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第三話『戦闘と』

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 第3話『戦闘と』



 正規の起動手順を踏む。
 機体を起動させてから、モニターのスイッチを順々に押していく。メイン、サブ、後方用と。ぼんやりとした光が二人の顔を照らし影を投射した。
 エンジンが目を覚ます。燃料を燃やし、ピストンを上下させる。つまり機体が水上にあることを示す。
 酸素が潤沢に得られる水上でエンジンを回し電力を作り、水中では電力を使う。潜水機としては巨大な図体を持つリュグは、全ての電力を電池に頼ることはできなかったのだ。
 それでも昔の潜水艦のように充電に時間をとられ潜水の時間より船のように航行する方が長いということは無く、少しの発電で長い時間潜り続けられるのだから、技術の進歩は確かにあった。
 あらかじめ電池を充電しておけば、発電することもないのだが。
 クーは無表情を維持したまま、頭に叩き込んだマニュアル通りに準備を進める。
 レバースイッチを必要な分倒す。潜水翼を動作。アーム部の油圧系を確認。耐水殻の状態を目視で確認。
 そして最後、全ての機能が立ち上がった後で、黄色と黒の縞で彩られた枠に透明色のプラスチックカバーで隠されたレバースイッチを操作した。
 メインモニターのコンディションゲージが変化する。外殻、内殻、アーム、操縦席、動力部……全て微妙に違う色と境界線を区切ることで一目で状態がわかる。

 『準備完了』
 「リュグ、出ます」

 アクセル。内臓電池から供給される電力がモーターを動かし水を推進剤として噴射すれば、ドックからするすると進み出る。
 機体甲板のカメラを収納。
 潜航開始。

 『オートブロー開始しました。耐圧殻問題無し、自己診断プログラムからの報告を受理……オールグリーン』
 「緊急潜航する。ソナースタンバイ」
 『レディ』

 リュグが潜っていく。回転数を落とし、あえて機体の水平を崩すことで前のめりに落ちるようにして、水中を滑り降りる。
 深度100m。200m。300m。400m。人類の視覚能力では光を感知できない領域に亀が入り込んでいく。
 機首上げ、推力増大。水平。各機器に目を走らせ異常の発生がないかを確かめる。
 クーは右手左手の順番で操縦桿から離し汗を服に擦り付けた。首を回すとコキコキ関節が鳴った。唇をチロリと舐め、湿らす。
 速力11ノット。

 「…………」
 『……………音楽はかけません。静音性が崩れます』
 「正しい答えをありがとう」
 『小声にならなくても大丈夫です。HALの声量程度ならばリュグの防音性能で抑え込めます』
 「恥ずかしい」
 『恥ずかしがる必要はありません。どうぞ話してください。HALは会話を求めます』
 「うん……」

 ―――アクティブソナーに感あり。
 3D図が表示され、反応のあった方向と海図を指し示す。他に温度、塩分濃度、対象の可能性がある物体の項目も並ぶ。
 水中の物体であることと、高速で移動して金属の掠れる音を垂れ流していることがわかる。
 目を瞑りリラックスした格好で深く腰掛け瞼を下ろしているHALが、電子頭脳だけを用いて音紋解析を実行した。リュグには無い機能である。
 『HAL』の名目の図がメインモニターの隅に現れる。音の波と、彼が持つデータの中から一番似通ったものが高速で照合されていく。艦船はもちろん、潜水艦、生き物、海洋ゴミも全て。
 該当一件。検索結果、ほぼ正面を回遊しているのは敵性になる存在だと判明した。

 『一時方向の物体の照合完了。78%一致。ガードロボ“dolphin”です。敵は遠距離攻撃の手段に欠いています。魚雷の使用を提案します。戦闘行動を開始します』
 「戦闘開始。距離は?」
 『不明。魚雷の射程内と推定』

 クーは操縦桿をぎゅっと握ってみせ、HALに指示を出しながら装置を操作した。戦闘が始まるというのに恐怖は無く、淡々としている。
 警告色で彩られた安全装置を解除。作業員が張ったのだろう、付箋付き(ドイツ語でうなぎと書かれている)のレバースイッチをかちかち倒す。
 魚雷発射管が音も立てずに開き、中に海水を招き入れる。
 メインモニターのコンディションゲージ、機体前面に四つの穴が開く。

