「あのね…」
 改めて由莉香が私に訪ねてきた。
 もうそろそろ、終点の駅が見えてくる頃合いだった。
 「あの…」
 「デートのお話?」
 「うん…どう…ですか…」
 私は軽く溜息をついた。
 「ダメですか…」
 そんな悲しそうな声、出さないでよ…
 「由莉香…ごめん…」
 「…」
 由莉香は声もなく、表情をただ崩すのみだった。
 私は無言のまま、鞄を開いた。
 「このお店なら…近いから行けるんだけど…」
 「え…」
 私は大学ノートを鋏で切り取ったメモを小さな手に渡した。
 「グレードは下がっちゃうけど…ダメかな?」

 そのメモが書かれたのには、少なからず裏話があった。

 由莉香から手紙をもらった日の放課後、帰宅部である私がせっせと帰り支度を始めているところに、朱里がやってきた。
 「あの…ユッキ…」
 「朱里…」
 いつもの快活さは影を潜め、友はらしくなくしょんぼりしていた。
 「さっきは…ごめんね」
 「ああ…」
 彼女の言う"さっき"というのは、由莉香の封筒を目ざとくみつけて話の種にして楽しもうとした事なのは明白だった。

 「もう、いいよ…さっき、委員長に何か言われていたでしょ?」
 「うん…由莉香ちゃんの事、教えてもらった…ごめん!私、知らなくて…」
 朱里のいい所は、自分の非を包み隠さずに認めるその性格だ。自分が悪いならきっぱりと相手に謝る。例えそれが下級生であろうとも、そういうことははっきりさせなければ気が済まない性格なのだ。
 多少やかましくても、私が親交を続けられたのは、この娘のそういう内面を信頼しているからだ。朱里は裏切らない友達だ。
 「知らなかったんだから、仕方ないじゃない。怒ってないよ…」
 私は鞄を閉じて席を立とうとしたが、ふと思い出した事があって再び鞄を開けた。

 「朱里、ごめん。アンタにちょっと聞きたい事があるんだけど、いいかな?」
 私に怒られると思い込んでいただろう、朱里はパッと表情を明るくした。
 ~ こういう風に、顔にすぐ感情を出す辺り…由莉香に似てるな ~
 そう思いながら、鞄から取り出したのは、例の封筒だった。

 遠藤 由莉香は手紙以外の物も同封していたのだ。
 『もし、よければ…』
 と、手紙の中でも書かれていたそれはどこぞのスイーツ店の住所とアクセス方法、そしてそこの有名な菓子の写真が印刷されていた。

 17歳の女の子でありながら、残念な事に私はそういう情報に疎い。甘い物は当然大好物なのだが、甘くて美味しくて、チーズケーキ系統でなければ何でもOK。というタイプだ。
 自慢じゃないが私の舌は、食べた物が高級なのか、そうでないのかという区別がつく程肥えてはいない。
 由莉香が提示してきたその店も全く記憶になかった。

 それに引き替え、この島崎 朱里は陸上部に所属していながら、そういった物に目がなく、よく専門の雑誌を鞄に潜ませて持ってきていた。
 甘いものへのその執着を無くさない限り、走り高跳びの記録向上は望めないだろう。
 「朱里、このお店…知ってるか?」

 朱里は私の差し出した紙を、見てもいいの?と断ってから手に取った。

 「…」
 嫌な予感がした。
 紙に書かれた情報を目にした途端、朱里の眼が大きく見開かれ…その後、少し心配そうな表情に変化していったからだ。
 「…そこ、高いの?」
 「有名なお店。…高いよ、凄く…」
 私に紙を返しながら朱里は私に確認した。
 「これ…由莉香ちゃんが?」
 「うん」
 「う~ん…失礼な事言っちゃうけど…大丈夫なのかな?」
 「…無理してる…かなぁ?」
 返してもらった紙を丁寧に封筒にしまい込むと、私はそれを窓から差し込む夕日の赤に照らした。
 朱に染まる封筒越しに、由莉香の真剣な顔が透けて見えてくる。
 「…はっきり言わせてもらって、いい」
 そういうところがアンタのいい所なんだよ。
 「うん」
 「由莉香ちゃんから誘ったって事は…由莉香ちゃんが支払うって事だよね」
 「そういうつもり、だろうな…」
 「ここ、お店の奥がカフェになってて…買ったケーキを紅茶サービスで食べられるの。由莉香ちゃんはそれがお目当てなんだろうけど…小学生のお小遣いだとケーキ1個ずつがやっとだと思う」
 「う~ん…」
 私は掲げていた封筒を力なく下した。
 「そうかぁ…」
 「それにね、お店に来る人たちも地方セレブみたいなおばさん連中が多いっていうから…ユッキ達には居心地悪いと思うよ…私も行った事ないから、雑誌で読んだ情報だけど…」

