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「追憶の水面(みなも)」

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mintsuku

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「追憶の水面(みなも)」



…肺まで流れ込む赤茶けた泥水。もはや咳き込むことすら出来ず、見知らぬ幼児を抱えた晶子は濁流をぐったりと流されてゆく。

(…誰か…この子…を…)

大雨で増水したこの川辺には、風景をスケッチに来ていた晶子しかいなかった。上流から流されてきた子供を偶然目にし、思わず飛び込んでしまったものの、彼女は全く泳げないのだ。

(死ぬ…のかな、私…)

冷たく迫り来る虚無の前で晶子が最期に見たもの、それは青く澄んだのどかな故郷の空と、抱えていた幼児をしっかりと掴み上げてくれた誰かの力強い腕だった。


「…済まぬ…子供しか助けられなかった。」

嗄れた男の声。ぼんやりとその声を聴きながら岸に残したままのカンバスや画材のことなど考えていた晶子は、出し抜けに我に返りガバリと跳ね起きた。

「…って、私、生きてるじゃない!! 良かったぁ…」

周囲は先刻と変わらぬ見慣れた河原だ。しかし何かが普段と違う。まるで全身が頼りない霧か霞にでもなったような…

「…済まぬ。」

繰り返す声にようやく晶子は声の主を見た。倒木に腰掛け、晶子に落ち窪んだ瞳を向ける僧形の老人。彼の纏う擦り切れた僧衣はぐっしょりと重たげに濡れていた。

「…気の毒だが貴女は既に拙僧と同じ…亡者だ…」

「そ、そんな!! ウソでしょ!! ついさっきまでそこで川を描いてて、そしたら子供が流れて来て…」

狼狽しきった晶子は僧の前であたふたと跳ね回り全身をくまなく調べていたが、やがて掴もうとした灌木の枝をすり抜けた手をじっと睨み、へなへなとその場に崩れ落ちた。
気丈な彼女ではあったが、この突然すぎる人生の終わりにはたまらず悲痛な嗚咽を洩らす。激情の女流画家、矢崎晶子のあまりにあっけない最期だった。

「…そんな…死ん…じゃったの…私…」

まるで彗星のごとく画壇に現れ、その破天荒な言動で幾多の物議を醸した彼女が、追放同然に渡ったにヨーロッパでさる老富豪と結婚し、一児の母となったことを知る者は少ない。
何年かぶりに人知れず単身帰国してこの草深い山奥の故郷を訪れ、亡き両親の墓に孫の誕生を報告した矢先の悲運。大切な家族と生涯を賭けた絵の道。未練の涙は尽きることなく、いつまでも晶子の頬を濡らし続けた。

「…拙僧の力は相手による。あの子供は助かる運命だったのかも知れぬ…」

「…あの子は…助かったのね…」

「…うむ。上流に両親と遊びに来て足を滑らせたようだ。最近の若い親は不注意でいかん…」

真面目くさった老僧の答えに混じり、川下から聞こえてきたざわめきは、水難事故を知った人々の捜索活動のようだった。果たして晶子の亡骸は見つかり、遠い異国の夫と娘のもとへ帰れるのだろうか。

「…もしかすりゃ、ここらの川底に引っかかっとるかも知れんなぁ…」

ガヤガヤと傍らを通り過ぎる地元の青年団員たちは、倒木に並んで腰掛ける晶子と老僧に全く気付かない。やはり晶子はもう、彼らと同じ世界の住人ではないのだ。

「…ちくしょお…こんなのって…」

やがて涙を拭った晶子はぽつり、ぽつりと自らの不運を嘆き始める。倍以上年齢の違う夫に、授かったばかりの可愛い娘。家族への想いは止むことなく彼女の胸に込み上げた。

「…あの人と娘には『すぐ帰るから』って約束したのに…」

「娘御が…おられるのか?」

「…うん…」

亡者となってもなお、激しい感情のまま子供のように泣き続けた彼女は疲れ果て、どんよりと濁った水面を見つめていたが、やがて静かな同情を込めて沈黙する僧の亡霊に向け、少しだけ落ち着いた声で尋ねた。

「…お坊さんも…幽霊なんだよね?」

「左様…寛覚と申す。」

「寛覚って…もしかしてあの有名な書画の寛覚和尚?」

頷いた老僧を晶子はしばし過酷な現実を忘れて眺めた。以前、ある美術館で開催されていた寛覚和尚展に偶然立ち寄ったことがあったのだ。出家する前はさる藩の領主であったとも言われる、謎に包まれた書の大家。
彼が残した膨大な量の写経、身を裂くような鋭利さで並ぶ『南無阿弥陀仏』の六文字から、晶子は同じく筆を握る者として脚が震えるような戦慄を感じたのを覚えている。

