※このページは裂邪さんの一人称による回想となっております。
私は孤児だった…らしい。
物心つく頃には異端審問会という場所にいた。
異端審問会というのは…そうね、妖怪退治を生業としている団体よ。
外国に本部があるらしいわ。
あまり興味はないけどね。
聞いたところによると、私の両親は妖怪に食べられてしまったらしい。
それが真実なのかどうなのかは…まあ、知らないけれど。
単に売られたって可能性も今考えたらあるわね。
顔も知らない両親のことなんてそこまで興味もないし、どうでも良いのだけれど。
私が異端審問会に所属して、妖怪を始めて倒したのは八つの頃よ。
大した妖怪でも無かったんだけど、八つの子供が妖怪を倒すなんてあり得ないことだったみたいで、周りから持て囃されたわ。
私も子供だったということもあって、悪い気分はしなかった。
ある日、それが評価されたのか私はあるチームに入れられたの。
そのチームが結成された目的とは…その界隈では最強と呼ばれる吸血鬼を仕留めることだったの…。
私達は吸血鬼を仕留める為に吸血鬼の根城へ乗り込んだ。
吸血鬼の根城は村から何里も離れた深紅の館。
当時有頂天になっていた私は、吸血鬼なんて私の敵じゃない!絶対に勝てる!そう疑っていなかったわ。
実際に吸血鬼の姿を見るまではね…。
私達は然程時間もかかることなく吸血鬼を見つけることが出来た。
外見年齢は当時の私と大して変わらない少女。
桃色の帽子に洋服、そして血のように深紅に輝く一対の瞳がそこにあった。
とても綺麗だった。
でも…
恐ろしかった。
その一言でしか言い表せない。
その吸血鬼はただ座って私達を見ているだけ。
でも私には見えた。
私には運命が見える訳じゃない。
でもわかったの。
絶対に目の前の吸血鬼には勝てないということが。
「Welcome to my castle…」
吸血鬼は立ち上がって私達に向かって一礼をしたの。
とても優雅に見えたわ。
倒すべき対象だって言うのにね。
吸血鬼のその一言で戦闘は始まった。
「うわああああああああ!!!」
「jackpot!!」
仲間の身体が深紅の槍に貫かれる。
また一人死んでしまった。
これでこの場に生き残っているのは私と吸血鬼だけ。
絶望的な状況だった。
吸血鬼が最後に残った私の方へ視線を向ける。
そして笑った。
「あ…あ…あ…」
「どうしたの?そんなところに座っちゃって」
私は動けなかった。
情けないことに恐怖で腰が抜けてしまったの。
周りは深紅。
そう、紅しかなかった。
それが血なのか床の色なのかわからなかったけれど。
私は腰を抜かして動けないまま、仲間が次々と倒れて行くのを見届けることしか出来なかった。
臆病者だった私だけが生き残ってしまった。
「つまらないわね…」
吸血鬼は心底呆れた様子で私を見ていた。
動くことさえできない情けない私に失望したのだろう。
何を言われても仕方ない状況だった。
私達に持たされた装備は銀の銃弾や銀の剣を初めとした銀製の装備。
吸血鬼の館に乗り込む時は絶対に負けないと思っていたのに…。
銀の銃弾は当たらない、銀の剣は深紅の槍によって壊される。
手の打ちようがなかった。
「ふぅ…良い暇潰しになると思っていたのに…」
暇潰し。
吸血鬼は私達の襲撃を暇潰しとしか見ていなかった。
それを屈辱的と感じる余裕さえ私には無かった。
「ふむ…」
その時の吸血鬼の射抜くような視線は今でも忘れられない。
逃げたかった。
帰りたかった。
任務に失敗した私に帰る場所なんてあるはずないのに。
「そうだ!あんた私の館に住んでみない!?」
…吸血鬼が何を言っているのか分からなかった。
何故私が吸血鬼の館に住むことになるのか。