 「つまり?」
 「このお店はお勧めできないよ」


 「そうか~…」
 由莉香め…いくらなんでも背伸びしすぎだ。足首挫いちゃうぞ…

  …
   そうか…ならば…

 「朱里、逆にお勧めのお店って…あるかな?」


 私が由莉香に渡したメモには島崎 朱里がチョイスしてくれた、今の私たちに最適と思われるスイーツ専門店が記されていた。
 「え…?」
 「勝手な事して、ごめん。私からの我儘で悪いとは思うけど…どうかな?」
 「このお店だったら…一緒に行ってくれるんですか!?」
 「うん」
 由莉香は私の腕に飛びついて来た。
 「嬉しいです! ホントですか!?」
 「ここでよければ…」
 「いいです! ホントに…あの…」
 私は周りの乗客の耳に届かないように、少し身をかがめて由莉香の耳元に囁いた。
 「デート…楽しみだね」
 「!!!」
 珍しく由莉香は言葉を失ったようだ。

  ただ…ただ…じっと私を見つめてくる。

  乱れた前髪を整えてやりながら、私も黙って、ただ頷いてあげた。

 かくして、私たちは初デートすることになった。
 日時は7月18日の土曜日。

 由莉香の学校は17日に1学期の終業式だということなので、夏休み1日目ということになる。
 初デートというイベントは、まあ全てに当てはまるわけではないだろうが、カップルにとっては大きな進展を遂げる重要なものだ。良くも悪くも大きな第一歩を遂げる特別な日だ。
 私と遠藤 由莉香との場合…7月18日は重く険しく、それでいて3歩ぐらいは一気に進んでしまった忘れえぬ日となってしまったのだが・・・


 2009年7月18日(土)

    ≪サイコロが振られた≫

 島崎 朱里が提案してくれたお店は、二人がいつも利用している駅に隣接しているステーションホテルのレストランだ。
 月に1回、週末にレディース・サービスデーなるイベントを企画してくれていて、東京のホテルで修行したパティシエの自慢のオリジナルスイーツが女性客限定で割安で味わえるという。
 由莉香のメモにあった7月18日という日付で即座にこのイベントを頭脳から引き出した朱里には素直に感謝するとして…、しかしあまりの地元ぶりに私は柄にもなくオドオドしてしまう。
 別に異性と連れだって歩くわけではない。手をつなぐ相手は女子小学生なのだから変な噂の立ち様もないのだが、それでも人目が気になってしかたのない辺り、やはりこれはデートだからだろう。

 一通の手紙で陥落寸前まで陥った私だが、デートの約束までしてしまった後で何やら変な事で悩まされた。
 まず、服がない。
 いや、無いって訳じゃない。そりゃ数は少ないけれど、キチンとした他所行きの服は所持している。
 だが、女の子相手のデートとなると一体どんな格好が良いのか見当もつかない。

 由莉香は制服姿の私しか見た事がないから、逆にそれなりの服を着ていけばそれでいい。と頭の中の私が朗々と持論をまくしたてる。
 その一方で、由莉香の真剣な想いをないがしろにしてはいけない。
 ここはキチンとした格好で、新調してでも装いに気を使わなければダメよ!ともう一人の自分が頭の中で切々と訴えてくる。
 うるさい…頭の中で選挙運動をされているみたいだ。私の選択は?
 次にお金だ。
 由莉香はデートにかかるお金は全て自分が支払う覚悟だ。ラッキー!と簡単に喜べないのは由莉香がどう見ても小学生であり、私がどう見ても高校生ということだ。
 小学生がお金を払い、高校生が後ろで満足げに腕組みをしている(いや、腕組みはしないが…)姿をレジの店員や、周りの人々はどんな風に見るのだろう?
 好意的に見られることはまずあるまい。
 というか、それではまるで由莉香のヒモのようではないか?
 「…」
 これには参らされた。
 どうしようか?あれで由莉香は結構プライドが高いと見た。
 彼女を制して私が支払を強行する事は、由莉香にとって決して面白い事ではない。

   由莉香に花を持たせるか… 自分の体面を保つか…

 何より、自分の町でのデートというのが泣かせる。
 その時周りにいるのが全員知人では無い、という可能性が0になりきれないのだ。
 「い、痛い…」
 私を襲った痛みは、頭痛と腹痛…
 「どうしよう…」
 何でこんな事で私が悶々と悩み続けなければならないのか!?

