔法を使用する者の内面を知ることと同義であると言ってもいい。
当然ツナギもそのことを十分に理解している。理解しているがゆえに、目の前で起きている現象は魔法によるものではないということを、さらに強く確信した。
「成長」と「腐敗」、まったくの正反対と言えるふたつの現象をひとりで使い分けるというのは、魔法使いであるツナギにとってはありえないことであり、まったくと言っていいほど信じがたい事実だった。
少なくとも、こちらの『現象』は江迎の内面を反映しているとは思えない。
「腐敗」ならまだしも、こんな凶々しい気配を纏った女が「成長」を司るなど。
実際にはその考えは正鵠を得てはいないのだが、いくらツナギといえども、現時点で江迎の能力について完全に推測するというのは難しいだろう。「腐敗」から「成長」を生み出すという発想は、江迎本人ですら、つい数時間前まで至らなかった発想なのだから。
「は――上等じゃない」
四方八方を大樹の檻で囲われながら、それでもツナギは余裕の表情を見せた。
「そっちから仕掛けてくるんなら、こっちももう様子見の必要なんてないわね……正面から堂々と、根こそぎ喰らい尽くしてやるわ――!」
その現象のあまりの大規模さに面食らいこそしたものの、むしろこれは自分にとっては好都合とツナギは思っていた。
物質を直接「腐敗」させる先程の力よりも、こうして「木」という目に見える物理的な攻撃手段に頼ってくれたほうが、ツナギの使用する魔法にとっては都合がいい。どれだけの物量で攻めてこようが、片端から喰らって「分解」していけばいいだけの話なのだから。
「ぱらだしらかれわ ぱらだしらかれわ・だしらえ だしたえ・くるえくるえ いすたむ・かい・らい・まい・とすいま らると・たふ・らふ・あふ・いらど・えい むが・むが・たふあ・むとたい――」
そしてツナギは呪文の詠唱を始める。
周囲の木々はなおも成長を続け、ツナギとの間隔を狭めていく。覆いかぶさるようにして伸びてくる枝の一本一本が、江迎自身の手足であるかのようだった。
接近戦に限っては、ツナギの魔法による戦闘能力はほぼ無敵といっていい。江迎がこの樹木の群れを自由自在に操ることができたとしても、ツナギの身体に触れたそばから軒並み無力化されてしまうことだろう。
向こうが物量で来るなら、こちらは持久力だ。
相手の能力の正体はわからないが、その原動力が無限ということはあるまい――江迎の体力が底をつくまで、この樹木の兵隊を喰らい尽くしてしまうつもりだった。
持久力というよりは、食欲か――。
「らとたい・ほまろのし じうねき まじきおし くいて・ぼりくつ ほり・すくじ・すえーど すえーす・ろじ・やどれ やどり・らうぼ いらむ ねれいさ――」
呪文の詠唱が終わろうとしたその時、ツナギは自分の認識が甘かったことを知る。
――――めきり。
そんな音が聞こえた次の瞬間、それは起きた。
今にも襲い掛からんとばかりにその枝を、体幹を伸ばしてきた周囲の木々が。
一斉に、ツナギへと向けて崩れ落ちてきたのだった。
「…………!?」
崩れ落ちた――それはツナギの視点からするとそうとしか表現できないような光景だった。まるで計ったかのような正確さで、すべての木々がまったく同時に崩壊したのである。
ツナギは最初、それを「圧殺」を目的とした攻撃なのだと思った。
物量でなく、質量に頼った攻撃。成長、肥大化させた木々すべての質量を用いて相手を押しつぶすという、原始的だがある意味効率的とも言える攻撃。
本当にそうだったとしたら、避けることはできたかもしれない。
木々のそれぞれが塊として落下してくるだけの攻撃ならば、ツナギの身体能力でなら回避しきれていたかもしれない。少なくとも圧死することは避けていただろう。
しかし、そうではなかった。
落ちてきたのは塊でなく、どころか固体ですらなかった。
さながら水風船を割ったかのように、崩壊した木々のすべてから得体の知れない半液体状の何かがぶちまけられ、ツナギへと降り注いできたのだった。
「ぐ…………っ!!」
四方を取り囲んでいた木々がまとめて崩落してきたのだから、逃げ場などあるはずもない。避けることもできずに、ツナギはそのどろどろとした異形の物質を頭上からもろに浴びる。
そしてそれを浴びたことでツナギは、降り注いできた『中身』の正体を知る。
それらは、腐敗した木々のなれの果てだった。
ぐちゃぐちゃの、半液体状になるまで腐敗しきった、まさしく木の『中身』だった。
崩れ落ちてきたのでなく、
腐れ落ちてきたのだ。
(嘘でしょ……こんな短時間で、ここまで徹底的に腐敗させ尽くすなんて……いや、そんなことより――)
馬鹿な、とツナギは思う。
これまでに江迎が見せた現象を見る限り、この「物質を腐敗させる能力」は、すべて「外側から」進行していくものだったはずだ。
江迎自身から、いうなればウイルスのような何かが発生しているかのごとく、外気に触れている部分から順番に腐敗が進行していく、そんな感じだった。
それなのにこの木々は、皆一様に「内側から」腐敗している。
いや――それ以前になぜ江迎は、せっかく成長させたこの木々の群れをなぜ壊滅させたのだろうか?
ツナギへ向けて木々の残骸を「ぶちまける」というのは、確かに意表をつく戦略ではあったが……それによってツナギが大きなダメージを受けたというわけではない。
いや、腐った物質を全身に浴びせかけられるというのは精神的な意味においては計り知れないダメージではあるとは思うのだが……
しかし倒れてきた木々の量が膨大だったにもかかわらず、それらがすべてぐちゃぐちゃに崩壊していたことで圧力が分散し、押しつぶされるようなことはなかった。木々が「徹底して」腐敗していたことが、逆にツナギにとっては幸いだったと言える。
ツナギが意表をつかれて驚いている間に逃げる算段なのかと一瞬思ったが、江迎はまださっきと同じ場所にいた。ただし四つん這いの姿勢ではなく、すでに立ち上がっていたが。
辺りを埋め尽くす強烈な腐敗臭に、思わず目眩を起こしそうになる。それでもツナギは、江迎から意識をそらさぬよう気を引き締めなおした。
しかし、それも一瞬のことだった。
気を引き締めることができたのは一瞬だけだった。
直後、ツナギは本当に強烈な目眩を覚え、その場に膝をつく。目眩だけではない、急に胃がひっくり返るほどの吐き気を覚え、たまらずその場に激しく嘔吐する。
「う…………げぇ…………っ!!」
腐敗臭にあてられたのかと思ったが、ツナギを襲う変化はそれだけに留まらなかった。
今度は全身に痛みが走り始める。腐敗した木々の中身を浴びた箇所を中心に、皮膚を剥がされるような、鋭く焼け付くような痛みが身体の至る所を支配していた。
明らかに、腐敗した木に触れた反応としては常軌を逸している。
まるで硫酸でも浴びたかのような激痛だった。
(何よこれ……毒!?)
痛みと吐き気に朦朧としかける視界の向こうで、江迎怒江がぼそりと呟く。
マイナスからよりマイナスに「退化」した、己の過負荷(マイナス)の名を。
「『荒廃した腐花』――改め、『荒廃した過腐花』<ラフライフラフレシア>」
◆ ◆ ◆
江迎が成長させた木々を一斉に、それも一瞬にして崩壊させたという現象。
江迎が善吉の死体を、手を触れることなく骨の一本に至るまで腐敗させ尽くしたという現象。
そのふたつの現象は、どちらも同様のメカニズムによって説明することが可能なものである。
今さら説明は不要かもしれないが、江迎が貝木泥舟とともに開発した「荒廃した腐花・狂い咲きバージョン」は、「土を腐らせる」ことによって腐葉土を作り出し、大量の養分を生成することで強制的に植物を成長、操作するという過負荷(マイナス)である。
つまりはこの能力により「腐敗」するのは江迎が手を触れている地面の一部のみであり、植物の成長を促すというのはあくまで副次的な効果でしかない。
「手で触れたものを腐敗させる」――起きる現象は違えど、それが江迎の持つ欠点(マイナス)であり、同時にルールでもある。
今の彼女にしても、そのルールに変更はない。手で触れたものを腐らせるという一点においては、今でも現在進行形で適用されている。
ただし、今の江迎はそれだけに留まらない。
現在の彼女の過負荷(マイナス)には、新たな欠点が付加――負荷されている。
順を追って説明しよう。
江迎がツナギに対し「荒廃した腐花・狂い咲きバージョン」を発動した際、彼女の両手はやはり、最初に土を腐らせた。
土を腐らせ、腐葉土を作り、木々を成長させる。ここまでは今までの江迎と同様である――今までの過負荷(マイナス)と同様である。
今までと違ったのは、その次からの過程だ。
次に彼女が――彼女の両手が腐敗させたその土は、その周りの土を腐らせる。
腐った土が次の土を腐らせ、その土がまた、次の土を腐らせるといったように。
その次も、またその次もと、伝達するように土が土を腐らせ続ける。
その腐敗はやがて、周囲の木々の根元に達する。土から土へ続いてきた腐敗は、まるで当然のようにその根から木の内部へと伝達される。
土から根へ。
根から幹へ。
幹から枝へ。
内側から侵食するように、その腐蝕は次々に進行していき――最終的に表皮にまで達した時点で、それらは一斉に崩壊する。
水風船のように外側の表皮を破り、どろどろの中身をぶちまけながら。
江迎が人吉善吉の死体を腐敗させたときも、これと同様のプロセスをたどった結果である。
善吉の死体を発見したとき、江迎の両手が最初に何を腐敗させたかと言えば、それは「空気」だった。
江迎の『荒廃した腐花』は強弱の操作はできてもオンオフの切り替えは利かない。何も触れていない状態であっても、彼女の両手は常に、自身の意思に関わらずその周りの空気を腐らせ続けてしまう。
そうして行われた「空気の腐敗」は、土中を伝達したときと同様、空気中を伝達する。
空気から空気へ、もはや風向きすら関係なく次々に腐敗を伝達し――そして善吉の死体へと至る。
腐敗した空気が、まず服を腐らせ。
服から皮膚へ。
皮膚から肉へ。
肉から内臓へ。
内臓から骨へ。
次々に、次々に、次々に、次々に。
ぐずぐずのぼろぼろに朽ち果てるまで、その腐敗は続く。
『腐敗の連鎖』。
果実を敷き詰めた箱の中にひとつだけ腐った果実が紛れ込んでいると、周りの果実にまでその腐敗が広がってしまうというのはひとつの常識であるが――今の江迎に負荷されている過負荷(マイナス)は、まさにそれに類するものである。
腐敗が腐敗を呼び、荒廃が荒廃を呼ぶ。
土から土へ、空気から空気へ、植物から植物へ、生物から生物へ。
伝染し、感染し、汚染する。
「腐敗を伝染させるスキル」――それこそが今の江迎の過負荷(マイナス)、『荒廃した過腐花』<ラフライフラフレシア>。
「はっ……はっ……はっ……はっ……っ」
江迎によって腐敗した木の残骸を全身に浴びたツナギは、喘ぐように息を吐きながら疾走する。
彼女の周りには、鼻を覆いたくなるほどの異臭がとめどなく漂っている。それは身体に付着した木の残骸だけでなく、ツナギの身体そのものからも発せられていた。
言うまでもなく、それは腐臭だった。『荒廃した過腐花』により木からツナギへと「伝染」した、腐敗の香りだった。
(「毒」なのか「病原体」なのかはわからないけど……炎症とか化膿とか、そういうものを全部すっ飛ばしてダイレクトに「腐らせる」って感じね……それなのに、伝染病みたく「うつす」ことはできる――何にせよ、理屈で説明できる現象じゃないわね)
腐敗に全身を侵されながらも、ツナギは大幅に取り乱すようなことはなかった。逃走しながら、江迎の能力について正確に分析できるくらいには冷静さを保っていた。
そう、彼女はいま逃走していた――かつて「魔眼」の使い手、『眼球倶楽部』犬飼無縁と対峙したときにすら、捨て身の覚悟で挑もうとしていた彼女の行動とは思えないくらい、一直線に逃走していた。
ただし正確を期するなら、ツナギは江迎に恐怖を感じ、まったく勝ち目がないと諦めた結果として逃走しているわけではない。
その逃走はどちらかというと、ツナギが廃病院で初めて水倉りすかと対峙し、「変身」した彼女の魔法を見せつけられ一目散に退散したあの時――つまりは戦略的撤退といえるものに近い。
勝利を捨てた逃走でなく、勝利を手放さないための逃走。
なぜなら、今の彼女は。
江迎から離れなければ、呼吸をすることすら難しい状況にあるのだから。
「はっ……はっ……はっ……はっ……かは……っ!!」
喘ぐような呼吸。
実際、彼女は喘いでいた。無理もないだろう、周囲を正常でない空気に覆われ、
おまけに気管と肺にダメージを受けながら喘ぐことなく走り続けられる生物などおそらく存在するまい。
(物質を腐らせる能力――その能力を駆使して「空気」すらも腐敗させた、ってことかしら? まったく冗談じゃないわ――!)
