気だるげな美女。
 支倉 鈴子という女性を一言で表現するのならばそれであった。

 色の落ちたブラウススーツを適当にまとい、子供のおもちゃのような安っぽい時計を腕につけ、化粧ひとつせずに、ただただその場にいる。ぼさぼさの黒髪を肩甲骨あたりまで流し、つるりと光沢の見える爪をそのままに、寝ぼけまなこを隠しもせず、恥じらいも何も見せず、鉄面皮のままにただいるだけ。
 ありとあらゆる堅苦しさを排除させた、自由人さながらといったその様相は、しかし、見苦しさを覚えない。
それは彼女の整いに整った、人形めいた顔立ちが、粘ついた空気の重みを廃していたからこその帰結だったのだろうか。野暮ったい格好をしているが、しかし野暮ったさはなく。
 相反する雰囲気をもつ彼女は、一種独特な雰囲気をまとっており、どこか『ずれ』を感じさせる姿であった。

「つまり、変な女、と」

 そんな彼女の様相を、彼女の友人は揶揄も交えて伝えるも、返しの言葉はかようにそっけないものであった。
全く興味がないわけではない、しかし、気にしすぎるほどでもない。言外にそう伝えているような彼女の態度は、やはりというべきか、独特だった。
 宙に浮いているようでもあり、地に足を落ち着かせているでもなく。かといって、天に達するほどに浮いているかといえば、そうでもなく。狭間と狭間のなかを、曖昧に浮かんでいるような彼女の態度と雰囲気は、とかく 形容しがたいそれだった。











 聡明にも過ぎる童女。
 支倉 美緒という幼子を一言で表現するのならばそれであった。

 くたびれたワンピースをまとい、いつもいつでも鉄面皮で、何を考えているのか分からない。幼子らしき気概は寸毫微塵たりともなく、瞳の奥に見える光は、暗く暗く、ただ暗く。栗色の地毛をふわりと膨らませ、いつもどこかに視線をやり、ただただ沈黙と鉄面皮を保ち続ける。
 二桁に達していない年齢、その事実を嘲弄するかのように、発せられる言葉は全て文章的であり論理的であり、
同時に、時折痛烈な皮肉をも内包せしめており。しかし本人はその異常性を気にせず、ただ鉄面皮のままに物事
を伝え、相対する者の反応を待つ。
 大して化粧もしていないのに、死人のような白い肌と、冷たいその雰囲気は、人ならざる者かと見紛うほどの
それであった。事実、美緒には人間味らしい人間味といった部分に、多大な欠落が見受けられる。

「つまり、私は変人、と」

 そんな彼女の様相を、彼女の姉は淡々と語り伝えるも、返しの言葉はかようにそっけないものであった。鉄面
皮を崩しもせず、姉に悪意のひとつも見せず、ただ事実を事実として受け止めるだけの態勢のみを見せ、すぐに
視線を文庫本へと戻す。
 本当に血が通っているのかどうか、疑わしくなるほどに白い肌の幼子は、どこかずれた感性と雰囲気をもって
そこにいた。  

 新しい母親が出来る。

 支倉 鈴子が得た情報は、簡略化してしまえば、ずいぶんと味気ないものであった。
 無論のこと、それにおける手間やら世間体やら社会的なうんぬんやら、そういったことを考慮すれば、色々と
複雑な言葉が付随することは間違いないであろう。が、事実だけをかいつまんで言うのならば、結局はそれに尽
きる。
 パン一切れでも、腹がはちきれそうなほどに盛られた丼飯であっても、昼食を摂取したと一口で言ってしまえ
ばそれでおしまいである。ずいぶんと乱暴な理論なのかもしれないが、事実は所詮、事実である。


 実父から再婚の話を打ち明けられた際、鈴子が見せた反応は、至極あっさりとしたものだった。

「そうなの」

 その一言で話を打ち切った鈴子に対し、父はひどく当惑した様子であった。無理からぬ話ではあろう。新しい
母が出来る、などという情報を聞かされて、強く反発を覚えるのは子供であろうという、ある種の決まりごとめ
いた予想を抱くのは、至極当然の流れなのだから。
 とはいえど、鈴子はそういったテンプレート的な展開に身をやつすような女性ではなかった。生来の鉄面皮と、
生来の無感動ぶりも影響したのだろう。淡白にも過ぎるその反応は、不純物というものが感じられず。だからこ
そ、若い女性にあるまじき純度をもってして、その言の葉は父の胸を穿った。