しかし、こんなところで死ぬよりはずっとマシだった。
生きられるなら何でも良かった。
「あんたはいつでも私の寝首掻いても良いからさ!」
寝首を掻く…つまり、吸血鬼に奇襲を仕掛けることの許可をいただいたわけだ。
何故そんなに嬉しそうなのか。
何故私の血を吸わないのか。
何故そんなことを言うのか。
混乱している私には何もかもが理解できなかった。
「ほら、立てる?」
吸血鬼が腰を抜かして座り込んでいる私に手を伸ばしてきた。
色白でほっそりとした綺麗な手。
こんな綺麗な手で屈強な大人の男達の身体を斬り裂いたなんて信じられない。
私は恐る恐るその手を掴む。
死にたくなかった。
吸血鬼の機嫌を損ねて襲われるのが恐かった。
自分の保身しか考えていなかった。
「よいしょっと…」
私は繋いだ手によって強引に立ち上がらされる。
冷たかった。
その手は本当に冷たかった。
でも…その冷たさの中にもどこか暖かみがあった気がする。
自分でも何を言ってるのか分からないけれど。
もしかしたら私の手の方が冷たかったのかもしれない。
「じゃあ、今日からここがあんたの家よ!」
「え…あ…う…?」
言葉が出てこなかった。
何を言えばいいのか分からなかった。
ただ、とにかく死にたくなかった。
そのことしか頭に無かった。
「そうだ、あんたの名前は?」
「な…ま…え…?」
名前。
名前なんて無かった。
異端審問会では珍しい話ではない。
そこでは番号で呼ばれていたので、名前など必要なかった。
私には答えることが出来なかった。
名前など無かったのだから。
「何?あんた答えられないの?」
吸血鬼の眉間に皺が寄る。
私は焦った。
怒らせてしまっては私も先にやられてしまった仲間と同じ道を辿ることとなってしまう。
…自分でも醜い考えだったということは分かっているわ。
でも、当時の私は死にたくなかった。
必死に首を左右に振ったわ。
「なまえ…ない…」
「そう。あんた名無しなの。それは困ったわね」
吸血鬼が顎に手をやり考える仕草をする。
私は黙ってそれを見ていることしか出来なかった。
怯えた子犬のように。
「よし!今日からあんたの名前はサクヤよ!」
その瞬間が私…サクヤが生まれた瞬間だった。
サクヤ。
それが私の名前?
サクヤ。
頭の中で何度もその言葉を反芻してみる。
何度も何度も。
「私のことはそうねぇ…」
吸血鬼が私の目の前でぶつぶつ呟いている。
しかし私の耳には何も入ってこなかった。
サクヤ。
サクヤ。
私の…名前。
頭の中で何度も唱えてみた。
悪い心地はしなかった。
むしろ…どこか気持ち良かった。
「ふふ…」
「ん?」
私は自然と笑みが零れた。
嬉しかった。
自分に名前を付けられたことが。
初めてだったから。
吸血鬼が怪訝な表情で見ていたのはわかっていたけれど、それでも笑みを止めることは出来なかった。
「あなたの…」
「ん?何?」
「あなたの…なまえは…?」
私はたどたどしい口調で吸血鬼に名前を尋ねた。
人と会話をするのは昔から得意じゃなかったの。
吸血鬼は一瞬だけ考えて言ったわ。
「よし!私のことはお嬢様と呼びなさい!」
「おじょう…さま…」
そう、それが私と吸血鬼…いえ、お嬢様との出会いだった。
「サクヤ!あんたは今日からここ…紅魔館に住むのよ!」
サクヤ。
私に与えられた名前。
それが特に理由もなく生きてきた私にとって、初めての希望の光になった。
そして、この名前は今でも誇りに思っている。
お嬢様に与えられた名前だったから。
それからは色々と大変だった。
私は何も出来なかったから。
私は主に戦闘訓練ばかりを積んできたからだ。
ここではそんな物は微塵も役には立たない。
そんな自分が情けなかった。