呼吸とは裏腹に、乱れのない思考を働かせながら、ツナギは後ろを振り返る。
だいぶ離れたところに江迎はいた。狂気の表情を浮かべ、一心不乱に逃げるツナギを追いかけてくる。足の速さはさほどでないため、ツナギとの距離が縮まる様子はない。
『空気を腐らせて毒ガスを作る』――それはかつて人吉善吉の母、人吉瞳に行使したのと同じ、江迎の基本戦術のひとつ。
相手が風下に立っていることが使用条件ではあるが、離れた相手に目には見えない攻撃を加えるという点では、それなりに強力な武器ではある。
しかし今の江迎は、その基本戦術ですら強化されている。
先にも述べたが、成長した江迎の過負荷――『荒廃した過腐花』には風向きすらもはや関係がない。空気から空気へ、連鎖反応的に「空気の腐敗」を拡散させることができる。
それどころかその「腐敗の連鎖」が肺にまで到達してしまえば、毒ガスに侵されるどころの話ではない。「連鎖」により身体の内側から直接腐敗させられるという致命的なダメージを受けることになる。
幸いツナギは、腐敗した空気を吸い込んではいるものの、かろうじて「連鎖」が届く範囲からは逃れていた。
『荒廃した過腐花』による腐敗の連鎖は、当然のこと無限ではない。ある程度距離を置いてしまえば「伝染」することは免れる。
しかし、ツナギにとっては現時点ですでに致命傷を負っているも同然だった。
毒ガスにより肺腑と気管を焼かれたというダメージは、致命傷と同じくらいに深刻だった。
(『呪文の詠唱ができない』――確かにこれは、ちょっと致命的過ぎるわよね……)
ツナギは苦虫を噛み潰したような表情になる。
魔法を発動するためには、魔法式か魔方陣、あるいは呪文の詠唱を必要とする。
ツナギの魔法も例外ではない。ひとつかふたつ「口」を出現させる程度なら詠唱なしでも可能だが、512個の「口」をすべて出現させ、完全な戦闘モードに「変身」するためには、どうしても呪文の詠唱が必要になる。
図らずも江迎は、その手段を真っ先に潰すことに成功した。
言葉が発せないわけではないにしても、呼吸することすら困難な状態で呪文を一言一句正確に詠唱するというのはかなりの無理難題である――そもそも魔法の発動には、正常な精神状態こそが求められるのだから。
ツナギが江迎に話しかけている間、江迎のほうはすでに戦闘を開始していたのだ。
己を中心に、まるで見境なく「空気の腐敗」を辺り一面に展開するという荒業をもってして。
当然、江迎自身もその「腐敗」の真っ只中、渦中に身を投じているも同然なのだが――「なぜ彼女自身は腐敗の影響を受けないのか」などという疑問をいまさら呈するのは愚問としか言いようがないだろう。
昔からずっと、その「腐敗」とともに生きてきた江迎にとっては。
どれだけ腐敗が蔓延しようが、どれほどの空気が腐敗しようが、それは日常の延長線上。
球磨川の『大嘘憑き』が、『なかったこと』を『なかったこと』にできないように。
限界まで腐りきっているものを、そこからさらに「腐敗」させることはできない。
腐敗に染まりきった彼女が腐敗の影響を受けることなど、ありえるはずもない。
ツナギが先程、江迎の引き起こした『現象』に対し、本人の内面を反映していない魔法とは異なるメカニズムという見識を持ったが、それはやはり大きな間違いである。
今の江迎の過負荷(マイナス)は、これ以上ないくらいに彼女の内面を反映している。
死にたくないという意識を。
自分が生きるためなら、他の何を滅ぼしても構わないという、限りなくマイナスの方向に寄った、彼女の貪欲かつ醜悪な生存本能を。
余すところなく、反映しすぎている。
「ったく……全然面白くないわ…………これじゃ全部が全部、まるっきり後手後手じゃない……!」
苦しげに、息も絶え絶えにツナギが発したその言葉は、実のところ大いに正鵠を得ていた。
後手後手。
まさしくすべてにおいて後手に回ったからこそ、ツナギは今こんな苦境に立たされているのだから。
ツナギが江迎の姿を発見してから、江迎が「成長」の能力を発動するまでの間、そのうちどのタイミングでもいい、呼び止めて話を聞くなり、「魔法」を使って脅しつけるなり、不意打ちで襲い掛かるなり、何かしら積極的な行動に出ていれば。
そもそも「尾行」などという、武闘派中の武闘派たる彼女の得意分野とは言えない行為に出てさえいなければ、こんな状況に陥ることなどなかったに違いない。
結局のところ。
彼女が今の今に至るまで、まるで彼女らしくもないことに消極的な様子見の姿勢に徹していたことが、結果的に江迎の過負荷(マイナス)を大幅に成長させ、初見殺しともいえる江迎の先制攻撃を許すという最悪の事態を招き寄せてしまったと言える。
そしてこの失敗は、もはや取り返しのつくものではない。
成長した江迎の過負荷を浴びたという失敗は、大げさでなく死に直結する。
「…………痛っ!!」
右大腿部に走る激痛に、思わずそこに手をやる。
手で触れたその部分から、皮膚なのか肉なのかすら判然としないものがずるりと剥がれ、地面へぼとりと落下した。
すでに「連鎖」のリンクからは外れているとはいえ、一度受けた腐敗の影響は着実にツナギの身体を蝕んでいた。外側だけに留まらず、内側にまでその腐敗は侵食してくる。
生きたまま自分の身体が腐れ落ちるというのは普通の神経をしていれば発狂ものであろうが、それでも冷静でいられるあたり、ツナギの戦士としての器量が窺える。
しかしいくら冷静でいられようが、肉体の損傷だけはどうしようもない。腐敗が脚に回ったことで、ツナギの走る速度が目に見えて落ちる。
後ろからは江迎が、まるで変わらぬ速度で走り続けてくる。
彼女の通った後にあるものは、そのすべてが少なからず「腐敗の伝染」の影響を受けており、道しるべのように江迎の走ってきたルートを表していた。足跡ならぬ腐敗跡といったところか。
単純な身体能力で言えば、江迎よりもツナギのほうがおそらく高いだろう。しかし今、ツナギは全身に腐敗の影響を受けている上に呼吸が困難な状態にあるのだから、全力で走り続けられるほうがおかしい。
だからおかしいのはむしろ、江迎のほうだろう。
彼女はついさっきまで、休息どころか水分の補給もないままに数時間ぶっ通しで走り続けてきたのだ。それを追跡してきたツナギも距離的には同じ条件といえるが、むしろ余裕を持って追跡してきたツナギと江迎を同列に考えるのが正しいとは言い難い。
それなのに江迎は、まるで疲労を感じさせない速度で走り続けてくる。それも能力をフルに開放し続けたままで。
今の江迎を支えているのは、人間離れした精神力だった。
疲労も渇きも空腹も、根こそぎ凌駕する歪んだ精神力。
何にせよ、このままではツナギが追いつかれるのは時間の問題だった。
江迎の「腐敗の連鎖」の範囲内に入れば、今度こそ間違いなく命はないだろう。
(仕方ない……本当はこんな、小道具なんかに頼りたくはなかったんだけどね――!)