 訳も分からず、釈然ともせず…結局、なし崩し的な結論に行きついたのは当日の朝だった。

 行き着いた結論の一つとして、私の人生初のデートの服装はTシャツにサマーブラウス、先月買ったばかりの濃い色のジーンズにスニーカーという…
 コンビニ行くの?と聞かれそうな格好だった。

 テーマはずばり「自然体」。いつもの私を見て!!というのはとってつけた言い訳。
 打ち明けてしまえば、どうしようどうしよう!と悩んでいる間に家を出なければならない時間となってしまい、慌ててクローゼットの中からひっ掴んだというのが真相だ。

 対する由莉香は、真新しい白のワンピースでピンクのショルダーバックのアクセントが幼女趣味の方々には堪らないのではないだろうか?それはそれは可愛らしい格好でバスの中に納まっていた。
 そう、待ちあわせはいつもの○×バスの車内。どうせ駅に行く交通手段は二人ともこれしかないのだから、待ちあわせもそれでいいよね?と何となく決まってしまっていた。

 「くっ…!」
 可愛いな、こいつ!どうしてくれようか!?
 それが今日の由莉香への第1印象だった。

 今日という日に対する心構えの差が如実に表れているようで、由莉香に対して申し訳ないような気分に追い込められたのを覚えている。
 それでも、彼女は私の姿を可愛いと称賛し、私も由莉香の今日の服装に対する評価を正直に伝えた。
 彼女はキャーと歓声を上げて喜び、私は慌ててなだめなければならなかった。
 これほどハイテンションな彼女は見たことがない。
 しかも、そのはしゃぐ笑顔、きゅっと握られた拳、その舌ったらずな声の全てが本当に楽しそうな色に彩られていて、そのどれもが輝いて見える。

   ~こ、これが若さか!?~

 愕然とした私だが、彼女のあまりの喜びように段々感化されてきたのか…知らず知らずの内に楽しくて仕方なくなってきた。
 『単細胞か、私は!?』と隙を見て、いつものひねくれ者が顔を出すが今日ばかりは長居はかなわず、ぶぶ漬けを出してやる暇もなく、ウキウキした気分に弾き飛ばされて消えてしまう。

 駅に着き、バスを降りる頃には私のテンションもかなり上がっていた。
 今日の予定は、まずいきなりメインイベントであるスイーツを楽しんだ後、その辺りをぶらぶらして、解散。
 改めて考えてみると何とも味気ないデートプランではあるが、冷静に考えてみれば小学生の由莉香が用意できる予算内では妥当なのかもしれない。
 全く・・・当初の予定にあった高級店に行っていればどんな目に逢っていたことか…

 「祐希さん」
 ん?と見下ろすと由莉香はおずおずと右手を差し出してきた。
 いつも、ふざけ半分で由莉香の手を握ったりしているのだが、こうして改めて差し出された手はなんて小さいんだろう!
 「…」
 心拍数が跳ね上がったのを意識しながら、それでも私はその手に応えた。
 だって、デートなんだから!
 きゅっと握り返してくる指の感触が心地いい…

 いつまでも握り合っていたい・・・と本気で思わせる質感だ。

 ~ コレ、いいな… ~
 由莉香もちょっと恥ずかしいのか下唇を噛んで、ぎくしゃくとはにかんでいたのだが、
 「行こ」
 という私の言葉に
 「うん!」
 と健気に頷いて、ホテルへ向かって歩き出した。

 ~ 『うん』 か… ~
 いつもの返事は『はい』だったので、この何気ない『うん』という返事さえ新鮮に感じる。

 初デートはその独特の緊張感の中で、今まで知らなかった相手の"事"を見つける場なのだ。
 と、私に語って聞かせたのは弟の辰己だった。
 なるほど。その通りだ。
 今日は、いままで知らなかったいろいろな由莉香が見れそうだ。