「嫌じゃないよ」


 再婚について反発を覚えないのか、という父の問いかけに、鈴子は表情も変えずにそう答えた。
 生活そのものに無頓着な鈴子は、別に家庭環境が変わろうともかまわなかった。新しい家族が出来れば、最初こそ違和感を抱かずにはいられないだろうが、人は慣れる生物である。いつしか不自然が自然に変わっていくことだろう。
 そういった、ある種の諦念じみた楽観視があるからこそ、鈴子は父の行為に、反発心も嫌悪感も抱くことはなかった。

 ただ、そういうこともあるものなのだな、と事実を受け止めているだけだった。それはまるで、小説の一文を読むかのように。自分に関係のない場所で人が死んだ、そんなニュースを受け止めるように。
 ただただ、自分を客観視して、鈴子は再婚の情報を飲み込んだ。それだけだった。

 父の再婚相手たる女性との顔合わせは、とある駅の近くにあるデパート、そこに設置されているレストランの 一角で行われた。
 正装で行く父を尻目に、鈴子は適当なブラウススーツをひっつかみ、髪を整えて深呼吸。いつもいつでも無骨 な彼女がする、『かなり手間のかかる身だしなみ』である。かような準備をしてしまう辺り、鈴子もそれなりに 身構えていたのかもしれない。
 父はそんな鈴子の姿を見て、溜息をついてはいたのだが。


 当の再婚相手となる女性は、鈴子の視点からしてみても、かなり出来た女性であった。


 やや豪気な印象はあるが、どちらかといえば世話焼きの部類に入るだろう。婚姻届を出す前の挨拶、という名目で顔を合わせたその日から、鈴子はその女性になにかと気づかわれていた。
 打算は勿論あるだろう。再婚相手の娘に気をつかわぬ者など、そうはいまい。それでも、鈴子はなんとなしに、そうやって気をつかわれることが嫌いではなかった。それが義務的な気づかいではなかったからなのかもしれない。どちらかといえば、鈴子を呼ぶ声には、多少のからかいめいた色が混じっていたような気がしないでもない。

 料理皿を前に、これから母となるであろう女性を視認しても、鈴子は全く嫌悪感を抱かなかった。初対面で好感を抱いたから、という理由もあるにはあるが、実際問題は別のところにあった。


 相手側にも、娘がひとりいたのである。


 奇妙な少女、否、童女だった。
 再婚相手は大柄だが、それに反して、その童女は小柄だった。肩幅も小さく、顔も小さく、おまけに肌は死人のように白い。もしも視力の弱い人間が、遠くからその童女を視認すれば、マネキンかビスクドールか間違うところであろう。
 奇妙ですらあるほどに整った目鼻立ち、そのパーツの配置具合。可愛らしさに満ち満ちた容色ながらも、態度はまるで黒い水。小さな波紋すらもその深い淵に押しやって。あとに残るはただただ静寂。

 目の前に置かれた料理皿を、機械的に処理していくその幼子の姿は、美麗なる容色とも相まってなんとも奇怪であった。前衛芸術じみた、そういったシュールな要素すらも孕んでいた。


「……何か、ご用ですか?」


 鈴子の視線を感じ取ったのか、童女――片桐 美緒というらしい――は、言葉を紡いだ。

 冷たい旋律だった。本当に、ひとつの命が入っているのか、そこから発せられたのか、それすらも疑問に思えるほどに機械的な声。愛らしい容姿に、動かぬかんばせ、氷の声音。精巧にも過ぎる自動人形が全く作動せぬか
のような、ちぐはぐな雰囲気が、明確なる風となって鈴子の顔面に叩きつけられる。
 ただの女性ならば、そんな美緒のありようを見て、いくらかは狼狽したことだろう。もしくは、気まずさすら覚えるのかもしれない。
 されど、美緒という童女と相対する鈴子も、あいにくと変り種であった。