ツナギは自分のデイパックから、かんしゃく玉のような小さな球体を数個取り出し、向かってくる江迎と、地面に向けてそれぞれ投擲する。
「!」
江迎は自分めがけて飛んでくるそれを、反射的に両手を向けて「腐敗」させることで防御する。
しかしそれらはフェイントに過ぎない。ツナギにとって本命は、地面に投げたほうの球体だった。
その球体は地面に衝突すると同時に、その小ささからは想像もつかないくらいの勢いで、派手に爆発した。
「…………っ!!」
箱庭学園風紀委員長、雲仙冥利が使用していた武器のひとつ――炸裂弾「灰かぶり(シンデレラ)」。
その強烈な爆風に、江迎の小柄な身体は数メートルほど吹き飛ばされる。とっさに顔をかばったため爆熱や爆片で目などを傷つけることはなかったが、そのかわり受身も取れず、思い切り地面に叩きつけられてしまう。
「がは…………っ!!」
気を失うこともなかったのは、やはり彼女の執念というべきだろうか。
痛みにうめきながらも、江迎は立ち上がる。爆音による耳鳴りが酷く、目もちかちかする。それ以前に爆風により巻き上げられた砂煙が煙幕となり、辺りの視界を閉ざしていた。
さすがにこの状況で下手に動くことはできない。闇雲に動き回ればこちらの居場所を相手に教えてやるようなものだし、そこにもう一度あの爆弾を投げつけられたらひとたまりもない。怒りに震える江迎の頭でも、そのくらいのことは理解できていた。
歯噛みしながらも、江迎はその場でじっと煙が晴れるのを待つ。
数分後、視界が晴れたときにはもう、そこにツナギの姿はなかった。
「あの…………クソガキがぁ!!」
江迎の怒号に反応したかのように、周囲の木が数本、見る影もなく腐敗していく。
しかしその声に返事を返す者は、当然ながら誰もいなかった。
こうしてツナギは、満身創痍になりながらも一時的に江迎怒江からの逃走に成功する。
一時的に。
この時点ですでに、ツナギは自分が完全に逃げ切れないことを確信していたし、そもそも最初から、逃げ切るつもりなど毛頭なかった。
彼女の逃走は、あくまで勝つための逃走。
闘争のための逃走。
江迎の姿が見えないところまで走り、適当な草むらに身を隠したツナギがまずしたこと。
それは呼吸を整えることと、それから流れてきた放送を聞くこと。
そして自分のデイパックから、携帯電話と応急処置用の包帯、そして筆記用具を取り出すことだった。
◆ ◆ ◆
「思ったよりも時間がかかったな……」
豪華客船を後にし、再び砂漠の中をひた走るフィアットの中。
往路に対して若干東寄りのルートを走行し、次の目的地、診療所に向かう途中で、ぼくは助手席の真宵ちゃんに聞こえない程度の声でつぶやく。
ぼくたちが学習塾跡の廃墟を後にしてから、すでに二時間以上が経過している。これから診療所とネットカフェに向かうことを考えると、移動手段に車を使っているにしてはのんびりしすぎた感がある。
「このペースだと、さすがに研究所までは間に合わないか……」
ついさっき聞いた放送の内容を思い出して、ぼくは言う。
今回はしっかりと、禁止エリアも地図にメモしてある。目的地候補だった斜道卿壱郎研究所が存在するエリアD-7が禁止エリアに入るまで、残り三時間を切っている。
研究所が山の中にあるという条件も合わせて考えると、診療所とネットカフェをスルーして直接向かったとしてもまず間に合わない。奇跡的に間に合ったとしても、出る時間がないだろう。
放送までには道路のある場所まで戻ってこれると思っていたけど……砂漠の移動に予想していたよりも時間を費やしてしまったのが原因のようだ。
そう考えると、わざわざ砂漠を横断してまで豪華客船に寄ったのが本当に正解だったのか、後悔とまでは行かなくとも疑問のような感情を少し抱いてしまう。「人探し」の点で言うと、研究所のほうがどちらかと言えば本命だったし。
せめて何か役に立ちそうなものでも見つかれば、言い訳にもなったのだけれど。
ガソリンくらいはあるんじゃないかと期待してたんだけどなあ――いや、よくよく探せばもしかしたら何かは発見できていたのかもしれないけれど、あのだだっ広い船内を真宵ちゃんと二人で隈なく探すというのはさすがに無理がある。
二時間どころか、丸一日でも利くまい。
まあ、もともと「迂回」のためのついでに寄ったみたいな場所だったし、誰もいないことが確認できただけでも収穫だったのかもしれない。
あの船内に誰かが潜んでいて、出会い頭に殺されるという可能性があったことも考えれば、何もなくてラッキーと言えないこともないし。
ポジティブ・シンキング。
何にせよ、過ぎたことをあれこれ考えていても仕方がない。次の目的地である診療所で役に立ちそうな物か情報が拾えることを願うだけだ。
――と、ぼくが思考を一区切りし、やっぱり砂漠は暑いなあ、とどうでもいい方向に思考を向け始めた、そのとき。
「ひゃう!?」
という真宵ちゃんの悲鳴を聞き、危うくハンドルを引っこ抜きそうになる。幸いぼくの腕力が不足していたおかげで、ハンドルは無事だった。
何事かと思いぼくが見たものは、いつの間にか取り出していたらしい携帯電話を握り締め、その画面を見つめたまま硬直している真宵ちゃんの姿だった。携帯からは、着信が入っていることを知らせる着信音とバイブレーションが無機質に続いていた。
ああ……そういえば船内にいたとき、真宵ちゃんに携帯電話の機能を調べる役割を押し付け……任せたのだったっけ。
まさに今、その役割を果たしている真っ最中だったのだろう。慣れない携帯電話に四苦八苦しているところにいきなり予想外の着信が入ってびっくり仰天、という構図らしい。
「……誰から?」
聞きながら、たぶん零崎からだろうな、とぼくは思っていた。
この携帯の番号を教えてあるのは今のところあいつだけだし、零崎以外で唯一電話の通じた展望台はすでに禁止エリア内に入っている。誰かが偶然この番号にかけたのでない限り、零崎からの連絡と考えるのが妥当だろう。
何の用かはわからないけど……ツナギちゃんの情報でも手に入れてくれたか?
そういえばあの子、今頃どうしてるんだろう……
「えっと――知らない番号です」
「え?」
硬直の解けた真宵ちゃんが、携帯の画面をこちらに向けてくる。表示されている11桁の番号は、確かに登録されているどの番号とも違う――というか、番号だけが表示されている時点で未登録か。
「…………」
「…………」
ぼくたちは互いに、黙って顔を見合わせる。
すぐに「前を見て運転してください」と注意されたため、見合わせていたのは一瞬だけだったけれど。
「……とりあえず出てみてよ、真宵ちゃん。ぼくが応対するから、出たらすぐぼくにかわって。例によって、真宵ちゃんは何も喋らないように」
「例によって、電話はわたしが持ったまま、ですよね?」
「うん、安全運転優先、だよね」
わかればいいんです、と急に尊大な感じに言って通話ボタンを押す真宵ちゃん。さっき悲鳴をあげたのを失点と思い、それを取り返そうとしているのかもしれない。
可愛い。
すぐに携帯が耳に当てられる。ぼくはとりあえず「もしもし」と、名乗らず声だけを相手に聞かせる。
知らない番号からの着信ということは、おそらく相手もぼくたちと同じように携帯電話を支給された参加者なのだろう。移動中にぼくたちがそうしたように、登録された番号に手当たり次第かけている最中、といったところか。
ぼくたちの知らない相手だとしたら、まずは向こうがどんな立ち位置にいるのか探らなければならない。協力関係を築けるような相手なら歓迎だけど、主催者に与しているような相手なら逆に要注意だ。
それを会話だけで見極められるかどうかは、正直やってみないとわからないけど……
『あ、もしもし、いーくん? 私だけど』
意外なほど気軽に返ってきたその返事に、思わず「え?」と声が漏れる。真宵ちゃんが怪訝そうな顔でこちらを見るのがわかった。
……いーくん? 私?
偶然通じただけの相手だと思って身構えていただけに、思わぬ肩透かしを食ってしまった形になる。
明らかにぼくたちのことを知っている様子なのだけれど……聞き覚えのある声ではない。
ただ、ぼくのことを「いーくん」と呼ぶ相手といったら……
「えっと……ツナギちゃん?」
『そうそう、ツナギちゃん、口より口のほうが先に出る魔法少女ツナギちゃん。久しぶりね、元気だった? いーくん』
その溌剌とした口調はたしかに数時間前まで一緒にいたツナギちゃんを思わせるものだったが、声のほうはまったく溌剌としていない。というかやっぱり、ぼくの知っている彼女の声とは全然別人のように聞こえた。
掠れているといかしわがれているというか、妙に聞き取りづらい。そのうえ会話の合間にやたらと咳をするので、喉の風邪をこじらせた相手と話しているような心地だった。
『いーくん、今どこにいるの? 真宵ちゃんは一緒にいる?』
「今は……因幡砂漠ってところを車で移動してるよ。豪華客船のすぐ近く。真宵ちゃんも一緒にいるけど――ていうか、ツナギちゃんこそ今どこに?」
『因幡砂漠か……よかった、なら大丈夫ね』
こちらの質問には答えず、ひとりで何かを安心した様子のツナギちゃん。
大丈夫って、なにがどう大丈夫なんだろうか――ぼくはにわかに不安を覚える。
「ねえ、疑うようで悪いんだけどさ……きみ、本当にツナギちゃん? 何か、声が全然違うように聞こえるんだけど」
『あー、うん。まさにそのことについてなんだけど、時間がないから単刀直入に言うわね』
そして彼女は実際に、間を置かず単刀直入に言う。
『私、たぶんこれから死ぬと思うから、それだけ伝えておこうと思って。真宵ちゃんにもよろしくね』
「…………は?」
唐突過ぎる内容に頭の理解が追いつかず、呆けた反応になってしまう。
死ぬ?
あのツナギちゃんが死ぬって……何の冗談だ?
