太子は一人、周囲に悟られぬよう細心の注意を払いながらも溜息を吐いた。
この半年、海峡を挟んで繰り広げられた小競り合いに、先ほどペン一本を走らせて
終止符が打たれた。辛うじてわが国が勝利を収めた形となり、今はわが国の貴賓
館に招いたかの国の貴族の面々と共に新たな和平を祝う宴席が繰り広げられてい
た。その戦勝の席で先刻まで敵国同士であった貴族たちが空々しい談笑で室内を
満たす中、王の名代たる太子としてそつなく振舞いながらも、内心一人無聊を囲っ
ているというのが偽らざる心境である。最早警備は不要と両脇に立つ騎士をも
下がらせ、ただこの場を退く折を見計らっていた。
宴席の端に設けられた演台で、扇情的な衣装の歌姫がリュートの伴奏に合わせて
寿ぎの歌を歌っている。
王朝開闢以来、いやそれ以前より、幾度も同じ光景が時代と役者を違えて再現さ
れてきた。
比類なき武勇を誇るわが国の騎兵団も、こと海戦では船倉でその蹄を虚しく鳴ら
すことしかできない一方で、かの国は1民草に至るまで海に育ち海に死す、まさ
しく水の民である。
国力としては象と狼ほどの差が歴然と存在しながらかの国が永らえてきた理由は、
まさに海の存在に拠る。大波渦巻く海峡を自在に渡り、大海を乗り越えて遠国と
の貿易盛んなかの国の軍船は、わが国の熟練した船乗りすらも容易く翻弄する。
それに対し艦隊規模の軍船を収容できる軍港が海峡内側にしか存在しないわが国
は、海峡の向こうを未だ拝めずに時を重ねてきた。
遠国との貿易は全てかの国を通し、海峡の通行税を収め、積荷を改められた上で
行われる。その利益、すなわちわが国の損失は膨大ではあり、国内ではかの国を
制圧し貿易の活性化を望む声が常に高い。
しかしながら、海戦においてかの国を圧倒することは実質不可能事であり、物量
に頼った侵攻を行えば周辺国からの防衛が危ぶまれる。歴代の王は国内の不満と
現実との擦り併せに常に悩まされてきた。
結果、この宴席に至る。
3代ヒディールの御世、当時のモルトフォーラ家当主の立案によって結ばれた密約。
兵卒の血脂で動く調整弁。すなわち不満の声が高まれば兵を動員し、勝敗の如何で
税の増減、制約の緩急を調整するが本国侵攻までは行わないという合意である。
以降10数年置きにこの弁は開き、「僅かな」損害を経た後で、美食に舌鼓を打ち
つつ次の10数年分の契約書にサインする、という慣習が継続されてきた。
偽りの和平と騒乱。そのような生贄行為を糾弾しようとする「英邁」な人格者は、
現れるたびに言葉か、尊厳か、立場か、命を失ってきた。それだけ、この制度に
は甘美な実が成っていた。
また一つ溜息をつきそうになったところで、かの国の貴族である青年に話しかけら
れ、そのまま飲み下した。この顔は先に名乗りを受けて知っている。大公家の継嗣。
敵国の王の名代。慌てて浮かない顔が出ていないか再確認する。
初陣であった太子は、この戦で師を失っていた。幼少の頃より傍仕えとして共にあ
り、長じてからは剣と、乗馬と、戦と、人生の彩りを教えてくれた彼の師は、その
力量を振るう場も与えられぬまま、乗船とともに海中に没した。
下層民との混血であった彼の師は、太子指南役という大役を与えられながらもその
身分は限りなく低いものでしかなかった。其れゆえか快活な人柄に比して意外なほ
ど武勲を欲していた師が、この戦を好機と捉えたのも太子には想像に難くない。
この戦の裏側を知らぬまま焦燥に駆られるように危険な任務を志願し、生贄として
の意味合いしかない上陸部隊へ配属された挙句の無益な戦死であった。
初陣の報告をした際、師の態度に疑問を抱かなかった己の無思慮が太子には許しが
たく、その強い意志を体現した眉を顰めさせていた。
「・・・先ほどから浮かないご様子。殿下にはご気分でも優れませぬか?」
適当に会話を受け流していた先刻の貴族が、気遣わしげな声をかけてくる。如何にも