「…あれは…『絵』だった…凄まじい自責と贖罪の絵…」

自分以外の芸術家を滅多に認めない彼女にしては珍しい、深い畏敬の色が彼女の瞳に浮かぶ。しかし彼は遥か遠い昔に世を去った人物の筈だ…

「…それで…寛覚さんは亡くなって何百年も…ずっと『この世』にいるの?」

「…恥ずかしながら拙僧は罪人。いつか天に赦されるまで現世を彷徨う因果…」

肉の削げた顔に浮かぶ苦悩は、たちどころにあの鋭い墨痕と直結する。その半生と、死してなお続く途方もなく深い悔悟。老僧寛覚は如何なる罪をその背に負い、あの膨大な経を写し続けたのだろうか…

「…でもあなたはさっきの子供を助けた。これってすごい『善行』じゃない?」

「拙僧の業に比しては微々たる贖いに過ぎぬ。それより…もっと御家族の話をして下さらんか? 実は拙僧が死霊となって幾年月、こうして言葉を交わせる相手は、貴女が初めてなのだ…」

今、絶望の底にいる晶子には辛い話題だ。しかし寛覚和尚の懇願は彼女の乱れる心を動かす切実さに満ちていた。晶子は昔から、孤独を隠そうとせぬ人間に弱い。

「…亭主はね…ベリアルっていうかなりのお爺ちゃん。彼の親戚連中は私のこと財産目当ての泥棒猫だ、って言うけど、一番私のこと解ってくれる素敵な男よ…」

不眠不休で幾晩もアトリエに籠もり、しょっちゅう癇癪を起こしてカンバスを叩き壊す若い妻を、柔和な笑顔で見守ってくれる男などどこにいるだろう。
『魔王』という奇妙な仇名も、少し風変わりな使用人たちも関係ない。晶子はそんなかけがえのない夫、ベリアルを深く愛しているのだ。

「…それから、まだ生まれたばかりの一人娘がリリ。亭主と同じ赤毛だけど、顔は私にそっくりなの…」

もう二度と抱けない愛娘の姿を追うように、晶子の瞳は悲しげに潤む。じっと晶子の話に耳を傾ける寛覚の表情もまた、同じ悲しみを分かち合うように険しく曇った。

「…リリを産んで、今までの自分の絵が全部クソッタレだって気付いた。穢れなき…命の炎…まだ私の腕じゃカンバスになんか写し取れない…」

「…左様、人の技など及ばぬものが、天から授かる命の美であろう…」

どこまでも画家らしい晶子の言葉に真摯な眼差しで耳を傾けていた寛覚の瞼にも、まるで愛しい娘の姿が映っているようだった。
二人の霊が交わす、寂しげな鈴の音にも似た尽きせぬ未練の言葉。いつしか西日が銀杏の影を長く河原に伸ばした頃、晶子は老僧の頬に浮かんだ小さな頬笑みを確かに見た。

「…寛覚和尚、多分…あなたにも娘さんがいるんでしょ?」

ゆっくりと立ち上がった晶子は、悄然と指を組んだ寛覚に微笑む。しばし唇を震わせた老僧は、絞り出すような呻きで彼女に答えた。

「…如何にも。娘に許して貰えるまで、拙僧は償いの旅を続けるのだ…」

「…許し、って…一体あなたと娘さんに何が…」

だが晶子の問いは突然周りに出現した冥い霧に遮られた。吸い込まれそうな…深く落ち着いた漆黒の闇。
それが黄泉路への導きであるという直感は恐らく当たっているのだろうが、何故かすぐそばの寛覚にその影は見えていないらしい。

「どうか…なされたか?」

「…あなたは見えないの? これが…あの世からのお迎えでしょ?」

急速に広がり、迫り来る不定形の渦。絡み付く無の色に辺りの鮮やかな景色が暗く曇ってゆく。

「…拙僧には何も見えぬが、実は先刻から貴女の姿が霞んでよく見えぬのだ…」

どうやら冥土への道は晶子ひとりだけを招いているらしい。随分と了見の狭いあの世だ、と彼女は思う。
寛覚和尚とその娘に一体何があったか知らないが、あれだけの写経を重ね何百年も現世を彷徨っている老人くらい、暖かく迎えてやるのが人情ではないか。
普段の短気さを取り戻した晶子は鼻息も荒く皺だらけの老人の手を掴み、冥府へと繋がる道へと荒々しく足を踏み出した。