 「………全魚雷管注水、無誘導、角度は任せる。設定近接信管。発射したらアクティブソナー起動」
 『了解。角度均等、敵位置予想範囲内に到達させる角度に設定。深度……』
 「このまま」
 『注水完了。自動装填装置よし』
 「発射する」

 状況を淡々と述べるHALの声が気持ちを高揚させてくれる。
 指をかけ、発射の宣言と同時に引き金を落とす。最後までガチッと引く、小さい衝撃が指に心地よい。
 4つの穴から魚雷が逃げ惑うウナギのように飛び出し、鋭い角度の扇型に広がりつつ、まっしぐらに直進す。先端から音波の目を発しながら、ガードロボに迫る。
 だがガードロボらも魚雷と射手に気が付いたようで、行動を開始した。イルカの名前の通りの体を使い常識外の速力を生み、魚雷から逃れ、散開する。誘導機能を持たない魚雷が当たるわけもない。

 『ガードロボ、数を特定……3。音紋から、回避行動を検知。音波発生源が拡大。』
 「近接格闘を試す。プラズマトーチ、スタンバイ」
 『すでに起動しています。電力回路問題なし、動力装置問題なし、ダンパー問題なし、防護剤流入確認、いけます』
 「いく」

 敵の方角に機首を向け、増速。潜水機とリュグを比較すれば、バイクと乗用車ほどの反応差があるとはいえ、建築資材を推力で強引に運搬する高出力は伊達ではなく、たちまちモーターボート並みの30ノット域に突入する。
 静音性は失われるが、どうせ近接武器しか所有していない敵なのだ、構うまい。
 テストには丁度良い。
 機体が変形する。引っ込んでいた頭部がせり出してカメラアイを水中に晒す。ライト点灯。カメラアイが右へ左へ可動するや、ガードロボを睨む。海中アームと機体の間に隙間が生まれ気泡が零れ、流れに身を任せ後方に流れる。
 出力の上昇を示すグラフが俄かに長大化。
 最大戦速。モーターボートですら追尾するのが精一杯な速度域に達せん。
 三方向から囲い込まんとするガードロボに、まずは正面から突っ込む。
 距離、近接。
 アーム展開。水の抵抗で後押しされた両側の武器が、機体の印象を鈍重な亀から戦闘兵器に変貌させる。
 右クローを開き、ガードロボのタックルを躱すついでに斜め下から一撃を食らわす。金属製の刃ががっちり敵を捕え、動きを封じる。
 プラズマトーチ作動。超高音の白炎が海水を蒸発も許さず原子レベルまで分解、刹那の刻の経過も許容せずガードロボの胴体金属を融解、食い破る。

 「遅い」

 フルパワー。
 巧みな操縦桿捌きでガードロボを投げ捨て、リュグの胴体の急速ロールで接近せんとしていたもう一機に打撃を与えん。
 弾かれ、勢いを削がれたイルカ型ガードロボが、リュグの視界、すなわち前方センサーも魚雷もアームも届かない背後に回ろうとした。
 解り切ったことだった。
 二機のスラスターのノズルを偏向、姿勢制御用スラスターを併用し、強引に横滑り回避。扁平なリュグの、機体横方向の水中抵抗の少なさを利用する。紙一重のところをガードロボに通り抜けさせる。
 距離が離れたが、魚雷を使用するには近すぎる。

 「合図でメインスラスター完全閉鎖後、機体前方に姿勢制御用スラスター偏向」
 『レディ』
 「今」
 『完全閉鎖まで2秒、1秒、閉鎖確認、スラスター偏向最大出力。後進に転向』

 スラスター、再偏向。フルアクセル。
 ぐるん。フリスビーが如く機体がY軸回転。後方に位置していたガードロボを、真正面に捉えることに成功した。

 「メインスラスター開閉、サブ吸水口開け」
 『ラジャー』

 クーの合図が操縦席に響く。
 完全にカモにされたガードロボ二機は、必死に回頭せんと身をよじらせている真っ最中。単純な尾の振りだけに推進と姿勢制御を依存していた欠点が露呈した。
 フィンガースイッチを叩く。瞬き。センサーの情報を眼球運動だけで読み取る。数値の把握、針の位置の把握、総合して理解判断。プレッシャーに鳥肌が立つ。脳細胞が熱に浮かされる。
 吸水口が開き、可能な限りの海水を吸引、パイプを通じスラスターになだれ込む。
 スラスターが悲鳴を上げる。たちまち冷却装置の負荷を示すゲージがレッドゾーンに突入した。