「ううん」


 鈴子は義務的ですらある挙措のままに、かぶりを振って鉄面皮。
 相対する童女は、小首をかしげた。


「視線を感じました」
「不快だった?」
「いいえ。……むしろ、その逆、かもしれません」
「曖昧だね」


 やにわにくり広げられる、暗号めいたやり取り。
 その時、鈴子は空気のきしむ音を確かに聞いた。音なき音が、確かに感じ取れたのである。それはまるで、空気が凍るような音であった。ぴしり、と擬音にしてしまえばあっさりとしたものではあるが。


「興味を抱いた、と言うのは失礼でしょうか?」
「ううん。むしろ、面白いと私は思う」
「……感謝します。どうにも、先程から、予見できぬことばかりで」
「うん、当惑するの、分かる」


 暗号めいたやりとりは、加速する。


 鈴子と美緒。

 このふたりの間で飛ばされる言葉は、断片的であり、本来ならばいくらかの修飾語を付随せねば、対象や意図すら明確にならぬものである。されど意思を通しあうことが出来ているのは、ある種の仲間意識めいた感情の流れが、ふたりの間に形成されているからだろうか。
 珍妙なるシンパシーは、独自の空気をまとい、周囲の熱を切り裂いていく。鈴子と美緒の間に形成される糸は、もはや不可視のそれと言っても過言ではなかろう。
 互いに糸の場所を知りえているからこそ、振動として音を、言葉を伝えることが出来る。つまるところ、ふたりのやりとりはそういう類のものであった。


「所詮、小便臭いメスガキですから」
「私もそうだよ。同じ穴のムジナ」
「ムジナ姉妹」
「義理ムジナ」
「なかなかに興味深いです」
「反発心、ある?」
「あなたとなら大丈夫だろう、と脳味噌が」
「それは光栄。私も、あなたとなら平気そう」


 周囲の空気が重みを増したのにも構わず、ふたりは言葉を交わし、最後には互いに右手を突き出し、握りこぶしの姿勢から、親指だけを天に向ける仕草を取った。一糸乱れぬ完璧な肉体言語の連携は、鈴子と美緒が初対面である、ということを皆の心から忘却せしめるには十二分だった。
 鈴子の父と美緒の母は引きつった笑みを見せていたが、仲良くなったであろうふたりのやりとりを見て、ようやく頬の引きつりを戻すことが出来た。

 女の子同士は仲良くなるのが早くて良いよね、という小さなつぶやきが、どこか滑稽さをまとって流れ出た。




 そんな珍妙なコミュニケーションを経て、支倉 鈴子に出来たのは、妹。
 聡明で、不器用で、死人のように白い肌を見せる、幼子だった。

 片桐 美緒は、常に何かを予見しながら生きてきた。

 物事には常に前後関係がある、と悟ったのが、ランドセルというものを初めて手にとってからであったような気がする。
 気がする、という言い方をするのは、それからの毎日があまりに目まぐるしかったために、過去の情報がすでにうつろいを見せているためだ。昨日の昼食すら思い返せない人間の脳、数年前の出来事をしっかと記憶できるほどに便利なものではない。

 金を払い、ものを得る。これは物々交換というものを昇華せしめた帰結である、と美緒は判断していた。物の価値基準は人によって曖昧であり、相手、状況、情勢、様々な要素によって変わってしまうものである。肉を好まぬ人間と物々交換をする際、こちらが肉を出せば相手は渋るであろうことは疑いようもない。
 そういった、個人的な嗜好や主観やらを切り捨て、ある程度凝り固まった共通の価値観をもたせるべき媒体、それがあれば、交換はよりスムーズになる。
 ゆえに貨幣というものが存在する。一定の値段を取り決めることで、交換条件を整えるのは容易になった。


 発展は、常に何かしらの壁にぶつかることで起こりうる。美緒はそう結論を出した。

 考えればすぐに分かることだ。壁にぶつかる、だから超えようとする。前向きな姿勢は、常にクリエイティブな案を精製する。いわゆる、ひらめきのようなものだ。
 何かにぶつかってしまえば、心は痛むだろう。自らの手が届かない、そんな事実と相対して、心が痛まぬ者はいない。だからこそ、その痛みを代償として、ひらめきは発現する。