「死ぬって、ツナギちゃん、どういう――ちょっ、待って、ツナギちゃん、一回落ち着いて……冷静になってもう一度、何を言いたいのか、よく整理してから――」
『……いや、いーくんが落ち着きなさいよ――ごめんごめん、さすがに単刀直入過ぎたわね、私もちょっと焦ってたわ。今からちゃんと説明するから』
宥めるように言われて、ぼくは我に帰る。確かにぼくがテンパってちゃ仕方ない。
でもいきなり「これから死ぬ」なんて言葉を聞いて冷静でいろと言われても……
そこでぼくは、携帯を持つ真宵ちゃんのはっとした表情に気付く。死ぬ、というぼくの言葉に反応したのだろう。
思わず出た言葉とはいえ、配慮が足りなかったかな、と反省する。
『えっと、じゃあ一回目の放送の後、私が真宵ちゃんと別れたところから話すわね――』
げほ、とむせ返りながら、ツナギちゃんは苦しそうに話し始める。
『あのあと学習塾跡の近くを歩いてたら、変な女が何かぶつぶつ言いながら走ってるのを見つけてね。直感でこいつは放っておいたら危険だって思ったから、念のため尾行してみることにしたの』
尾行……急にいなくなったと思ったら、そんなことしてたのか。
一回目の放送の後というと、真宵ちゃんが七実ちゃんに襲われそうになっていたあたりのことか……
あの時はツナギちゃんが敵だったんじゃないかと疑ったり、そうでなくともツナギちゃんがついていれば真宵ちゃんがあんな目に遭うことはなかったんじゃないかと責めたくなる気持ちもあったりしたのだけれど……
もともとツナギちゃんは何となくぼくたちに同行していただけに過ぎないし、率直に言えば、ツナギちゃんにぼくたちを助ける道理があるわけではない。
しかもあのあと聞いた話によると、真宵ちゃんのほうから突き放したような別れ方をしてしまったらしいし、あの件に関しては、ツナギちゃんのほうには一切非はないだろう。
『だけど結局尾行はばれて戦う羽目になったんだけどね――で、その女、想像以上にブチ切れた「能力」の持ち主でさ……油断してたせいもあって、返り討ちみたいな感じになっちゃったわけなのよね、これが。
それで今、逆に私のほうが追われる身になってるって状況。このままだと確実に見つかるし、見つかれば確実に殺される。九割方詰まされてる感じ』
「そんな…………」
絶句するぼくにツナギちゃんは、その女の人の能力について説明してくれる。
手に触れたものの腐敗を促進させ、さらにはそれを「伝染」させることができる能力。
その力と関連があるかどうかはわからないが、植物を急速に成長させ、操作することができる能力。
どちらにしてもにわかには信じがたいような、それこそ魔法のような力。
腐敗を伝染させるというのは、何となく奇野さんあたりを連想させるけど……しかしツナギちゃんの話を聞く限り、毒や病原体を操ってというより「腐敗」そのものをコントロールしているような印象を受けた。
本当にそうだとしたら、異常のケタが違う。
しかも聞くところによると、鳳凰さんと対峙したときに見せたあの「魔法」もほとんど封じられているらしい。喉を潰されているため、呪文の詠唱ができないのだとか。
たしかにあの時、ぼくの後ろでツナギちゃんが唱えていた呪文とやらはかなり長くて複雑なものだった。あれを途切れることなく正確に最後まで詠唱しきるというのは、今のツナギちゃんの喋り方を聞く限りほぼ不可能だろう。
今のこの会話も、どうにか聞き取れる部分だけを拾い上げながら勘とニュアンスで成り立たせているようなものだし。
外国人同士の会話か、と突っ込めるような状況ではもちろんない。
『そんなわけで、死ぬ確率がかなり現実的な数字になっちゃったから、生きてるうちに誰かに連絡しておこうと思って。支給品に携帯電話があったから適当にかけてみたら、偶然にもいーくんが出たってわけ。
いやー、持ってるわね私。この土壇場で知り合いに通じるって、日ごろの行いが良いおかげかしらね』
「…………」
偶然って……さすがにそれは嘘だろう。
おおかた真宵ちゃんの支給品に携帯電話があることを知って、隙を見てこちらの番号だけを調べて控えておいたんだと思う(おそらくぼくが学習塾跡に偵察に行っている間だ)。
ぼくたちからすれば情報を無断でこっそり盗み見られたようなものだろうけど、特にそれを怒る気にはならなかった。
むしろあの抜け目のなさそうなツナギちゃんならそのくらいのことはするだろうな、という気持ちのほうが強い。支給品そのものを盗まれたわけでもないし、ただの携帯電話とはいえ自分の支給品を相手に知られたくなかったツナギちゃんの心情も理解できる。
お互い、完全に心を許せるような間柄でもなかったし。
そもそも、許せるような心がぼくにあればの話だけれど。
「…………それにしても、」
なんか多くないか……? 携帯電話。
今のところぼくが確認できているのは零崎のも合わせて三つだけだけど、「ひとりで三つも確認できている」と言い換えれば、参加者の人数も考えると結構な数の携帯がこのフィールドにばら撒かれているように思える。
ぼくにとって携帯は単に電話をかけるだけの道具でしかないのだけれど……武器でもなんでもない、ある意味異質ともとれるこの通信機器を、これほど数多く支給する意味というのは、果たしてあるのだろうか?
……もしかすると、この数多くある携帯電話こそが、主催者の意図、ひいてはこの殺し合いの目的、その真意に迫るための重要なファクターなのではないだろうか?
いや、きっとそうに違いない。
これほどまでに徹底した殺し合いの場を創り上げて「実験」とやらを行おうとしている主催者が、何の意図も、何の意味もなくただ闇雲に携帯電話だけを重複して支給するなどということはまず考えられない。
まだぼくが気付いていないというだけで、この携帯電話には何か、とてつもなく重要な意味がこめられている。少なくとも主催者側が明らかにしていない何らかの意図が存在していると、そう断言できる。
携帯電話、これこそがこのバトル・ロワイアルにおける最重要項目であるはずだ。
『もしもし? いーくん聞こえてる? なんか今、不用意にハードル上げなかった?』
「え? ごめん、ちょっと聞こえなかったけど、何?」
ハードル? 何の話だろう。
『いや……何でもない。それより私が今いる場所だけど――』
やや強引に話を本筋に戻そうとするツナギちゃん。
ぼくは何か、良くないことでも言ったのだろうか。
『闇雲に逃げてきたから、正直はっきりした場所はよくわからない。たださっきまでC-3の西端あたりにいたから、その付近のどこかだと思う。勘だけど多分B-2ね。
道沿いの草むらに今隠れてるから、そこに私のデイパック置いておくわ。要るんだったら取りに来て。ちゃんとした目印とかない所で悪いけど、この携帯も一緒に置いておくから着信音で何とか探してみてよ。
まあそれほど大した中身でもないけどね。携帯電話以外ではシンデレラとかいう名前の炸裂弾が6個と、賊刀・鎧っていうでかい鎧がひとつ。こんなもの誰が着れるっていうんだか……
――あ、でもしばらくは近づかないほうがいいかも。この辺り一帯、あの女がうろついてる間はガチで危険指定区域だから』
C-3付近……ここからじゃ車を飛ばしても、すぐには着きそうにないか……
もしかして、さっきツナギちゃんの言った「よかった、なら大丈夫」というのは、ぼくたちが近くにいなくてよかった、という意味だったのだろうか。
自分が死ぬ間際にいるかもしれないのに他人の心配を優先するツナギちゃんに、ぼくは感謝や尊敬よりも先に違和感を覚えてしまう。
「……何とか逃げられないのか? 隠れられてるっていうんなら、そこから動かずにやり過ごすとか、色々――」
『無理ね』
悪あがきのようなぼくの言葉を遮るようにして、ツナギちゃんは言う。
『今はじっとしてるから隠れられてるけど、逃げようとして動けば確実に見つかる。受けたダメージのせいで足も鈍くなってるしね……
それと、ここにじっとしててもいずれ見つかる。あの女、地獄の果てまで追ってきそうな形相だったし、そこらじゅうの物を腐敗させまくってでも私のことを見つけ出そうとしてくる。草の根分けてっていうか、草の根腐らせてでもって感じでね』
聞いている途中でぼくは、真宵ちゃんがこちらへ耳を寄せてきていることに気付く。いつの間にか会話を聞こうとしていたらしい。
内容が内容なだけに、真宵ちゃんに聞かせていいのかどうか迷うけれど、電話を持っているのが真宵ちゃんなのだから、わざわざ奪い取ってまで聞かせないというのも変な感じになりそうだし……
真宵ちゃんが聞きたいと思うのなら、ここはその意思を尊重しておこう。
念のため「聞きたくないなら聞かないほうがいいよ」という意味をこめて視線だけ送っておく。通じたかどうかはわからないけど。
『それに万が一逃げおおせたとしても、その後でどれくらい生きてられるのかわからないような状態だし。この声聞いたら、私がどれだけヤバい攻撃喰らったのか少しは想像できるでしょ?
いーくん、今の私の姿見たらびっくりするわよ。顔とか手足とか、髪とかも、かなり酷いことになっちゃってるから』
「…………」
ていうか、全身に口が出現した姿を一度見ているんだけど……多分あれ以上にびっくりすることはないんじゃないかなと思う。
言わないでおくけど。
『今の私じゃ、認めたくはないけどあの女には勝てない。「変身」が封じられてる上に、身体も思うように動かないし。
だからってこれ以上逃げる気はないし、おとなしく殺されるつもりもない。できれば相討ちくらいには持っていきたいけど、今の身体じゃそれも厳しいかな――まあ最低でも、一矢報いるくらいはしてやるつもりだけどね』
「…………」
ぼくは想像する。
生きながらにして自分の身体が「腐敗していく」というのが、どれほどの苦痛と恐怖を伴うものなのかを。
当然それは想像できる範囲のものではなかったし、仮に想像できたとして、それで何か意味があるようなものだとも思えなかった。
ただ少なくとも、それは今のツナギちゃんのように明朗快活に話せるような苦痛や恐怖ではないだろうということくらいは想像できる。
ツナギちゃんは、今自分が置かれている状況が怖くないのだろうか?
単に強がって、無理やり押さえ込んでいるだけなのだろうか?
……いや、違う。きっとツナギちゃんは、すでに覚悟を決めているのだと思う。
死に直面しようと、身体が腐敗しようと、己の武器を封じられようと、それでも相手に臨んでいくという覚悟。恐怖を押さえ込むのでなく、消し飛ばすほどの確固たる覚悟。
ぼくが思っている以上の意味で、ツナギちゃんは強い。
『まあそんなわけで――短い間だったけれど、残念ながらお別れね、いーくん。勝手についていって、勝手に別れて、勝手に死ぬような形になっちゃったけど、もともとこういう性格だからってことで勘弁して頂戴な。
上着借りっぱだったけど、これは返せそうにないわね……ていうか腐ってるし。借りパクしてごめんね』
「いや、服は別にどうでもいいんだけど……」
『きみは真宵ちゃんと一緒に頑張って。私がいなくなった途端に死んだりしたら情けなさすぎるわよ……って、油断して死にかけてる私が言えたことじゃないか』
「…………」
この時点でぼくは、すでにツナギちゃんの死を半ば受け入れてしまっていることを自覚していた。
そもそもさっきの放送を聞いたとき、ぼくは何を思った?
七人もの死者が出たという知らせを聞いて、ぼくは何か感じていたか?
否、ぼくは何も感じていなかった。死の知らせを聞いて、悲しいとも思わなかったし、憤りもしなかった。むしろ子荻ちゃんが生き返っているという事実のほうに重要性を感じている始末だった。
そんなぼくが、たった数時間行動を共にしただけのツナギちゃんの死は受け入れがたいと喚くのか?
そんなもの、戯言以外の何物でもないだろう。
「……どうしても助からないのか?」
それでも、戯言とわかっていても、ぼくは言う。
「ぼくに何か、協力できることがあれば――」
『だから無理だって……意外と往生際が悪いのね。あの女もそろそろ近くまで迫ってきてるだろうし、もう九割九分、詰みよ』
「でも――」
『でも、じゃないの』
ぴしゃりと、ツナギちゃんはぼくの戯言を遮る。
『私なんかにかかずらってる場合じゃないでしょ、いーくん。きみは真宵ちゃんを守ってあげないといけない立場なんだから、しっかり前を見てなさい。
いつまでもうだうだ言ってると、逆に真宵ちゃんにフォローされっぱなしになっちゃうわよ。そんなことで生き残れると思ってるの?』
「…………」
『鳳凰とかいう、あの鳥みたいな服装の男に遭遇したときのこと覚えてるでしょ?
あいつを追っ払ったのはたしかに私だったけど、私が「変身」できたのは、きみがあいつと真正面からやり合ってくれたおかげ。きみがいなかったら、あのとき真宵ちゃんまで守れてたかどうかは分からなかった。
きみはきみが思ってる以上に強い。それは私が保障してあげるわ、いーくん』
「ツナギちゃん…………」
やっぱり、この子は強い。
ぼくが心配するなんておこがましいくらいに、前を向いて生きている。
それならぼくも、戯言でない言葉で応じなければならない。
「……わかったよ、ツナギちゃん。真宵ちゃんはぼくが守る。ぼく自身もきっと、最後まで生き残ってみせる。約束する」
『いい返事よ、いーくん』
何か、ここに来てから年下の子にぜんぜん頭が上がらないなあ……この短時間のうちに、女の子から二回も「前を見ろ」って言われるし。
…………いや、ぼくってもともとそんな感じだったっけ?