 「とった」

 ガードロボ二機の隙間に潜り込み、アーム一振り。クローで挟みこむ。プラズマトーチが作動。白亜のプラズマが迸り、巨大な気泡が生まれ出る。暗闇に青い電流がくねった。
 決めとばかりに、右手を握ってみる。

 「……ヒートエンド」

 クーが呟いた一秒後、ガードロボ二機は爆散した。
 メインモニターに終了の文字が浮かぶ。

 『シミュレーションを終了します。お疲れ様でした』

 そう、今までの戦闘は全て架空の敵を相手にした架空体験だったのだ。
 戦闘試験を行うに当たって実際に海に繰り出すのは危険極まりなく、下手すれば搭乗者が潜水機諸共海の藻屑になるのが目に見えていたので、研究所の判断として シミュレーションで済ましたのである。
 リュグは戦闘を専門にした外殻機ではないので、シミュレーションでデータ取りしても問題ない。
 むしろ試験時間にかけるべきは、牽引、溶接、切り出し、精密マニュピレーターによる組み立てであり、ドンパチをメインにするべきではない。
 操縦席に腰かけたまま傍らからノートパソコンを取りだし膝の上に置き、戦闘の経緯と感想を簡単に報告書にまとめて電源を落とす。今頃ドッグのプリンターが紙を吐きだしているはずだ。
 クーがキーボードを打つ間、HALが電脳を通じリュグの機能を順々に点検、停止状態に戻す作業を行い、電源を完全に落とした。機器から光が消えた。
 二人はリュグのハッチから外に出ると、赤っぽい皮のバナナをむしゃむしゃ美味しそうにほうばるマキナに出くわした。
 ボタンも留めない白衣は汚れと皺が目立ち、走り書きが散見する有様。対照的に頭のデジタルバイザーは指紋一つなく手入れが行き届いている。
 マキナはデジタルバイザーをチャキッと目元に下ろし、書類のデータを呼び出すと、バナナの残りをもむもむ咀嚼しつつ、白衣からバナナの房を取りだし、クーに勧めた。

 「バナナをバナナどうぞ。これはバナナですか? いいえバナナです。これは。
  ヤぁヤァお二人ともバナナをどうぞ~あーでもソウネHALは食べちゃうと後でカートリッジとっかえになるから駄目ね。試験は順調なようで嬉しいゾ。亀子さんの試験はほぼ終わったからんだからん、彼の試験やってくれればいいよう。
  あ、これこれ次やることリストね。前部の項目を埋めたらHALの試験は終了。ンーそういいたいけどんもぶっちゃけほぼ埋まってるような感じだっしー時間的に余裕も余裕なわけだから追加項目もぶっこんどいたんでヨロシク」
 「紙はどこ」
 「ホイ」

 言うなり、マキナは白衣の前を広げ、シャツを捲り、ズボンに挟んであった用紙を手渡したのだった。
 受け取り内容にさっと目を通す。服、態度、そして保管場所の適当さとは裏腹に内容はしっかりしており、注釈などが彼女のと思しき読みやすい達筆で付け加えられているのが違和感を残す。
 仕事になると普段のだらしなさが息を潜め、狂人が如くのめり込む人間が稀に存在するが、彼女のことである。
 事実マキナは数日間横になっておらず、目元で隈が座り込み抗議をしていた。
 夜更かしをすると場所を問わず意識が吹っ飛ぶクーには到底理解の及ばない行為であろう。
 項目の詳細は後で読むことととした。

 「試験を全て終えたらどうなるの」

 用紙をひらひら。

 「シャッチョさんが給料を振り込むって噂で聞いたぬ。リュグは生産開始。HALは量産型を生産するデータ取りをして、しばらくは私が預かろうそして秘書としてずっと働いてもらおうと思うね。
  HALきゅんは女の子っぽいから女服でも素晴らしいと思わないかしらー………いやスーツも捨てがたいな……セーラー服も………ぬっふっふ」
 「………行ってくる」
 「アディオス!」