でも、それでもお嬢様は私を傍に置いてくれた。
お嬢様は私に襲いかかって欲しかったようだけど、私にそんな気はなかった。
私はお嬢様の傍にいたかったから。
お嬢様が大好きだったから。
お嬢様がいなければ生きていけないと思っていたから。
お嬢様は私に勉強を教えてくれた。
お嬢様は外国から日元にやってきたそうで、外国の言葉も教えてもらえた。
外国語を話すお嬢様はとても格好良かった。
外国ではこういうのをカリスマと言うらしいわ。
お嬢様は私に新しい服を買ってくれた。
私は今まで汚らしい服しか着てこなかったのに。
メイド服という外国製の服を買ってくれた。
本当に嬉しかったわ。
お嬢様は私に胴なしのゆっくりれみりゃをプレゼントしてくれた。
どこから連れてきたのか分からなかったけれど、可愛かったので気にしなかった。
「お嬢様が二人に増えちゃった…可愛い…」
「う~♪う~♪」
「ちっちゃなお嬢様。私の名前はサクヤっていいます」
「う~♪さくやぁ♪」
まだ小さかった私は大はしゃぎした。
お嬢様とれみりゃは何だか似ていたので、私はれみりゃのことを『ちっちゃなお嬢様』と呼ぶことにした。
「…サクヤ、その…ゆっくり、どう?」
「とっても可愛いです。お嬢様、ありがとうございます」
「そ、そう…」
お嬢様はなんだか微妙そうな顔をしていたけれど。
私は家族が増えたことが何より嬉しかったので何も気にすることはなかった。
お嬢様は私に生まれて初めて美味しい物を食べさせてくれた。
審問会では堅い米やしなびた野菜ばかりだったから。
お嬢様は何も食べずに私の食事を見ているだけ。
「サクヤ、美味しい?」
「はい、ありがとうございます」
この時の私は気付けなかった。
本当に自分のことしか考えていなかったんだと思う。
お嬢様が何を食べているかなんて。
お嬢様が何を考えて私を傍に置いてくれていたのか。
この時の私は露ほどにも考えることは出来なかった。
それから数年経過した。
私の体も成長し、すっかりこの生活に慣れていた。
日元の人間は名前に漢字を使用する。
いつまでも『サクヤ』のままではどうかとお嬢様が思ったのか、私に漢字の名前を与えてくれた。
裂邪。
読みはサクヤのまま。
邪悪を斬り裂く…という意味で裂邪。
随分大げさな名前だとも思ったけれど、お嬢様が与えてくれた名前なら何でもよかった。
それからは私も裂邪と名乗るようにした。
全ては順調に行っていた。
そう思っていた。
お嬢様が倒れてしまうまでは。
「…お嬢様!」
「裂邪…」
この時の私には目の前の光景が信じられなかった。
いつも元気でいたお嬢様が倒れてしまうなんて。
「お嬢様!どうなさったんですか!?」
「なんでも…なんでも…ないのよ…」
お嬢様の口調は弱々しかった。
最悪の想像がこの時の私の中によぎった。
嫌だ。
嫌だ。
絶対に嫌だ。
私とお嬢様と小さなお嬢様と一緒にずっとこの紅魔館で暮らしていくんだ。
あんなに強くて美しいお嬢様が死んでしまう訳がない。
この時の私はそれだけを支えにしていたわ。
「お嬢様!私に何かできることはありませんか!?」
「…そうね。貴方にしか出来ないことがあるわ」
この瞬間、私は全身が沸騰するかのように熱く感じられたわ。
嬉しかった。
お嬢様に頼られたのはこの時が初めてだったから。
今ならお嬢様に今までの恩義を少しでも返すことが出来るかもしれない。
そう考えたら興奮してしまったの。
「お嬢様!私はお嬢様の為ならば何でも出来ます!どうか私にお命じください!」
「裂邪…以前買ってあげた剣と銃…それと銀の銃弾はある…?」
「は…?は、はい!ありますけれど…?」
お嬢様の身体を治すのに剣と銃と銃弾が必要なのか?