 何だかそれが堪らなく素敵な事の様な気がして、私はクスっと笑みをこぼした。
 「祐希さん?」
 「ん いい日に、しよう。由莉香…」
 「うん!」
 私たちは手を繋いでホテルの入り口へ続く階段を昇って行った。


   ≪サイコロが振られた≫

 『ステーションホテル 竜虎相殺(りゅうこそうさつ)』 レストラン 鵯越(ひよどりごえ) にて・・・

 これは、私、橘 祐希個人の考えなので偏った意見なのかも知れない。
 と、言う事を踏まえて聞いていただきたいのですが・・・

 我が友、島崎 朱里はもともと短距離の選手を目指して中学時代から陸上部に所属していたのです。
 それが、一年の3学期の時、たまたまトライしてみた走り高跳びの、ランディングからあの独特の背面飛びへ移行するフォームの流れのスムーズさ。
 そのタイミングの取り方を大きく評価されて顧問の先生や3年生の部長、副部長らに熱く説得され短距離を捨て、宙を舞う事を選択した女子校生なのです!
 そんな彼女は、やはり日々の生活・・・特にちょっとの摂取量の変動で容易に比例してしまうウェイトの管理は至上命令として常に心になければならないと思うのです・・・
 甘いものなんぞに"うつつをぬかす"余裕などあってはならないのではないでしょうか!

  何が言いたいのか?

    島崎 朱里! 外れ無し!!


 私も由莉香も、このお店のケーキやタルトの虜になってしまった。
 しかも、私たちのような自力でお金を入手できない年代から見ても『お手ごろ』価格なのが素晴らしい!
 ドリンクも最初に規定された料金を支払えばフリードリンクとなるのがお得で、由莉香はQooを、私はブレンドコーヒーを何の心配もなく手元に置く事が出来たのだ。
 「祐希さん、お砂糖は!?」
 びっくりしている由莉香を前に、私はブレンドコーヒーに口をつけた。
 ~ うん、おいしい ~
 「私、ブラック派だからいいよ・・・って・・・由莉香?」
 由莉香はポゥッと頬を赤らめて私を見つめると、可愛い溜息をついて見せた。
 「祐希さん・・・やっぱり、格好イイな」
 「・・・ブラック飲んでるのが、か?w」
 「だって・・・格好イイんだもん・・・好きになってよかった・・・」
 「・・・光栄の極み」

 未だ、しどろもどろの私に対して由莉香は堂々たるものだ。
 美味しいケーキが並ぶテーブルの向かいに、今日は夕方まで時間無制限で一緒にいられる私が座っているのがよほど嬉しいらしい。
 他人(ヒト)からそんな事を言われた試しなど無い私にとっては、多少くすぐったさが残る空間であった。
 だが、困った事に・・・そのくすぐったさが心地良い。
 私自身も、由莉香が目の前で夢中になってスイーツを食べている姿を見ていられる事に、満足感と・・・幸せを感じていたし、何よりこの美少女をこれから夕方まで占有できるという事実が、素直に嬉しかった。

 どの位そのお店にいたのだろう?
 「時間を忘れる」とはよく言ったもので・・・
 私と由莉香は時計の針を気にする事無く、目の前の御馳走とお互いの話に夢中になっていた。

 「夏休みなんて・・・早く終わっちゃえばいいのに」
 由莉香はそんな事を言う。
 「祐希さんに逢えなくなるし・・・家に居るのはチョット怖い・・・」

 それは由莉香の口から初めて聞く、自らへの虐待の恐怖・・・
 私は平田さんからもらったあの電話番号を思い出した。

 「由莉香・・・私・・・由莉香が傷つけられるのは見たくない・・・他人の家の事情なんて関わりあいたくも無いって考えるのが私なんだけど・・・由莉香が泣いてしまうのは嫌だ・・・」
 「祐希さん・・・」

 この話題は由莉香本人があまり続けたくないらしく、私も今は大人しく引っ込んだ。

 「祐希さんは・・・恋をした事がありますか?」
 「・・・7年前・・・あのバスの中で」
 「! 初・・・恋?」
 「・・・・・・・・・唯の片思い くだらない「恋」だったよ・・・」
 由莉香は静かに違うと言った。
 「くだらない「恋」なんてないんだと思います。 祐希さんが今はそう思っていても・・・その時の祐希さんにとっては「大切な恋」だったんでしょ?
 私・・・わかるんです・・・ 今の・・・私が・・・そうだから・・・」
 「・・・」
 由莉香は本当に私より年下なの? そうからかいたくなるような発言だ。