 『比較的』まともに会話が通じたので、後半部分は聞かなかったことにしてその場を離れた。
 とりあえず彼の部屋に足を運ぶと、試験内容を読む。
 大部分の項目に印をつけることができたので、ペンで書き込む。ほとんどの項目が埋まった。

 「残りの項目はなんですか?」
 「これ」

 HALがクーの手元の紙を物欲しそうに見たので、貸してやる。彼はさっと目を通しただけで紙を返した。

 「入浴とありますね」
 「うん……」
 「HALは老廃物を流しません。冷却水は出しますが……体を洗う必要は認められません」
 「でも、洗わなきゃ」
 「………しかし……」

 クーが目をぱちぱちする。いつものように、あっさり了解してくれると思ったのだ。風呂に入る、シャワーを浴びる、そういった経験が無いので怖気づいているのだろうかと推測した。
 子供に接するように、口調を柔らかく直す。

 「行こう」
 「………」
 「私も入るから行こう、ね」
 「……」

 手を握ってみる。人間と寸分なく造形された人工物。メインフレームから伸びたマニュピレーター。温かく、柔らかく、肌質のムラも再現されていた。
 心なしむくれた顔の彼は、クーを見上げ、ようやく頷いた。

「はい」


 ◆ ◆ ◆ ◆


 女性用共同浴場にて。

 「HALは精密機械です。精密機械は水で損傷します。HALには20気圧防水加工が完備されていますが、可能性がある以上、慎重な行動をとるもの……」

 要約すると、水に濡れて壊れるのが怖いので入りたくないということらしい。
 アンドロイドは自己保存をプログラミングされている。彼は水に浸かることは破壊のリスクを高めると結論付け、嫌がった、そういうことだ。
 だが、20気圧防水を備える彼がシャワーや風呂で故障するだろうか? 
 ありえない。シャワーという名のウォーターカッター、風呂という名の深海など、独裁者でも泣いて許しを請う鬼畜入浴でない限り、浸水することはない。仮に浸水しても基幹ユニットは保護される。

 「壊れない、私が保証する。服脱いじゃって」
 「……はい」
 「ひょっとして濡れるのが怖いの?」
 「危険を回避することはHALの優先事項です」
 「脱いで」
 「わかりました」

 なおも食い下がろうとするHALを説得して服を脱がせ、自らもシャツを脱ぎ捨てる。彼と彼女の足元には神妙な顔つきでシャワー室を見つめる黒い猫。
 HALがすっかり服を脱いでしまえば、外見上人間と差が見受けられない裸体が露わになる。丸い肩、細い腰、しっとり乗った筋肉が微かに浮き出る腕と脚。しかし女性のものではなく、成長前の少年のものである。
 クーは衣服を丸め、籠に放り込む。三つ編みを解いて頭を振る。はらりと肩に黒糸がかかった。
 白い肌、黒い髪、サファイアを彷彿とさせる瞳。すっと紅の唇が窄まった。息を吸う度、肩から胸までが膨らんでは萎み、淡く膨らんだ胸の下に骨を際立たせた。臍の窪みの下は、HALで隠されている。

 「行って行って」
 「あまり押さないでください、危険です」
 「怒ってるの?」
 「怒りという感情ではありません」
 「そう……クロ行くよ」

 無表情のHALを、クーが肩を押してシャワー室に入る。足元をクロがすり抜けて中に。
 時間帯が真昼間ということがあってか人気は無く、作業員や研究員の姿はおろか掃除の人までもいない。
 HALは男性の姿恰好をしているが、モノ扱いなので女風呂に行こうが男風呂に行こうが構わない。彼の見た映像を抽出して流通させたら手が前に回るが。
 一番手前のシャワーを使うのは気が引けたので、一番奥から二番目のシャワーの囲いに入る。
 クーは身動き一つせずに固まってしまったHALに、シャワーノズルからお湯を降りかけた。意外にも、HALは身じろぎも逃亡もとらなかった。
 アンテナも兼ねる耳パーツがくるりと下を向いて水を避けようとした、それだけが彼のささやかな抵抗であった。
 湯がHALの頭に注ぎ、クーの前を濡らした。二人の体を伝って床に流れたら重力という摂理に従い排水溝に吸い込まれていく。湯気が帳の代用品。