そういえば、ツナギちゃんの正確な年齢とか聞いてなかったな――見た目からするとまだ小学生っぽい感じだったけれど。
外見と年齢が一致しない例を多く知りすぎていて逆に見当がつかない。
『――ああそうだ、ここからは単に図々しいお願いになるけど、水倉りすかと供犠創貴っていう小学生くらいの子がいたら、それ私の友達だから。もし会ったらよろしく伝えておいて。
それと名前は聞いてないけど、あの腐敗女について
掲示板に書き込んでおいてくれる? 危険人物がB-2あたりで周囲を腐らせながら暴れ回ってるって。 どんな能力使うかとかも、できるだけ詳細に。
私が書き込めたらいいんだけど、さすがにもう時間なさそうだし。指もちょっと、動かなくなってきちゃってるしね』
「掲示板?」何のことだ?
『あ、やっぱり気付いてなかったか……誰かは知らないけど、ウェブ上に情報交換用の掲示板開設してる奴がいるのよ。書き込みを見る限り、参加者のうちの誰かが作ったものみたい』
ウェブに掲示板? この状況で?
それってまさか…………
『いーくんの携帯からでも見れると思うから、あとでチェックしておいて。なんか、きみのこと探してる人もいるっぽいから――あ、ヤバい』
電話の向こうの声が、心なし緊張した様子を帯びる。
何があったのか、言わずとも何となく想像がついた。
『タイムアップね、あの女が追いついてきたわ――本当に手当たり次第腐らせまくってるし……考えも何もあったもんじゃないわね。ほんと無茶苦茶だわ、あの女……。
じゃ、今度こそお別れね、私の言ったこと、よく心に留めて――』
「あ、あの、ツナギさん!」
突然、真宵ちゃんは携帯をひったくるようにして(ひったくるも何も携帯は真宵ちゃんが持っていたわけだから、これはそのくらいの勢いで、というただの比喩だが)自分の耳へと当てる。
「あの、私、ツナギさんにどうしても言わなきゃいけないことが……あの、えっと、その――」
ぼくがツナギちゃんから死ぬと伝えられた時とは比べ物にならないくらい、真宵ちゃんは動転していた。
しばらく「あの」や「えっと」を繰り返した後、ようやく意味のある言葉を紡ぐ。
「あの、私たちが鳳凰さんって人に殺されかけたとき、ツナギさんが助けてくれたんですよね? 私あのとき、気絶しちゃってて、その後ずっと、夢だと思ってて、その」
真宵ちゃんはそこでいったん口をつぐむ。ツナギちゃんが何か言っているのだろう。
何を言っているのかぼくからは聞こえない。ぼくの時と同じく宥めようとしているのかもしれないし、『勘違いしないで、別にあなたを助けようと思ったわけじゃないから』みたいなことを言っているのかもしれない。
あの子はこういうとき、あえて冷たく突き放しそうなイメージがある。
「で、でも」
でも、と、真宵ちゃんはぼくと同じ言葉で追いすがろうとする。
「私ずっと、全然お礼とか言えてなくて……助けてもらったのに、それなのに私、その、お礼どころか、ツナギさんに酷いこと言っちゃって……ツナギさんは何も悪くないのに、私、ただの八つ当たりで、あんなこと――」
酷いこと――それも何のことなのかぼくは知らない。
ぼくが聞いていない言葉ということは、もしかして真宵ちゃんがツナギちゃんとの別れ際に言った言葉なのだろうか。
そういえばぼくも、出会い頭に「話しかけないでください」とか言われたけど……あれと同じようなことを、ツナギちゃんにも言ったのかもしれない。
たぶんツナギちゃんからすれば、子供が駄々を捏ねているのと同じ、それこそただの八つ当たりと受け取って気にも留めていないのだと思う。
それでも真宵ちゃんは、その言葉を投げつけてしまったことをずっと気に病んでいたのかもしれない。それはきっと、本心からの言葉ではなかっただろうから。
「――だから私、謝りたいんです。ツナギさんに、電話じゃなくて、もう一度直接会って謝りたいし、お礼が言いたいんです……だから、だからツナギさん――」
今にも泣き出しそうな真宵ちゃんの声に、ぼくはただ沈黙するしかない。
真宵ちゃんに言われた通り、前を見て運転していることしかできなかった。
「だから、死なないでください……必ず迎えにいきますから、それまで生きててください、お願いします、ツナギさん――
私、まだツナギさんと話したいこと、いっぱいあって……だから、その、また私たち、三人で一緒に……私と、戯言さんと、ツナギさんとで、また一緒に――」
真宵ちゃんがツナギちゃんに伝えることができたのは、たぶんそこまでだった。
数秒の沈黙のあと、「あっ……」と短く言って、真宵ちゃんは携帯電話を自分の耳元から離す。横目でちらりと見たその携帯の画面には、通話終了をあらわす文字が無機質に表示されていた。
真宵ちゃんはしばらくその画面を無言のまま見つめ、やがて諦めたように携帯を持ったままの両手を、すとんと膝の上に落とす。
ツナギちゃんが最後に何を言ったのか、そこだけは予想すらできなかった。
「…………」
「…………」
ぼくは何も言えなかったし、真宵ちゃんは何も言わなかった。
やっぱり聞かせるべきじゃなかったかな、と少し後悔する。ツナギちゃんもおそらくぼくだけに聞かせるつもりで話していたんだろうし、せめて隣で真宵ちゃんが聞いていることを最初に言っておくべきだったと思う。
何にせよ、後の祭りではあるが。
しばらくの間、フィアットの駆動音とタイヤが砂を巻き上げる音だけが続く。おそらく今までで一番、重苦しい空気に車内が支配されていた。
…………しかし、呆気ない。
あのツナギちゃんが、肉弾戦に限って言えば哀川さんですら敵わないんじゃないかと思うようなあのツナギちゃんが、こうも呆気なく。
油断していたとは言っていたし、おそらく相性の関係もあったんだろうけど……あのツナギちゃんに死を覚悟させるほどのダメージを与えられる相手というのは、戦慄を覚えざるを得ない。
できれば真宵ちゃんに、携帯電話から見られるという掲示板を今すぐチェックしてもらいたいところなんだけれど……今の状況ではかなり言い出しづらい。
冷たいと自分でも思うけれど、ぼくの中ではツナギちゃんのことは残念だけど諦めるしかない、という結論に達してしまっている。
さっきも思ったことだが、今から向かったところで間に合うとは到底思えない。そもそもツナギちゃんが敵わないような相手を前に、ぼくたちが加勢に入ったところでどうなるというのか。
だったらせめて、ツナギちゃんの遺志を継ぐくらいのことはしないといけない。
あのツナギちゃんが、死に直面している状況下にも関わらず連絡してまで伝えてくれた情報だ。それを無駄にするわけにはいかない。
『しっかり前を見てなさい』――
あの言葉にうなずいた以上、それを実践しなければいけない。
……しかしひとつ疑問なのは、どうしてツナギちゃんはここまでしてくれるのだろう、という点だ。
ツナギちゃんにとって、ぼくたちは死ぬ間際まで協力したいと思うような相手だったのだろうか?
そこまで特別な関係を築くような出来事があったとは思えないんだけど……まあ、気まぐれで同行する相手を決めるような子だったし、案外そこも気まぐれによった結果だったのかもしれない。
だとしても、嬉しいことに変わりはない。
ぼくたちのことを、助けようとしてくれる人がいるということが。
「…………腐敗を操る力――か」
とにかく、そいつに遭遇するのは避けたほうがいい。掲示板とやらにも、早めに情報を書き込んでおかないといけない。
B-2付近で暴れているというのなら、今のところぼくたちの行き先に変更はない。このまま診療所に向かう運びで構わないだろう。
ツナギちゃんが置いていったという荷物は、正直取りにいけるかどうかはわからない。予定通りネットカフェまで行ったあとに向かうとなると、かなり遠回りになってしまうし――
「――あ、そういえば」
ぼくは零崎との会話を思い出す。
七実ちゃんたちが骨董アパートに向かっていることを教えたとき、あいつは確か「反対側」と言っていた。地図上で骨董アパートの反対側といったら、ちょうどツナギちゃんがいるというB-2のあたりなんじゃないか……?
だったら今から零崎に電話して、助けに向かってもらうという選択も――
「……いや、やっぱり無理か」
零崎の位置はもとより、ツナギちゃんがどこにいるかも具体的な場所まではわかっていない。助けに向かわせようにも、どこに行けばいいのか曖昧な指示しか出すことができない。
それにツナギちゃんいわく、相手はガチの危険人物だ。零崎でも対処できるかどうかわからないのに、わざわざ危険に首を突っ込ませるようなことを頼むのは、ツナギちゃんのためと言えども忍びない。
大体、「そこらへんにいるぼくの知り合いが危険人物に襲われてるらしいから、危険を承知で探し出して助けてやってくれ」なんて要求に対して首を縦に振る奴が果たしているだろうか。
いくらあいつがいい奴とはいえ、そんな理不尽なお願いを聞いてくれるとは思えないし、そもそも人としてどうかと思う……
……まあ、助けに向かわせる云々はともかくとして、あいつがツナギちゃんの言う危険指定区域の近くにいる可能性がある以上、連絡は入れておいたほうがいいだろう。
ツナギちゃんの携帯の番号を教えておけば、あいつがデイパックを発見してくれるかもしれないし、ツナギちゃんの知り合いだという二人――水倉りすかと
供犠創貴について知っているかどうかも聞いておきたい。
危険人物の情報とかもあわせて、後でメールしておくか。
……いや、「後で」って、今すぐしたほうがいいんだろうけど。
「…………あのさ、真宵ちゃん」
意を決して、ぼくは真宵ちゃんに話しかける。
何かフォローの言葉をかけようと思うけれども、うまい言葉が思いつかなくて後が続かない。
ツナギちゃんの死を受け入れているぼくが慰めの言葉をかけるなんて白々しいにもほどがあるし……かといって「ツナギちゃんなら大丈夫だよ」なんて適当なことを言うのも無責任極まりない。
ぼくは否応なしに、暦くんが死んだときの真宵ちゃんを思い出してしまう。なんだかあの時よりも、電話の向こうに必死で話しかけていた真宵ちゃんのほうが酷く錯乱しているように思えた。
あのときはすでに「錯乱し終わった後」だったかもしれないし、今回はツナギちゃんがまだ生きているからこそあそこまで錯乱したのだろうから、比較の対象にするのがそもそも間違っているのだろうけれど。
あのときは何とか立ち直ってくれたけれど……正直あのときほどうまく元気付けてあげられる自信はない。
今回のことはぼくにとっても寝耳に水の話だったし、受け入れているというよりは単に諦めているというだけで、自分の中で整理がついているというわけではない。
そんな状態で、どうやって励ましの言葉など紡げるというのか。
真宵ちゃんにとって、ツナギちゃんはどんな存在だったのだろうか?