 片桐 美緒は、聡明であった。幼いながらも賢くはあった。


 だが、だからこそ、壁にぶつかることはほとんどなかった。



 自分は社会の中で生かされている、単なるメスガキに過ぎない。そういった自覚をもっている彼女は、基本的にあらゆる事物事象に見切りを付けた。頑張れば変身ヒーローになれるんだ、などといった夢をそもそも持ちさえしない。
 物理的に不可能だ。社会にそんな職はない。悪を討つことは人殺しをすることであり、日本は合法殺人など認めてはいない。そもそも、私たちのような凡百なる存在が選ばれし者になるのならば、この地球は変身ヒーローであふれかえっているだろう。
 などといった、現実を見すえた所感を抱いてしまう美緒は、無理なことはどうやっても無理、と結論を下すことが日常ですらあった。子供らしい、みずみずしい感性は微塵もなく。ただ彼女の胸には諦観があった。それを抱くことに、恥など寸毫微塵たりとも抱きはしなかった。

「夢を追う、という題目をかかげて、いい年して他者に寄生する事実に羞恥心を覚えぬのはどうかと思います」


 ある日、お茶の間に放映されたサクセスストーリーを見て、美緒はぴしゃりとそう言った。
 ブラウン管の向こうでくり広げられる劇は、視聴者たちの感動をあおるような単語を並べ立ててはいたが、そのようなものに美緒は翻弄されなかった。
 事実は事実である、と割り切る心を美緒は持つことが出来た。反面、それが美緒から温かみを奪ってもいた。


 当然、彼女の母は、この事実に頭を抱えた。

 美緒の家は片親である。父はとうに離れており、別の女性とくっついた。
 片親の場合、子の情操教育は困難である。親は子を養うために稼がねばならず、満足なコミュニケーションを
取る時間は削られる。精神の練磨、人間性を伸ばす作業、それを子の自主性に任せねばならなかった。

 美緒は非行に走るようなことはしなかったが、奇行に走った。
 幼さゆえの輝きを微塵も見せない、灰色の、がらくためいた錆の心。それをあらわにすることに、何の恥も覚えぬ、ある種傲慢でもあるそのありよう。

 ある時「私が悪かったのだろうか」と美緒の母は娘に問うたことがある。
 返答は、そっけないものだった。



「母さんは悪くありません。むしろ、親としては理想的です。では何が悪いのか、といえば、全ての原因は私にあるのでしょう。私は人として大切な何かが欠けている、そんな感があるんです。自分のことをそう言うのもどうかと思いますが。私は生まれつき、どこか、何かしらの要素が欠落している。そう思います」



 そこまで語り、美緒はぺこりと母に頭を下げ、続けた。


「ごめんなさい、出来損ないの欠陥品で」


 美緒の母は、何も言えなかった。
 親としてならば、そのような発言をした娘を叱るところではあろう。だが、相手は美緒である。感情に任せた言葉など、何の意味もありはしない。美緒は、自分の立ち位置を把握し、ままならぬ自分自身に対して、ある種の嫌悪感を抱いている。
 だからこそ、この発言。だからこそ、この態度。


 だからこそ、美緒の母は、再婚を決めたのかもしれない。

 それは、大海に漂う板切れにすがるような気持ちではあったのだろうけれども。

 支倉 鈴子の意識はゆっくりと覚醒していく。

 下半身の熱と、上半身の熱、それが一致しない。初冬に近いせいだろうか、先までうたたねをしていただけなのにもかかわらず、耳はすでに冷えており、微々たる痛みが脳を刺激している。
 下半身は、温かい。腹部はぽかぽかと、包み込むような熱に満ち満ちている。何かを体の上にかぶせているのだろう。眠りから覚めたばかりで、記憶と意識と視界が混濁している。

 細い細いおとがいを揺らし、くもりのかかった視界も揺らし、頭を揺らし、周囲の景色を確認する。

 くたびれたソファに、傷の目立つ洋服ダンス。灰色のカーペットのそばにある、やたら横に長いテレビ。それと対面するかのようにたたずむ、テーブルと椅子。
 見慣れた光景だった。自分の住まう家の居間、見間違えることはありえない。カーペットの上で寝転がっているせいか、背中に走る感触は、柔らかく、温かい。

「……ん」

 鈴子が自分の状況を確認したその瞬間、もぞり、と肉のうごめく感触。それは腹から走り、微細な振動となりて、全身へと広がっていく。
 すわ何事か、と視線を腹部に鈴子が向けた瞬間、ようやっと鈴子は腹の重みと熱が何なのかを理解した。