 「まずお湯で体を濡らす……。シャンプーを手に乗せる。泡立ててから洗う。目を瞑って、染みるかも」
 「はい。ですがHALに痛覚はありません」
 「レンズに入り込むと動作不良を起こすかもしれない」

 てきぱきと体の洗い方レクチャーをしつつも、シャワーの湯を止め、手早くHALの髪の毛を洗い始める。
 空よりも海よりも深い青色の髪の毛を、泡に包み込んで洗う。頭皮に指を当てても脂の粘つきがない。髪も汚れを感じない。洗う必要がないとは虚偽ではない。彼は老廃物を排出しないのだから。
 クーは、埃を取り除いたのと、試験項目を満たしたのだとした。
 頭頂部、側面、後頭部、後頭部から一段と長く伸びた髪、長く伸びたもみあげと、順番に洗い、湯でシャンプーソープのヌルつきが無くなるまで流し、ノブを捻って止める。
 頭の次は、体である。
 クーはボディーソープを手に取り泡立てると、HALの肩を掴んで正面を向かせ、洗いだす。
 自分で洗わせればいいじゃない。指摘できる人間はこの場に居ない。
 首を、肩を、両腕を、お腹を、背中を、腰を、順序良く洗っていけば、その箇所も洗うことになる。

 「………」
 「………」

 “どこ”とは言うまい。
 クーがHALの足を洗うべく、華奢な足を折り曲げ屈み込む。必然的に背中を丸める前のめりとなればHALの視点からは彼女の胸や足の付け根が丸見えになった。
 しかし、彼女も彼も基本的に気にしないのであった。
 頭、体、全身を洗い終えたあとはクーも体を洗う。HALが手伝いましょうかと提案を持ちかけてきたが、丁重にお断りした。
 二人は体を洗い終えたが、まだ残っているものがいた。
 クロである。

 「石鹸で優しく洗うの」
 「データと比較してみたのですが、この猫は猫の容姿から外れつつあります」
 「……生き物は歳をとると容姿が変わっていくから。私も、あと何十年かでシワシワのお婆さん」

 クーはクロを呼び寄せ、水量を絞ったシャワーで濡らすと、石鹸で優しく背中から指の腹で擦り洗い始める。細い毛がひっかかり抜けぬよう細心の注意を払う。
 正座する。クロを腿の平に乗せ、マッサージするよう洗う。足を洗う。アキレス健に相当する健が手に触れた。色の禿げた肉球がある。紙やすりのようにがさがさとしている。隙間に指を入れ、爪を押し出して汚れをとる。
 クロは抵抗するでもなく、しかし不満を腹に抱えたようなむっつり顔で洗われた。抵抗する意味など無いと理解しても、納得はできないからである。
 黒猫が白猫になった。
 お湯をかければ白猫の体躯から白亜が色褪せる。雪解けのように。
 ぶるぶるぶるっ。クロが体を捩じり、筋肉の流動に任せ水気を払う。んにゃあと鳴けば、風呂の壁に反響す。
 クーは、タオルを肩にひっかけ、クロを胸に抱くと、HALを連れ立ってシャワー室の外へと出た。
 体を拭く拭かないで一悶着あったのは、言うまでもない。


 ◆ ◆ ◆ ◆


 埋めるべき試験の一角に、一際異彩を放つ項目があるのを彼と彼女は発見した。
 水泳である。
 街中のプールを使うのは躊躇われたので、ドックから数百メートルの砂浜を利用することを決定した。
 なぜ、異彩を放つすなわち他と違うと感じたのかと言えば、泳いでみれば分かることである。
 泳ごうとして飛び込んだHALは、浮かばず海底に足がついてしまった。
 と言っても水深3mもない地点である。防水対策が取られた高級アンドロイドの彼にとって、想定された水圧でしかなかったのだが。