間抜けな私はそう考えてしまっていた。
…私は本当に、愚かだった。
「今ここに持ってこれないかしら…?」
「は…はい!自室にありますので取って参ります!少々お待ちいただけますか!」
私は慌てて自室に戻った。
自室に戻った私が手に取ったのは銀製の外国風の大剣と二丁の拳銃。
どちらもお嬢様に買ってもらった物。
今でも私の一番の宝物。
…みょんも彼方も知ってるでしょうけど、剣にも銃にもお嬢様の力が込められている。
剣は私が心の中で命じるだけで空中で自由自在に動いてくれるし、銃は私の魔力を撃つ仕様となっているので弾を込める必要はない。
どちらも満足に使えるようになるまで年単位の時間がかかってしまったけれど。
それも私にとっては良き思い出だったわ。
お嬢様と一緒に訓練したのだから、悪い思い出になるはずがなかった。
と、剣と銃を取ったところでこの時の私は思い出した。
お嬢様からは銃弾も持ってくるように命じられていた。
銀の銃弾。
一般的に吸血鬼の弱点と言われる。
この時の私はお嬢様と初めて出会った時の事を思い出した。
あの時に銀の銃弾を持ってきていたのだ。
それにしても、こんな物を何に使うのだろうか。
私の拳銃は、お嬢様の力で銃弾を込める必要がなくなったから無用の物となっていたのに。
…この時の私は本当に気付けなかった。
剣と銃と銃弾で出来ることなんてひとつしかないと言うのに。
…考えていても仕方ない、そう結論を出したこの時の私は剣と銃と銃弾を持ち、お嬢様の所まで駆けだした。
「お嬢様!取って参りました!」
全速力で走った所為か息が荒くなっていた。
お嬢様の元気な顔が早く見たかった。
「そう…」
そう言うとお嬢様は寝ている身体を起こした。
そしてベッドの上に座った。
「お嬢様!まだ起きては…」
「裂邪」
私の訴えは中断された。
槍のように研ぎ澄まされた綺麗な声。
お嬢様の顔は真剣そのものだった。
「裂邪、始めましょう」
「…な、何をすれば良いのでしょう、お嬢様」
「…わからない?」
お嬢様の口の端がつり上がった。
眼は真剣そのものだったけれど。
私はお嬢様に何をしてあげられるのか。
少し考えてみるが、やはりわからなかった。
私はお嬢様に対して一度もまともな
恩返しを出来たことがないのだから。
「…すみません、お嬢様。私ではお嬢様のお考えは計りきれません。どうか私になんなりと命じください」
「裂邪、私は今から貴方の主人ではない。今から私と貴方は敵同士よ」
「…え?」
今、お嬢様は何と仰ったのか。
この時の私は自身の耳を疑った。
敵同士。
私とお嬢様が。
私にとって絶対にありえない話だった。
「裂邪…構えなさい」
「…!?…構えるって…剣と銃をですか?」
「そうよ…それ以外に何がある?」
これは現実なのか。
お嬢様相手に武器を構える?