 栗色のさざなみが広がっている。病的なほど白い肌に、かすかな紅がさしている。薔薇のように甘い匂いに満ち満ちたそれは、鈴子の腹部の上で横たわっている。

 その正体は、支倉 美緒だ。鈴子の妹の美緒は、その小柄な体躯を伸ばし伸ばし、鈴子の腹部の上でこてんと
横になっていた。身長172センチメートル、女性にしては長身の部類に入る鈴子の上で横になる美緒は、痩身で
あり小柄であることも相まって、親子ほどの体格の差となる。
 なかば抱きつくようにして、鈴子の腹部に頭部を預けて横になっていた美緒。ご丁寧に、そのビスクドールめいた小さな身の上には、毛布がしっかとかけられていた。


「……姉さん?」
「……ん、おはよ」


 夕刻あたりから眠っていたせいか、意識はまだまだおぼろげ。どこか沈み込むような声を発した美緒を見つつ、鈴子はとりあえずの挨拶を出した。
 鈴子の腹の上で横になる美緒は、薄手の真っ白なワンピース一枚。いくら毛布をかけているとはいえ、その姿はさすがに寒かろう。整いに整った顔立ちと、細い体躯を見れば、鈴子のその思いはいやおうなく加速していく。

「寒くない?」
「……大丈夫です。姉さん、温かいですから」
「そう。ならいいのだけれど」
「……ん」

 すり寄るように、美緒。目を細めながら鈴子の腹に、頬をこすりつけるようにして、布越しに肌と肌を触れ合わせる。子供のような仕草、子供そのものといったような仕草。明確なる甘えのあらわれ。
 小柄な、美緒のその細い身にゆっくりと手を回しながら、鈴子は思う。知り合って数ヶ月が経過しただけなのに、こんなに親しくなるとは思いもよらなかった、と。ある種の仲間意識めいたものはあっても、心と心、体と体が接近するのは、それなりの要素が必要である。

 まあ、相性が良かった、そう思えばいいだろう。そう鈴子は考え、美緒の身を抱きしめる。

「……居眠り。姉さんと一緒なら、面白そう、と思いまして」
「そう。どうだった?」
「あたたかかった、です。良い体験でした」
「お褒めにあずかり恐悦至極、と言うのかな。この場合は」

 マーキングでもするかのように頬をすりつけてくる美緒の髪を撫でながら、鈴子は目を細める。柔らかな栗毛は、手ぐしですいてもよどみを感じず。さらさらの髪質、その絶妙ななめらかさ加減が、鈴子の心を弾ませる。

「熱を……欲しているんです。体温が、たまらなく、欲しいんです」
「人、それを。甘える、と言う」
「……そうですね」
「うん」

 鈴子の言葉に、いくばくか遅れて返しの言葉を入れる美緒。羞恥心を覚えているのだろうか、ほんのりと紅のさした幼子の頬は、柔らかな曲線とも相まって、一種の妖艶さを醸し出す。
 ビスクドールめいた姿の美緒を抱きしめる鈴子は、その長い黒髪のせいか、どこぞの日本人形めいた艶がある。
静かな居間に、微弱ながらも桜色の空気が流れる。

 鈴子は無表情だった。美緒も無表情だった。
 だが、それでも、ふたりの吐息は微笑んでいた。

 美緒は、ランドセルを背負って学校に通う身だ。にもかかわらず、生来の聡明さから、発する言葉や応対の仕方は、鈴子とそう変わらない。ただ、鈴子と接する際、そのスキンシップ具合に関しては子供らしさを色濃く残
している。
 抱擁を交わすことだけならば、さほど羞恥を覚えぬ姿も、子供らしさの一端であろう。

 可愛いから別に良いのだけれども、とは鈴子は思いつつ、美緒の髪を手ぐしですく。

「……ん、くすぐったいです」
「嫌?」
「いいえ。もっとしてほしいです」
「うん」

 奇妙な空気がそこにあった。熟年夫婦のような、親友同士のような、少ない言葉で互いの心の動きを察知する。
以心伝心、というわけではない。ぎこちなくもあるが、ところどころにつっかかりがありながらも、流れそのものはなめらかでいる。
 それはある種のつながりだったのだろう。鈴子と美緒の、珍奇なつながりだったのだろう。