 この話題に関しては、当然私の方が続けたくなく、早々に切り上げた。

 ここでの会話は楽しかったけれど、後から思い起こしてみれば・・・お互い踏み込んでもらいたくない領域を腹に抱えた、探り合いだったような気がする。
 悪い意味での言葉じゃなくて・・・お互いがお互いの中に入っていきたかったのだ。
 相手を傷つける事なく・・・そうしたかっただけだったんだ・・・

 ひとしきり甘いものを楽しみ、一旦会話が途切れたところで店を出ようかという段になった。
 「私が払うよ」
 と、夕べ遅くまでイメージトレーニングしてきた手順を踏もうと由莉香を牽制した。
 「ダメです! 私が誘ったんだから私に払わせてください!」
 案の定、そう来たか・・・
 「でも、初めてのデートなんだし・・・私も払いたいな」
 「だ~め~で~す!」
 由莉香は早くもショルダーバックのファスナーを開け始めた。
 っと・・・ここで慌てちゃいけない!
 「でもね・・・私は由莉香と一緒がいいんだけど」
 「・・・え?」
 「こんなにいっぱい由莉香と話が出来たのは初めてだろ?今日はずっと由莉香と一緒なんだ・・・」
 「・・・」
 「だからね、由莉香・・・今日は何でも由莉香と一緒がいいんだよ・・・お願い、私にもお金、払わせて」
 由莉香は何が何でもお金を払いたがるだろう。情けない事に私が辿りついた結論は『何が何でもワリカンにさせる』というものだった。
 どうして、高校生がここまで小学生に気を使わねばならないのだろうか?
 「だめかな?」
 「う~・・・」
 由莉香としても意地があるのだろう。しかし、しばしの逡巡の後に彼女の下した結論は、
 「ゆ、祐希さんが・・・どうしてもっていうなら・・・」
 よっし!
 心の中でガッツポーズをかました私は、感謝の意も含めて、由莉香の耳元に唇を近づけた。
 とたんにピクンと緊張する少女の身体。

 ~耳・・・弱いんだ・・・~

 「どうしても・・・」
 囁いてから顔を離すと、由莉香の顔が真っ赤になっているのが面白い。
 「も、もう・・・ダメ・・・」
 たしなめられてしまった。
 フフ、由莉香・・・お前ってやつはもう・・・

 この人生でこれだけ幸せにニヤニヤしどうしだった時間はなかっただろ?
 半ば浮かれた気分で私は由莉香と共に支払いを済ますと、入ってきた時と同じように手を繋いで店を後にした。
 これから、何処にいくのか由莉香と繋いだ手をブラブラさせながらホテルの出口へ向かう。
 まだ夕方までには時間がたっぷりある。
 そして遠藤 由莉香も、変な言い方をさせてもらえば私の手の中にある。

   ~ 愛しているかどうか、分からないなんて・・・何だよ ~

 自分で自分をバカにする余裕も出てきた。どう見たって今の私は由莉香を愛してしまっているじゃないか!

    ≪サイコロが振られた≫

 「!!」
 ホテルの大層な正面玄関まで、あと少しというところで胸が痛んだ。

 ~何だ!? コレ~

 チクチクと胸を刺すよう痛みが走ったかと思えば、気が付けば体中から嫌な汗が噴出していた。

 ~ 何? 熱!? ~
 戸惑う私は、一瞬食中毒を疑ったが、次にはソレを否定していた。
 そんなモンじゃない。
  そんな上等なモンじゃない!

 背筋をゆったりと悪寒が這い上がってくる感覚に襲われ、私は思わず由莉香の手を振りほどき、両手で背中を確かめてしまった。
 「ゆ、祐希さん!どうしたんですか!?」
 びっくりした由莉香が私の体にしがみついた。
 「祐希さん!? 顔が青いです! 気持ち悪いんですか!?」

   そうだ、気持ち悪い 何だコレ  何なんだ!?

 「由莉香・・・」
 気が付けば呼吸も乱れ、私は彼女の名を息も絶え絶えに呟いた。

 「由莉香・・・?」

 その声を聞いた時のあの嘔吐感は今でも上手く説明できない。

 背後から擬似大理石の上をコツコツと歩み寄って来るヒールの音が私の体の中で反響しあい、その音が脳髄までをも侵入してくる。
 ~お、女?~

  コイツだ・・・この女だ!