「一緒に行こう。たとえ地獄に行っても、私はもう一度リリを抱く方法を探すの。あなたの娘さんも、きっとあの世へ行けば…」

しかし晶子が握った寛覚の手は、まるで幻を掴んだように虚しくその感触を失ってゆく。ただ晶子だけを呑み込んだ闇は静かに、抗えぬ強い力で彼女を引き寄せてゆく。

「寛覚…和尚!! あなたの…あなたの娘さんの名前は!?」 

寛覚の没年を考えれば彼の娘もすでに現世の住人ではない筈だ。もしも冥府で彼女を捜せるならこれも他生の縁だろう。
しかし寛覚和尚の声はすっぽりと晶子を包み込んだ黄泉への縦穴の外で、ただ晶子への感謝だけを叫び遠ざかっていった。

「…ありがとう…拙僧はやはり奪った数だけの命を救わねば娘に会うことは出来ぬ…だが、貴女と逢えて本当に良かった…」

…晶子の姿が消えた名もなき河原に、寛覚和尚…俗名を大賀美慎兵衛という亡霊の長い読経が流れる。その美しき天才画家への鎮魂は、決して生ある者の耳には届かない。

「…夜々重…」

やがて彼は、最後に晶子が発した問いの答えを小さく呟き、再びあてのない旅路へと彷徨い始めた。


「…でも夜々重サン、どうして私を庇ってくれたのデス? ワタシは…アナタを自爆の巻き添えにしようとしマシタ…」

穏やかに流れる三途の川を眺め、奇妙な既視感を覚えながらリリベルは尋ねた。未だ閻魔庁の厳重な監視下にある彼女が、こうしてときどき外出できるのも夜々重の尽力のおかげだ。

「…え、どうしてって…」

減刑嘆願の取り次ぎに拘禁中の差し入れ。リリベルに救いの手を差し伸べ続けた夜々重に、ずっと主である閻魔羅沙弗殿下が黙認という援助を送っていることをリリベルは知らない。
最近また幾つかの新たな官位を授かり、次なる閻魔大帝として信頼に足る側近を集め始めた殿下にとって、この半悪魔の元テロリストは夜々重と同じくらい何らかの興味を惹く存在なのかも知れなかった。

「…うーん…私も最初はこっちに知り合いもいなかったし、一緒に地獄に来たのも何かの縁でしょ? ほら、『袖摺り合うも多少の縁』っていうじゃない? 多少はトモダチ、みたいな…」

「…違いマス。あの諺の『他生』は別の生、前世か或いは…果てしない輪廻のどこかで得た関わり、という意味デス。」

たとえば地獄の底で、リリベルが信じ合える魂と出逢えたように。もしかすると『顎』とリリベルは、姿を変え毎度お馴染みの永い相棒なのかも知れない。

「ふーん、リリベルって物知りだねぇ…」

並んで座った夜々重はリリベルの意外な博識に感心しながらも、少し愁いを帯びた瞳を伏せた。あの慌ただしい地獄への旅路を思い出すと、どうしてももう一人の同伴者、今は逢えぬ『彼』の面影が蘇ってしまうのだ。
そんなの夜々重の気持ちを察してか、リリベルはいつもの乱暴な調子で毒づきながら、河原に向けて足元の小石をポンと蹴飛ばした。

「…それより、アイツらを見てると、なんかこう…こっ恥ずかしくて尻尾まで痒くなるデス…」

「あはは…ちょっとあれは恥ずかしいよね。」

ポチャン、と小石の跳んだ先には最近再び殿下によって外宮警護に呼び戻された鬼、千丈髪怜角の姿があった。彼女は偶然を装ってひょっこり現れた高瀬中尉と二人、裸足で浅瀬に入って戯れている。
非番にも関わらずリリベルの逃亡を防ぐのだ、といかめしい顔でくっついてきたのだが、いくら獄卒同期随一の切れ者とはいえ、きゃあきゃあ剛さあん、などと水の掛け合いをやっていては監視の役に立たない。

「…二人揃って濁流にでも呑まれろデス…」

無駄に爽やかな笑顔で岸に手を振る高瀬中尉に、同じ仕草で応えるリリベルの不謹慎な囁き。だが彼女の危険極まりないバスは、高瀬の手によって着々と時代遅れの働き者に戻りつつあるのだ。
今頃、拘置施設と呼ぶには快適な住まいでは、幽霊となったファウストが午後のお茶を用意している時間だ。どうせ絵など解らぬ連中だろうが、手元にある母の作品の何枚かくらいは見せてやろうか…
自分にしては呑気な気紛れに頬を弛ませ、リリベルは何故か懐かしくさえ感じる新たな友、大賀美夜々重を振り返った。

「…そろそろ戻る時間でショウ? もしみんな暇なら…丁度ファウストがスコーンを焼いて待っている頃デス…」


おわり

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