ツナギちゃんにとって、ぼくたちはどんな存在だったのだろうか?
ぼくは未だ何も知らない。真宵ちゃんのことも、ツナギちゃんのことも。
結局言葉に詰まって、ぼくは真宵ちゃんの様子を横目で窺う。
「…………?」
そこでぼくはようやく、真宵ちゃんが静かすぎることに気付く。
静かというか、まったく動いている気配がない。携帯電話を握り締めたまま、シートに深く身を預けて目を閉じている。
通話を終えたことで気が抜けて、また寝てしまったのだろうか?
「真宵ちゃん……?」
もう一度呼びかけてみるが、返事はない。ぼくは何となく、身を乗り出して顔を覗き込んでみる。
その顔は、ただの寝顔とは明らかに違っていた。
呼吸は苦しげで、額には脂汗がにじんでいる。それ以前に、顔色があからさまに青白い。
寝ているように見えたのは、全身が弛緩しているせいだった。
有り体に言うなら、ぐったりしている。明らかに健康体のそれとは違う様相を表していた。
「真宵ちゃん!?」
叫ぶように、ぼくは真宵ちゃんの名前を呼ぶ。
返事はない。
◆ ◆ ◆
逃げようと思えば逃げられたのかもしれない。
ツナギは「九割方詰まされている」と言ったが、江迎の錯乱具合を勘定に入れれば必ずしも逃げ切れないということはなかっただろうし、「腐敗の連鎖」を身体に浴びているとはいえ、それも適切な治療さえ施せば抑えることはできた。
いずれ声は出せなくなるかもしれないが、逃げ切ることさえできればとりあえず生き延びることだけはできただろう。
ツナギも、それを理解していないわけではなかった。
「声が出せるうちに、あの二人に情報を提供しておかなくては」などと考えることなく、戦いを放棄し、なりふり構わず遁走していれば、むしろ容易に逃げ切れていたかもしれない。
当たり前のように、仲間と呼べるかどうかも怪しい青年と少女の安全を優先させたからこそ、ツナギは今、九割九分詰まされた状態にいる。
「殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺すコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロス――――――――あのガキ、絶対にぶち殺す――」
呪詛に満ちた言葉をうわごとのようにつぶやきながら、江迎は木々のある場所を蹂躙するように荒々しく進む。
正確には木々の「あった」場所であるし、実際に彼女は蹂躙しながら進んでいた。
江迎が乱暴に手を翳す。その手の向く先に立っていた数本の木が根元からぼろぼろと崩れていき、たちまちのうちに倒壊する。倒れた後も腐敗は止まることなく進行し、原型を留めない状態にまで崩壊していった。
遮蔽物を取り除き、見通しをよくするのが目的というにはあまりにも破壊的過ぎる江迎の所業。
まるでそれ自体が目的とでも言うかのように、目に付くものすべてに腐敗を撒き散らしながら、江迎は足早に歩き続ける。
江迎の『荒廃した過腐花』の弱点――欠点を挙げるとしたら、それは「腐敗」に特化しすぎている、という点だろう。
ツナギに対して「荒廃した腐花・狂い咲きバージョン」を発動できたように、「植物を成長させる」こと自体は今でも可能である。
ただし『荒廃した過腐花』による「腐敗の連鎖」は江迎の意思とは無関係に広がっていくため(伝達の速度や方向はある程度操作可能ではあるが)、成長させた植物にもいずれ腐敗が届いてしまう。
成長させることはできても、それを維持することができない。
自らの手で育てたものを、自らの手で腐敗させることしかできない。
今の江迎には、枯れた桜の木に花を咲かせることすらもはや叶わない。
「殺す、殺す、殺す――!」
伝染していった腐敗がまた一本、大木を倒壊させる。
その木の向こうに、ツナギは立っていた。
江迎の足がぴたりと止まる。ツナギと江迎、二人の視線が静かに交錯した。
「…………」
ツナギは何も言わない。隠れていたところを発見されたとは思えないような、恐怖の欠片も感じさせない佇まいで正面から江迎を見据えている。
それは、とても生きた人間が立っているとは思えないような有様だった。
ところどころ皮膚が剥がれ、肉どころか骨が露出している部分もある。髪も半分以上が頭皮ごと抜け落ち、残った皮膚も不気味な淡青色に変色していた。
江迎に対して「半分口裂け女」という言葉を使ったツナギだったが、今や彼女のほうが酷い様相を呈していた。頬の肉がごっそりと剥がれ落ち、奥歯のほうまで外気にさらされている。額の口でさえ、端のほうから崩れかけていた。
着ている服も元の状態がわからないくらいに朽ち果て、ただの襤褸布を纏っているように見える。唯一、右腕を手首から二の腕まで覆っている包帯だけが原型を留めている衣類と言えた。
腐乱死体。
間違っても生きている人間に対して用いるべき言葉ではないが、今のツナギを一言で表現するにはそう言うしかない。
「…………見ぃつけたぁ」
にいぃ、と江迎の裂けていないほうの口端が大きく上がる。
最初に出会ったときとは違い、今度こそ言葉が通じる精神状態ではないだろう。ゆらゆらとした足取りで、ツナギのほうに一歩一歩近づいてくる。
「もう……いつまでも逃げてないで、そろそろおとなしく私に殺されてよ……いけない子ねえ…………大丈夫、お姉さんが今すぐ、骨の髄までぐちゃぐちゃにしてあげるから――」
それに対し、ツナギはやはり沈黙を貫く。
ツナギはもう、自分の身体が限界に近いことを自覚していた。手足は立っているだけでも辛いし、喉は戯言遣いたちと会話したこともあり、より一層声を発しにくくなっている。
あと何か一言でも口にしたら、今度こそ自分の喉は完全に潰れてしまうかもしれない。
あと一言。
その「あと一言」こそが、ツナギにとっては肝要だった。「あと一言」を確実に発するために、今何かを喋るわけにはいかない。
じりじりと近づいてくる江迎に、ツナギは慎重にタイミングを計る。
「ねえ……何で私は幸せになれないのかな…………私、泥舟さんのために、いっぱい尽くしてきたのに……泥舟さんの言うとおり、頑張ってきたのに…………それでも幸せになっちゃ駄目なのかなあ…………生きてるだけで、満足しないといけないのかなあ――」
それはツナギに向けてというより、ただの独白のようだった。
幸せになれなくてもいいから、せめて生き残りたい――そう公言したにも関わらず、そんな未練に満ちた台詞を吐き出す江迎を、ツナギは冷めた思いで見ていた。
――あんたの幸せなんて、はっきり言って知ったこっちゃないのよ。
江迎が歩を進めるにつれて、腐敗の範囲も徐々にツナギのほうへ近づいてくる。
ざわざわと、ぐじゅぐじゅと。
足音のように地面を這ってくる腐敗が、ツナギに触れるか触れないかというその時。
二人の少女が、両方同時に動いた。
ツナギは残された全身の力を総動員し、地面を蹴って江迎へと突貫する。奇も衒いもなく、ただ一直線に駆けていく。
対して江迎は、ツナギがそうすることを予想していたかのようにすばやく四つん這いの姿勢になり、両手を地面に押し当てる。
「荒廃した<ラフライフ>――――」
ただし今度は、木々を成長させることが目的ではない。
今の江迎には、もはや相手を腐敗させることしか頭にない。
「過腐花<ラフレシァア>――――!!」
高らかに叫んだ次の瞬間。
江迎の両手を中心に、それまでとは比較にならない勢いとスピードで腐敗が始まる。まるで波紋が広がるように、腐敗の波が地面の上を高速で伝わっていく。
その波が通り抜けた後にあるものは、すべて平等に腐敗だった。石も、木も、草も、地面の上にある空気でさえ、猛スピードで腐敗し、見る影もなく朽ち果てていく。
計算も何もない、「腐敗の連鎖」の全力解放。
360度、全方向に拡散する腐敗の波動は当然、江迎に向かって走るツナギの足元も通過する。足先から伝染した腐敗はあっという間に全身へと巡り、身体の崩壊に拍車をかける。
皮膚はさらに剥離し、肉はさらに爛れ、ツナギから人間の形を奪っていく。
それを受けても、ツナギは止まらなかった。ただ江迎だけに視線を合わせ、崩壊する身体で全力疾走し続ける。
「あっははははははははははは! 無駄無駄ぁ! そんな鈍足じゃあ、私の過負荷(マイナス)は超えられない! さっさと腐り果てて死になさい!」
勝利を確信したように、江迎は哄笑する。
その確信はおおよそ間違ってはいない。今のツナギがいくら全力で走ろうが、江迎に手が届くころには間違いなく力尽きる。相討ち狙いの一撃を入れることすら叶わないだろう。
先刻ツナギが逃走する際に使用した、あのかんしゃく玉のような爆弾を利用するだろうことも、江迎は念頭に入れている。
あのときは初見だったがゆえに不意を突かれたが、同じ手が二度通用する江迎ではない。地面に投げようが、江迎自身に投げようが、ツナギ自身の身体に仕込んで「自爆」による特攻を狙おうが、すべてにおいて対処できる構えでいた。
万全の体勢。逆転の要素はもはやない。そう江迎は確信している。
ただひとつ、江迎の確信に「抜け」があるとしたら、それはやはりツナギの「魔法」について何ひとつ知らなかったということだろう。
水倉神檎によって人外の力を授けられ、それから二千年以上「魔法」とともに生き続けている元人間の魔法使いツナギ。
その彼女が最後に頼るとしたら、それは魔法以外にあり得ないというのに――。
「ねれいさ――――」
がくん、とツナギの両脚が力を失うのとほぼ同時。
彼女は、用意しておいた「一言」を口にする。
右腕を前に突き出し、地面に崩れ落ちながら、潰れかけた喉から全力で声を絞り出した。
「――――しるど!」
ツナギが温存していた最後の一言、それは呪文の詠唱だった。
本来のものよりはるかに短縮されているはずのそれは、しかし不完全ながらツナギの魔法を「部分的に」発動させる。
しかし――今ここで魔法を発動したところで、一体どうなるというのだろうか?
ツナギの魔法は、接近戦でなければ効果を発揮しない。江迎との距離はまだ数歩分ほども離れているし、ツナギの両足はすでに足としての機能を失っている。これ以上走ることも飛び掛ることもできない。
相討ち狙いの一撃ですら届かないであろう今の状態で、ツナギの魔法が何の役に立つというのだろうか?