 「………浮かんでこない」

 マキナから借り受けた(なぜかサイズがぴったりだった)黒水着を着こなした彼女は、飛び込むなり海面下に沈んでしまった彼の行方を不安そうに見下ろしていた。
 砂浜から伸びた堤防の先端にて、黒猫連れた女性一人、海面を覗き込む。
 ややあって、青い海面に青い髪の毛で覆われた頭頂部がスッと浮上したかと思えば、直下にエレベーターでもあるのではないかという滑らかさで上半身が現れた。
 クーは表情を変えずビクッと肩を揺らした。

 「HALの有するデータにはありませんでしたが、HALは水に浮かびません。ですがHALの脚部出力は総重量を支えることができますので、泳げます」

 HALは淡々と状況を説明してみせ、堤防から2~3m離れた地点まで水平移動すれば、また元の位置に上半身を微動だにさせず戻ってきた。
 彼は、イルカのショーを観覧したことがあるのなら誰もが目撃する、尾を使って体を水上に浮かすのと同等の行為を、バタ足で実現しているのである。

 「電池が持たないんじゃない?」
 「ええ、消費量が増大しています。脚部及び腰部の摩耗も急激に進行中です」
 「上がって」
 「了解しました」
 「手を」

 試験はとりあえずこんなものだろう。
 クーは手を伸ばしてHALの手を取ると、引き上げんとした。

 「!?」

 ――そして、不恰好にも頭から海に引きずり込まれた。
 HALの総重量は成人男性並み。クーが腕に込めた力はHALの外見相応分のみ。
 やかんに水が入っていると思い込み持ち上げたらからっぽで、取り落とした。逆に、重すぎるものを軽いと勘違いして緩く引いたら、意外にも重く自分が引っ張られる。
 HALがクーの腕力を多めに見積もったのも災いし、水音が響く現在が生まれた。
 鼻から海水がなだれ込む。唇の隙間から奔流が侵入する。喉に達した海水は気道からやってくる空気を避けて中へ中へ入り込もうとする。喉頭蓋が閉まる。少し遅く、咽る。
 逆さになった体を手足の振りで正しい姿勢に持っていき、瞼の閉鎖を維持したまま海面に顔を出す。後頭部で結い上げておいた髪が広がった。
 次の瞬間、目にも止まらぬ早業でHALの体がクーの真下に滑り込むや、お姫様抱っこの容量で掬い上げた。堤防の上という安全地帯へ運び、自らも上がる。
 力無くコンクリートの上で転がって咳をする彼女の背中を、彼がさすった。
 傍らにクロが寄り添い、クーの濡れた体を舐めている。

 「ゲホッ……コホッ……っあ、ケホッ………」
 「救助しました。ご無事でしょうか? 救急救命が必要であれば、要請します」
 「……ケホケホッ……んっん゛ッ………」
 「気道に海水が入ったと推測しました。回復体位をとってください」
 「もう…………ん、ふぅ……大丈夫。助かった、ありがとう」
 「本当に大丈夫ですか?」
 「本当に大丈夫。嘘はついてない……ッ、から……咳はするけど」

 クーは意図的に大きくせき込み気道から海水を追い出すと、唾液を海に吐き捨てた。
 その様子をHALは無表情を崩さず見守る。人間が大丈夫と言うときは実は大丈夫ではないと偽っている可能性があると知っていたのと、声表情の動揺を検知したからである。
 並みのアンドロイドは大丈夫と言われればはいそうですかでおしまいであることは言うまでもない。
 クーは、塩気の強い咥内に顔をしかめ、肺の中身を入れ替えた。クロを呼び寄せ頭を撫でる。心配させてすまなかったと手で伝えた。
 試験は十分であると判断すれば、立ち上がる。
 クーは何気なしに質問した。

 「HALは人工呼吸ができる?」
 「HALは心肺蘇生法を実行することができます。止血法などの応急処置も可能です」
 「そう。もし事故があったら助けて」
 「了解しました」
 「……猫の心肺蘇生法とかは、できるの?」
 「申し訳ありません。HALは人間の救急救命を実行可能ですが、動植物に対しては実行できません。また、データベースにもありません」
 「わかった」

 二人は、またも一緒に体を洗ったのだった。
 こうして夏が終わった。

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