「鈴子姉さん」
「なに?」
「もっと甘えさせてくれませんか?」
「うん。いいよ」


 基本的に不器用なふたりである。言葉ががちがちなのは仕方がない話だ。正二十面体と正二十面体の衝突めいた、硬質きわまりないコミュニケーション。それでも、互いに不快感を覚えない。
 寄り添うように、美緒は鈴子の胸に頬を押し付ける。同時、鈴子の豊かな乳房はひしゃげるようにしてその身をゆがませ、美緒の頬を柔らかく包み込む。

 美緒の背に、鈴子の手が回される。ゆっくりと、強すぎないように力加減をして。

「かわいい」
「ありがとうございます」
「ふにふにしてる」
「女性ですから。脂肪を溜め込むのは体質です」

 ずれていた。
 鈴子も美緒も、同年代の少年少女らと考え方が根底的に違う。どちらかといえば異端とも取れる考え方をするふたり。だからこそのやり取り、だからこその心の触れ合い。尋常のそれとは異なる思考と嗜好を持つ者同士だからこそ触れ合えたというのは、ある意味皮肉でもあったろう。

「美緒、もうちょっと太ってもいいと思う。肉、食べたら?」
「……お肉を食べれば、姉さんのように、乳房が大きくなるんでしょうか?」
「これ、いらないよ? 重い、肩がこる、結構邪魔」
「そうですか。……ですが」
「母性の象徴だから、羨望の視線を?」
「はい。持たざる者の所感です」

 そう言って、美緒は鈴子の乳房に頬を強く押し付ける。小さな圧迫感と、童女の匂い。それらが鈴子を包み込む。
 美緒は、鈴子に匂いをこすりつけるかのように、微弱な振動を残しつつ、己が肌をこすりつける。

「……もっと、もっと甘えていいですか?」
「……ん、いいよ。美緒は、コミュニケーション、やっぱり苦手?」
「はい。……分からないんです。怖くて。どこまで踏み込んで良いのか」
「秋空にたとえられるものね、女性の精神は」
「……だから、姉さんは、私にとって好ましい人なんです」
「どうして?」

 小首をかしげながら、鈴子は美緒を抱きしめる。

 いくら知識があろうとも、いくら聡くとも、美緒は幼い。だからこその差異と、だからこその困惑がある。姉だの妹だのうんぬんは関係なしに、鈴子は美緒の心を聞いてみよう、と考えている。


「姉さんは、怒らないから。とても、温厚ですから。人の、意見。筋道が立っていて、悪意さえなければ、考えなしに糾弾の声を浴びせたりしない。……そんな、論理的思考の姉さんは、私にとって好ましい人なんです」


 そう語る美緒の頭を抱きしめ、鈴子は珍しく表情を崩し、苦笑する。

 美緒が恐れ、理解しているのは他者性である。
 人間はひとりでは生きていけない。どこにでもあるキャッチフレーズだ。だが、それは団結力というものを重要視させるための、先導の言葉という意味だけではない。外敵を認識するための精神構築、その一歩を無意識内に刻み付ける、魔法である。

 自分がいて、他人がいる。人間は基本的に利己主義であり、恣意的だ。社会がなければ生きられない。社会は倫理を尊ぶ。倫理は己の行動を抑制するための楔になり得るが、同時に罪悪感というものをも、人々の心に植え
つける。
 罪悪は、己が心を砕く。一気に貫くわけではない。外殻から、ちまちまと。きつつきのクチバシが木の表皮を削るように。だが、放っておけば心は崩れる、壊れる。堅牢な石の壁とて、川の流れに砕かれる。

 その際、人は人を攻撃する。いいがかりでも逆恨みでもいい、自分の心を安定させるため、人は人を糾弾する。
それは、倫理や正義や道徳を重んじた鉄槌にしばしば見せかけられるものだ。免罪符あってこその打擲。人の悪意は、しばしば個人的な義によって隠蔽される。
 誰かを叩くことは、精神の悦楽につながる。上位性、というものを認識できるためだ。誰かを見下す際、心は
軽くなる。自分が傷付きたくないからこそ、他人を傷付ける。


