私が小学1年生の時にお隣に引っ越してきた斎藤さんちの孝子お姉ちゃん。
孝子お姉ちゃんはその時中学1年生で、でも私にはすごく大人のお姉さんに感じられた。
背がすらっと高くて、ショートの髪が似合っていて。
かっこいい女の子に見えたし、まるでかわいい男の子のようにも見えた。
バスケ部ではすぐにエースになって、お勉強は一番で。
私にはいつも優しくて、よくクッキーなんかを作っては食べさせてくれた。
芸能人やスポーツ選手なんかよりも、私にとってはずっとずっと素敵なアイドルだった。
私は孝子お姉ちゃんを見つめては、理由もわからず胸をドキドキさせていたものだ。
「私、孝子お姉ちゃんのお嫁さんになる」
そう言ったのも1度や2度ではなかったと思う。
そのたび孝子お姉ちゃんは、ただ優しく微笑みながら抱きしめてくれた。
いい思い出である。
でももう、あの孝子お姉ちゃんはいない。私が憧れ、幼い胸を焦がした孝子お姉ちゃんは。
「あ、千紗。これ。これ食べたい」
「チョコレートタルト? いいけど」
孝子お姉ちゃんはソファーに寝そべったまま、料理本を渡してよこした。
高校3年生になった孝子お姉ちゃんは、あの頃よりも少し髪が伸びた。
あいかわらず中性的な顔はますます魅力的になって、男女問わずによくもてるらしい。
まあ、気持はわかる。私もかつては血迷った口だった。
「わーい、千紗愛してる」
「はいはい」
孝子お姉ちゃんが素の自分を私に見せるようになったのはいつからだったろう。
気がついたらどんどん孝子お姉ちゃんのイメージは塗りかえられていっていた。
ホントの孝子お姉ちゃんは、ずぼらで面倒くさがりだ。
片づけが嫌いなので部屋はすぐ散らかる。それを掃除してあげるのは私の役目だ。
以前は私が遊びに来ると綺麗なワンピースやかっこいいジーンズ姿で迎えてくれたものだけど、このところ彼女のお気に入りはもっぱらジャージだ。
夏場なんか、ひどい時は下着のまま家の中を歩きまわってたりする。
手作りクッキーなんかしばらく食べたことがない。そりゃそうだ。孝子お姉ちゃんは、一人じゃお米だって炊けやしないのだから。
あれは、実は孝子お姉ちゃんのお母さんが作ってたものだったのだ。
今じゃ孝子お姉ちゃんにお菓子を作ってあげるのは私の方である。
「もう……あの素敵だったお姉ちゃんはどこに行っちゃたのかなぁ」
「んー?」
つい声に出てしまったらしい。
孝子お姉ちゃんは、こちらに顔を向けて楽しそうに口の端っこを上げていた。
「やあねぇ。家族の前でかっこつけてたら、息がつまるじゃない」
「家族、かあ」
「そうよ。だって千紗は私の嫁なんでしょ。昔何回も告白されたもんね」
「……考え直そうかなぁ」
「ウソ、やだ。千紗にふられたら、誰が私の面倒見てくれるのよ」
「あのねぇ――」
孝子お姉ちゃんの口調はおどけていた。
でも、目だけは泣きそうになっている。
それで私は、なんとなく思い出した。
孝子お姉ちゃんが猫をかぶらなくなったのは、たぶん、あの時からなんだ。
斎藤さんちのおばさんが亡くなったのは、一昨年の冬だった。
大好きなお母さんを失った孝子お姉ちゃんはご飯も食べられなくなって、泣いてばかりいた。
お父さんも、親戚も、お友達も、誰もどうしてあげることもできなかったらしい。
このままじゃ倒れてしまう、というので最後に担ぎ出されたのが私だった。みんな藁にもすがる思いだったのだろう。
ベッドに上半身を預けて座っていた孝子お姉ちゃんは見るからにやつれ、髪はバサバサ、目なんか泣き腫らしていてひどいありさまだった。
私は、なんて言ってあげたらいいのか、まるで見当がつかなかった。
「元気出して」じゃ、あんまりにもマヌケだということくらい、こどもの私にもわかっていたから。
困り果てた私は、しばらく孝子お姉ちゃんの隣でただじっとしているしかなかった。
30分たったか、1時間たったか、それとももしかして10分もたっていなかったかもしれない。
突然孝子お姉ちゃんは、私の腰のあたりに抱きついてきて、静かに泣き始めた。
私はそんな孝子お姉ちゃんを抱きしめ、バカみたいに一緒に泣いた。
そして泣いてるくせに、こんなことを言ったのだ。
「泣かないで。泣かないでよお姉ちゃん」
孝子お姉ちゃんはイヤイヤと首を振って、私を抱く腕に力をこめた。
「ママが……ママがいないよ千紗。いなくなっちゃったよぉ」
「私……私がいるよ。お姉ちゃんのママの代わりはムリかもだけど、私はずっとそばにいるから。だから……」
結果的に、苦し紛れに出したこの言葉が、孝子お姉ちゃんを泣きやませたのだった。
あーあ、早まったなぁ。
「絶対失敗した」
「え、おいしいよ。よくできてる」
タルトを頬張りながら、孝子お姉ちゃんは首を傾げた。
「いや、それの話じゃなくて」
私は頬杖ついて、幸せそうに紅茶なんか飲んでる孝子お姉ちゃんを眺めた。
このお気楽な顔を見てると、たいていのことは許せてしまうから困る。
「ねえねえ、もう1個食べてもいい?」
「いいけど……太るよ」
「千紗、私が太ったら嫌いになる?」
「や、そんなことはないけど」
「そ。なら平気」
「……やっぱ、早まったなあ」
溜息まじりにつぶやくと、孝子お姉ちゃんはすかさず私を抱きしめた。
「千紗……ずっと、そばにいてね」
こういうの、反則。
惚れた弱みか、私はこういう時頷くしかないんだ。
「うん」
でもシャクなのでせいいっぱい憎まれ口をたたいてみる。
「しょうがないなあ。孝子お姉ちゃんはロリコンだから、私を逃がしたら次のチャンスがいつかわかんないもんね」
「むう。ロリコンじゃないよ」
孝子お姉ちゃんはほっぺたを膨らませ、私の耳に殺し文句を囁いた。
「私が好きなのは、千紗だけだもん」
ああ……砕けそうになる腰を支えてくれた孝子お姉ちゃんが勝ち誇って見下ろしてくる。
どうやら、私はこの人から離れられそうもなかった。
最終更新:2009年08月14日 21:21