私がサクヤという名前をいただいてから、そのようなことは一度も考えたことはない。
お嬢様の命令とは言え、お嬢様相手に武器を構えることになるなんて…。
悪夢なら覚めてほしかった。
この時の私は現実逃避をしていた。
お嬢様の真剣な顔を無視してまでも、ね…。
「裂邪…行くわよ」
「お、お嬢様…?」
お嬢様の右手に紅い光が宿った。
そこに現れたのは深紅の槍。
それを最後に見たのは私がお嬢様と初めて出会った日。
それ以来ずっと見る事はなかった。
「裂邪」
「は、はい…?」
お嬢様は漆黒の翼を広げ、そして叫んだ。
「私を殺してみなさい!貴方の手で!」
お嬢様は私目掛けて一直線に飛んできた。
「がはっ…!!」
私は動けなかった。
目の前の現実が信じられなかったから。
お嬢様と戦うなんて出来なかったから。
お嬢様の深紅の槍が私の左肩に突き刺さった。
急所を外したのは当然わざとでしょうね。
お嬢様は私を追い詰める事で、私に死んでしまうんじゃないかと危機感を与える事で、私とお嬢様が戦うという図式にしたかったんでしょう。
でも…
この時の私は…
「お、おじょう…さま…」
私は左肩の痛みを堪えながら懸命に声を絞り出した。
お嬢様が付けてくれた傷や痛みなんだから何も問題ない。
むしろ光栄なことだ、って思いながらね。
「私の命を…貴方に捧げます…」
命なんて惜しくなかった。
私の命がお嬢様の糧となれるのなら、むしろ本望だった。
この時は本気でそう思っていたの。
…この時の私は本当に勘違いをしていた。
「お嬢様…どうか…私の…命を…吸って…ください…」
それがお嬢様の為と思って。
本当に自分のことしか考えていなかった…。
お嬢様が何を考えていたかなんて…本当に考えていなかったの…。
お嬢様は私の左肩から槍を抜いた。
血が傷口から出てしまったが、そんなものは関係なかった。
それよりも目の前の光景に心が痛かったから。
お嬢様の悲しそうな深紅の瞳。
それは失望の眼差しだった。
お嬢様は私と戦うことをずっと心待ちにしていたのでしょうね。
それを裏切ってしまったのだ。
そのことに私は気付けなかった。
「…裂邪」
「は、はい…」
私は慌てて返事をする。
この時の私はどうすればいいのか本当に分からなかった。
ただ、怯えるだけだった。
お嬢様に捨てられたくない、嫌われたくない、ってね。
「…もういいわ、止血をして休みなさい」
「え、でも…」
「いいから!!」
お嬢様の怒声。
初めてだった。
私は取り返しがつかない事をしてしまったのだ。
でも、この時の私は気付けなかった。
虫の居所が悪かったのだろう、明日になったら元のお嬢様に戻ってくれる、ってね。
目の前に当時の時の私がいたら、ぶん殴ってやりたいくらいよ。
「し、失礼します…」
私はお嬢様に頭を下げ部屋を出た。
すでに取り返しがつかない事にも気付かずに。
次の日の夜。
私はお嬢様の部屋を訪れた。
目の前の光景の衝撃に、私は倒れそうになってしまった。
そこにいたのは…弱々しい息を吐きながらベッドに横たわっているお嬢様の姿だった。
「お嬢様!?大丈夫ですか!?」
「さ、裂邪…」
私は慌てて駆け寄った。
お嬢様の声は最早昨日よりずっと悪くなっていた。
…今考えれば当たり前よ。
すでに限界だったのに戦闘を行おうとしたのだから…。
「裂邪…よく…聞きなさい…」
「お嬢様…?」
「私は…もうすぐ…死ぬ」
お嬢様の声。
私の中のイメージとは違う弱々しく横たわるお嬢様。
そしてお嬢様からの絶望的な宣告。
お嬢様が…死ぬ。
信じられなかった。
これこそ悪夢だった。
何が現実なのか分からなかった。
「…少し、長く生き過ぎちゃったから…寿命みたいな…ものね…」
「じゅ…みょ…う…?」
「うん…最期に貴方と出会えて良かった…」
嫌だ
嫌だ
嫌だ
私の心の中はその言葉だけで占められていた。