 そういった、人間の精神構造を美緒は分かっている。だからこそ彼女は、異端のままでいる。
 他者というものを恐ろしく感じているからだ。


 だが、幼子の心は、孤独に耐えられる力をもたない。誰かがそばにいねば壊れてしまう。家族であれ、友人であれ、なんであれ。とかく、誰かがいなければならないのだ。自分にとって好ましい人を見つけねばならない、
そんな強迫観念じみたものに美緒は気おされている。
 だからこそ、美緒は鈴子になついているのかもしれない。およそ綺麗とは言いがたい、依存心にも近しい念である。

 だが、鈴子の方はそんな心を抱えて接されてもいいと考えている。
 頼りにされることは、嫌いではないから。そんな単純な理由だ。

 されど、たまには己に対する疑問も生まれてくる。
 美緒は幼子だが、鈴子はそれなりに年月を体験した、少女である。
 だからこそ抱える悩みも違っていた。


「そうでもないよ。私も、人間だから。生理の時とか、誰かにあたっちゃうかもしれない。私だって、論理ばかりで生きているわけじゃないから。だから……あまり私は頼りにならないよ」


 好きな人と仲良くしたい気持ち、というものがある。

 恋愛だの友愛だの家族愛だの、そういった種別の振り分けは問題ではない。鈴子は、この聡明な幼子を好いていたし、もっと深い関係になりたいと考えている。愛情は愛情で、それをいちいち区分けするなど馬鹿馬鹿しい話で。
 鈴子は、美緒のことを知りたい。美緒に嫌われたくはない。そう考えて考えて、彼女に接している。

 打算的なのである。だが、打算なしに行動できる人間など、いない。誰しもが見返りを求めている。それは当然の話であろう。
 そういった人間関係の機構を理解しているゆえ、戸惑いの気色を含有した声を漏らす鈴子に、美緒は、


「……やっぱり、姉さんは優しい人です」


 抱擁で返した。


「ずっと、考えていたんです。……私の考えることは、規模が根底からして違う。表層上の関係だけに着目しない、巨視的観点からのそれ。でも、それは、井の中にいる蛙が環境問題をうたうようなものだと」

「……でも考えずにはいられない。むしろ考えねばならない。即物的な問題ばかりに着目していると、いつしか目先の快楽ばかりを重視するような人間に堕してしまいそうで、怖かった?」

「……はい。たぶん、私、見下しているんでしょうね。クラスメイトを、母を、あなたをも」


 瞳をうるませ、自嘲気味に語る美緒。言の葉は苛烈だが、そのかんばせに害意はない。


「……自分は間違っているんじゃないか、と問いかける心は、あつかいが難しいね」
「社会には必要ない心。されど人間関係構築には必要な心、ですか?」
「うん。でも、私もあまりよく分からない。……ただ、新しく出来た妹と、面白おかしくしたいとは思ってる」
「……私も、似たようなものです。姉さんと、楽しくやっていきたい」

 美緒は鈴子の乳房に顔をうずめ、小さくしゃくりあげた。

 不器用だった。ふたりの心は、正二十面体だった。角ばり、丸みもない、ゆがめられない絶対の一。柔軟性を知らず、融通もきかず。不器用でいて、異なるありようで。
 だからこそ、ふたりの心は急速に接近することが出来たのだろう。女子同士とはいえど、他者と他者が肌と肌の触れ合いにおいて、安らぎめいた感情を抱くということは、心の防壁をいくばくか崩している証左なのだから。


 時は流れる。人は人と交わる。
 言葉を交わす、意思を交わす。


 少女と童女は体温を交換しあう。それは、刹那的な慰めかもしれない。これからの未来を暗くするための一歩になり得る行為なのかもしれない。

 されど、未来のことなど誰にも分からない。だからこそ少女と童女は、惑いながらも言葉と心と体温を交わす。


「美緒」
「鈴子姉さん」


 心が温かみを感じている以上、それは決して、愚かしいことではないのだろう。

 たとえふたりの声音が、どこか濁った、泥水のような気色を孕んでいるとしても。



 ただ静かに流れる、時間と空気。


 それがふたりを柔らかく包み込んでいた。


 ただただ、柔らかく。温かく。






(おしまい)


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最終更新:2009年08月23日 22:39