奈月の苦手なもの。ゴキブリ、お化け、注射……。
彼女の苦手なものを挙げていったら、たぶん両手じゃたりないなぁ。
穂花は廊下を歩きながら、ぼんやりそんなことを思った。
窓の外が一瞬明るく照らされ、数秒遅れであの独特の音が鳴るのが聞こえた。
奈月の苦手なもの。雷……。
目的の部屋の前に立ち、ドアをノックする。
「は、はい」
心なしか、脅えたような声が返ってくる。
「あ……穂花さま」
少しだけドアを開けて奈月は顔を出した。
170センチの身体が、怯えた子犬みたいに縮こまってしまっている。
「ど、どうされました?」
「入ってもいい?」
「どうぞ」
ドアが大きく開かれる。穂花は遠慮なく中へ入った。
「寝てた?」
「い、いえ。あの……」
「眠れなかったんでしょ」
「……はい」
黒目がちの瞳を伏せて、奈月はうつむいた。
部屋は明るかった。いつも、奈月が寝る時でも照明が消されることはない。
奈月の苦手なもの。狭いところ、暗いところ、男の人の大声……。
「また泣いてたの? 目、赤いわよ」
奈月は答えなかったが、かすかに鼻をすすった。
家族からの愛情を与えられず、自分の居場所を見つけることのできなかった奈月。
行くところもなくて、ふらふらと屋敷の前をさまよっていた16歳の彼女を拾ってあげたのは穂花だった。
住み込みのメイドとして迎え入れてから一月ほどたつが、彼女は覚えが早くてなかなか有能だ。
今では安心して身の周りのことを任せられる。
そんなしっかり者の奈月は、でも時々こうして一人で泣いていた。
「ほら、寝るわよ」
穂花はさっさとベッドに上がりこみ、シングルベッドの半分を占拠する。
「え? あ、はい」
奈月に拒否権などない。ドアを閉めて、おずおずとベッドに潜りこんでくる。
彼女にとってはこの少女こそが主であり、唯一の家族だから。
「まったく、高校生にもなって雷が怖いだなんて、情けない」
「あう……す、すみません」
向かい合う形で、穂花は奈月の手を握った。
怖がりで寂しがりの、愛しい人。
穂花はあいた右手で奈月のボブヘアを撫でつけた。
やがて奈月の目蓋はトロリと弛緩する。ようやく眠気が訪れたのだろう。
やれやれ、世話のやける。
どちらが年上だかわかったものではない。
穂花はあくびを噛み殺し、目を閉じた。
私の苦手なもの。一人で寝ること。
でもこれは、奈月には内緒。
自分も奈月に劣らず寂しがりやだとか、お姉ちゃんができたみたいで嬉しいとか、実はそれ以上の感情を抱いているとか、全部内緒。
そう。今は、まだ――。
↑の続き的なもの(穂花の口調は意図的に変えてみました。テコ入れですw)
「暑~い……」
私の膝に頭を乗せて、穂花さまは今日何度目かのつぶやきをこぼした。
気温は朝から30度を越え、今年一番の暑さがどうのと天気予報が言っていた。
それでも穂花さまの涼は、私の扇ぐ扇子のみである。
「ですからエアコンをおつけしましょうと」
「冷房は体によくないんだよ」
「穂花さまは、変なところで強情ですね」
「地球に優しいでしょ」
「はあ」
「奈月は平気そうだね」
「暑いですよ」
「涼しい顔して言わないでよ」
もちろん暑いことは暑い。
でも、私はこれよりも暑い思いをしたことがある。
真夏に押入れに閉じこめられ、泣いても叫んでも開けてもらえず、脱水症状を起こして死にかけた経験が。
私の両親の『躾』は、それはそれは厳しいものだった。
そしてそんなことが私にとっては特別なことではなく、日常だったのだ。
「また難しい顔してる~」
「あ、ふぁい」
下から伸びてきた穂花さまの手に鼻をつままれ、私は我に返った。
いつの間にか扇ぐ手が止まっていたらしい。
「そんな顔ばっかしてると早く老けるよ」
穂花さまの笑顔に、私も自然と頬が緩む。
「ねえ奈月~、アイスが食べたい~、アイス~、暑い~」
「はい、買ってありますよ。チョコとストロベリーを一つずつ」
「わ、取ってきて」
「夕食の後じゃないとダメですよ」
「いいじゃない、少しくらい」
「いけません」
「……奈月は、変なとこで強情だね」
「うーん、犬は飼い主に似ると言いますから」
「ああ。なら、しょうがないか」
穂花は頷いて目を閉じる。
「はい」
そんな肯定が嬉しくて、私は愛しい主人に向かって再び扇ぎ始めた。
穂花さまがいれば、この先の人生はそう捨てたもんじゃないかもしれない。
最終更新:2009年08月14日 21:09