煩わしいが正直に告げるわけにも行かず、僅かに表現を変えて心情を吐露した。
「いや、そのようなことはない。が、僅かとはいえ失われた兵どもを思えば心は晴れ
ぬ」
師に聞かれれば惰弱と叱責されそうな言葉がまろびでてしまったことに、太子は内心
動揺したが、それを表に出すことは辛うじて押しとどめた。剛毅たれ、という師の教
えを守るには、精神の表皮が破れすぎていた。
それは相手にとっても同様だったらしく、口元を綻ばせて呟く。
「これは・・・「天秤王の大鉈」とは思えぬお優しいお言葉」
「貴様、謗るか」
国内の賊討伐などで得た異名を、太子は内心快く思って居なかった。其れを論い、己
の武勇ごと辱められたと感じ、射殺さんとばかりの眼光で睨みつける。帯剣していれ
ば実際に斬り捨てられかねない殺気に、公子は怯んだ。
「そのような意図は微塵も。無礼が過ぎました。殿下には平にご寛恕賜りたく」
真顔に帰った公子は、叩頭し謝罪を口にした。周囲の視線に次は己が鷹揚さを問われる
とは、太子も承知している。もとより本気で気に障ったわけでもない。あっさりと矛を
収めた。
「よい、予も軽率であった」
「軽率などと・・・。まさに王者の仁でありましょう」
「そのようなものではない」
阿る様な口調に、軽い不審と軽蔑を抱く。和平の席とはいえ、自国の兵を討ち果たした
相手に謙るとは何のつもりか。2人の若者を取り巻く視線はもはや興味を失い、演台に
現れた卑猥な衣装の踊り子に注がれていた。下卑た酔漢の歓声が、二人の会話をかき
消していく。
「いやいや・・・。次代の王が王者たるを聞けば、みどもは安心奉りまする」
「その仁とやらが、貴国に向くとは些か都合が良いのではないか?」
「無論でございます。王者の徳は王者が国を照らすのみ。ただ、徳を持つ王者同士なら
新たな道を照らすこともできましょう」
「・・・何の話だ」
「未来の話です」
晴れやかな笑顔で語る公子に、毒気を抜かれた体の太子は苦笑するほかなかった。
「仁だの徳だのと・・・東(あづま)かぶれか貴公」
海の向こうの遠国、とりわけ東方の諸国は多数の思想家を輩出し、その教義は海を越え
この大陸にも伝播してきていた。その新しい思想は若い世代を魅了し、「東かぶれ」と
呼ばれる層を生み出し始めている。
「おや、殿下もご存知であらせられますか」
「言の端程度にはな。貴国が荷改めなぞせねば、もっと広くしろしめたやも知れんが」
「これはしたり」
「笑い事ではない」
苦笑した公子を、太子は真顔で諌めた。
積荷制限は食料、物資から文献、技術にまで及ぶ。しかし、技術や思想等を押し留める
事は無理があり、僅かな道筋から国内に流入していた。とはいえ、高い精度の機材等を
要求する技術を取り入れるにはあまりにも細い間口であった。
「いや、これは喜び故でして・・・。やはり殿下は既にして王者であらせられる」
「今度は嬲るか」
もはや太子は怒気を発する気もなく、呆れながらに言い捨てた。
「滅相もござりませぬ」
慌てて否定するが、公子の笑みは消えない。
「偏に、喜ばしいのでございます。生贄を捧げずとも、新たな時代が築けましょう」
太子は表情には出さず、しかし内心驚愕する。数百年続くこの戦の連環を、「生贄」と
表現したのは己以外で初めてであった。しかも、その言葉の意味するところは今上の否
定である。凡そ和平の席で、形式上とはいえ敗戦国の貴族が口にする事柄ではない。
「貴様、陛下を愚弄するか」
動揺を噛殺し、太子は多重の意味を込めて問う。
「愚弄などと。貴国の今上陛下はまさに鋭才。天秤王の異名に恥じぬ慧眼をお持ちでご
ざいます」
「ならばよい。ゆ・・・」
幾許かの心残りを掃き清めるように吐き出しかけた許しの言葉に、公子は平然と毒を被
せた。
「しかしながら、否定いたします」
あまりの事に太子は二の句を失う。