その解答は、次の瞬間に明らかになった。
呪文の詠唱を終えたことで出現した口と牙が、かろうじて腐敗を免れていた右腕の包帯を突き破り、ツナギの右腕をあらわにする。
その右腕が。
手首から肩口あたりまでにかけて、そこだけ部分的に「口」が犇くように出現したツナギの右腕が。
その先の江迎へと向けて、『伸長した』。
「……………………え?」
江迎の表情から笑顔が消える。
ツナギの魔法について――というより魔法そのものについて何の予備知識のない江迎には、何が起こったのか理解することができない。
いや――この場合、予備知識の有無は問題ではないのかもしれない。
たとえ江迎が魔法についての知識をすでに得ていて、かつツナギの使用する魔法を直に見ていたとしても。
たとえツナギの右腕に巻かれていた包帯の裏側に、呪文の詠唱を大幅に短縮するための魔法式がびっしり刻まれていることに気がついていたとしても。
それらの情報から、「ツナギの右腕が伸びる」などという現象を導き出すのはおよそ不可能だっただろうから。
当然のこと、ツナギの使用する魔法に「腕を伸ばす」ための魔法など存在しない。魔法式と呪文の詠唱により、右腕だけに集中して「口」を出現させたとして、なぜそれが「腕が伸びる」という現象に繋がるのだろうか?
(腕が、細く――? いや、ていうか何で、腕に、口が、牙が――――)
江迎が見たもの。それは異様なまでに細く――というより「平たく」変形したツナギの右腕だった。
しかもその腕はなぜか蛇腹のようにジグザグに折れ曲がり、あちらこちらから白い骨のような牙が突き出していた。
江迎がそれを「牙」と認識できたのは、ツナギの額にある口から生えている牙とそれが同じ見た目をしたものだったからだろう。
せめて。
せめてツナギの口が『関節の役割を果たす』ことを知ってさえいたら、江迎にもその現象を理解できる可能性があったのかもしれない。
関節――物質で言うところの「蝶番」としての役割を持つということは、その中央を支点として両側に繋がっている部分をそれぞれ、右と左に「分ける」、あるいは「開く」ことができる、ということ。
そして単純な考えとして、何かが「開いた」とき、それは右と左に「分かれた」ぶんだけ「長さが倍になる」。
折りたたみ式の携帯電話を開いたとき、全体の体積は変わらずとも長さだけがおよそ二倍になるように。
その原理は当然、ツナギの口でも応用が可能。
口がひとつだけなら、大した長さは得られないかもしれない。
しかし右腕だけに集中して上下、あるいは左右に等間隔で何十という口を蛇腹状になるように配置し、それらを一斉に腕を「輪切り」にするように開いたとしたら、その「断面」の数だけツナギの右腕は飛躍的に長さを伸ばす。
さながら、縮んだバネが元に戻るときのような瞬発力をもってして。
江迎との距離、数歩分を容易にクリアする長さまで、腕を伸ばすことができる。
ツナギが魔法式を用いたのはそのためでもあった。腕を効率良く伸ばすためには、口をそれぞれ意図した場所に配置する必要がある。
出現する口の配置までを正確に練りこんだ魔法式。戯言遣いと携帯で会話するのと並行して、ツナギはそれを作成していたのだった。
奇策。
そう呼ぶにふさわしい戦略に、江迎は伸びてくる腕が自分に届くまでの間、まったく反応すらできなかった。
「っ――――――があぁああああああああああっっ!!」
「…………ちぃっ!!」
右腕が通過してようやく、江迎の絶叫が響く。その絶叫に重ねるようにして、ツナギが舌打ちする。
ツナギが万全の状態であれば、その攻撃は命中していたに違いない。
右の手のひらと甲、両方に配置された口のどちらかが、ツナギの狙い通りに江迎の喉笛へと喰らいつき、頚動脈ごと食いちぎっていただろう。
しかし今のツナギは筋肉や関節、神経にまで腐敗が到達している。どころか眼球ですら、ひょっとしたら脳でさえ侵されているかもしれないという状態にあった。
そんな状態で、正確に江迎のいる方向へ攻撃を繰り出せただけでも賞賛に値すると言える。
ましてや。
その攻撃が江迎の左眼球をえぐったとなれば、これはもう命中したと言っても過言ではないだろう。
「――――っ! ――――――こ、」
自分が受けたダメージを理解したことで、江迎が逆上の気配を見せる。
もし江迎が目をえぐられたことによって動揺し、反射的に『荒廃した過腐花』を解除していたらツナギにもまだ逆転の可能性はあった――ということはもちろんない。
最後の一撃を繰り出したツナギには、もはや余力と呼べるものは一切残っていなかった。『荒廃した過腐花』による腐敗で満たされた地面へと、成す術なく倒れこむ以外の選択肢はない。
わざわざ追撃を加える必要も、止めを刺す必要もない。
しかし。
「この――ガキがぁぁぁぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」
そんな理屈とは関係なく、江迎はさらなる「腐敗」をツナギへと向けて集中的に注ぎ込む。
狂ったように奇声を上げ。その顔を激怒の色に染め上げ。
一心不乱に。
一身腐乱に、ツナギの身体を徹底的に腐敗させる。
腕が骨ごと腐れて落ちる。
足が根元からぐしゃぐしゃに溶けてなくなる。
胴体が柘榴のように割れて、内蔵が露出する。その臓器すら見る間に形を失い、やがてただの腐肉となる。
瞬く間にツナギの身体はそのほとんどが腐れ落ち、残っているのは首から上だけとなった。
そんな状態に至ってなお、ツナギはかろうじて意識を保っていた。首だけになってまだ自我があるなど、傍から見ればそれは残酷としか言いようのない仕打ちだっただろう。
それでも彼女は、その残された意識を後悔や死への恐怖に費やすことはなかった。
(あーあ、やっぱり相討ちは無理だったか――まあ宣言どおり一矢報いることはできたし、これ以上は諦めるしかないでしょ……いーくんに情報も提供できたし、結果としては上々と思っておこうかしら)
ツナギは最期に、今までに自分が会ってきた人々の顔を走馬灯のように思い浮かべようとする。しかし血液すらもう巡っていない腐敗しかけの頭では、ただ記憶を思い起こすことすら難しい。
結局、供犠創貴と水倉りすか、自分にとって仲間と呼べるその二人の顔しか思い浮かべることができなかった。
(タカくんとりすかちゃん、会えなかったなあ……りすかちゃんなら、まあ大丈夫だとは思うけど…………タカくんも一緒に、最後まで生き残ってくれるといいなあ――)
頭の中ではそんなことを考えていながらも、口から出てきたのはまったく違う名前だった。
「――ばいばい、いーくん、真宵ちゃん。あなたたちのこと、それほど嫌いじゃなかったわ」
無意識のうちに口にしたその末期の言葉は、しかし潰れた喉のためにまったく声にならず、ただの雑音として流れ出る。
それでも。
朽ち果てて消え去る最後の瞬間まで、彼女の顔は「仲間」を思うような、儚くも優しげな微笑みを浮かべていたのだった。
【ツナギ@りすかシリーズ 死亡】
◆ ◆ ◆
「ううう……痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い――」
江迎の悲痛な呻き声が辺りに響く。
ツナギにえぐり取られた左目と、今更のように玉藻に切り裂かれた右頬を押さえ、その場にうずくまってただ呻き続ける。
そこはまるで毒の沼だった。
ついさっきまで木々が立ち並んでいたはずのその場所は今や雑草の一本すらも生えてはおらず、完全なる腐敗の坩堝と化していた。地面全体がぐちゃぐちゃの何かに一面覆われており、吐き気を催すほどの腐臭を発している。
実際にその腐臭の中に足を踏み入れたとしたら、おそらく吐き気などでは到底済むまい。触れた先からあっという間に腐敗が「感染」し、その沼のような地面の一部と化してしまうだろうから。
その一帯で、原型を留めているものは何もなかった。
ただひとつ――いや、ふたつ。
その中心にいる江迎怒江と、ツナギがいた場所にぽつんと残されている首輪。そのふたつを除いては。
「何で、何で皆邪魔するの……? 私、死にたくないだけなのに…………生きていたいだけなのに……泥舟さんと一緒に、生き残りたいだけなのに…………何で邪魔するの……? 何で皆、おとなしく殺されてくれないの……?」
善吉の死に触れたことでマイナス方向へと成長を遂げた江迎。
それがまたプラス方向へ戻る可能性も、江迎の選択次第ではないこともなかった。
自ら人の道を踏み外すことさえなければ。
自らの過負荷(マイナス)で、誰かの命を摘み取るという業を負うことさえしなければ。
それさえ回避できていれば、彼女が過負荷(マイナス)と言えど人間のままとして生き、人並みの幸せを手にする可能性もあったかもしれないのに。
それを彼女は、自らの手で捨て去った。
人殺しという最悪の手段で、自らの過負荷(マイナス)を歪んだ方向に肯定してしまった。
「――痛い、痛い、痛いよ…………死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない、死にたくない――――」
死にたくない、だから殺さなきゃいけない。
殺さないと生きていけない、殺さないと自分が殺される。
そんな彼女の間違いを正すものは、この場には誰もいない。
顔から止めどなく血を流しながら、江迎はそれでも立ち上がり、腐敗にまみれた地面を踏みしめて歩き出す。
すでに体力は限界を超えているであろうに、まるでそれを感じさせない足取りで、どこへ向かっているのかもわからないまま江迎は進む。
人から人外へと身を堕とした江迎に、もはや笑って終われる人生はおそらくない。
その手にあるのは、醜く歪んだ腐敗の花のみ。
その腐敗を自分以外のすべてに撒き散らし、すべてを拒絶しながら生き残る。今の彼女の右目には、そんな荒廃した道の他に映るものは何もなかった。
【一日目/真昼/B-2】
【江迎怒江@めだかボックス】
[状態]身体的疲労(大)、精神的疲労(大)、出血(中)、口元から右頬に大傷(半分口裂け女状態)、左目とその周囲の肉欠損、ヤンデレ化
[装備]無し
[道具]無し
[思考]
基本:泥舟さん以外の人間は問答無用で殺す
0:死にたくない
1:顔の傷を治療する
2:球磨川さんを殺す
3:地図が欲しい
[備考]
※マイナス成長したことにより『荒廃した腐花』が『荒廃した過腐花』へと退化しました。
※『荒廃する腐花 狂い咲きバージョン』は使用できますが、すぐに腐敗させてしまうため長持ちしません。
※西東診療所か診療所のどちらかを目指しているつもりですが、てんで方向が定まっていません。 ですが、偶然辿りつける可能性は秘めています。
※『荒廃した過腐花』<ラフライフラフレシア>について
・江迎の手が腐らせたものに触れると腐敗が「伝染」します。伝染して腐ったものに触れても伝染します。
・江迎が距離を置けば伝染の効果は弱まります。どれだけ長く腐敗の力が残るかは後の書き手様方にお任せします。
・伝染のスピードや範囲、方向などは江迎の意思である程度操作可能です(完全にオフにすることはできません)。
・伝染の強さと最大範囲は江迎の精神がどれだけマイナス方向に寄っているかに依存します。今後さらに強化、あるいは弱体化するかもしれません。
※B-2のどこかに携帯電話とツナギのデイパックが放置されています(中身:支給品一式、炸裂弾「灰かぶり(シンデレラ)」×6@めだかボックス、賊刀・鎧@刀語、お菓子多数)。
◆ ◆ ◆
場所はF-3、広大というには若干足りるか足りないかというような因幡砂漠のちょうど中間辺り。そこを走る一台の車があった。
その運転はかなり荒っぽく、かろうじて安全運転と呼べるようなスピードではあるものの、運転手の焦りが見て取れるような走行の仕方だった。
「くそっ……! 迂闊だった……迂闊としか言いようがない――」
運転席に座る青年、戯言遣いは何回目かわからない台詞でそう毒づく。無表情に見えるその顔にはやはり若干の焦りが含まれており、助手席に誰かが座っていなければすぐにでもスピードを大幅に加速しそうな雰囲気だった。
助手席に座る少女、八九寺真宵がいなければ。
彼女の様子は、誰が見ても平常時のそれではなかった。全身の力が抜けたようにぐったりとシートにもたれ、その顔色は目に見えて青ざめている。
車酔いなどというオチでは当然ない。
戯言遣いとしては、むしろそうであることを望んでいたが。
「馬鹿なのかぼくは――こんなこと、もっと早くに思い至ってもよかったはずなのに……!」
焦りの表情に後悔するような台詞を彼は重ねる。しかしその発言とは裏腹に、その目から後ろ向きな気配は感じられない。むしろ冷静さを保つために、あえて自分に向けて辛辣な発言をしているように見えた。
実際、八九寺の現状について彼に責任があるかといえばそうとは言えない。
ツナギとの会話を聞かせてしまったことにしても、それは単なるきっかけの一部でしかないのだから。
「真宵ちゃんに対する気遣いが、あまりにも足りてなかった……それをぼくは『信頼』なんて言葉に置き換えて……」
いくら病院通いの経験が豊富とはいえ、戯言遣いに詳しい病状を診断できるスキルなどない。それでも彼は、八九寺の症状についておおよそ正確な判断を下していた。
その症状を説明するのに、専門的な用語などは必要としない。
「暦くんの時の反応を見ていたらわかっていたはずだっただろうに……真宵ちゃんが、しっかりしているとはいえ普通の女の子だって――」
『精神的ストレスによる体調不良』。
それだけで、彼女の現状についての説明は事足りる。
理不尽に放り込まれた戦場、度重なる命の危機、身近な人の唐突な死の知らせ。この数時間の間に、どれだけの非日常が彼女を襲ったことだろうか?