 何故と聞かれてもまともな答えは返せないだろう。だが、私は直感的に理解した。
 この身体の変調の原因は、後ろから近づいてくるこの人物のせいだ。
 ~誰? コッチ来ないで!~
 死に物狂いで振り返ったその先に、彼女は立っていた。

 間違いない。何故だ?私の体はこの女を全否定している。
 その姿を見た瞬間、貧血にでもなったのか私の膝は崩れ落ちそうになった。
 「くっ!」

 「突然ごめんなさい。貴女・・・遠藤 由莉香ちゃんじゃない?」
 その女は私を無視して由莉香に声をかけてきた。
 反射的に由莉香が私の後ろに隠れる。

 「誰?」
 「ど、どちら様ですか?」

 震える由莉香と未だ呼吸を整えられない私の声が同時に女に浴びせかけられた。

 「あ、驚かしちゃったかな? 突然ごめんなさい。 私、市役所の生活保全課の・・・」
 市役所!?
 別の衝撃がコーヒーとスイーツで満たされた胃を直撃した。
 額から滴る脂汗が目に沁みる。

 「篠宮 梢と申します。」

 20歳代前半に見えるこの女は、慣れた動作でハンドバッグの中から名刺入れを取り出し、私と由莉香に差し出した。
 どういうわけか、二人とも震える手でソレを受け取っていた。

 「由莉香ちゃん・・・あのね・・・」
 篠宮 梢は私の足元にチョンと膝を曲げてしゃがみ込むと、由莉香の顔を覗きこんだ。
 「由莉香ちゃんの事でね、御近所から私たちの所に電話が来ていたの。由莉香ちゃんがイジメられてるって」
 そうか・・・近所でも由莉香を心配してくれた人がいたのか!
 に・・・しても・・・篠宮ぁ・・・私から離れろ、お前・・・

  このプレッシャーは何だ?

 こんな女知らない! だけどコイツは嫌いだ!! コイツ・・・由莉香を・・・

 「それでね、今日私たち・・・由莉香ちゃんがお出かけした後にお養父さんに会いに行ったの。由莉香ちゃんにヒドイ事するのはやめてくださいってお願いしに・・・」
 由莉香は私の足にしっかりとしがみついたままだ。

   由莉香・・・

 「でもね・・・」
 そこで篠宮 梢は一旦話を区切り、タメをつくった。
 「お養父さん、怒っちゃって・・・私たちに殴りかかってきて・・・一人怪我させちゃったの」
 おい!お前っ そんな話を由莉香に聞かせるな!!
 そう言いたかったのだが、今の私はコイツの存在に萎縮してしまい声が出せない・・・
 「それでね・・・」
 ゴクっと由莉香が小さな音を鳴らすのが聞こえた。
 「仕方なくね・・・私たちもしたくはなかったんだけど・・・由莉香ちゃんなら分かると思うけど、お養父さん怒り出したらすごいのね・・・ 私たちじゃ止められなくて、警察を呼んだの」

  やめろ・・・何聞かせてんだ、子供に!

 「今はお養父さん、警察の人たちとお話してるわ・・・それでね、お養母さんともお話したんだけど・・・少しの間だけ由莉香ちゃんを私たちの施設で預かる事になったの」

 なん・・・だと・・・!

 どういうことだ!ソレ!! なんでそんな簡単にそんな事が決めれるんだ! お前達に!!

 「大丈夫、由莉香ちゃんと同じ位の歳の子がいっぱいいるよ!すぐにお友達になれるから」

 女の腕が機械のように伸び、由莉香の腕を掴んだ。

 「や!」
 由莉香が上げる短い悲鳴が私の意識を少しだけはっきりさせた。

 「やめ・・・ろ」
 何とか振り絞った声に、初めて篠宮 梢は私の方を向いた。
 「あら・・・あなた、顔が真っ青よ・・・大丈夫?」
 篠宮は一旦立ち上がると私の頬に手を添えた。
 「大丈夫・・・」
 ゆったりと頬を撫で下ろすその感触は蛇のようだった。
 「うっ!」
 私は思わず飛び退いてしまい、由莉香は硬い石の床の上に倒れこんでしまった。
 「危ない! 大丈夫、由莉香ちゃん」