「恐れながら両国の今上陛下は鋭敏、慧眼にてその才は疑う所にありませぬが、いささ
か利の追求に過ぎます」
踊りと伴奏が激しさを増し、最早2人に視線を置くものは一人としていない。喉の渇きを
覚え杯を探したが、すでに干していた。
公子は熱情すら感じる視線をまっすぐに注いでくる。
「天秤王とはよくも申したもの。算盤勘定を至上の命題として己が臣民を天秤の重石と
するとは、王者にあらず、商人の所業。娼館にでも篭もって命の代価でも数えるがふさ
わしかろうかと」
父王を貶める物言いに、しかし太子は反駁できなかった。
「・・・まだ杯は酔うほどには満ちておらん。貴公、語る時には至っておらぬぞ」
「杯が干されているなら、注げばよろしかろうかと」
手ずから、太子の杯に葡萄酒を注ぐ公子は平然と告げる。
「貴公!」
「さ、どうぞ」
無礼とも取れる親しげな態度で、杯を太子の手に握らせる。笑顔だが、目の熱情は一層の
輝きを放っている。自然、太子の声は潜められる。
「貴公、何を言っているのか分かっているのか」
「少々お待ちいただけますか」
公子は付き人を呼び寄せると、何事かを伝えた。付き人は舞台袖へと駆けていき、程なく
演奏と踊りがより激しく蠱惑的なものとなった。
会場内では袖へと退いていた男女の踊り子達が舞台衣装のまま練り歩き、酔客たちを魅了
している。もはや主賓席には何人も注意を払っていなかった。
「・・・貴公の手の者か。身元は確かという触れ込みだったが」
余りの迂闊さに、太子の顔に自嘲がこみ上げる。戦勝の席で暗殺の憂き目に遭っていたら、
どれだけ後世に笑いを残したことか。
「利で結ばれた者は、小さな障壁なら利で転ぶのです。そのご様子では、ご存知で無いと
お見受けいたします」
「・・・何をだ」
「侵攻艦隊3艦、沈んでおりませぬ。いや、正確には沈んでおりませなんだ」
「貴国が沈めたのであろうが」
「さにあらず。そもそも沈める腹積もりなど、両国とも」
「何の為に」
「駄馬をただ斬り殺すより、荷役にでも売り払えば些か元も取れましょう」
「・・・奴隷か!!!」
激昂しかかる太子を公子は押し留める。
「お平らかに。先ほど殿下がおっしゃられたとおり、杯はまだ満ちておりませぬ。」
その言を正しいとしながらも、筋骨に満ちる力を押しとどめるにはなお努力が要った。
掌と拳を力いっぱい打ちつけ、しばしの歯噛みによってその怒りは腹腔へ飲み下され
る。
「ばかな・・・しかしあの父なら・・・」
「そも、この和平は利によって齎されております。さて、その利はどこから得られま
しょうや?国益とはまた別の利が、必要ではありませんか」
「・・・」
「まこと、天秤王は慧眼たるかと。一滴の血すら銭にいたしまする」
「侵攻艦隊は下級兵とはいえ精鋭で固められていた。そう易々と奴隷などに堕すものか。
逃げ出して声高に呼ばわれば破綻する、稚拙な戯言だな」
脳裏に誇り高き師を描きながら、太子は否定を唱える。
「行軍中に薬物にて声と抵抗を奪い、遠国で売り払う心積もりだったとか」
「よくもそのような陰謀が発覚したものだな。埋伏はお家芸か」
嘲笑しようとして失敗した太子は、杯を干しにかかった。
「我らもこの事を把握したのは、つい3日前に過ぎませぬ」
「先の言では、全艦沈んだような物言いだったが」
「3番艦の生存者が、わが国に漂着して発覚しました。其れが無ければ」
「3番艦・・・」
師も、3番艦に配属されていた。
「曰く、道中で彼のものがその事実を知るに至り、蜂起して各艦を開放するも貴国の
艦隊より包囲され衆寡敵せず、包囲殲滅の憂き目に」
「その者は」
「残念ながら。戦傷深く、遭えなく」
「名は申したか」
「名乗られませなんだ。誇りを汚すと。鳶色の髪と瞳を持った、美しい女騎士でござ
いました」
絶望が、太子を飲み込んだ。
最終更新:2010年06月25日 21:53