私は完全にお嬢様に依存していたから。
「裂邪…貴方に…最期のお願いがあるの…」
聞き取れないくらいの小さな声だった。
お嬢様は微かに笑った。
「私を…殺して…貴方の…手で…」
それはお嬢様がずっとずっと願っていた事。
お嬢様は最初からそのつもりで私を傍に置いてくれたのだろう。
でも…
「出来ません!やめてください!死ぬなんて…やめてください!」
私はその場に泣き崩れてしまった。
やらなければいけないことがあったのに。
お嬢様の役に立たなければいけなかったのに。
私は…最後まで何も出来なかった。
私が泣き続けてどのくらい時間が経ったのか。
不意にお嬢様が起き上がった。
「お嬢様…もう大丈夫なんですか…!?」
この時の私は確信していた。
また、私とお嬢様と小さなお嬢様の生活に戻れる。
そう信じていた。
お嬢様の手から放たれる深紅の弾幕を見るまでは。
「あああああああああ!!!!」
深紅の弾幕が私の身体を燃やす。
全身が燃え上がるように熱かった。
お嬢様の弾幕を避けることなどその時の私には無理だった。
「ハハハハハハハ!!!!」
お嬢様の高笑い。
こんな風に笑うお嬢様を見るのは初めてだった。
「裂邪…あんたの血は美味しそうだねぇ…」
「お、お嬢様…?」
舌舐めずりするお嬢様。
その深紅の瞳が恐かった。
まるでお嬢様じゃないように見えた。
お嬢様がゆっくりと私の元へ歩いてくる。
私は動けなかった。
恐怖で。
お嬢様相手に恐怖を感じるなど初めて出会った日以来だった。
…いえ、目の前にいたのはすでに先程までのお嬢様ではないということが本能で分かっていたんでしょうね。
「裂邪!逃げなさい!」
目の前のお嬢様の姿をした吸血鬼を呆然と見ていた私に、お嬢様らしき声がどこからか聞こえてきた。
私はその声に希望を託し、周りを見渡す。
「裂邪…早く逃げなさい…」
そこにいたのは…私が小さなお嬢様と呼ぶ…ゆっくりれみりゃだった。
「貴様…残留思念か!?」
「そうよ…このれみりゃは元々私の魔力で作ったもの…貴方も御存知でしょう?」
「くっ…」
「貴方は所詮私の身体の魔力の残りカス…私の身体の中の未練でしかない…残留思念とはいえ、貴方よりはこの身体に魔力を残してあるわよ?」
私には目の前の光景が分からなかった。
お嬢様の身体と小さなお嬢様が向かい合って話している。
訳がわからなかった。
そして、小さなお嬢様はいつも笑顔でいたというのに。
今は真剣な表情で流暢な会話をしていた。
そのことがこの時の私をより一層混乱させた。
「くっ…!!」
お嬢様の姿をした吸血鬼が部屋から逃げ出す。
小さなお嬢様はそれを追わなかった。
私を悲しそうな瞳で見ているだけ。
「お…じょう…さま…?」
「裂邪…時間がない。この身体に残された魔力もそこまで多くないの。手短に話すわね」
お嬢様は早口で話を進めた。
私に疑問を挟む余地はなかった。
「まず、私は死んでしまった。あいつは私の未練そのままの存在…魔力の残りカスが意思を持って私の身体を動かしているの。吸血鬼の本能そのままにね…」
「死…?未練…?」
私は小さなお嬢様の言うことが理解出来なかった。
お嬢様が死んだなんて信じられなかったから。
「そして…私の未練…それは人間の手で死ねなかったことよ」
「…!!」
この時、私は自分が取り返しがつかない事をしてしまった事に気付いたの。
そして、お嬢様が何を想って私を傍に置いてくれたのかも。
全ては手遅れだった。
「ごめ…んなさ…い…おじょう…さま…」
「…私には貴方を慰めている時間すら無い…お願い…あいつを追って…そして…今度こそ…」
お嬢様の声がどんどん小さくなっていった。
そして最後にぽつりと呟いた。
「殺して…」
お嬢様はそのまま床に落ちる。
後には私と小さなお嬢様の可愛らしい寝顔だけが残された。
最終更新:2011年04月06日 00:05