  助け起こしたのは・・・篠宮 梢

 「怪我ない・・・危ないわねぇ貴女」
 私を一瞥する目は猛禽類のソレだった。
 彼女の腕は遠藤 由莉香の小さい身体に見る間に纏わりつき、彼女を虜にしてしまた。
 「や、離して・・・」
 「大丈夫・・・怖くないわ・・・今までの家より・・・」
 女は私がさっきしたように、由莉香の耳元までわざわざ唇を近づけていた。
 「もう・・・カワイイ由莉香を虐める人なんていないわ・・・安心して」
 女は言葉を続けた。

  「私が貴女を守ってあげる・・・」

 「!!!!」
 それは・・・それは私が由莉香に言ってやりたかった言葉・・・!
 「あ・・・」

 「行きましょう・・・」
 女は由莉香に腕を絡ませたまま立ち上がり、外へと一歩踏み出した。

 「連れて・・・かないで・・・」
 その声は死んでいた。
 私が必死に訴える言葉に力はなかった。
 「お願い・・・由莉香・・・返して・・・」

 「・・・由莉香ちゃんは貴女のお人形じゃないわ」
 篠宮 梢の言葉は氷柱だった。
 「まだ高校生の貴女にこの子をどうやって守れるというの?」
 私の方を振り返った篠宮 梢は、あきらかに私を哀れんでいた。
 「貴女が由莉香ちゃんの事を構っていてくれてたことは知ってるわ。悪いけど調べさせてもらったから・・・だから貴女には感謝、しているのよ。橘 祐希さん」

 この女に名前を呼ばれた時、よく倒れなかったものだと思う。
 それほどに圧迫感を、私は受けた。

 「その名刺の一番下・・・フリーダイアルに明日かけてごらんなさい。直接、生活保全課に来てはダメよ。迷惑だから・・・電話をかければ、由莉香ちゃんが何処の施設で保護されているか・・・伝えるように手配してあげるわ。本当はそんな事しちゃいけないんだけど・・・特別よ!」
 そう言い捨てると、女は由莉香を捕まえたまま外へと向かいだした。

 「いやっ 祐希さん!」
 女の腕を剥がそうともがく由莉香の声が聞こえる・・・

 「由莉香・・・」
 「祐希さん! 祐希さん!! なんで!? 祐希さぁん・・・」
 「由莉香・・・いや・・・ダメ・・・」
 「祐希さ~~んっ!!」
 由莉香の悲痛な叫びがざわつくロビーを木霊する。
 しかし・・・私は・・・
    動けなかった。

 ううん、動かなかった。
 ただ、あの篠宮 梢が自分から離れていってくれるのに・・・ただ、ただ安堵していた・・・


 2009年7月21日(火)

 終業式の日、私は抜け殻となっていた。
 わかりきった事だったが、バスの中に遠藤 由莉香の姿が無い。
 当たり前だ。
 私は・・・由莉香を見捨てたんじゃないか。

 私を墜としてみせると宣言し、たった一通の手紙でそれを実現させ、私とデートまで楽しんだあの生意気で可愛い小学生はもう居ない・・・
 言い様のない脱力感だけが、私に残された物だった。

 ダンっと机が激しく叩かれても、私の反応は1テンポ遅れていた。
 「それで、ユッキ・・・ビビッてすごすごと帰っちゃったの!? それでもユッキ!女かい!!?」
 「・・・威張るな、お前だって女じゃないか・・・」
 「当たり前じゃん!女で17歳だから女子校生だ!!」
 「ワケわかんない・・・」
 島崎 朱里は再び机をバンバンと叩いた。

 うるさいなぁ・・・
 「私、怒ってんだからね! その気持ち悪い女・・・由莉香ちゃんに手を出してたらどうすんの!?」
 「え・・・」
 「え・・・ じゃない!大体・・・あ、イタタタ・・・」
 「教室で騒いじゃ・・・メッ」
 可愛く登場したのは委員長の平田さんだった。言い方は可愛いが、やっている事は朱里の手首を捻り上げているので可愛くない。
 「でも・・・橘さんの話だと、かなり強引な保護の仕方ね・・・保全課にそんな強引な人がいるなんて、パパからも何も聞いてないわ」
 でも、あの女は生活保全課と名乗った。
 私は無言で鞄を開き、あの女から貰った名刺を委員長に手渡した。
 あの後、家に飛び込むように帰ってからすぐに熱いシャワーを浴びた。
 肌が真っ赤になって痛かったがそれでも足りなかった。あの女から与えられた悪寒を全部剥ぎ取りたかった。
 けど、その名刺は捨てられなかった。その一枚の紙切れだけが、由莉香と私を何とか結び付けている生命線だったからだ。