それが発熱と意識の混濁を誘発するくらいのものであることは、確かに予想くらいはできたのかもしれない。
もしも彼女が、それらの出来事によるストレスを意図的に、無理やり押さえつける形で隠してきたとしたら、酷ではあるが彼女自身にも責任があると言わざるを得ない。
しかし、それは違う。
それらのストレスに対して、彼女は無自覚だった。自分の中では割り切れていると思い込んでいたし、身体の変調なども今まで一切感じてはいなかった。
それでも無意識下では違っていた。本人ですら意識できない部分で、彼女を襲った数々の出来事は着実に負の記憶として積み重なっていたのである。
今まで「怪異」として肉体のない身で過ごしていた彼女が、急に生身の肉体を手に入れたことも原因として挙げられる。そもそも彼女は小学生の身体から成長というものを経験していないのだ。ストレスによる体調管理など、果たしてうまくできるものだろうか。
それを考えれば、むしろ今まで精々「気を失う」程度の反応で済んでいたことに感心するべきなのかもしれない。
もしかするとその「気を失う」という反応そのものが、彼女の精神が今まで均衡を保てていた要因なのかもしれないが。
ストレスが閾値を越える前に意識を断つことで、精神の崩壊を避けるという一種の防衛機制。それがなければ、もっと早く彼女の精神は限界を迎えていた可能性がある。
「こうなると、次の目的地が診療所だったことはある意味僥倖だな……いや、どこに向かっていようがすぐに変更しただろうから、大して意味はないけど――
……むしろ、豪華客船を出るのが少し早かったと言えるのかもしれない。あの広い船内なら休める場所も、ひょっとしたら医務室なんかもあったかもしれないのに――」
だから戯言遣いの推察は、おおむね正しい。
ただ彼がもう少し、ほんの少しだけ冷静な思考を働かせることができたら、ツナギからの電話があったのが「二回目の放送のすぐ後」だったことを考慮に入れることもできたかもしれない。
一回目の放送後、八九寺の身に何が起こったのか知っている彼ならば。
阿良々木暦の死の通告、その直後の鑢七実の急襲、眼前で繰り広げられる日之影空洞の虐殺。
そして、ツナギとの一方的な別れ。
彼女の無意識に堆積しているストレスのうち、半分以上が一回目の放送に関連したものだということに思い至れば、「二回目の放送が引き金となり一回目の放送時の記憶がフラッシュバックした」――と考えるのはさほど難しいことではない。
実際、二回目の放送を聞いた後の彼女の精神は相当に不安定な状態にあった。
それでもまだ、それは無意識下という目に見えないところでの話に過ぎなかった。
その不安定が体調不良という形で表面化するきっかけとなったのが、ツナギからのあの電話だった。そのときの彼女にとって、それは十分すぎるショックとなっただろう。
「くそ……畜生…………よりにもよって、こんな砂漠のど真ん中で……!」
戯言遣いが自責の念にかられているのは、八九寺の体調不良の原因が自分にあると考えているからではない。
原因そのものは自分になくとも、それらを回避することは自分の行動次第では可能だった、こうなる原因を排除する責任は、ずっと一緒にいた自分にはあったはずなのに、それを果たすことができなかった――と、そう考えているからだった。
身近な人を守ることができなかった無力感。彼は今、それに苛まれている。
「戯言……さん…………」
「! 真宵ちゃん!?」
かすかに聞こえたその声に、彼は思わず助手席へと目を向ける。
八九寺は弱々しくではあるが薄く目を開け、虚ろな瞳で戯言遣いのことを見ていた。
「大丈夫か、真宵ちゃん!? 今、診療所に向かってるから、そこに行けば、とりあえず休むことはできるから……! だからそれまで、気をしっかり持って――」
「…………前を、」
「え?」
「前を見て、運転してください……戯言さん」
そう言う彼女の表情は、辛そうではあるが笑顔だった。
ぼんやりと、かろうじて保っているような意識で、それでもはっきりと微笑みを携え、優しげな視線を戯言遣いに送る。
「私なら、大丈夫ですから……このくらい、少し休めばすぐ良くなりますから…………ごめんなさい、戯言さん……私のせいで、余計な迷惑を――」
「何を――言ってるんだよ、真宵ちゃん」
我に返ったような顔で、戯言遣いは言葉を返す。
「ぼくがしっかりしてないのが悪かったんだから、真宵ちゃんが謝ることなんて何もないよ――自分のせいとか迷惑とか、そんなことは言わないでくれ」
「…………失礼、噛みました」
いつもの台詞からも、まるで活気が感じられない。
それでもその台詞は、彼を安心させるには十分だったらしい。
「……とにかく、なるべく早く診療所に着かせるから、安静にしていて。真宵ちゃんの言うとおり、ちゃんと前を見て運転するからさ」
「安全運転優先、ですよ……戯言さん――――」
そう言うと、彼女は再び目を閉じる。今度は本当に眠ってしまったようだった。若干苦しそうではあるものの、すうすうと寝息を立てている。
「…………」
そんな八九寺の様子を一瞥し、戯言遣いは車の運転に意識を戻す。
スピードは先ほどまでとあまり変わらなかったが、その走行からは焦りや苛立ちといったものはもう感じられなかった。
「やれやれ……これで三回目の『前を見ろ』か。同じことを何度も言われるあたり、ぼくはやっぱり根本のところで成長していないな――」
――きみは真宵ちゃんを守ってあげないといけない立場なんだから、しっかり前を見てなさい。
戯言遣いの脳裏に、ツナギから言われた言葉がよみがえる。
自分にとっての「前」とはどこなのだろう――と彼は自問する。とりあえず辺りを見回してみたが、見えるのは地平の果てまで広がる砂漠だけだった。
「ツナギちゃん――こんなぼくに、真宵ちゃんを守ることなんて、『主人公』として生きることなんて、本当にできるのかな……」
後ろ向きなその言葉とは裏腹に、彼の目は決意を新たにしたかのごとく、まっすぐに前を見据えていた。
彼の視界に映る景色は、未だ変わらない。
【一日目/真昼/F-3 因幡砂漠】
【戯言遣い@戯言シリーズ】
[状態]健康
[装備]箱庭学園制服(日之影空洞用)@めだかボックス(現地調達)、巻菱指弾×3@刀語、ジェリコ941@戯言シリーズ
[道具]支給品一式×2(うち一つの地図にはメモがされている、水少し消費)、ウォーターボトル@めだかボックス、お菓子多数、缶詰数個、
赤墨で何か書かれた札@物語シリーズ、ミスドの箱(中にドーナツ2個入り)
[思考]
基本:「主人公」として行動したい。
1:真宵ちゃんを診療所につれていく
2:掲示板を確認し、ツナギちゃんからの情報を書き込む
3:零崎に連絡をとり、情報を伝える
4:玖渚と合流する
5:不知火理事長と接触する為に情報を集める。
6:展望台付近には出来るだけ近付かない。
[備考]
※ネコソギラジカルで
西東天と決着をつけた後からの参戦です。
※
第一回放送を聞いていません。ですが内容は聞きました。
※夢は徐々に忘れてゆきます(ほぼ忘れかかっている)
※地図のメモの内容は、安心院なじみに関しての情報です。
※携帯電話から掲示板にアクセスできることを知りましたが、まだ見てはいません。
※携帯電話のアドレス帳には
零崎人識のものが登録されています(ツナギの持っていた携帯電話の番号を知りましたがまだ登録されてはいません)。
※参加者が異なる時期から連れてこられたことに気付きました。
【八九寺真宵@物語シリーズ】
[状態]睡眠中、ストレスによる体調不良(発熱、意識混濁、体力低下)
[装備]携帯電話@現実、人吉瞳の剪定バサミ@めだかボックス
[道具]支給品一式(水少し消費)、 柔球×2@刀語
[思考]
基本:生きて帰る
1:戯言さんと行動
2:…………。
[備考]
※傾物語終了後からの参戦です。
※真庭鳳凰の存在とツナギの魔法が現実のものであると認識しました。
※日之影空洞を覚えていられるか、次いで何時まで覚えていられるかは後続の書き手様方にお任せします
支給品紹介
【携帯電話@現実】
折りたたみ式の携帯電話。
登録したデータ(電話番号、アドレス)以外の初期情報は入っていない。
【灰かぶり(シンデレラ)@めだかボックス】
雲仙冥利愛用の武器のひとつ。老朽化した壁なら一個でぶち抜ける程の威力を持つ火薬玉。
衝撃を与えるか直接着火することで爆発する。
【賊刀・鎧@刀語】
「防御力」に主眼が置かれており、単なる硬さでなく守りの堅さに特化した絶対防御の刀。衝撃はもちろんのこと、熱攻めや水攻めなどに対しても防御策が練られている。
見た目はまんま鎧。七尺五寸の体格を持つ人間でなければ着用不可能。
最終更新:2013年08月11日 09:23