 「・・・確かに・・・生活保全課の名刺だわ。」
 平田さんは私に名刺を返しながら言った。
 「だとしても・・・強引すぎる・・・わ」
 「誘拐だ誘拐!」
 「保護よ!」
 ちゃちゃを入れたがる朱里を一言で黙らせた後、平田さんは静かに私に語りだした。説き伏せるように・・・

 「確かにやり方は乱暴だったけど・・・由莉香ちゃんにはコレで良かったのよ・・・確かに施設には由莉香ちゃん達と同じ位の年頃の子も多いって聞くし・・・なにより、ひどい目にはもう遭わないわ・・・」

 「・・・」
 「これでよかったのよ・・・」
 「・・・」
 それは、分かってる。
 私も、そう思う。必死に、そう、思おうと、している。
 「・・・」
 「・・・」
 「それでいいの?ユッキ・・・!」
 左手を平田さんに取られたままの朱里が堪りかねたように声を上げた。
 「それで解決なの?委員長!」
 私たちは朱里の問いかけには、答えられなかった。
 「私はいやだ! 由莉香ちゃんにはまだ会った事もないけど!! カワイソウだ!」
 「島崎さん・・・声が大きいわ!」

  「私は!納得!!出来ない!!!」

 「・・・」
 「島崎さん・・・」
 「だって・・・何か・・・いやだよ・・・そんなの!私、委員長みたいに頭よくないから!納得できない!!」

 平田さんは静かに朱里の左手を解放した。
 気が付けば教室は静まり返り、みんなの目が私たちに注目している。

 「・・・あのさ・・・」
 声をかけてきたのは私の後ろの席で一部始終を黙って聞いていた横川さんだった。
 「朱里の気持ちも分かるけど・・・とりあえず私たちに出来る事と出来ない事って・・・あるじゃん。
 私だって由莉香ちゃん?会った事ないけど、可愛そうだと思うよ?でもだからこそ委員長の言う通り、保護してもらって良かったって思う・・・橘は由莉香ちゃんを守れる?
守れないんじゃない?正直・・・」

 「・・・だよ、ね・・・」
 横川さんの言う通りだ。本当にそうだ。現に私は無力だった。
 「イジワルな言い方してごめんネ、橘・・・ほら、元気だしなよ!飴あげるから・・・」
 ポンポンと肩を叩かれ、私はだるい体を何とか捻らせた。

 「はい」

 差し出した掌に横川さんの指から落された、包み紙にくるまれた飴が落ちた。

     トン

 と軽すぎる衝撃が掌から神経網を通じて脳をノックした。

 「!!!」

 私は立ち上がっていた。
 あまりの勢いに弾かれた椅子が横川さんの机に衝突し、派手な音を立てて床に転がった。
 「何!?」
 「ユッキ!!」
 「橘さん!?」
 朱里たちの声はどこか遠くに聞こえる。

 何が記憶を呼び覚ますトリガーなのか、分かったもんじゃない!

   あの女・・・ あの女は!!

 私の頭の中は一瞬にしてグチャグチャにかき回され、ワケのわからないビジョンが駆け巡った後、一枚の顔写真を選択していた。

 「あいつ・・・!!!」

 「ユッキ・・・どうしちゃったの!?」
 「橘!? ちょっと・・・大丈夫!!」
 その時の私はまるで人形のようだったと後で教えられた。
 魂を一気に引き抜かれてしまったようで、見ている方が怖かったそうだ。

  神様・・・これは何の罰なの!?

  あいつ・・・ 知ってる・・・ 思い出した!!

  いや、違う!あの時、もう思い出していたんだ!

  篠宮 梢!! 名前を初めて知った・・・

 でも、私は思い出してた!! でも、思い出した事を知ってしまうのが怖くて・・・私は自分を誤魔化してたんだ!!

 由莉香を代償として差し出して・・・私は自分だけ逃げたんだ・・・!

 私の記憶はそこで途切れている。
 クラスメートの盛大な悲鳴をBGMに意識を失い、床に倒れこんだからだ。


   2009年7月18日 遠藤 由莉香をこの手から離してしまったその日・・・



      私は初恋の女と再会していた。


『振り出しに戻る』 その4 おしまい

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最終更新:2009年09月08日 01:45